Cross Night

 

Write:Isamu.y.

 

第一話「黒影の朝」

 

  白い雪の上を歩き続けていた。
 行き先も、理由も、何も分らないけれどただ歩き続けていた。
 少し前を見ると彼女の後姿が見えた、急ぎ足で追いかける。
 彼女は振り向いて微笑みを浮かべ、そっと手を差し伸べる。
 やっと追いついてその手を掴んだ、少し冷たく、少しだけ暖かい。
 二人は並んで雪の上を歩き始めた。
 あてもなく、ただ歩き続けているけれど、それでもこのままでいいと思った。
 二人のほかには雪景色しかないこの世界でずっとこのまま一緒にいられたらいい。
 やがて彼女は耳元へ何かを囁いた。
 その言葉が聴こえず、耳を傾けて聴こうとするけれどやっぱり聴こえない。
 だんだん目の前も白く染まってゆく、そんな気がした…。

 目が覚めると朝だった。
 窓の外に目をやると雨が降り続いているようだった。
「…。」
 しばらくベッドの中でまどろんでいたが、やがて起き出し顔を洗いコーヒーを淹れた。
 コーヒーカップを持って窓際に立つ、鉛色の雲から雨がひたすらに降り続き、道路の水溜りに波紋を描き続けていた。
「…。」
 雨音が鳴り響いている、その音が人と人、建物と建物、自分と世界との間に溝を作っているようで少しだけ心が休まった。
 六月の雨は降り止まないだろう、だからもう少しだけ心安らいでいられるのかも知れない。
 コーヒーカップの中身が空になった、もう一杯淹れるべきか迷っているところへ電話の着信音が飛び込んできた。
「…。」
 雨音が自分と世界との間にいくら溝を作っても、忌々しく音を立て光り続けるその機械はそれを飛び越してくる。
 彼は意を決し、電話を手に取り応答した。
「…もしもし…?」
 電話の向こうでは老人のしわがれた声が聞こえる。
「やっと出たか…どうだ?最近はどうしてる?」
「別にいつもと変わらないよ。」
「そうか…なぁ、ちょっと店へ来られるか?」
 それを聞いて彼は少し言葉に詰まった、老人の気遣いは嬉しいが今は何をするにも気が重い。
「…。」
「…もちろん、無理にとは言わんよ…でも、たまには顔を見せてくれ。」
「…分った、行くよ。」
「そうか、では待ってるぞ。」
 電話を切るとまた雨音だけが耳に聴こえてきた。
 このまま雨音だけを耳にして一日過ごしていたい。
 けれど、そんな事をしていても何も意味はないのも充分分っている。
 だからこそ、老人も出かけるきっかけを作ってくれているのだろう。
 彼は再び意を決し、服を着替えて家を出た。

 月影街十六番街の外れにある古書店『半月堂』。
 貴重な年代物の古書をいくつも揃えた一部の好事家の間では有名なこの店にもう一つの顔がある。
 この街の情報なら表も裏も何もかも全て知りえる『月影街の生き字引』とも言える情報屋でもあった。
 店の戸を開け中へ入る、いくつもの貴重そうな書物の並ぶ本棚の間を通って男は店の奥へと向かった。
 奥では老人が会計のテーブルで新聞を読んでいた。
「…よぉ、じいさん。」
 男が声を掛けると老人は顔を上げる。
「よく来たな、黒影。」
 老人は立ち上がると会計口よりもさらに奥にある椅子とテーブルに黒影と呼ばれた男を通し自分も向かいに腰を下ろした。
「…どうだ、最近は?」
 老人はお茶を淹れながら黒影に尋ねる。
「…別に、いつもと変らないよ。」
 黒影は電話口と同じように答える。
「そうか…最近はあまり仕事も請けないようだな?」
 茶菓子も勧めながら老人は続ける。
「…そういう気分じゃない。」
「気分か…まぁ、お前さんの仕事は気が張ってなきゃ命を落とすからな…。」
「…。」
「しかし、いつまでもそのままって訳にもいかんだろう?」
「…貯えならあるから大丈夫だ。」
「…そういう問題じゃなかろう…。」
 黒影は何も答えず湯飲みを持って立ち上る湯気を眺めている、老人はため息をついて続ける。
「生きるには困らんだろうが…お前は生きてない…。」
「…俺が?」
 湯飲みを見つめたまま黒影が眉をひそめる。
「そうじゃ、いいか?…人はな、衣食住が足りてれば生きれる訳ではない…心が生きてなければ死んどるのと同じじゃ!」
「…。」
「今のお前は…本当の意味で生きておらん…。」
 老人はそう言うと湯飲みに口をつけ俯いた。
「…俺に生きる資格なんてあると思うか…?」
「なに?」
「…俺に…ルミナを守れなかった俺に…心から生きる資格なんてない…。」
「馬鹿を言うな!」
 老人がテーブルを叩き叱り飛ばす。
「いつまで自分を責めとる!」
「だけど…事実だ…。」
「いい加減にせい!お前がいくら嘆いても彼女は戻っては来んだろうが!」
「そんな事は分ってる!」
 黒影も老人を睨みながら声を荒げた、老人は顔を歪め悲しそうに続ける。
「…お前の気持ちが分らない訳じゃない…わしも昔戦争から帰ってきたら妻も子も死んでおった…自分を責めたよ…なんで戦争なんて行かずに側で守ってやらなかったのだろうと…でもな…そんな事をいくら思ってみても何も変わらないんじゃ…。」
 黒影は湯のみを持ったまま俯いている、老人はため息をひとつ着き続ける。
「この半年…お前はまるで生きる屍だ…自分を責めたいだろう…悔やむだろう…でもこれでは死んだお前の恋人も報われん…わしも見ていて辛い…。」
 老人は俯き目を閉じた、その様子に黒影もいたたまれない気持ちになった。
「…ごめんな、じいさん…。」
「いや、いいんじゃ…わしこそ済まなかった…励ますつもりが叱り飛ばしてしもうた。」
 老人は悲しげに苦笑いを浮かべる。
「わしはただ、お前さんに少しでも生きる活力があればと思ってな…仕事でも勧めようと思ったが…まだそういう時期ではなさそうだな…。」
 黒影は湯飲みを見つめたまま呟くように返す。
「…仕事の依頼、来てるのか?」
「あぁ…三日ほど前に黒い本に何かを挟んでいた男がいたよ。」
「そうか…。」
 黒影はそのまま湯飲みを見つめていたが、やがて意を決したように立ち上がると店の端の本棚の前へ立ち一冊の黒い皮表紙の本を手に取った。
赤い文字で『黒い影』と表紙に書かれたその本を開き中身をめくると真ん中ほどのページに一枚のメモ書きが残されていた。
『至急ご連絡願いたい。』と書かれたメモの下に相手の番号が記されていた。
「…。」
 黒影はそのメモを手に取るとテーブルへと戻った。
「どうじゃ?」
 老人が少し期待をするような顔で窺う。
「あぁ、とりあえず依頼人に会ってみるよ。」
「そうか!」
 老人が安心したように笑みを浮かべる。
 黒影は少し冷めてしまったお茶を飲み干すと湯飲みをテーブルに置いた。
「じいさん、色々ありがとうな。」
「あぁ、頑張れよ。」
 黒影は頷くと店の出口へ向かう、その背に老人が声を掛ける。
「黒影、希望を持てよ!」
「そんなものがあればな…。」
 振り向きもせずにそう言うと黒影は店を後にした。

 外はまだ雨が降り続いていた、傘を差し濡れた道を歩く。
 普段でもそれほど人通りの多くない商店街は雨のせいで余計に人が少ない。
「…希望か…。」
 ふと老人の言葉を思い出していた、果たして自分に希望など訪れる事はあるのだろうかと思いながら。

 

第二話「レイファンの夕刻」

 

 月影街七番街のライブバーのカウンターに座りながら彼女は男の話をぼんやりと聞いていた。
「…という訳で是非とも貴女に歌って頂きたいんですよ。」
 目の前の男は青い色眼鏡の奥に期待を込め話し続けている。
「わたしに?」
 彼女は怪訝な表情で答える。
「他にいくらでもいるでしょ?」
 しかし男は首を横に振りながら舌を鳴らす。
「いいえ、若いシンガーは数多いますがね、貴女ほどの逸材はそうはいない!この大舞台には貴女の歌声こそ相応しい!」
 大仰なまでに両手を広げながら男は声を上げる、その様子に彼女は堪えきれずに笑い出した。
「…ごめんなさい、で?どんな舞台なの?」
 その質問に男は青眼鏡の奥の目を丸くしながら呆れ返る。
「…先程の私の説明…聞いてました?」
 彼女は悪びれる様子もなく答える。
「ごめん、聞いてなかったわ。」
 青眼鏡の男は深いため息をつきながらも気を取り直して説明を繰り返す。
「…今月の十五日、二十番街にある大富豪シュバイツ氏の屋敷で大規模なパーティーが開かれます、一般の人々はもちろんの事、政財界の大物も数多くやって来るんですよ!…次期市長の呼び声も高いあのジャン・シュレック議員もいらっしゃる!」
「誰それ?」
「…どうやら新聞をあまりお読みにならないようですね…革命党の議員でこの夏の市長選で当選間違いなしと言われている大人気の大物政治家ですよ!」
「そうなんだ?」
「えぇ、そのパーティーで是非とも貴女に歌っていただきたいのです!」
 すると彼女はまたも怪訝な表情を浮かべる。
「どうしてわたしなの?有名でもないのに…。」
「以前にこの店で貴女の歌声を聴かせて頂きました、その時、その歌声に深く感動し、決めたのです!…この舞台には貴女しかいないと!」
 相変わらず大仰に語る胡散臭い青眼鏡の男を見ながら彼女はしばらく考え込んでいたがやがて口を開いた。
「…分った、休業前最後のステージには丁度いいかもしれないし…。」
「え…休業…!?」
 男はまたも目を丸くする。
「…ひとり言、気にしないで!」
 そう答えると彼女は席を立つ。
「とにかく受けるわ!リハが決まったら連絡して!」
 そう言い残すと店の出口へと向かう。
「ありがとうございます!きっと素晴らしいステージになりますよ!あなたの若さと才能に希望を!」
 そう言いながら青眼鏡は傍らのビールを掲げながら声を上げる。

 女が店から出たのを確認し青眼鏡は懐から携帯電話を取り出しどこかへ掛ける。
「…もしもし、ボスですか…ブラウです。…はい、シンガーの手配は済みました…えぇ、とてもいい歌手ですよ!容姿、歌声ともに申し分ない!…名前ですか?…ホワン・レイファンです!」

 外はまだ雨が降り続いていた、夕刻の闇が迫り雨雲は群青色に染まっていく、七番街の華やかな街並みの明かりに雨粒は輝きながら反射している。
 傘を差しながらレイファンはぼんやりと人通りの多い街並みを歩きながらその日の夜明け前の事を思い出していた。

 雨に打たれながら彼女は俯いて肩を震わせている、その姿に心を痛めながらもただ睨み付けている事しか出来ない自分がいる。
「…ごめんね…レイファン…。」
 雨音にかき消されるようなそんな囁き声で目の前の彼女は謝っている。
「…別に…どうでもいいわよ…。」
 自分でもぞっとするほどレイファンの口からは冷たい言葉が飛び出していた。
「…でも…。」
 もうほとんど雨音に消えてしまう声で彼女は呟いた、その姿に胸の痛みと苛立ちの両方が込み上げる。
「…同じ事でしょ?…彼はあなたを選んだ。」
 冷たく尖った言葉が先に出てしまう、そんな自分が嫌でたまらない。
 目の前の彼女が顔を上げた、雨に打たれていても分るくらい目から涙を流している。
「…嘆いても何も元には戻らないわ…あるのは目の前の残酷な現実だけ…。」
 胸の痛みと言葉の冷たさはまるで比例するように激しくなってゆく。
 その時、道の向こうから一人の若い男が走ってきた。
男は二人を見つけるといたたまれない表情を浮かべ、その間に割って入る。
「…レイファン、聞いてくれ…悪いのはメイじゃない、全て俺なんだ…。」
 メイの前に庇うように立ち、レイファンに諭すように語り掛ける、その姿にレイファンの中の溜まりかねた感情が限界に達した。
 彼女は男の胸倉を掴むと右の拳で思い切り男の顔を殴りつけた。
「当たり前でしょ!かっこつけんじゃないわよ!」
 鋭い目で男を睨み怒鳴りつける。
 水溜りに思い切り倒れこんだ男にメイが駆け寄る、男は口元から血を流し俯いていた。
「…。」
 レイファンはただ二人を見つめているしか出来なかった。
 メイが悲しげな表情で顔を上げレイファンを見つめる、その左目はほんのりと赤く染まっていた。
 それはメイが心から悲しんでいる証だと知っているレイファンはこの上もなくいたたまれない気持ちになり思わず二人に背を向けると歩き出した。
「…レイファン…。」
 メイの悲しそうな声が聞こえる、レイファンは今にも溢れそうになる涙を堪えながら二人に背を向けたまま声を掛ける。
「…わたしはお邪魔だよね…元々、月影街に来るまでが一緒に旅する約束だもんね…もうこの街へは辿り着いたんだしここから先はそれぞれでいいんじゃない?」
 そう言いながら足早に雨の中を歩き続ける。
「…レイファン!」
 メイの叫ぶような声が聞こえながらもレイファンは歩みを速める。
「さようなら!二人とも!」
 捨て台詞のように吐き捨てながら逃げるように走り去る。
 どれくらい走っただろう、しばらくすると大通りに出た、夜明け前の国道は人の通りはなく時折走り去る車のヘッドライトがレイファンの姿を照らすくらいだった。
 もうメイの声も聞こえない、二人とも完全に離れたのだと悟ってレイファンは声を震わせて涙を流した。

「…。」
 夜明け前の事が今でもずっと頭を離れない、メイの悲しそうな声や表情を思い出すたびに胸が張り裂けそうなほど痛む。
 ふと通りの喫茶店の入り口で一人の老女が空を見ながら途方にくれていた。
 どうやら傘立てに置いた傘を誰かに持っていかれてしまったらしい。
 レイファンは老女に近寄ると自分の傘を差し出した。
「おばあさん、良かったら使って?」
「…えぇ、でもそしたらあなたが…。」
 困惑する老女の手に傘の柄を握らせながらレイファンは笑いかける。
「いいの!わたしちょっと濡れたいから…。」
 そう言い残すと戸惑う老女に背を向け雨の中を走り出した。
 七番街の通りは人が多い、けれど誰もが傘と水溜りに嵌りそうになる靴を気にしているおかげで気付かないでくれるだろう。
 雨に濡れていてもはっきりと分るほどのレイファンの溢れる涙を。

 

第三話「ロンの午後」

 

「ロンさん!ロンさんってばよ!」
 後ろからしつこくサジルの声が聞こえる、いくら早足で撒こうとしてもしつこく着いてくる。
「なぁ!ロンさん!」
 いい加減でロンも呆れ果て、歩みを止めると振り返って顔をしかめる。
「うるさいぞサジル!」
 眉間にしわを寄せこの上もなく迷惑だという表情を浮かべるもサジルはまるで気にも留めず明るい表情で答える。
「話くらい聞いてくれたっていいじゃないか!」
 ロンは大きなため息を吐いて首を横に振る、そして声を潜めてサジルに釘を刺すように言う。
「いいか?よく聞け?俺は、もう、泥棒は、や・ら・な・い・ん・だ!」
 その一言一句に首を何度も縦に振りながらサジルは頷いていたが答えはロンの期待とは全く逆のものだった。
「うんうん、分ってるよ!もう泥棒稼業は嫌なんだろう?ロンさん昔から言ってたもんね?早く堅気になりたぁいってさ!」
「その通りだ。」
「で、頭領も二年前に亡くなって、一味も解散!そこでロンさんは堅気へと華麗なる転進を迎えたわけだ!」
「そうだ、そうだ、よく分かってるじゃないか!」
「…んで?」
 そこでサジルは口の端を曲げいやらしい笑みを浮かべる。
「その夢の堅気生活はどうだい?」
「…。」
 ロンは思わず答えに詰まる、それを見てサジルは堪えきれないように腹を抱え笑い出す。
「なぁ?上手くいってないんだろう?」
「そんなこたぁない!」
 ロンも思わずむきになりながら答える。
「いいって、いいって!そんな見栄を張らなくても!…大方あれだろう?就く仕事、就く仕事、三ヶ月続けばいいところって感じだろう?」
 その言葉にロンは完全に言葉を失ってしまった。
「図星かぁ!まぁ無理もねぇよなぁ…ロンさん生まれたときから土竜一味の跡取りとして泥棒の事しか教わってないんだもんなぁ…学校もろくに出てない…堅気の仕事も初めてとくりゃあ、上手くいくわけねぇよなぁ…。」
 サジルはさも同情しているといった表情でわざとらしく腕を組んで頷いている、その様子にロンももはや怒りも覚えずただため息を着くばかりだった。
「あのねぇロンさん、人にはそれぞれ才能ってもんがあるのさ、ロンさんで言えばお嫌いだろうけど泥棒の腕だ!…あの厳しかった頭領もロンさんの腕は実のところ凄い認めていたらしいよ?『あいつは土竜の歴史で一番の腕前だ!』ってうちの親父と呑むといつも話していたらしいよ?」
「だからなんだよ?俺に堅気は諦めて大人しく泥棒をやってろってのか?」
「いやいや!そんな事は言わないよ!才能云々の話をしたが一番大事なのはやっぱり本人の意思だ!ロンさんがどうしても堅気になりたいってのなら俺だって応援するよ!…たとえ一生、月に千ゼルちょっとの金のために床を磨き続ける人生だとしてもね…。」
 そう言ってさも悲しげな顔を浮かべながらサジルはわざとらしく声を落とす、その姿にロンも今度は舌を打って食い下がる。
「誰が千ゼルちょっとのために床磨きだ!人を馬鹿にするのもいい加減にしろ!」
「まぁ、だからさ!」
 と言ってサジルは人差し指を立てる。
「最後に一度だけ、大仕事をしないか?」
 やっぱりと思いロンはため息を吐いた。
「…しないよ、もう泥棒は廃業だ。」
 そう言ってロンはサジルに背を向け足早にその場を去った。
 振り向きはしなかったがもうサジルは着いてこないようだった。
「やっと諦めてくれたか…。」
 やれやれと思いながら家路へと着く。

 十八番街のアパートへ戻ったロンはソファにどっかりと座り煙草に火をつけテレビのリモコンに手を伸ばす。
「…ん?」
 どうした事か電源ボタンを押しても一向にテレビはつかない、故障かと思い首をかしげながらロンはテレビのコンセント周りや主電源を確認するが異常はない。
「まさか…。」
 嫌な予感が頭をよぎり部屋の灯りをつけようと壁のスイッチを押す、しかし灯りは全くつかない。
「嘘だろ…。」
 嫌な予感は当たったようだ、部屋の電気は止められている、確かに料金を支払ったのは二ヶ月以上前が最後だ。
 曇っているとはいえ、幸い今はまだ昼なので部屋の灯りがつかなくても問題はない、夜をどうするのかという事は一旦頭の片隅へ追いやり、気を取り直すためにコーヒーを淹れることにした。
 コンロの上のケトルにはまだ水が入っているのでそのまま火をつけようとコンロのスイッチを捻った…はずだった。
「…え…?」
 カチッという音はしたものの火は出ない、旧式だからかと思いもう一度捻るも火は着かない。
「…ガスもか…。」
 絶望を覚えながらも何とか気を取り直そうとロンはコップを手に取り水を飲もうと蛇口を捻る。
「…そう…そうなんだな…これもなんだな…。」
 月影街では生命保護の観点から水道は四ヶ月の料金滞納までは供給されることになっている、しかし彼はその情けからもこぼれてしまったようだ。
「…完全に行き詰ったな…。」
 がっくりと首をうな垂れコップを元の場所へ戻す。
 電気、ガス、水道、全てのライフラインを止められ、これからどうしたものかと思案しようと煙草の箱に手を伸ばすもそこには最後の一本すら残ってはいなかった。
「…はは…ははは…。」
 力なく笑い声を立て空の箱を握りつぶし床に投げる。
 その時、玄関のベルが鳴った、さてはサジルがここまで着いてきたのかと思っているとまたもやベルが鳴り続いてドアを叩く音が聞こえた。
「ロンさん!ロンさん!いるんだろ!あたしだよ!大家だよ!」
 ドアの外でこのアパートを管理する五十過ぎの大家が声を張り上げている。
「…!やべぇ…!」
 公共料金の例に漏れずロンはこのアパートの家賃も滞納している、今までなんとか誤魔化してきたが、大家の声は今日こそは逃がさないぞという勢いを漂わせている。
「…まったく居留守なんか使って!…いつもこんな調子なんだよ!頼むよ?あんた達!」
 どうやら応援に誰かを連れてきているようだ、もしや警察でも連れて来たのかと思い、そっとドアに近寄り覗き穴から外の様子を窺う。
 腕を組んで眉間にしわを寄せた大家の両隣には人相の悪い男が二人立っていた。
「まじかよ!あのババァ!」
 どうやら大家は取り立てにチンピラを連れてきているようだ、俗にスラムと呼ばれる月影街の南部ではちょっとした取立てにマフィアの下端を頼む事はよくある事だ。
「おおい!開けろや!居るんだろ?ドアぶち破られたくなかったら大人しく出てこいやっ!」
 ドアをドンドン叩きながらチンピラは声を張り上げる、そのうち本当にドアを蹴破って殴りこんできそうな勢いだ。
 ロンは足音を忍ばせながら大急ぎでベランダへと向かう。
ドアを開けたところで払う金もない以上、袋叩きにされてどこかへ連れて行かれるのが関の山だ、それならばここは一旦逃げ出した方が正解だろう。
クローゼットの引き出しからロープを取り出しベランダへと出る、大急ぎで手すりにロープを結びつけ自分の体にも巻きつける。
手すりを乗り越えるとロープを器用に伝って降りていく、三階の部屋から地面までは十メートル以上あるがロープを伝えば安全に降りられる。
「…まさかここで泥棒の技術が役に立つとわね…。」
 ロープを伝いながらロンは苦笑いを浮かべる、嫌っていた泥棒稼業の技が今や彼を助けているのだ。
 地面へ辿り着くとロンはロープを三回素早く引いた、すると三階の手すりに結んであった部分が解けたらしくロープが落ちてきた。
 三階から大きな音が聞こえた、どうやらチンピラたちはドアを本当に蹴破って部屋に乗り込んできたらしい。
 逃げたのに気付いたのか一人がベランダから顔をだして道の上にいるロンに気付いて怒号を上げる。
「あっ…てめぇ!どうやって外に!待ちやがれ!」
 そう言って部屋へと戻る、外に出て追いかけてくるつもりだろう、ロンは走り出した。
 しばらく走って小道へ入る、そこを抜けまた通りへ出るとしばらくしてまた小道へと入る。
「またか…。」
 追っ手を撒く逃げ道の選び方、またもや泥棒の技術に助けられている。
 しばらくしてまた通りに出る、もう連中は追っては来られないだろうが、しばらく部屋へは戻れない。
 これからどうしたものかと途方にくれていると側に一台の車が停まった。
 まさかあのチンピラ達が車で追いかけて来たのかと驚いたが運転席の窓から顔を出したのはサジルだった。
「ロンさん!早く乗んなよ!」
 考えている暇はない、ロンは助手席に乗り込んだ。

「…お前、見てたのか?」
 走る車内でロンはサジルに尋ねた。
「あぁ…あの後こっそりロンさんの後を着けさしてもらったんだ…どんな暮らしぶりかと思ってね…そしたら大家のおばちゃんが怖そうなお兄さん連れてドアの前で怒鳴ってるじゃん…こりゃやばいなって思ってね…とりあえずアパートの裏手に回ったんだけど、そしたらロンさんがロープで降りてくるからさ…助けようと思って車で先回りしたんだ!…多分逃げ道の選び方はここだろうと思ってね…。」
 後を着けた事が決まり悪いのかサジルは申し訳なさそうに話した。
「…そうか…みっともないとこ見せちまったな…。」
 ロンも苦笑いを浮かべて俯いている。
「…見ての通りだ、堅気の暮らしは上手くいってないよ…俺は家賃どころか電気もガスも水道も払えなくて止められている…笑えるだろ?」
 力なく話しながらため息を着く。
「…お前の言うとおり、俺は…堅気に向いてないのかもな…。」
 その姿にさすがのサジルも返す言葉がないように黙り込んでいたがやがて口を開いた。
「そんな事はないよ。」
「…。」
「慣れない生活に戸惑ってるだけだって!」
「…。」
「でもさ…堅気になるにも金は必要だろ?…だからってんじゃないけど…。」
 そう言ったままサジルは再び言葉を失った。
 車は国道をひた走る、しばらくするとフロントガラスに雨粒が当たりはじめた、どうやら天気はまた崩れたようだ。
 ワイパーがフロントガラスの雨粒を弾くのを見つめながらロンは腹をくくったように口を開いた。
「…やるよ。」
「えっ!」
「だから、その大仕事やるよ、ただしこれが最後の泥棒稼業だ、これで立て直す。」
「そうか!」
 サジルは嬉しそうに振り向く。
「良かった!助かるよ!ロンさんがいれば百人力だ!」
 はしゃぐようにハンドルを叩いている。
 ロンは苦笑いを浮かべた、どうやらサジルの思い通りになってしまったらしい。
「サジル…ひとつ頼みがある。」
「なんだい?」
「悪いけど…昼飯おごってくれ…。」
 サジルは堪えきれずに吹きだしながらも大きく頷いた。
「いいとも!お安い御用だ!肉でも食べに行こうぜ!」
 そう言ってウインカーを点け国道から街中へ右折を始めた。
「きっと上手くいくよ!希望を持っていこうぜ!」
 明るい口調でサジルは声を掛ける。
「…希望ね…。」
 激しくフロントガラスに流れる雨を見ながら、果たして自分にそんなものがあるのだろうかと考えていた。

 

第四話「黒影への依頼」

 

 午後九時、黒影は七番街の高級レストランへやって来た。
 入り口を入ると品の良いボーイがやって来て恭しく頭を下げる。
「ご予約は?」
「九時に待ち合わせがある。」
 そう答えるとすぐに奥の特別室へと通された。
「お待ち合わせのお客様をお連れしました。」
 ボーイがそう声を掛けると室内に居る人物が答える。
「どうぞ中へ。」
 ボーイに促され黒影は特別室の中へと入る、十メートル四方ほどの広々とした部屋で、薄暗い照明の中、壁紙や絨毯はもちろん飾られた装飾品にいたるまで高級でありながら品の良い雰囲気に溢れていた。
 中央の広いテーブルに一人の裕福そうな老人が座り、その傍らに執事と思しき初老の男も立っていた。
「ここまでご足労頂き誠に感謝いたします。」
 老人は立ち上がり会釈する、地位のありそうな人物ながらも相手に対する礼節を重んじる人物のようだ。
「どうぞお座りください…君、こちらの方にもお飲み物を。」
 黒影に椅子を勧めボーイにオーダーを出しながら老人は席についた。
 椅子に座り相手の顔を間近で見て黒影はその人物に見覚えがある事に気付いた。
「あんたは…。」
「おや、お見知りおきとは光栄です。」
「この街であなたを知らない人間はいないだろう…。」
 老人は口元に微笑を浮かべながら続ける。
「お初にお目にかかる、ロイス・シュバイツにございます。」
 月影街でいくつもの事業で成功を収め、五大富豪の一人とも言われるシュバイツ老人は深々と会釈をした、黒影もそれに応えるように会釈をする。
「でも、なぜあんたほどの人物が俺を…?」
 殺し屋などという物騒なものに仕事を頼むのか少し不思議に思っていた。
「それは後ほど、先ずはワインでもいかがです?」
 シュバイツ氏が言うとそれに合わせるかのようにソムリエがワインを携えて部屋へ現れた。
「六十二年物のシャトー・リューンでございます。」
 そう言って二つのグラスにワインを注いで部屋を後にした。
「乾杯いたしましょう。」
 シュバイツ氏はグラスを上げる。
 黒影もグラスを手に持ちそっと上げる、そしてほんの少し光に透かし、ふちに口をつけるようにしながら香りを嗅いだ。
「さすがに用心深いですな。」
 シュバイツ氏は可笑しそうに笑いながら言った。
「ご安心を、毒は入っておりません。」
「失礼…。」
 黒影は苦笑いを浮かべた、ほんの僅かなしぐさで見抜かれていた、普通なら気付かないはずだがこの人物は好々爺に見えて中々鋭い。
「お気になさらず、危険の多いお仕事でしょうから。」
 そう言って微笑を浮かべながらワインを飲む、黒影もグラスの中を飲み込む、芳醇な味わいと豊かな酸味が口の中に広がる。
「美味い…。」
 思わず言葉がこぼれる、シュバイツ氏もその様子に目を細めている。
「お気に入っていただけたようで何よりです。」
 やがて料理が運ばれ食事は本格的に始まった、どの料理もすべて上品でこの上もなく美味いものばかりだった。
 しかし黒影は高級料理に舌包みを打ちながらも頭の隅に疑問符を持っていた。
 なぜ、この依頼人はここまでするのだろう?たかが一介の殺し屋に仕事を頼むのにわざわざディナーの席を用意してもてなす…黒影はかつてこんな依頼人に出会った事はなかった。
 食事も終わりコーヒーが運ばれてくる頃にシュバイツ氏が口を開いた。
「なぜこんなにもてなすのか不思議に思っていらっしゃいますね?」
 葉巻に火をつけながら笑みを浮かべている。
「確かに、今まで依頼を引き受ける時にディナーを振舞われたことなんてないね。」
 黒影も煙草に火をつけながら答える。
「理由は二つあります、ひとつは元々わたしがビジネスにおいて先ずは相手方との食事の席を重んじるというのがあります、そしてもうひとつは…これは今回に限ったことですが…今日私が貴方にお頼みしたい仕事と言うのが少々厄介なものであるという事です。」
「殺しというのは得てして厄介なものだ。」
「ハハハ…そうかも知れませんね…しかしながら今回はそれ以上かもしれません。」
「というと?」
「今月の十五日、二十番街の私の屋敷で大規模なパーティーを催す予定なのです。一般の方から政財界の方々まで幅広くお招きして盛大に盛り上がろうと考えております。…その招待客の中に革命党のジャン・シュレック議員もおられる。」
 コーヒーを口にしながら黒影は頷く。
「夏の市長選で当選間違いなしと言われているあの人気政治家だな。」
「その通りです、その方を…。」
 シュバイツ氏の次の言葉を黒影は予測し、なぜ彼がこれを『厄介なもの』と呼んだかを理解した。
 当選間違いなしの次期市長候補ともなれば警察の警備も厳重なのは目に見えている、暗殺するのは容易ではないだろう。
 ところがシュバイツ氏の口から告げられた言葉は意外なものだった。
「…お守り頂きたいのです。」
 黒影は思わずカップを持つ手が止まった。
「…シュバイツさん、依頼する相手を間違えてやしないか?俺はボディーガードじゃない、殺し屋だ。」
 黒影が困惑の表情を浮かべるのを見てシュバイツ氏は笑みを浮かべ続ける。
「これは失礼…言い方が拙かったですな…正しくはジャン・シュレック議員の命を狙う者を仕留めて頂きたいのです、連中が議員を手に掛けるよりも先にね。」
 それを聞いて黒影もようやく話が飲み込めた。
「なるほど、で?そのシュレック議員を狙っているというのは?」
 黒影が尋ねるとシュバイツ氏は申し訳なさそうな顔で答えた。
「それが…分らんのです。」
「…。」
 黒影はシュバイツ氏がなぜ『厄介なもの』と言ったのかその本当の意味するところを悟った。
「…勿論いくつかの可能性はあります、ご存知の通り革命党から市長が立つのは十年以上振りになる、政敵である立憲党の差し金…あるいはシュレック議員は組織犯罪の撲滅に尽力を注ぐという事を度々口にしておられる、そうなっては都合の悪いマフィアの差し金…もしくは月影街の掲げる共和国独立構想に反対する南方のゲリラ組織…けれどいずれも憶測ばかりで決め手に掛けるのです。」
「けれどシュレック議員を暗殺しようとしている者はいるという事だな?」
「はい、それも十五日のパーティーの席上で行う予定のようです。」
「なぜそんな情報が?」
「私には色々な情報源があるのですよ…ここでは言えないようなね。」
 そう言ってシュバイツ氏は笑みを浮かべコーヒーを口にする、やはり好々爺に見えてどこか食えない男だと黒影は思った。
「話をまとめよう!…まず十五日にシュバイツさんの屋敷でパーティーがある、そこへジャン・シュレック議員も来る、どこぞの誰かがそのパーティーに潜んでシュレック議員の命を狙っている、俺は議員が殺られる前にそいつらを始末する…そういうことだね?」
「その通りです。」
 コーヒーを味わいながらシュバイツ氏は頷く、黒影は二本目の煙草に火を点けながら尋ねる。
「疑問が二つあるんだけど訊いていいかな?」
「どうぞ。」
「ひとつは、なぜ警察に任せないんだい?議員の警備なら警察の役目だろう?」
「もっともな質問ですな…もちろん月影街市警もこの情報を既に掴み公安部が動き出しているようです、しかしながら警察というのは大きな分、動きが鈍い…いざという時に小回りが利かぬのです…それに、現在月影街の政権政党は他でもない立憲党です、その息のかかった警察が革命党議員を守るとなったら少し心元ありません…。」
「なるほど…体制なんてあてにならないしね…。」
「その通りです…もうひとつの疑問というのは?」
「なぜ、そうまでしてシュレック議員を守りたいんだい?」
 空いたコーヒーカップを置きながらシュバイツ氏は苦笑いをした。
「…最も繊細な質問ですな。」
「気に触ったんなら忘れてくれて構わない。」
「いいえ…問題ありません…彼はこの街のこれからの未来に必要な人物だからですよ、彼ほど高潔な政治家は居ない、この街は発展の陰で多くの穢れを纏っている…それを変える事の出来る人物だからですよ…私はね、この街に恩返しがしたい…今の私があるのもこの月影街のお蔭です、だからこそ出来ることをしたい…それだけです、元々パーティー主催の目的もそれです。」
 二本目の葉巻に火を点けゆっくりと煙をくゆらしながら老人は答えた。
 きっとこの老人の言う言葉に嘘はない、けれどどこか悲しそうなその目の中にそれだけではないもっと大きな理由がある…黒影はそんな気がしてならなかった。
「分った、その依頼を引き受けよう。」
 灰皿に煙草を押し付けながら力強く応えるとシュバイツ氏も嬉しそうな表情になる。
「そうですか、ありがとうございます。」
「パーティーにはどう潜り込んだらいい?」
「依頼をさせて頂いた『本』に招待状を送ります。」
「頼む、偽名は『レイ・フェイロン』で。」
「分りました。」
「じゃあこれで、ご馳走様。」
 そう言って黒影はレストランを後にした。

 

<続く>