『黒い影』

 

第一話「黒い影」

Isamu.y.

 

 

 長い旅路を追え、列車は終着駅へと辿り着いた。

 世界有数の大きさを誇るこの駅の十三番ホームへ停車した列車から降り立つ乗客の中に

黒い服を着た若い男がいた。

 小さな旅行鞄を抱え、黒いジャケットに黒いボトムズ、胸元に三日月形のペンダントを

提げ、彼は駅の中を見渡していた。

 ここへ辿り着くのは何年ぶりだろう、このホームから遠く離れた町へ経ったのは彼がま

だ幼い頃だった。

 駅の出口へ向かって歩きながら彼は子供の頃の記憶と今目の前に見える光景とを重ねな

がら十年足らずの時がこの街をきっとさらに大きなものへと変えているのだろうと思っ

た。

 やがて中央の改札を抜け出口を抜けると巨大なターミナルが見えてきた。

 次々にやってくるバスやタクシーが次々に旅を終えた乗客を飲み込んでいく、この街へ

帰ってきた者、この街へ訪れた者、交わりあいながら街の中心へと送り出されていくのだ

ろう。

 顔を上げると夕闇の向こうに巨大なビル街がそびえるのが見える、幼い頃の記憶以上に

それは大きく煌びやかに、そして妖しさを醸しながら輝いていた。

 あれがこの街の顔なのだ。

 『月影街』

 世界有数の経済、産業、文化の発祥を誇り、同時に世界有数の犯罪都市としても有名な

この街は俗に『魔都』とも呼ばれていた。

 やがて彼は一台のタクシーを捕まえ乗り込む。

「十八番街へ。」

 行き先を告げるとタクシーは走り出した。

 月影街十八番街の外れ、都市中心部より少し離れたここは穏やかな商店街なども多かっ

た。

 黒い服の男はタクシーを降りると懐からメモ紙を取り出しそこに書かれている住所を探

す。

 三十分ほど歩いたところでようやく目当ての場所へと辿り着いた。

 古めかしい古書店が建っている、店先の看板には『半月堂』と書かれていた。

 扉をゆっくりと開く、呼び鈴が鳴るが特に反応はない。

 店の中を歩き出す、本棚には年代ものの全集や専門書など、見る者が見ればきっと価値

のありそうな書物が並べられていた。

 店の奥までくると一人の老人が顔を出した。

「いらっしゃい。」

 白髪頭に白いあごひげをたくわえ、小さな老眼鏡を掛けている、趣のあるこの古書店に

まさに相応しい風貌と言えた。

「あんたが店主かい?」

 黒服の男が尋ねると老人はそうだとばかりに頷いた。

「そうか…いい本は入ったかい?」

 その言葉を聞いて老人の表情が一瞬し険しくなったがすぐに笑顔を取り戻し。

「本棚にいくらでもあるよ。」

 と答えた。

 もしかしたら試しているのかも知れない、そう思いなおして黒服の若者はもう一度繰り

返す。

「いい本は入ったかい?」

 すると今度は老人の顔から完全に笑顔が消えた。

「あんた、それをどこで聞いたのかね?」

「砂塵町でね。」

「…砂塵町…そんな遠くから来たのかね?」

 老人は若者を上から下まで見ながら何者かを見極めているようだった。

「あぁ…月影街へ着いたら最初にここへ訪れるようにと、そうすれば『仕事』のあてもあ

るだろうと。」

「仕事?」

「あぁ。」

「何が出来る?」

「殺し。」

 すると突然老人が大声で笑い出した。

「坊や!殺し屋ごっこは他所でおし!」

「坊や?」

「坊やだろう?お前みたいな年端も行かないひよっこが一丁前に殺しの仕事をくれだぁ?

何を舞い上がってるのか知らんが顔を洗って出直しな!」

 吐き捨てるように言うと老人は若者の顔を睨み付ける。

 しかし、若者も負けてはいなかった。

「俺が若すぎるのが不満か?年取りゃ立派な仕事が出来るとでも?手足がもうろくして銃

も満足に握れないじじぃより、俺の方がよっぽど役に立つぞ?」

「ほぉ!」

老人は感心したように腕を組み、若者を上から下へと見回す。

「口先は一丁前みたいじゃな!」

腕を組んだまましばらく何かを考え込んでいたが、やがて鼻で笑ったかと思うと机の引

き出しから一枚の紙を取り出し若者の前に放り投げた。

「ならその依頼人に会ってみい!無事に仕事を引き受けられたらお慰みじゃ!」

若者は紙を手に取る。

「なんだこれは?」

「仕事だよ、儲けも少なく厄介、多分誰も受けんじゃろ。」

「それを俺に?」

「不満か?」

「いいや、構わないさ、厄介な仕事なら慣れてる。」

「ほぉ、口先だけじゃない事を期待しとるよ!」

「そうしてくれ。」

若者は渡された紙きれを懐にしまうと店を後にした。

「…くそじじいが!」

呟くように吐き捨て彼は道を歩いた。

 渡された紙を取り出す。

 そこには『至急助けを頼む』という一文と連絡先の番号が書かれていた。

 若者は通りの先に電話ボックスを見つけて入る。

 この街に来てからはまだ使える携帯電話を手に入れていなかった。

「さっさと依頼片づけて携帯買わないとな…。」

 呟きながらポケットを探り十フィット硬貨を取り出して硬貨口に入れる、受話器を手に

して紙に書かれた番号を押す。

「…もしもし…。」

警戒するような若い女の声。

「『半月堂』の老店主に話を聞いたと言えば分かるか?」

若者が答えると相手は一瞬息を飲むような微かな声をあげる。

「…じゃあ、あなたが…殺し屋…?」

「そういう事だ。」

相手が圧し殺した声ながらも『殺し屋』という具体的な言葉を使ったので若者は食いぎみ

に答える。

「…本当に始末してくれるの?」

「報酬による。」

「…それなら…心配ないわ。」

「なら具体的な話を聞こう、どこで落ち合う?」

若者が尋ねるとしばらくの沈黙の後返事があった。

「…二時間後、午後十時に十一番街の『キネマ』っていう店に来て。」

「分かった、目印は?」

「左耳に蛇のピアスしてるわ、貴方は?」

「黒い服に銀色の三日月のペンダントをしてる。」

「分かった、他に何かある?」

「合言葉を言ってくれ。」

「何て?」

「俺が『黒』と言ったら『影』と答えてくれればいい。」

「分かった…。」

電話を切ると彼はまた道を歩き出した。

ポケットを探る、百ゼル紙幣が五枚あった。

「…まだ少し足りるな。」

 彼は通りがかったタクシーを捕まえて十一番街へ向かった。

 十一番街でタクシーを降り目的の店を探す、しばらく歩いた先に『キネマ』という古び

たカフェバーがあった。

 ドアを開け中に入る、天井にはファンが回り、カウンターの中では五十歳くらいの寡黙

そうなマスターがこっちを見て軽く会釈する、酒瓶の並んだ棚には古びた蓄音器があり

ジャズナンバーを流していた。

 若者は時計を見る、十時少し前、店内を見渡せばカウンターで飲んでいる初老の男と

ビール瓶を片手にダーツに興じている若いカップルがいるだけだった。

 依頼人はまだ来ていないのだろう、若者はカウンター座るとマスターに注文をした。

「ウィスキーをダブルで。」

 マスターは返事をする代わりに頷いて棚からウィスキーの瓶を取り出しコップに注ぐと

若者の前に置いた。

「愛想ないね。」

 若者は心で思ったが別段悪い気はしなかった。

 こういう街外れの場末のバーという雰囲気が嫌いではなかったし、何より蓄音器から流

れる曲が酒の味を良くしてくれるようで心地よかった。

 ミュートトランペットの調べに耳を傾けながらウィスキーを味わっていると後ろでドア

の開く音がした。

 振り向くと若い女が一人店内を見渡している、彼女は若者と目が合うと警戒するように

ゆっくりと近づいてきた。

 その左耳に蛇を象ったピアスが見える、

「黒。」

 若者が言うと彼女ははっとした表情で、

「…影。」

 と答えた。

「奥のテーブルで話そうか。」

 若者が促すと彼女は頷く、二人は店の奥のテーブルに向かい合って座った。

「ほんとうに…あなたが…その…。」

 彼女が戸惑いながら尋ねる。

「殺し屋だよ。」

 若者は声を押し殺して答える。

「俺に頼みたいのはどんな事?」

「十三番街のクレイブっていうマフィア…知ってる?」

「聞いたことはあるよ。」

「そいつを…殺して…。」

「それはまたなぜ?」

「…理由を言わなきゃ駄目?」

 彼女は眉間にしわを寄せて返す。

「依頼の背後関係を知っておきたい。」

「そう…。」

 彼女はしばらく俯いた後、意を決したようにバッグから一枚の写真を取り出した。

 そこには彼女と一人の若い男が仲睦まじそうに写っていた。

「彼…わたしの恋人だった人…名前はロイ…クレイブの手下だったの…。」

「それで?」

「一月前、ロイはクレイブの命令で港に取引に出向いたの…でも、そこで何者かに殺され

た…。」

「それは取引相手のやつにじゃないのか?」

「いいえ…クレイブの手下によ…ロイが死ぬ前にわたしに電話くれたの、凄く切羽詰まっ

た声で『クレイブに騙された、殺される』って…そこで突然電話が途切れて…翌日彼は海

に浮かんでいるのを発見されたわ…。」

「それでクレイブだと…なんでロイは殺されたんだ?」

「分らない…裏切り者って見なされたみたいだけど…彼はクレイブに任された仕事は凄く

熱心にやってたわ…裏の仕事を熱心にっていうのも変だけど…でも…確かに彼…少し変

だった…。」

「どんな風に?」

「なんていうか…クレイブの組織の事を凄く探ってた…時々夜中でも出かけて行って…仕

事だって言ってたけど、でも…。」

 若者はウィスキーの残りを飲みながら答える。

「分った、ところで依頼料は払えるのか?」

 決して裕福そうではない若い彼女に金の出所があるようには見えなかった。

「それなら大丈夫…実はロイが死ぬ前にわたしに預けてくれた鞄があったの、もし自分に

何かあればそれを持って指定する場所に逃げろって…死ぬ直前にも電話で『預けたものを

持って』って言ってたけど、そこで電話が途切れたからどこへ行かせようとしたのかは分

らないまま…彼が死んだ後その鞄の中を見たら現金が二万ゼル束であったわ…そのお金で

どう?」

 彼女は不安そうに尋ねる。

 正直、中堅クラスとはいえマフィアのボスを暗殺するのに二万ゼルは少なかったが、恋

人を亡くし、遺された金をはたいてまで仇を取ろうとする彼女の真剣なまなざしに少しだ

け心を動かされた。

「…分った、いいよ、引き受けよう。」

 飲み干したグラスをテーブルに置いて彼は答えた。

「本当?…ありがとう…。」

 彼女は気が抜けたようになって椅子の背もたれにへたり込んだ。

「…引き受けてもらえなかったらどうしようかと…。」

 その様子に若者は思わず笑みがこぼれる。

「…笑うんだ…?」

「えっ?」

「いや…殺し屋って…冷徹で、笑顔一つ見せない…そんな人間なのかなって…思ってたか

ら…。」

 言いながら少し悪いと思ったのか彼女は俯いた。

「そうだな…そんな風だったら…もう少し楽だったのかもな…。」

 若者は苦笑いを浮かべて答えた。

「そうなんだ…。」

 彼女は不思議そうに彼を見つめた、その視線が少し気まずくて彼は話を変える。

「君の名前と連絡先を教えてくれ。」

「え…?」

「勘違いしないでくれ、依頼が成功した時に報酬を受け取るためだ。」

「あ…あぁ!そうね…!」

 彼女は慌ててバッグから紙とペンを取り出して番号を記す。

「これ…名前はシキナ…あなたは?」

「通り名でいいか?」

「かまわないけど…?」

「黒影だ。」

 二人が『キネマ』を出た後に店のカウンターで飲んでいた男は席を立って携帯でどこか

に電話を掛ける。

「…あぁ、ボス、ロイの女見つけました…はい、なんか若い男と深刻そうに話してました

…いえ、それは分りません…ええ、後を付けます。」

 翌日の朝十時、黒影は再び十八番街の『半月堂』へ出向いた。

 店に入り奥のテーブルで新聞を読んでいる老店主に声をかける。

「よぉ、いい本は入ったか?」

 老人は新聞から視線を上げ老眼鏡越しに黒影を見る。

「昨日の小増か、あれからどうした?」

「依頼を受けたよ。」

「ほぉ、お前みたいな若造に仕事をくれる奇特な人もいるのか!世の中捨てたもんじゃな

いのう…。」

 わざとらしく感心したように老人は言った。

「あぁ、老いぼれと違って人を見る目がある人でね。」

 黒影も負けじと返すと老人は声を殺して笑う。

「口の減らない小僧だな…で?今日は何しに来た?初仕事を受けたって自慢か?」

「いいや、情報が欲しい。」

「ほぉ…一丁前に情報屋からネタを買おうってか?随分偉くなったもんだのう!」

「いやなら他を当たるぜ?」

 黒影が憎まれ口を返すと老人はまたしても声を殺して笑う。

「元気がいいのう!で?何について知りたい?」

「十三番街のクレイブについてだ、ついでにそこにいたロイってチンピラが一月前に殺さ

れた事件についても。」

「なるほど…。」

 老人は頷くと新聞をテーブルに置き、後ろにある本棚から一冊のスクラップブックを取

り出す。

「まず十三番街のクレイブ…ジム・クレイブ三十七歳、月影街十三番街出身、若い頃から

札付きの悪で二十歳の頃にゴロツキ仲間と立ち上げた一味を徐々に大きくして今は十三番

街の一角をシマにしとる、幹部は三人、手下は総勢二十人から三十人ほど…まぁ中堅どこ

ろのマフィアだな…ほれ、これが最近の写真だ。」

 そう言ってスクラップブックの一項目を見せる。

 ぎらついた目の四十近い男の姿があった。

「いやな目つきだね。」

 黒影が言うと老人は笑みを浮かべて頷く。

「あぁ、奴さんの通り名は『蛇の目のクレイブ』だからな。」

「お似合いだ。」

 黒影が笑みを浮かべると老人はスクラップブックをめくりながら続ける。

「それで…ロイというチンピラの件な…あったこれだ。」

 老人はスクラップブックに貼り付けられた新聞記事を見せる。

『三日前、月影街港湾地区の沿岸にて若い男性と見られる遺体が浮いているのを海上警備

隊が発見、その後の調べでこの遺体は十三番街に住む二十代の男性である事が分った。遺

体には銃で撃たれた痕があり、月影街市警はなんらかの犯罪に巻き込まれたものとみて捜

査を進めている。』

「…なるほど。」

「名前は出ておらんがこいつがお前さんの言うロイという男の事じゃろう?」

「そうだな。」

「この男についてはこのくらいしか情報がない。」

「だろうな。」

「ほぉ、なにか分ったのか?」

「あぁ、記事にもある『三日前』、三日も経ってから新聞に掲載されるってのはその間に

何かあったって事だ。」

「ほぉ、例えば?」

「警察の上層部で記事の発表を遅らせる動きがあったんだろうよ。」

「たかがチンピラ一人のためにか?」

「ただのチンピラじゃないって事だ、でもこれで色々と辻褄が合う…でも、そうすると、

俺の依頼人が危ない…クレイブの普段の居場所は分るか?」

「十三番街の五十二番地にある『ハブラ』という店が主な拠点じゃな。」

「分った、ありがとう。」

 そう言って踵を返して店を出ようとする黒影を老人は呼びとめる。

「待て。」

「なんだよ?」

 眉間にしわを寄せる黒影に老人は苦笑いを浮かべる。

「情報料を忘れとらんか?」

「あぁ…。」

 懐に手を入れ百ゼル札を取り出す。

「三百で足りるか?」

「三百…まぁ、初回だからええじゃろう。」

「これでもなけなしだよ!」

 老人は笑いを噛み殺しながら返す。

「まぁ、しっかり稼ぐんじゃな!」

「分ってるよ!」

 テーブルの上に乱暴に百ゼル札を置くと黒影は大急ぎで店を後にした。

 通りに出て昨日の電話ボックスを見つけると中へ入る。

 受話器を取るとシキナに渡された紙に書かれた番号へ掛ける。

 呼び出し音が数回鳴ってシキナが応答する。

「もしもし…?」

「俺だ、黒影だ。」

「…もしかして…もうやってくれたの?」

「残念ながらまだだ…だけど伝えたいことがある。」

「なに?」

「ロイに渡された物があるだろう?それを持ってすぐに月影街市警の本部庁舎へ行くん

だ!」

「えぇ?なんで警察なんかに…。」

「その理由は分ってるはずだ、君だってロイが本当は何者か気づいてるんだろう?」

「…じゃあ、やっぱり…。」

「彼の意志を無駄にするな、それに君の身の安全のためにもそれが一番いい。」

「…分った…。」

「安心しろ、クレイブはその間に俺が片付ける…警察で俺の事は言うなよ?」

「分ってる…依頼の件はお願い…。」

「任せてくれ。」

 そう言って黒影は電話を切る。

電話を切ってからシキナは考え悩んだ。

 ロイから預かったものを黒影の言うとおり警察に持って行くべきかどうか…。

 しかし、他に選択肢もないと思い、ロイから預かったバッグを手に部屋を出る。

 アパートの玄関口を出てタクシーを捕まえようと通りに出た時、目の前に黒塗りの車が

停まった。

 中から二人組の男が降りてきた、シキナは警戒してバッグを大事そうに両腕に抱える。

「お前、ロイの女だな?」

 二人組の一人が声をかける。

「あんた達…誰?」

 シキナが恐る恐る尋ねると背後から背中に金属の筒のような物が押しつけられるのを感

じた。

「いいから黙って車に乗れ。」

 背後で男の声がした、恐らく突き付けられているのは銃だろう。

「…。」

 シキナは恐る恐る頷くと彼らの促すまま車に乗り込んだ。

 黒影は電話ボックスを出て歩きながら考える、クレイブをどう片付けたものか…そして

重要な過ちに気付く。

 クレイブの居所を『半月堂』の老店主に訊きそびれているのだ。

 もう一度店に戻って訊かなければならない、しかしあの老人の事だ、追加料金などと言

い出すだろう。

「…くそ、金も時間が掛かるな…。」

 手持ちの資金ももうすぐ底を突く、何よりシキナの安全のためにも早く仕事を片づけな

ければならない。

 そう思い悩みながら歩いているとふと前方に黒塗りの車が一台停まった。

 中から二人組の男が降り立ち彼に声をかけた。

「おい、お前昨日『キネマ』って店でシキナって女と会ってたろ?」

見ればあまり柄の良くないチンピラ風の男だ。

「あぁ、それがどうかしたか?」

 黒影が返すともう一人の男が続ける。

「その事で話があるんだ、ちょっと付いてきてもらおうか?」

「悪いけど暇じゃない。」

黒影がそっけなく返すと背後に気配を感じた。

 とっさに振り向くと若いチンピラ風の男が棒のようなものを振り上げているのが見え

た。

 黒影は相手がそれを振り下ろすよりも早く男の顔面にひじ打ちを喰らわせる、すると男

は低いうめき声をあげて仰向けに倒れた。

 すぐに前に向き直ると二人組が懐から銃を取り出している、黒影は一人の銃を持った腕

を掴んで捻り上げながらもう一人の男の銃を蹴り上げた。

 そのまま掴んでいた腕を銃ごと相手の顔面に叩きつける。

「っ…!」

 押し殺した声をあげて男は気を失った。

 銃を蹴り上げられた男が今度はナイフを取り出して斬りかかってきた、黒影はその切っ

先をかわしながら相手の懐に入り込むと相手のみぞおちにひざ蹴りを喰らわせた。

「ぅっ!」

 苦悶の表情を浮かべる男の右腕を捻り上げてナイフを取り上げると停まっていた車のボ

ンネットに相手の上半身を叩きつけながら問い詰める。

「お前らなに者だ?」

「お、お前こそ何もんだよっ!」

 苦痛の表情を見せながらも男は問い返してくる、黒影は掴んだ腕をさらに捻り上げなが

ら問い詰める。

「質問してるのはこっちだよ、暇じゃないんだ、手間を取らせるな!」

「い…痛ててっ…わ、分った!言うよ!」

「最初からそうしろ。」

「クレイブ一家のもんだよ!」

「蛇の目のクレイブの手下か?」

「そうだよ!」

「それが俺に何の用だよ?」

「お前がシキナって女と会ってたから何か知ってるかと問い詰めに来たんだ!」

「ほぉ、何かって何だ?お前らは何を知りたがってる?」

「っ…!」

 男が口をつぐんだので黒影はさらに腕を捻り上げる。

「ぅああっ!わ、わ、わかった!!言う!言う!…ロイだよ!ロイが掴んだ事を何か聞い

てるんじゃなかって…そう思ってだ!」

「なるほどね。」

 黒影はその時ふいにある事に思い当った。

「おい!」

「なんだっ!?」

「お前ら、シキナの居場所も探し当ててるのか?」

「あぁ…。」

「まさかシキナのとこにも手下を送っているのか?」

「あぁ…今頃あの女のアパートにも俺の仲間が行ってるだろうよ!」

「その後はどうなる?」

「ボスの元へ連れていく手はずになってる!」

「ボス?クレイブか?奴は今どこにいる?」

「…。」

 またも口をつぐんだので腕が折れるぎりぎりまで捻り上げた。

「ぎゃぁあっ!!!やめろっ!やめてくれっ!」

「後一回だけ質問してやる、クレイブはど・こ・に・い・る?」

「じゅ…十三番街の『ハブラ』って店だよ…!もう今頃はそこにいるっ!」

「護衛は何人付いてる?」

「ごっ…五人だ!」

「シキナを連れに行ったのは何人だ?」

「俺らと同じ三人だ…!」

「そうかありがとうよ!」

 そう言って黒影は相手の腕を放すと同時に首元に手刀を打ち込んだ、男は小さく悲鳴を

あげてボンネットの上にうつ伏せになって気を失った。

 その首根っこを掴んで男を引きずり下ろすとポケットから鍵の束を奪う。

「助かるよ、情報料もタクシー代も浮いた。」

 そう言うと黒影は車のドアを開けて乗り込みエンジンを掛けて発車した。

 十三番街にあるナイトクラブ『ハブラ』の二階オフィスにクレイブの手下たちはシキナ

を連れ込んだ。

 腕を掴まれ背中に銃を突きつけられ身動きも出来ず震えながら彼女はオフィスのソファ

に座らされた。

 一人の男が奥へ行って誰かに呼び掛ける、しばらくすると他にも二人の男を連れてぎら

ついた目つきの男が現れた、シキナはそれがクレイブだと悟った。

「お前がロイの女か?」

 クレイブは向かいのソファにどかっと腰を下ろすと懐から出した煙草を一本くわえなが

ら訊ねた。

 シキナは震えながら頷く。

「そうか…悪いね、強引に来てもらっちゃって!こっちも少し焦ってるんでね!」

 言いながら近くの手下に火を着けさせた煙草の煙をいやらしく吐き出す。

「単刀直入に訊くよ、ロイから預かった物があるだろう?」

 クレイブが煙を吸い込みながら訊ねるとシキナは顔を横に振る。

 クレイブは苦笑いをしながら煙を吐き出すと、少し声のトーンを落として凄む。

「なぁ、俺も若い女相手に手荒な真似は控えたいんだよ?もう一度だけ訊くから素直に答

えてくれな?ロイから預かった物が…あ・る・な?」

「…し、知らないわ…。」

 シキナは震えながらも気丈に答える。

「はぁ…こいつは参ったね…。」

 クレイブはわざとらしくため息をつくとシキナの腕を掴んでいる手下に顎で合図をす

る。

 途端にシキナの腕を掴む手に力が入り強烈に締め付けられる、シキナは痛みに悲鳴を上

げた。

「ほらな?素直に答えないとこういう嫌な目に合うんだ!俺だってね、こんな真似はした

くないんだよ?」

「預かってたらどうだって言うのよ!」

 シキナは痛みに顔を歪めながらも目の前の恋人の敵を睨む。

「ほぉ、元気がいいねえ!…預かってるならこっちにもらいたいんだよ、もちろんタダで

とは言わないさ!三万ゼルでどうだ?」

「冗談じゃないわ…。」

シキナが気丈に断るとクレイブは呆れたように煙を吐き出す。

「三万じゃ少ないのか?」

「あれは彼がわたしに預けたものよ…なんであんたに…。」

「やっぱり持ってるんじゃねぇか! 」

 クレイブは嬉しそうににやける。

「ロイに義理立てしてんのか?その必要はないだろう?あいつお前に自分の正体は話した

か?」

「…正体って…。」

「ほらな?可哀想に…知らないようだから教えといてやるよ、あいつはな月影街市警の潜

入捜査官だよ!」

「…。」

「それほど驚かないとこを見るとお前も薄々感ずいてたみたいだな?…まぁ、俺もあんた

もあの野郎に騙された被害者同士ってわけだ!」

「だから…だから殺したって言うの!?」

シキナが叫ぶように言うとクレイブはわざとらしく驚いた表情を見せる。

「ほぉ…騙されてたってのにまだ惚れてんのか?…憐れな女だねぇ…もうちょっと賢くな

ろうや!」

「…。」

シキナは俯いて涙を流す、その頭を撫でながらクレイブは優しげな声で語りかける。

「だからな?死んじまった嘘つきの事なんざ忘れてよ、あんたも賢く奴の『遺品』で良い

想いをしなよ?三万で足りないなら三万五千でどうだ?」

「…じゃない…。」

「あ?」

「…嘘つきなんかじゃない!」

「なんだと?」

「彼はずっと悩んでた…自分の周り…組織の仲間やわたしの事を騙してる事に…仕事だか

ら…任務だからきっとそうするしかないのに……夜中彼は何度も悪夢にうなされて飛び起

きてた…わたしがいくら問い掛けても本当の事なんて…きっと言いたいけど言えずにずっ

と…抱えて…。」

 そこまで言い切るとシキナは顔を両手で覆った。

 涙が止め処なく溢れる。

 秘密を抱えていた恋人ロイ、潜入捜査官としてクレイブの組織にいた彼はきっといつ正

体が知れるとも分らない中で心が落ち着ける瞬間もなかっただろう。

 そして唯一心許せるはずの自分にさえ最期まで正体を明かさなかった。

 それは警察官としての職務だからなのか、それとも自分の事さえも信じてはくれなかっ

たのか…。

「しょうのない女だな!こっちは金まで持たせて穏やかに解決してやろうって言ってんの

によ!」

 シキナを嘲笑うように言いながらクレイブは近くにいる手下に何かを命じた。

 手下は一旦奥の部屋に引き下がると何かを手に持ってすぐに戻って来た。

 シキナとクレイブが向かい合うテーブルの上に置かれたそれはアルコールランプだっ

た。

「あまりこういう事はしたくないんだけどねぇ。」

 いやらしい笑みを浮かべながら、クレイブは蓋を開けてアルコールランプの芯に火を付

ける。

 燃え上がる炎を満足げに見つめながら、懐から折り畳み式のナイフを取り出して刃を出

す。

「知ってるか?」

 ナイフの刃をゆっくりとアルコールランプの炎で炙りながら続ける。

「焼けたナイフで付けた傷ってのは一生消えないそうだ。」

 更にいやらしい笑みを浮かべて、ナイフの刃を炙りながらクレイブはシキナを蛇のよう

な目で舐めまわす。

 その視線にシキナは背筋が凍りつくほどの嫌悪感を感じた。

「どこからがいい?」

 ぞっとするほどいやらしい声色でクレイブが訊ねる。

「…えっ…?」

 シキナは嫌悪感と恐怖でからからに乾いた喉の奥でようやく絞り出した声を出す。

「脚…腕…背中…胸…それともやっぱり…。」

 アルコールの炎で炙られ赤く焼き付いてきたナイフの刃を睨みながらクレイブは続け

る。

「…顔かな?」

 シキナはその眼つきと声色で一瞬卒倒しそうになるほどの恐怖を感じた。

 その頃、黒影は敵から奪った車で『ハブラ』の前に到着した。

 車を降りて店の前に立つ、二階建のレンガ作りの建物に黒地に金色の蛇を象った文字で

店の名前の書かれた看板が掛けられている。

「品のない店だな。」

 呟くように吐き捨てると黒影は入り口ドアの取手を引いて中に入る。

 薄暗い店内にはカウンターとテーブルが四つある。

 カウンターにいるバーテンダーが黒影の姿を見て気だるそうな声で言う。

「まだ準備中だ。」

 黒影は構わずカウンターに近寄りバーテンダーに訊ねる。

「クレイブはどこにいる?」

 するとバーテンダーは眉間にしわを寄せて低い声で訊き返す。

「お前誰だ?」

「質問してるのは俺だ、クレイブはどこだ?二階か?」

 黒影が再び訊ねると後ろから声が掛かった。

「おい、どうしたんだ?」

 振り向くと二人の屈強そうな男が眉間にしわを寄せながら近づいてくる。

 一人は目元に傷があり、もう一人は首筋にタトゥーが入っていた。

「こいつがボスはどこかと訊いてきやがる。」

 バーテンダーが答えると、首筋にタトゥーのある男が鼻で笑う。

「おいおい、あんちゃんよ!『蛇の眼のクレイブ』に何の用だよ?」

 黒影を挟むように男二人が両脇に立つが、黒影は淡々と答える。

「大事な用だ、二階にいるのか?」

「ボスは忙しいんだ、話なら俺が聞いてやるよ。」

 嘲笑うように言いながら目元に傷のある男が黒影の肩を掴もうとする。

 その瞬間、黒影の肘打ちが男の鳩尾にのめり込む。

「っ…!」

 男が声にならぬ叫びを上げる間に、今度は黒影の裏拳が男の鼻柱を直撃する。

 目元に傷のある男はそのまま気を失って仰向けに倒れ込んだ。

「てめぇっ!」

 今度は入れ墨の男が拳を振り上げて殴りかかろうとするが、黒影は素早く身を伏せてそ

れを避け、男の懐に入り込むと膝蹴りを鳩尾に喰らわせる。

「うぇっ…!」

 男が目を見開いて叫びを上げる間に、今度は黒影の掌底が男の顎を付き上げる。

 屈強な男二人は床の上で並んで転がった。

「…!」

 今度はバーテンダーがカウンターの下にあるショットガンに手を伸ばそうとするが、そ

れを止めるように黒影は素早く抜いた拳銃を男に付きつける。

「そいつから手を離せ。」

 バーテンダーがそっとショットガンから手を離し、降参するように両手を上げる。

「よし、そのまま両手を頭の上に置いて後ろを向け。」

 バーテンダーが言う通りにすると、黒影は相手の後頭部に銃口を突き付ける。

「さっきの質問の続きだ、『蛇の眼のクレイブ』はここにいるな?」

「…。」

 バーテンダーが沈黙すると黒影は銃の激鉄を起こす。

 すると、その金属音に驚いてバーテンダーは叫びを上げる。

「わっ…待てっ!撃つなっ!」

「なら質問に答えろ!クレイブはここにいるのか!」

「いっ…いる!」

「二階か?」

「そ、そうだ…!」

「上には何人いる?」

「ボスと…他に四人いる…。」

「シキナって女もいるな?」

「何でそれを…。」

「質問にだけ答えろ、シキナもいるな?」

「あぁ、いるよ。」

「次の質問だ、二階にはどうやって上がる?」

「エレベーターと非常階段だ…。」

 見ると店の奥に従業員用のエレベーター、その隣には非常用の階段が見えた。

「上に繋がる内通電話はあるか?」

「あぁ、あるよ。」

「よし、今から俺が言うと通りにしろ。」

 二階ではクレイブがアルコールランプの炎で炙られ刃が真っ赤になったナイフを持っ

て、シキナに近付いていた。

「さてと、どこから始めるかな?」

 蛇のようにぎらついた眼でシキナを舐めまわし、厭らしい笑みを浮かべながらクレイブ

はナイフの切っ先をシキナに近づける。

 真っ赤に焼けたナイフの切っ先から熱が空気を通して伝わって来る、これで斬りつけら

れる痛みを想像するだけで叫びも出ないほどの震えを感じる。

 その時、デスクの上に置かれた電話が鳴り響いた。

「なんだ?誰か出ろ!」

 舌打ちをしながらクレイブが命じると手下の一人が受話器を取り応答する。

 しばらく何事かを話してから慌てた様子でクレイブに掛け寄る。

「ボス!一階から内通です!銃を持った男が襲撃に来たそうです!今エレベーターで上

がって来ます!」

「なんだと!?」

 クレイブは慌てた様子で立ち上がると手下達に命じる。

「お前ら迎え討て!エレベーターが開いたらすぐに撃ち殺せ!」

 クレイブの両脇にいる手下二人が大急ぎでエレベーターの前で銃を抜いて構える。

 銃を持った男と聞いてシキナは黒影を思い出した、もしかしてクレイブを殺すためにこ

こへやって来たのだろうか?

 しかし、クレイブの手下達がエレベーターの前で既に待ち構えている、これでは扉が開

くと同時に黒影は撃ち殺されてしまうだろう。

 シキナはエレベーターの上にある階数表示に目をやる、一階から既に二階へと上がって

来ている。

 やがて二階へ到達したエレベーターの扉が開くと同時に手下達は銃を何発も撃ち鳴らし

た。

「…えっ!?」

 手下達は硝煙の上がる銃を手にしたまま唖然としている。

 銃痕だらけとなったエレベーター内には誰もいないのだ。

「どういうことだ!?」

 クレイブも焦りの声を上げる。

 その瞬間、エレベーター隣の非常口の扉が開き、銃を持った男が現れたかと思うと素早

い動きで唖然としたままの手下二人を撃った。

 案の定それは黒影だった。

 思った以上に作戦は上手く行った。

 一階でバーテンダーに内通電話から自分がエレベーターで上がると伝えさせた。

 そしてバーテンダーを殴って気絶させ、エレベーターを二階に向かわせると同時に自分

は非常階段で二階へと上がって来た。

 敵は罠に掛かり、誰も乗っていないエレベーターに向かって銃を乱射した、それを合図

に黒影は非常口の扉を蹴破って中に入り、目の前の男二人を撃ち倒した。

 一瞬でオフィス内を見渡す、奥にナイフを持ったクレイブと思しき男、そしてソファに

座らされたシキナとその両脇に押さえつけている男二人がいる。

「誰だお前は!」

 クレイブが怒鳴りながら手にしたナイフを投げつけてきた、黒影はそれをかわすと素早

く物陰に隠れる。

 次の瞬間、激しい銃声が何発も轟いた、恐らくシキナの両脇にいた手下二人が銃を抜い

て応戦してきたのだろう。

 黒影は銃を構えたまま、そっと物陰から覗き見る、クレイブは怒鳴り散らしながら銃を

抜くと、シキナの腕を掴んで引っ張っていく。

 手下二人はクレイブを援護するように執拗に銃弾を撃ち込んでくる。

 黒影は一瞬の隙を付いて物陰から手下の一人を打ち倒す。

 もう一人がそれに気を取られた隙に物影を飛び出ると同時に撃ち倒す。

 オフィスの奥に目をやると執務用のデスクの向こうで、クレイブがシキナの頭に銃を突

き付けながら盾にしている。

「おい!銃を捨てろ!この女をぶっ殺すぞ!」

 まるで居直り強盗のような台詞を吐きながら怒鳴っている。

 黒影はまるで構わないかのようにクレイブに銃を突き付ける。

「お前が蛇の眼のクレイブか?」

 黒影が問い掛けるとクレイブは吐き捨てるように応える。

「それがどうした!?」

「それなら良かった。」

 黒影は笑みを浮かべると銃の激鉄を下ろす。

「おい!分ってんのか!こっちには人質が…!」

 クレイブが慌てた様子で怒号を上げる。

「お前何か勘違いしていないか?」

 黒影はクレイブの眉間に照準を合わせたまま冷静な声で言い放つ。

「俺の役目はお前を殺す事だ、その女を助ける事じゃない。」

「え…!?」

 クレイブが明らかな狼狽を浮かべる、シキナを人質にすれば自分が優位に立てると思っ

ていたようだ。

「…ないから…して…。」

 クレイブに銃を突き付けられたままシキナが何かを呟く。

「おい!お前からも何とか言え!さもねぇと…!」

 クレイブがシキナに説得を強いると、彼女は覚悟を決めたように目を閉じて、力の限り

叫んだ。

「わたしは構わないから、こいつを殺して!」

 その声に黒影は笑みを浮かべる。

「よく言った。」

 するとクレイブは声を上ずらせながら悲鳴を上げる。

「ばっ…馬鹿野郎っ!」

 そして、もはやシキナに人質としての効力はないと悟るや銃口を黒影に向けた。

 その瞬間、黒影はクレイブの眉間に向けて銃弾を撃ち込んだ。

 クレイブは頭から血しぶきを上げると、蛇のようにぎらついた眼を見開いたまま真後ろ

に倒れ込んだ。

「…。」

 シキナは震えたままそっと目を開くと、傍らに倒れたクレイブの死体を見て小さく悲鳴

を上げる。

 黒影は銃を仕舞うとシキナに歩み寄る。

「さっきは済まなかった…。」

 申し訳なさそうにシキナに声を掛ける。

「え…?」

シキナが不思議そうな表情を浮かべている。

「…ああでもしないと、奴の銃口を君から逸らす事が出来なかった…。」

「そうだったんだ…?」

「あぁ、怪我はなかったか?」

シキナはまたも不思議そうな顔をして黒影を見上げる。

「殺し屋なのに、そんな事気づかってくれるの?」

「…依頼人だからな。」

黒影はそう言って目を伏せる。

「それよりも、早くここを出よう!そして君はロイから預かった物を持って市警本部に行

くんだ。」

それを聞いてシキナの表情が曇る。

「うん…。」

「どうした?」

「…彼、やっぱり潜入捜査官だったんだね…。」

「そうだな…。」

「わたしにも最後まで正体を明かさなかった…。」

「そうだろうな。」

「…わたしは…信用されていなかったからなの?クレイブや他の組織の人間と同じ、本当

の自分を見せられない相手だから…。」

「それは違うと思う。」

「…。」

「大切な人だからこそ自分の正体を言えなかったんじゃないか?」

「…。」

「だからこそ、君に大切な証拠を預けたんだと思う。」

「…そうなのかな…。」

「きっとそうさ。」

俯くシキナの姿にいたたまれない気持ちになる。

いくら仇を討っても、彼女の大切な人は返らない。

今は亡きロイが本当はシキナの事をどう思っていたのか、もはや知る術もないのだ。

殺し屋という仕事は依頼人の恨みや憎しみを果たす事は出来ても、抱えた哀しみや傷を癒

す事は出来ない。

俯くシキナの表情がそれをまざまざと見せ付けてくるようで黒影は思わず目を伏せる。

「早くここを出よう。」

シキナは何も言わずに頷いた。

月影街一番街。

この街の中枢であるこの区域には市政府の行政庁舎が建ち並ぶ。

法治機関のトップ、月影街市警本部も例外ではなかった。

「着いたぞ。」

ビルの前で黒影は車を停める。

「うん…。」

相変わらず俯いたままのシキナに黒影はこれからの動きを示す。

「一階に総合窓口があるはずだ、そこで犯罪捜査に関する情報があるから組織犯罪課に取

り次いで欲しいと言うんだ。」

「それだけで通してくれるの?」

「タレ込みは一日に何軒もあるし、その中にはガセネタもほとんどだから、すぐに相手は

してくれないだろう、だから『ロイ刑事の伝言がある』と付け加えるんだ。」

「…。」

「きっとその一言で組織犯罪課に取り次いでもらえる。」

「…分かった。」

「俺は悪いけどここまでしか付いてはあげれない…殺し屋が市警本部に乗り込むのはぞっ

としないからな。」

黒影が苦笑いをするとシキナは軽く吹き出す。

「そうだね。」

そして鞄から厚手の封筒を取り出すと黒影に手渡す。

「報酬の二万ゼル、色々とありがとう。」

「あぁ…。」

「さようなら。」

車を降りて悲しげな顔で手を振りながらシキナは市警本部庁舎へと入って行った。

「…。」

その姿を見送ると黒影はアクセルを踏み込みその場を後にした。

市警本部に入ったシキナは窓口で黒影に言われた通りの事を伝えた。

すると程なくして十階の組織犯罪課のオフィスへと通された。

オフィスの一画に衝立で区切られた小部屋があり、そこの来客用ソファに腰掛けていると

一人の中年の刑事が現れた。

「組織犯罪課のチャン警部です。」

向かいに腰掛けながら挨拶をする刑事にシキナも会釈をする。

「もしかして…君がロイの恋人か?」

「えっ…?」

シキナが思わず声を上げる。

この刑事はロイと自分の関係を知っているようだ。

「私はロイ刑事の担当として彼とコンタクトを取っていた、彼からは色々な話を聞いてい

る…仕事の事だけではなく、プライベートの話もあった…君の話もね。」

「…!」

心臓が高鳴るのを感じた。

「か…彼は…何て!?」

「大切な恋人だと言っていたよ。」

そう言ってチャン警部は深いため息を付く。

「あれは一年ほど前の事だ…ロイから潜入捜査の定期報告を受けた時、あいつは突然言い

にくそうに切り出した。」

「…。」

「結婚を考えている相手がいる、自分の身分は明かしていない、正式に向き合いたいので

近いうちに潜入捜査の任を解いて欲しいと…。」

「そんな…。」

「若い彼にいつまでも日陰暮らしをさせる訳にはいかないと思っていたから私は了承し

た、クレイブ一家と他の組織の取引の証拠を掴んだらすぐに任を解くと…結果として、そ

れが彼を焦らせてしまったのかも知れない…。」

そう言ってチャン警部は悲しみと後悔の滲んだ表情で俯いた。

「彼は…わたしの為に…?」

シキナは口許を押さえて震えた。

ロイは自分を大切に想っていてくれた、自分との未来も考えていてくれた。

そして、それが故に彼は捜査を焦り、命を落としてしまう事にもなってしまった。

「………。」

シキナの目から止めどなく涙が溢れた。

ロイの想い、訪れた結末、大きな喜びと深い悲しみが同時に押し寄せて彼女は涙を流し続

けた。

そんなシキナにチャン警部は温かく語りかけるように声を掛けた。

「君のせいじゃない…彼もきっと後悔してなどいない。」

 涙を流しながらシキナは何度も頷いた。

 夕方、黒影は『半月堂』の扉を開いた。

 店の奥のカウンターで老人が顔を上げる。

「おやおや!…生きておったか!」

 黒影は奥へ進んで老人を睨む。

「仕事は片づいたぞ。」

 すると老人は驚いたように目を見開く。

「なんと…!お前さんみたいなひよっこがクレイブを…!」

 そのわざとらしい態度に苛立ちを覚える。

「当たり前だ、大した相手じゃない。」

 そう言うと溜息をついてカウンターに寄りかかる。

「どうした?月影街での初仕事を終えたっていうのに浮かない顔じゃな?」

「あぁ…。」

 すると老人が「少し待っとれ。」と言いながら店の奥へと向かった。

 黒影はカウンターに寄りかかったまま床を見つめていた。

 仕事は片づいた、クレイブを消し、報酬も受け取った。

「…。」

 けれど、どうしてもシキナの最後の哀しそうな顔が頭から焼きついて離れなかった。

「…。」

 自分の仕事は殺し屋、依頼人から頼まれた標的を暗殺すればいい。

 ただそれだけでいい、依頼人の心の傷だとか、感情だとか、そんな事はどうでもいい。

 何度も何度もそう自分に言い聞かせているはずなのに心の霧が晴れなかった。

 再び溜息をつこうとした時、店の扉が開く音がした。

「…!」

 顔を上げて黒影は驚いた。

そこにいたのはシキナだった。

「どうしてここに?」

 シキナもまた黒影を見付けて驚いていた。

「良かった!ここにいたんだね!」

 嬉しそうにそう言うとシキナは黒影の元へやって来た。

「ここなら貴方に伝言を残せるかな?と思って来たんだけど、本人がいたなんて!」

「伝言?…何だい?」

「あれから貴方に言われた通り市警本部の刑事さんにロイからの預かり物を届けに行った

の…。」

 そしてシキナは市警本部のチャン警部から聞いた話を黒影に話し始めた。

 ロイがシキナを想っていた事、結婚する為に潜入捜査官を辞めようとしていた事。

「…彼の本当の気持ちを知れて嬉しかった。」

 目を潤ませながらシキナは微笑んだ。

「そうか…。」

 黒影も心にあった霧が晴れていくような気がした。

「これも全部貴方のお陰…本当にありがとう!」

 そう言ってシキナはさっきよりも明るい笑顔を見せた。

「実はわたし…彼の敵が取れたら…死のうと思ってたんだ…。」

「え…?」

「でも…彼の本当の気持ちも知れたし、それに…。」

 そう言ってシキナはそっと両手で腹部を触った。

「…この子の為に生きなきゃだし。」

「そうだったのか…!」

 シキナは亡きロイとの間に新しい命を宿していたのだ。

「君ならきっと大丈夫だ。」

 黒影は力強く励ました。

 シキナは顔を上げると決意に満ちた笑顔で答える。

「うん…!本当にありがとう!」

 そして何度も手を振りながら店を後にした。

 店の窓の向こうに見えるシキナの後ろ姿を見送っていると老人が手にお茶を乗せたお盆

を持って戻って来た。

「随分嬉しそうな顔だな?」

「えっ…?」

 黒影が驚いていると老人がお盆をカウンターの側のテーブルに載せながら続ける。

「お前さんがさっき浮かない顔をしていたのはあの娘が心配だったからか?」

「別にそういう訳じゃない…。」

「わざわざ殺し屋に礼を言いに来るなんて律儀な娘じゃの…。」

「…。」

「あの娘の行く末に良い兆しが見えたから安心したと…そういう訳か?」

「だからそうじゃないと言ってるだろ!」

 からかうように言う老人に苛立ちながら黒影は声を荒げる。

「別に悪い事だとは思わんぞ?」

 笑みを浮かべて宥めながら老人は湯呑にお茶を注いだ。

「ほれ、そこに掛けて飲め。」

 老人に椅子とお茶を勧められ、黒影は渋々腰掛けて湯呑に口を付ける。

「…!美味いっ!」

 思わず口にすると向かいに座った老人が自慢げに笑みを浮かべる。

「そうじゃろう?わしのお茶は月影街一じゃ!」

 黒影は思わず笑みをこぼした。

 老人は美味そうにお茶を飲み続ける。

「一日でクレイブを暗殺、依頼人も無事に救い出す…噂どおりの腕前じゃな…黒影。」

 湯呑を持つ手が思わず停まる。

「俺を知ってたのか!?」

「あぁ、お前さんが砂漠の街であった婆さんとは旧知の中でね。」

「…あんた…俺を知っててあんな…。」

 黒影は初めて会った時に老人の態度を思い出した。

 それに気付いて老人は腹を抱えて笑いだす。

「ハハハ…!からかって悪かったな!噂は聞いておったが、お前さんがどれほどの者か試

したかったんじゃ!」

 黒影は舌打ちをしながらお茶の残りを飲み干した。

「すまんな!…まぁお詫びと言ってはなんだが、これをやろう。」

 そう言って一冊の黒革の本を手渡す。

「なんだこれは?」

「お前さん、これからこの月影街で殺し屋家業を続けていくんじゃろ?」

「そのつもりだ。」

「なら依頼を受ける窓口が必要になるじゃろう?」

「そうだな。」

「ならこの店を窓口にしたらどうじゃ?」

「ここを?」

「あぁ、依頼人はこの店に来る、そして奥の棚に置かれたその黒革の本に待ち合わせの場

所を書いた紙を挟む…お前さんはそれを見て依頼人に会いに行く…どうじゃ?」

「今どき随分アナログな方法だな?」

「だからこそ足が付かん!…それにわしはこの街の生き字引と呼ばれるほどの情報屋じ

ゃ、そのわしがお前さんの…『黒影』の宣伝をすれば仕事にも困らんで済むだろう?」

「なるほど…。」

 確かに帰って来たばかりのこの街で零から殺し屋家業を始めるのは何かと大変だ、老人

の協力があればとても助かるだろう。

「そういう事ならお願いしようかな?」

「なら話は決まりだ!…ちなみに仕事が上手くいった時は紹介料として一割を貰うぞ?」

「何!?」

「当たり前じゃろう?ただで商売の場所を提供してくれるような奇特な人間が裏の世界に

いるとでも思うのか?」

 老人はお茶のお代わりを湯呑に注ぎながら呆れたような顔で言う。

「…くそっ…分かったよ!」

 黒影もお代わりを貰いながら渋々頷いた。

「まぁ、心配するな!お前さんなら沢山稼げるじゃろう!」

 笑みを浮かべる老人に溜息をつきながら黒影は黒革の本を見る。

「なるほど、俺に合う本だな。」

 その表紙には『黒い影』と書かれていた。

〜fin〜