-序章-

 夜が更けてもまだどこか魔が棲む感じを隠し切れない月影街の夜景を見下ろしながら彼女は独り言のように呟いた。

「…その詩はラチカの最期の目に映る…」

それを聞きつけ彼は尋ねる。

「何の詩だい?」

彼女は少しうつむきながら誤魔化す様に答えた。

「…子供の頃、聞いたことがあるの。」

「この街に住んでた頃かい?」

「…そう。」

「メイにとってこの街は思い出の場所か?」

「…思い出なんてない。悲しい記憶だけ…。」

「悪い事を聞いたね。」

そういう彼を見てメイは済まなそうに言った。

「…別にいいの。ただ…」

「ただ?」

「…あの人もここへ来ているのかと思うと、少し心が痛い…」

「あの人って?探してる人の事?」

「…そう。」

「…見つかるといいね。」

メイは何も答えずただ頷いた。 

-1・救出-

 深夜の月影街中心部付近を一台の車が止まった。

中心部とは言っても街を南北に分ける大通りよりほんの少し内側に入り込んだ裏道だった。

「着いたわよ、どう出るの?」

運転席に座る若い女が尋ねた。

「どうするも何も、昨日話した計画の通りだ。」

後部座席に座る男、通称“黒影”は眠たそうに答える。

「ちょっと!しっかりしてよね?あんたが頼りなんだから!」

運転席に座る女、レイファンがそれを聞きとがめる。

「なぁに心配すんなって。たかだか坊や一人迎えに行くだけだろう?」

そういうと後部座席の男は車を降りて、近くのつぶれた酒場に向かった。

準備中と書かれたドアをノックすると中から男が一人顔を出して聞いた。

「あの店の使いか?」

「ああ、そうだ。」

「入れ。」

そういわれて黒影は中に入り、武器など持ってないか調べられ、さらに奥へと通された。

奥の部屋ではテーブルが一つと椅子がいくつか、4、5人の男が警戒する中一番中央の席に座った恰幅のいい男が黒影に声をかけた。

「これはこれは!新進気鋭の黒影先生!…ん?今日はあの若い女主人は同席じゃないのか?…まぁいい、そこに座ってくれ。」

勧められた椅子に腰かけ黒影は話し始めた。

「やぁ、パンさん!悪いね!お嬢は店番だ!…で?うちの若いのはどうした?」

「そう話を急ぐな。まどうだ一杯。」

酒を勧められ目の前にあるコップを持ちながら黒影は答えた。

「毒が入ってないなら頂くとしよう。」

「ハハハ!噂どおり口の減らない小僧だな!まぁ飲め!俺はお前みたいに威勢のいいのは嫌いじゃない。こんな裏稼業及び腰では命を落とす。しかしな威勢の良すぎるのもいかんぞ!この世界にはこの世界なりに道理ってもんがある。この辺りは俺が十年も前から御大のじい様から任されてるんだ。それなのにお前と来たらそんなのお構い無しに好き勝手だ!まぁ仕方ない。若いうちは道理も知らずに突っ走るもんだ。しかし、大事なのはその後だ。目上の者の忠告を素直に聞き入れれば大成する。しかし、折角の忠告も聞かんで暴れまわれば裏通りで野たれ死ぬ事になる。」

「つまり何を言いたいんだ?」

「なにもお前にこの辺りでシノギをするなとは言わん。俺だって鬼じゃない。若いもんから成功の機会を奪おうって訳じゃない。但し、ただと言う訳にはいかん。俺にも面子があり、またこの世界の掟でもある。毎月お前の儲けの四割を俺に納めろ。」

「やっぱりそういう事か!」

飲み干したグラスを叩きつけるようにテーブルに置きながら黒影は掃き捨てるように言って目の前の男を睨んだ。

「当たり前だろう?どこの世界に商売する場所をロハで提供してくれる者があると思う?堅気でもそんなのありゃしない!」

パンも負けてはいなかった。さっきまではどことなく気のいい中年親父をかもし出していたが今はすっかりマフィアの顔を見せていた。

「それで俺の仲間を拉致したって訳か。」

「拉致とは人聞きが悪いな!俺はただお前さんが何度呼んでも来ないから口実を作ってやったんじゃないか。」

「口実だぁ?よくもまぁそんなお為ごかしが言えたもんだ!大体あの馬鹿がまだあんたに殺されてないって確証もねぇや!」

「なら会わせてやる。」

そういうとパンは近くの者に人質を連れてくるように言った。

暫くして部屋の奥のドアが開き二人の男に抱えられてヨタヨタと歩いてくる者があった。

「よお!随分もてなされたみたいじゃねぇか!」

黒影がそう声をかけると抱えられた男は殴られたのか腫れた顔をあげて言った。

「…たまったもんじゃねぇよ!いきなり!いきなりだぜ?後ろからなぐられ…」

言いかけた口を両側の男に手で塞がれた。

「悪く思わんでくれ!これでも俺は赤子を扱うように丁重にお連れしろといったんだが、うちの若いのはガサツでな。」

「あんたのとこの手下にはとてもじゃないが子守は頼めないな。」

「ハハハ、安心しろ。そんな商売はうちでは扱ってない。」

パンはグラスの中を飲み干し本題に入った。

「さて、ところでさっきの話だ。儲けの4割、払うのか払わないのか?」

「断ると言ったら?」

「お前は馬鹿ではないはずだろう?」

そういってパンは人質を抱えた男に顎で合図をした。男は懐から銃を出し人質の頭に突きつけた。

「どうなるかは分っているだろうが、あえて教えてやる。今、お前の答え次第によってこの若造の頭が無残な抜けがらになるかどうかが決まる。言っとくがお前もただでは済まんぞ?検めさせてもらったが今お前は銃なんぞ持ってはいない。」

パンはどうだと言わんばかりに黒影に詰め寄った。しかし、黒影はどういうわけか落ち着いた面持ちでこう言った。

「まったく、話し合いどころかただの脅しじゃねぇか。それならこんな回りくどい手なんか初めから使わなきゃいいんだ。」

相変わらず飄々としている黒影を見てパンは苛立ちながら声を荒げた。

「いい加減にしろよこの若造!こっちが穏やかにでてりゃあつけ上がりやがって!もう一度だけ言う!今この場でこのガキとお前と二人とも殺されたくなけりゃあ俺の言う事を聞け!ちょっとばかり腕が立つからって自惚れてんじゃねぇぞ!てめぇが思ってるほどこの裏社会は甘いもんじゃねぇんだ!」

いよいよ本性をむき出しにしたパンはテーブルを拳で叩きつけながらそう怒鳴った。後ろにいる護衛のチンピラも上着の内側に手を忍ばせ今にも銃を突き出さんとしている。人質を抱えた二人も手に持った銃をいっそう人質の後頭部にゴリゴリと突きつけていた。

「進退窮まったな!なら…」

黒影はまるで確認するように言うとその続きを少し大きめの声で言った。

「煙だ!」

突然の意味不明の言葉にパンもその手下のチンピラも一瞬「は?」という顔を浮かべた。しかし、その直後突然部屋に一箇所だけある窓のガラスが割れる音がした。

「なんだ!?」

パンは先程の黒影の意味不明の言葉とこのガラスの割れる音に不穏なつながりを感じ音のなる方へ目をやった。

そこには割れたガラスの破片に紛れてウィスキーの小瓶ほどの大きさの鉛色の筒があった。目を良く凝らし見るとそれは灰色の煙を吐き出し始めていた。

「催涙弾か!」

姑息な手を使う奴だとパンが思っているとそこへ黒影の言葉が追い討ちをかけた。

「いや、毒ガスだ。あんたの言いなりになるくらいならここであんたらもろとも死んでやるよ!」

「何だと!?正気かっ!」

パンは慌てて手下にガスを噴出している筒を外へやるよう命じた。室内は突然の事に騒然となり誰もがすっかり神経を窓のそばの煙を吐き出し続ける鉛色の筒の方へと奪われていた。その時、騒ぎを打ち破るように2発の破裂音が鳴り響いた。

「!?」

パンが何事かと視線を元に戻すとさっきまで人質を抱えていた二人が頭から血を流し倒れているのを見つけ、さらにその先に銃を持った黒影がいるのを見て声を上げた。

「なっ、なんでお前が銃をっ!?」

護衛のチンピラ達も銃声を聞きつけ慌てて懐の銃を出そうとしたが、誰もが銃を握った手を上着から出し終わらぬうちに黒影に頭を撃ちぬかれていた。

「こっ、このクソガキっ!」

パンも慌てて銃を突き出したが、乾いた破裂音を聞くとともに右肩を撃ちぬかれていた。

(なぜこんな事になった、さっきまで自分が完全に有利だったのになぜ。)

パンがそう思っているとその答えを明かすように黒影が口を開いた。

「本当に俺が丸腰で来ると思ったのか?銃は昨日あんたに場所を指定された時に予め仕込んでおいたんだ。あきれたよ!あんたここに見張りの一人も置いてないんだもんな。それからさっきの煙は映画の撮影なんかに良く使われる煙幕で毒ガスじゃないから安心しろ。椅子の下に仕込んどいた銃を取り出すため、ほんの一瞬気をそらしたかっただけなんだ。」

「もっとも…」

そう言いながら黒影は銃を握り、肩を打ちぬかれ血を流し痛みに耐えるパンの元へ近づいた。

「…どの道あんたは死ぬんだけどな。」

銃口をパンの鼻先につきつけ黒影は勿体つけるように撃鉄をおろした。

「お、俺を殺せば御大に命を狙われるぞ!」

パンは額に汗を浮かべながら最期の悪あがきをするように言った。

「俺にはそんな脅しは通じないって分ったろ?裏社会の道理だかなんだか知らないが俺は自分以外の人間の言いなりになるのは真っ平なんだ。」

「お、お前…いつか、死ぬぞ!」

声を絞り出すようにパンが言うのを聞いて黒影はニヤリと笑い言った。

「知らないのか?誰しもいつかは死ぬんだよ。」

パンの最期の目に黒影の左目の瞳孔が仄かに赤く染まるのが見えた。その直後、部屋の中に銃声が鳴り響き壁に赤い血しぶきが散った。

パンの亡骸を見下ろしながら黒影は、近くでうずくまるさっきまで捕らわれの身だった男に話しかけた。

「ロン、手間かけさすなよな。」

ロンと呼ばれた男はヨタヨタと起き上がり、服の埃を払いながら答えた。

「…すまねぇ…でもな!お前だって悪いだからな?俺、言ったよな?パンのオヤジが俺達に目をつけてるから気をつけようなって!」

「こいつはあきれた!てめぇの不甲斐なさを俺のせいにしようってのかよ?大体、何で後ろにチンピラが回ってきた時点でぶちのめさないんだ!」

「でっ、出来るわけねぇだろう!?お前と違うんだよ俺は!自分でこんな事いいたかねぇけど俺は今の今まで喧嘩にすら勝ったことねぇんだよ!お前みたいに修羅場生き抜いてきてねぇんだよッ!」

泣きそうな顔でそう力説するロンを見かねて黒影は服の埃を払ってやるのを手伝いながらこう言った。

「わかった、わかったから!泣き喚くな!…じゃあ次マフィアとトラブルになった時はお前を真っ先に逃がしてやる。…まったく!…戻るとしよう。レイファンが表の車で待ってる。早いとこ立ち去ろう。」

二人は入ってきた時とは別の、ロンが監禁されていた部屋の奥の裏口の扉から外へ出て、そこへ迎えに来ていた車に乗り込んだ。

「…!?うまく…いった!?」

焦り気味に尋ねるレイファンに黒影は答えた。

「見ての通り、ロンさんのお帰りだ。」

それを見てレイファンは胸をなでおろし、それからロンに向かって怒鳴りつけた。

「ばか!世話かけさすんじゃないわよ!」

頭ごなしに怒鳴られロンは腫れた顔を引きつらせ答えた。

「…なぁ、お前ら二人には怪我人に対する心遣いってのは無いのか?」

レイファンはそれに答えずアクセルを踏み込むと車はその場から立ち去った。

警察がパン他数名の死体を発見するのは翌日の事になる。月影街の夜は闇をよりいっそう深めながらふけていった。

 -2・御大-

 月影街北部の高台にある高級住宅街。ここにはこの街の頂点に上りつめた者がその栄華を誇るかのごとく贅を尽くした屋敷を並べていた。 資本家、政治家、そして裏社会の頂点に君臨するボス連中も例外ではなかった。

中でも郡を抜いて豪華な屋敷…いや威厳と畏怖を感じさせる雰囲気を放つ一軒があった。

この街の裏社会の最高点に立つ人物、その名は黄(ホアン・)流啓(ルンジェイ)。通称「御大」と呼ばれる大ボスでこの二十年以上この街の裏は勿論のこと、今や表社会でさえ牛耳るほどであった。

その黄邸に一台の車がやってきて、その中から一人の男が降り立った。屋敷の警備を勤める者の何人かがそれを出迎え、声をかけた。

「“祟(たたり)”さんご苦労様です。こんな早くに御大へ御用ですか?」

「ああ、一つご報告があってな。御大はお目覚めか?」

「え、えぇ…もう起きておられるかと…」

祟と呼ばれた男は何も言わず頷き、屋敷へと入っていった。

「御大、朝早くに失礼します。」

御大の寝室のドアをノックしながら祟は声をかけた。

「祟か、入れ。」

中へ入り祟は話しはじめた。

「実は先ほど警察へ送り込んであるネズミから報告がありました。パンが昨夜死んだそうです。」

「パン?あの南部の一角を任してあるパンの事か?おぉ、どうした肥満がたたったか?」

「いえ。殺されました。」

「ほう。殺されよったか。別のシマのもんにか?それとも自分とこの子飼いにでも寝首をかかれたか?」

「いえ、殺ったのはフリーの殺し屋です。」

「ほう。そんなもん使わずともパンぐらい子供でも殺れそうだがな。」

「いえ、恐らく依頼ではなく私怨でやっています。」

「なるほど。しかし、そのぐらいの事でわざわざ朝食を邪魔しに来たんじゃあるまいな?」

「ええ、その殺し屋と言うのは“黒影”ではないか?という話しです。」

「…黒影。ほぉう、あの黒影か!こいつは傑作だ!パンの奴、つまらんチンピラだったが最期に黒影に命を奪われるという光栄にあずかったか!ハハハ!」

「…笑い事ではないかと。」

「ほう?するとお前は黒影が次はこのわしを殺しにでも来ると?」

「いえ…。しかし、そもそも黒影がこの街に来ているという事が気に入りません。」

「フフ、ここは月影街だぞ?高みを目指すもんなら一度は足を踏み入れる。」

「…そもそも、“黒影”という通り名で呼ばれる殺し屋の話は、何年か前から盛んに噂されていました。しかし、その実在が確認された事はありません。」

「噂の域をでないと?」

「ええ、話にでる特徴としては黒い服に身を包んでいた、そして単独で行動する。更に、これは一番信憑性に欠けますが、人を殺す時、左目の瞳孔が赤く染まるというのがあります。」

「ハハハ、そりゃまるで、妖怪伝説みたいだな!…簡単だ、つまり、黒影などという殺し屋はこの世に存在しない。昨日の話とて、パンを殺った手口があまりに鮮やかなんで警察の連中も、これは噂に名高い黒影の仕業なんじゃないか?とうとうこの街にも黒影がやって来たのだと、そう思い込んだのだろう。」

パンを殺した者、黒影。という説を御大は一笑に付した。しかし、祟はひるむ事無くこう続けた。

「確かに、黒影の話は噂の域を出ません。顔を見たという者もいず、中には明らかに黒影の仕業ではないような事件まで黒影の仕業という事になっています。しかし、これをご覧下さい。」

と言うと、祟は懐から紙束を取り出し、御大の前に差し出した。

「警察の資料の一部です。ネズミより取り寄せました。それによると、今まで黒影犯人説のあった暗殺事件には全て共通する特徴がある事、そして、それら一連の事件が起きている時期と場所に見過ごせない点があります。それは…」

祟から受け取った資料に目を通しながら、御大がその先を続けた。

「二年前の九月に南方砂漠地帯で陸軍少佐暗殺、一年半前、砂漠地帯北部で外遊中の革命党議員を暗殺、更に一年前には遂にこの月影街で移民系マフィアの首領と幹部を消してるな。…つまり、黒影は南の方から徐々にこの月影街へやって来ているという事か。」

「そうです。明らかに黒影はこの月影街を目指して来ています。そして昨夜はパン…御大、貴方の傘下の者がその手に掛かりました。仮に黒影の目的が御大を手に掛ける事ではないにしろ、我々の組織に矢を向けた事に変わりはありません。」

さっきまで祟の話を笑いながら聴いていた御大もこの時には表情は険しく、事態が何か不気味な暗雲の向こうへとゆっくり向かいだしているような、そんな気になり出していた。

「…悪い芽は早めに潰すべき、古の権力者が繰り返し言ってきた事だな。今のわしにとってその悪い芽とは、件の黒影かも知れないということか。」

「まだ、どうなるかは分かりません。その資料にある暗殺者が黒影なのか、昨日パンを殺したのが黒影なのかも。しかし、可能性は限りなくあると思われます。調べてみる必要があるかと…。」

「なにか手がかりはあるのか?」

「ええ、パンの子飼いだった者から聞いたのですが、パンは最近あるカフェバーにショバ代を要求していたようです。確か、カフェ・ド・ノアールとかいう店でした。」

「カフェバー?昼は喫茶店で夜は飲み屋のか?そんな所から黒影にたどり着くのか?」

「分かりません。しかし、今はそれしか取り掛かる術はありませんので。」

御大は暫く考えた後。

「…いいだろう。その件はお前に任そう。幽霊の正体見たりて…なら良いがな。」

「分かりました、それでは失礼します。」

そう言って祟は部屋を後にした。

廊下まで出るとおもむろに誰もいないはずの後ろ側へ声をかけた。

「イタチ、ヒガリ、そこに居るな?」

すると誰も居ないはずの広い廊下の隅でそれに答える若い男の声がした。

「…いるさ。」

それに続いて今度は廊下の反対側窓の近くで女の声がした。

「…“狩り”を始めるの?」

「まだ分からん、しかし…。」

その先を言いよどむ祟に先程の男の声が聞く。

「しかし?」

祟はニヤつくように笑って答えた。

「始めるとすれば、獲物は“黒影”だ。」

廊下の壁側にいくつかの調度品がありその中の銅像の影に隠れていたイタチはそれを聞いて答えた。

「居るのかよ?本当に黒影なんて…」

窓際付近に並べられた観葉植物の植木の陰に居たヒガリはそれに答える。

「どちらでもいいわ、狩りが出来るなら。最近、暇だしね。」

「姉貴はサドだからな!」

銅像の影でイタチが笑い、それを余計な事を言うなとばかりにヒガリが睨む。

「…いずれにしろ今はまだ調べの段階だ。俺が目を付けた者が黒影と分かったならその時はお前たちに動いてもらう。それまではゆっくりと調子を整えておけ。狩るとなったら相手はチンピラや兵隊の類ではないからな。」

祟は後ろを振り向きもせず言った。

「分かった、楽しみにしてるよ。」

「退屈な結果にならないことを祈るわ。」

イタチとヒガリはそれぞれ答え、何処ともなく姿を消した。

「黒影…因果か…。」

祟は一人言のように呟きやがて屋敷を後にした。

 -3・カフェ・ド・ノワール-

 月影街の南部側に一軒のカフェバーがあった、店の名前は「カフェ・ド・ノワール」。

昼は喫茶店、夜はジャズバーとなるこの店をホワン・レイファンが買取ったのは一年ほど前だった。

元々はこの街でジャズを歌っていた彼女は一年ほど前から人前で歌う事を止め、この店のオーナーに収まっていた。

二十代を中程も行かない若い彼女にしては不思議といえるこの転進をこの当たりのジャズ愛好家たちは残念に思っていた。

気は強く、誰にも媚びない、いやむしろ少しの事でたとえ相手が誰だろうと食って掛かる彼女はその美貌もあいまって「サタンとミューズの落とし子」と呼ばれて愛されていた。

この店に住み着くのはオーナーのレイファンと厨房係りのロン、そして周りからは用心棒兼雑用と思われている黒影だった。

三人はそれぞれ店の二階の部屋に住処を持ち、食事は店に降りて済ませ(ロンが賄い係りだった。)後は各自かって気ままに生きていた。

その二階の奥の部屋に黒影は住処を構えていた。時刻は夕方六時、下の階では開店準備のためロンが忙しく動き回り、それをレイファンがどやしつけているのが聞こえてきた。

「今は下に行かない方がいいな、コキ使われる。」

呟きながら机の上に広げた古めかしい地図を見ていた。

それはかなり昔(といっても四、五十年ほど前)に書かれた月影街の地図だった。

大通りや古くからある建物などはそのままだが、多くの細道や地名は今のものとはだいぶ異なる。

「どこだろうな?探し物は…。」

そう言いながら胸元にしまってある三日月型のペンダントを取り出す、銀色の所処に腐食のある古めかしいもので、中央に紺碧の石が埋め込まれている。

それを地図の上にかざすと窓から入り込む夕焼けの光を中央の石が反射し、地図の上に青く淡い模様を浮かび上がらせる。

それはまるでその地図の上に何かを示すような幾何学的な模様だった。

「…まるで、これだけでは手がかりになりそうもないな…本当に親父はたったこれだけの手がかりで“ラチカ”を探し当てようとしたのだろうか?」

そう言って黒影は椅子に背を深くもたれかかり、目を閉じて遙か昔の事を思い返していた。

-4・黒影の回想-

 夜の十一時。いつもならとっくに帰ってきている親父が帰って来ない…。

どんなに遅くなっても九時には帰ってくるはずなのに…。

俺の傍らで妹のシャオメイが泣いていた。

「ねぇ、なんでパパ帰って来ないの?」

俺は返答に困った。

「仕事が続いてるんだろ?心配しないでいいから早く寝ろよ!起きてると親父が帰ってきた時に怒られるぞ!」

自分自身も感じている不安をかき消そうとするように乱暴にあたってしまう。そうするとシャオメイは尚一層悲しそうに俺に尋ねてくる。

「だって、おかしいよ?パパいつもなら帰って来てるじゃない?…なのに何で?」

七歳の妹にもこれが決して楽観できる事じゃないのは分かっているようだ。

親父が普段ガラの良くない連中と付き合いがあるのを俺は知っている。いや、俺だけじゃない、シャオメイだって気づいてるんだ。

親父が例の宝探しに夢中で、その資金を得るためにとうとうマフィアなんかと手を組み出したのを…。

母さんが生きてれば…三年前に母さんが死んでから、親父は何か心の隙間を埋めるようにアノ宝探しに夢中になった。

「ラチカの詩」…そんな、あるかないかも分かんない様な物を探しに俺とシャオメイを連れてこの月影街にやって来た。

親父と母さんが出会った街、結婚して俺が生まれる少し前まで過ごした街。

親父が「ラチカの詩」の話を聞いたのはこの街の大学で考古学を研究していた頃らしい。

この月影街のどこかに「ラチカの詩」という宝物が眠っているらしい、そんな昔の大航海時代みたいな話に親父は心をときめかせた。

元々、大昔の遺跡やそれに纏わる財宝の話なんかを好きで考古学を学んでいた親父にとって、現代に残る財宝伝説の「ラチカの詩」はそれはもう魅力的だったんだろう。

でもその頃に出会った女の人がいた。親父の大学へ陸軍から研修で派遣されてきた女性仕官、それが俺の母親だった。

夢見がちな文系青年と男勝りな女性軍人は不釣合いが故に逆に惹かれあい、そして二人は結婚した。

妻と家庭という「宝物」を手にした考古学青年はいつしか「ラチカの詩」の事も忘れ、自分の故郷の田舎町へ妻とお腹の中の子と共に引っ越した。

地元の小さな町の大学で教鞭をとり、妻とやがて生まれた二人の子供と共に幸せに暮らしていた。

だけど、神様なんて呼ばれている奴はいつだって陰険で、そんな家族の幸せさえ壊そうとした。

…三年前、不治の病に倒れた母はやがて帰らぬ人となった。

元軍人で、しかも特殊部隊にいたことさえある母さんが死ぬなんて…それは俺や幼い妹は勿論のこと、親父の心にも深い喪失感を与えた。

「宝物」を失った考古学青年はやがて、決して埋めることの出来ない心の闇を埋めるようにあるものを探し始めた。

「ラチカの詩」…それは彼が母に出会うまで、彼自身の心を支配して止まないものだった。

最愛の妻を失った今、彼はそれが決して代償にはならない事を分かっていながら、若かりし頃に心を躍らせた宝探しを再開させてしまった。

二人の幼子を抱えながら、元々大人になりきれない性格だった父はそれでも母という自分を律してくれる人がいたからこそ今日までやってこれた、けれど母を失った今、父は糸の切れた凧のようになってしまった。

俺とシャオメイを連れて月影街にやって来たのは、母さんの一周忌が終わった二年前の事。

「ヘイエン、シャオメイ、ここがママとパパが出会った街だぞ!」

列車を降り、月影の巨大な駅の正面口を出た時に父が口にした言葉だった。

それまで小さな田舎町しか見たことの無い俺とシャオメイは目の前に広がる大都会の風景を只驚きの眼差しで見上げるだけだった。

…こんな凄い街があったなんて!

それまで街の小さな映画館のモノクロフィルムでしか見たことの無かった月影街を俺はその時あまりに大きな驚きで見ていた。

しかし、それからの暮らしはあまりいいものではなかった。

月影街はその中央を東西に横切る国道を境に南北で貧富の差が激しかった。北側の高台には富裕層が絢爛豪華な屋敷を携えて住み、南側にはスラム街が広がった。

 俺たちが住んでいたのは国道から僅かに南側にある古びた集合住宅で移民が多いのか近所からは常に聞き慣れない異国の言葉が耳に飛び込んできた。

 親父はかつてこの街で研究に勤しんだ大学で講師の職を得たがそれでもあまり暮らしは楽にならなかった。

食べるものは大抵近所の屋台町で買うテイクアウトの安い食事、鶏肉を使った餡かけ飯はそれでもまあ悪くない方だった。

親父も暫くはこの街での新しい生活の用意に追われ宝探しの事を忘れていたが、半年経って新しい生活にも慣れてくると例の「病気」が最熱した。

自分の勤める大学のかつて恩師だった考古学教授にも「ラチカの詩」を一緒に探さないか、などと持ちかけだしたらしいが、

「君、いい加減にしたまえ!まだ小さいお子さんが二人もいるだろう?まして奥さんを亡くされて今や親はもう君だけだ。悪い事は言わん、そんな世迷言はもう忘れてご子息令嬢の未来を考えてはどうかね?」

と諭されるのだった。

そんな日々が続き、いい加減諦めがついてきた頃の事。何処で聞きつけたのか「ラチカの詩」を探している酔狂な考古学者を訪ねて来るものがあった。家に一度だけ訪ねて来た事のあるその男を俺は覚えていた。

派手な訳ではないが、明らかに堅気の人間とは違う雰囲気を持つその男を見て俺はそれがこの街の裏社会の人間である事を感じ取っていた。

生まれた田舎町にもゴロツキみたいな連中はいたが、その多くは酒と女に目が無い、喧嘩っ早くその日暮らしの所謂チンピラみたいな連中だった。

しかし、その日俺が家の戸口で見た男はどこか冷たい雰囲気の、計算高く冷徹で恐らくは人を殺す事さえ厭わない、そんな雰囲気を持つ男だった。

「い、家に来られちゃ困る!中には子供たちもいるんだ!…そ、外で、話なら外で聞こう!」

そう言って慌てて男の背を押すように家の外に出てゆく親父の姿に一抹の不安を覚えたのは一年ほど前の事だろう。

初めの頃は、親父もいきいきとしていた。今まで散々夢に見た宝探しをこれでやっと始められる。そんな親父の表情を見ていると、もしかしたらこれでいいのかも知れないと思ったりもした。

だけど、そんな日々は長く続かなかった。半年ほど前から、親父の帰りが徐々に遅くなっていた。

始めは例の宝探しがいよいよ佳境でも迎えているのかと思ったりもしたが、その頃からなんとなく親父の表情が暗くなりだしたのを俺は見ていた。

きっと宝探しはうまくいってないのだろう、それは別に構わなかった。初めからありもしないだろうと思っていたものだから、無いと分かればそれで親父も晴れて気が済むのではないかと思っていた。

ただ一つの不安を除いて。

それは、親父の事業に恐らく資金を提供しているのだろうあの連中、あの日俺が家の戸口で見た、背筋が寒くなるほど恐ろしい雰囲気を持った人間、世にマフィアなんて呼ばれる連中がいてそれがどんな奴らなのかは子供でも知っている、親父の事業に資金を出し、しかしそれが失敗に終わればそれがどんな結末を迎えるかは考えるまでもない事だった。

「失敗すれば親父は殺される…。」

そんなあまりに大きい不安を抱えていた矢先に親父の帰りが遅い…。

シャオメイが言うように親父は例えどんなに仕事が立て込んでいても九時までには帰ってくる、それが今日は夜の十一時を過ぎたというのにまだ帰って来ない…。

「なぁ、シャオメイ…父さんを迎えに行こうか?」

このまま待っていても不安は消えない…いやむしろ増すばかりだ、それならいっそ自ら迎えに行ってその不安を消し去ってしまおうじゃないか!

決して合理的じゃないが、その時の俺は居ても経っても居られずそう妹に提案した。

「ほんと!?うん、行こう!」

妹もこの不安に立ち向かう事に希望を見出しているようだ。

 それから俺たち兄妹は夜の街へ未だ帰らぬ父を探して歩き出した。不安の中、親父の普段の帰り道に沿いながら。

どれくらい歩いただろう?しばらく行くと街の中央の大通り付近の狭い裏路地近くに人だかりが出来ていた。

「お兄ちゃん、あの人達…」

近くには警察や救急車の赤色灯も見えた。

「…まさか…」

そんな筈はない、そんな筈はない!と心に言い聞かせながら俺達はその人だかりに近づいて行った。

その時にふと、人だかりから声が聞こえた。

「…ありゃあ駄目だね…頭を撃たれてるよ、気の毒に…。」

その先にあるものを見て俺は体中の血が凍りつく思いがした。

「…違う、違う、絶対違う!!」

俺はもう自分の心の声が口から出ている事にも気づかずに叫んでいた。

担架に乗せられて運ばれる遺体、顔は毛布で覆われていたが、だらんと垂れた手に握り締められていたのは、親父がいつも大事そうに胸元にしまっていた三日月形のペンダントだった…。

「いや、いや!なんで!!ねぇ、なんで!!パパァッ!!」

呆然となった俺の耳に響いていたのは妹のシャオメイの泣き叫ぶ声だけだった。

俺はただ、シャオメイを抱きしめてやる事しかできなかった…。

 

-5・レイファン-

「クロ?クロ!…おい!起きろよ!」

はっと、目を覚ました黒影の前に呆れた様なロンの顔があった。

「寝てたのかよ!いい気なもんだねぇ!俺なんかさっきから下でレイファンにどんだけコキ使われてたと思うよ?」

「…夢か…」

「はいっ?おまけに夢まで見てたんですかい?黒影のダンナはお偉いですねぇ!」

憎まれ口を叩くロンを横目に黒影は顔をこすり上げた。

(久振りに見たな…子供の頃の夢は…)

「いい女でも現れたか?」

「んあ?」

「お前が今見てた夢の中だよ!」

「…いや、いい夢じゃない…強いて言えば、哀れな夢だよ…。」

「哀れなのは俺だよ!昨日ボコボコにされて帰ってきたのにあの鬼女なんて言ったと思う?二日間居なかったんだからその分働けってよ!まったく、レイファンには血も涙もありゃしねぇ!」

ブツブツと愚痴をこぼすロンの言葉を聞きながら黒影はさっきの夢を思い起こしていた。

幼い頃の悲しい記憶、父を亡くした日の事を。

「ん?なんだまたこの地図を見てたのか、お前も好きだねぇ、ラチカの詩なんかありゃしねぇよ!」

机の上に出しっぱなしになっている古めかしい地図を見つけロンが小ばかにするように言った。

「…俺はあると思う。」

黒影は静かに、しかし力強く続けた。

「でなきゃ、何のために死んでいった人間がいると思う?そんな“宝物”の為に。」

黒影があまりに真剣に返してくるのでロンは先程の自分の言動を悔いた。

「…悪かったよ、別に悪気はないんだ!…それより、そうだ晩飯ができてるぞ!昨日は助けてもらったからな、特別に上物の肉を奮発しといたぞ!」

そう言っていそいそと部屋を後にするロンの背に黒影は声をかけた。

「そうか、そいつは楽しみだな!すぐ行くよ!」

 カフェ・ド・ノアールの1階店舗ではレイファンが店に出演させるジャズバンドを前に激を飛ばしていた。

「あんた達ねぇ、私はジャズをやれって言ってるのよ、分かる?後1時間で開店だってのにあんた達がやってることは楽器に手を触れて引っかいてるだけ!話になんないわ!」

激しい口調で毒ずくレイファンの勢いに、バンドの連中も只々閉口するのみであった。

「なんだオーディションか?」

食事に降りてきた黒影がカウンターに座りながらロンに尋ねた。

「ああ、今日で合計二十九組クビになったな。多分あいつらもクビだろう?まったくお嬢さんは恐ろしいねぇ…太古の皇帝でもあんなに首を切りゃしなかったろうよ!」

夕食を口にしながら黒影も答える。

「まったくだ、だから俺はいつも言ってんだ、どうせ生のバンドも気にいらねえんなら蓄音機を一つ置いときゃそれでいいだろうってな!レコードならその日の気分で演奏を間違えたりしないし、いいだろうってな。」

そんな二人の会話を聞きつけレイファンがカウンターに近づいてきた。

「あんた達、ほんとに分かってないわねぇ…、蓄音機でレコードかけてそれがなんの売りになるって言うのよ?…いい?この店はね、酒と料理と生バンドでお客をもてなすのを売りにしていくの!そうでなきゃこの店を買い取った意味が無いじゃない!」

これだから無粋な男共は困ると言わんばかりにレイファンは呆れ顔でそう言った。

「それならこの店の大切な売りであるバンドの連中をもうちょっと大事にしてやったらどうだ?」

黒影も呆れ顔で答えた。

「…あんな演奏じゃ“売り”になんて出来ないわよ!」

レイファンは不貞腐れたようにそう言い放つと踵を返して店の奥のステージの方へ向かった。

「いい?後、四十分で開店。白けた演奏したら腕へし折るから覚悟しなさい!」

ステージ上のバンドマン達は全員虎を目の前にした仔鹿の様に震え上がり頷いた。

「…おい、あいつの前世分かったぜ!」

ロンがカウンター越しに黒影の耳元に囁いた。

「何、前世?」

「ああ、ローゼン・メアリーだ!間違いねぇ!」

ローゼン・メアリーとはこの辺りの国々に残る歴史上の人物で、美しい容姿からはとても想像できないほどのあまりに狡猾な独裁政治と人民の大量虐殺で有名な女王である。

「ローゼン・メアリー!“猛毒の薔薇”か!そいつはいい!傑作だ!中々上出来な毒舌じゃないか!」

黒影はこらえきれず膝を叩きながら大笑いをした。

「ハハハ!俺は生まれ変わりなんてあまり信じるほうじゃないけどその話だけは信憑性があるな!」

「…あ、ク、クロ…。」

ロンの話があまりにも可笑しかったのか黒影はロンの表情が凍りつくのも気付かなかった。

「…う、後ろ…」

「え?後ろ?」

ようやくロンの様子に気付いた黒影が後ろを向くと、手にバンドのドラマーから取り上げてきたスティックを振り上げた件の“ローゼン・メアリー”が立っていた。

「あッ!ちょッ!待ッ…」

言い終わるが早いかスティックは振り下ろされ黒影も“ローゼン・メアリー”の狡猾の餌食となっていた。

-6・メイと九鬼-

 月影街の中央通りより南東側にある五階建ての安ホテルの一室で若い男が電話の受話器を片手になにやら話し込んでいた。

「…ああ、それで?そのパンとかいう三流マフィアが死んだのが昨日の夜中だってのか?…うん、なるほど…刺客は一人だったと…そうか、分かった!ありがとうよ、じいさん!また何かあったら教えてくれ!」

受話器を戻すと男は腕を組み何やら考え込んでいる様子だった。

ふと部屋の隅のドアが空いて手に買い物袋を提げた若い女が入ってきた。

「お帰りメイ!」

「…ただいま、ごめんね?遅くなって。お腹空いたでしょう?」

メイは済まなそうにそういうと手に持った買い物袋をテーブルの上に置き中から買ってきた食事を取り出して並べた。

「本当は何か作ってあげれたらいいんだけど、ここはキッチンが無いから…」

「気にしなくていいさ、仕方ないよ慌しく移動してるんだからな。」

「そうだけど…ずっと外食ばかりだし、砂漠の町に居たころはキャラバンで自由に出来たのにね、やっぱりこんな都会だと色々と制約があるのかな…?」

「ハハハ、砂漠の町のようには行かないさ、ここは月影街だしな。」

「…そうね、用意できたわ食べよ?」

二人はテーブルに着きメイが買ってきたテイクアウトの食事を食べ始めた。

「メイは好きだな、その鶏肉の餡かけ飯、今日で三回目だろ?」

「えっ、…うん、子供の頃に良く食べていたの。その時はこの街で一番のご馳走だって教えられたわ。」

そう言うとメイは可笑しそうに続けた。

「変よね!屋台で買える食事がご馳走な訳ないのに子供の頃は信じてた!」

「ハハハ、無邪気だったんだな!」

ふとメイは思い出したように左目に着けている眼帯を外した。

「それ、この街に来てから外を歩くときずっと着けてるな。」

男は気付いたようにそう言った。

「…だって、見られたくないもの。」

「でも、普段は“あれ”出ないだろう?」

「…だってこの街は悲しい思い出があるから…。」

そう言って俯くメイを見て男は慌てて言った。

「悪い!そうだったな…!」

そのまま無言のまま食事を続け、食べ終わるとメイが食器の後片付けを始めた。男は懐から煙草を一本取り出すとそれに火をつけ煙を吐き出しながら後片付けをするメイの背中に向かって話しかけた。

「メイ、レイファンを覚えているかい?」

ふと、後片付けをするメイの手が止まった。そのまま無言のまま頷くと囁くように続けた。

「…忘れる訳ないでしょ…。」

男は煙草の煙を深く吸い込みそれを吐き出すとこう続けた。

「居場所が分かったよ。」

メイは手に持った皿を落とし、驚いた表情で男の方を振り向いた。

「…!」

「この月影街にいる。それも街の中央南部…ここから五キロと離れていない場所にね。」

「…!え、…この街に…?」

男は更に煙を深く吸い込むとそれをゆっくり吐き出し続けた。

「なぁ、メイ。レイファンに会いに行こうか?」

男の突然の提案にメイは悲しそうな顔で俯き、消え入りそうな声でこう言った。

「…ダメだよ…レイファンに会わせる顔なんてないもの…それに、きっとレイファンだって私達に会ったら嫌な気持ちになると思う…。」

「そんな事はないと思うがな。あれから一年以上経ってる、レイファンだってきっと今なら俺達を笑って迎えてくれると思うがな。」

楽観的にそう言う男をメイは悲しそうに睨みながら強い口調で言った。

「そんな事ある訳ないじゃない!あんな事があったんだよ?レイファンの別れ際の表情見たでしょ!…とても悲しそうだった!…誰のせい?私!…私のせいであの娘を傷つけたんだよ!」

そう言うとメイはまた俯くと今度は無言のまま涙を流し始めた。男は残り少なくなった煙草をテーブルの上の灰皿に押し付けるとメイの元へ歩み寄りそっと肩を抱きしめ声をかけた。

「…済まなかった…。そういうつもりじゃ無かったんだ。ただ、メイがレイファンの事をずっと気にしているのを知っていたから、レイファンの居場所が分った時、真っ先にこれでメイの後悔を終わらせられるんじゃないかと思ったんだ…。無神経な事を言ってごめん…。」

男の肩に顔を埋めすすり泣きながらメイは答えた。

「…私の方こそごめんなさい…。九鬼がそんな風に気遣ってくれていたのに…。」

メイは更に顔を埋め泣き続けた。九鬼はメイの髪をそっと撫でてやりながら慰めるように続けた。

「悪かったね、変な提案をして…さっきの話は忘れてくれ。」

メイは暫くの間何も言わず顔を埋めていたが、ふいに顔を上げ言った。

「…会いに行こう?」

「え、いいのかい?さっきはあれほど…。」

「…このまま悔やんで悩み続けていてもしょうがないもの、一度…向き合わないといけないかも知れない、レイファンと…。」

九鬼は暫く考え込んでいたが、やがて答えた。

「そうだな、行くとしよう。良かった!メイがそう思ってくれて!…じゃあ、支度してくれ、一時間後に出よう。」

「え、もう八時半過ぎだよ?遅すぎない?」

「それが、大丈夫なんだ。なんでもレイファンは今、カフェバーを経営しているらしい。…気丈なあの娘らしいよね、店の女主人なんてさ!」

「そうなの?…カフェバー…そう言えばレイファンがいつも、歌えなくなったら店でもやろうかなんて言っていた!」

「ハハハ、そういえばそんな話もあったね。」

「…歌、もう唄ってないのかな…。」

メイは心配そうに俯いた。

「…どうだろうな、いずれにしろ行ってみれば分るだろう?」

九鬼はそう言うとメイの目元をそっと覗き込んだ。

「…やっぱり、泣いたから出ちゃったな…。」

「…染まってる?」

「ああ…。」

「…いいの、気にしないで…お母さんもそうだったし…兄は怒るとそうなった。」

「遺伝なんだね。」

「…うん、母方からのね、でも叔母さんはそうじゃなかったけどね。」

「…眼帯着けてくか?」

「うん、気にはしてないけど人に見られるのは嫌…もの珍しそうにされる…故郷の村ではそんな事なかったのに…。」

「…都会は生きにくいね。…じゃあ、ゆっくり準備が済んだら呼んでくれ、俺は寝室に居る。」

「分った!」

メイが答えると九鬼は隣の寝室へ向かって行った。メイは夕食の後片付けの続きを済ませ、涙で崩れた化粧を直すため洗面所の鏡台の前に立った。

「…いつまで旅は続くのかな…。」

ふと、自分の旅の目的を思い出していた。

「…どこに、いるの?…兄さん…。」

つぶやきながら鏡に映る自分の左目を見ていた

そこには涙で濡れた顔、そしてほんのりと赤く染まる左目の瞳孔があった。

-7・汚職警官-

 月影街の東の果てにある巨大な港のこの時間では人が寄り付かない十三番地区倉庫街の隅に一台の高級車が停まっていた。

そこへ更にもう一台の車がやって来て数メートル後ろに停まると運転席にいた男が降りて高級車に駆け寄った。

「祟さん、来ました。」

高級車の運転席に座る若い男がバックミラーでそれを確認すると、後部座席に座る祟に伝えた。

「開けてやれ。」

祟りがそう促すと運転席の男は運転席から降り後部座席側のドア前まで回りこむとそれを開け、もう一台の車から来た男を迎え入れた。

「いやあ、これはこれは!丁寧な出迎え恐縮するね!」

年齢四十過ぎ過ぎくらいのその男は後部座席に座り込むとおどけた口調で続けた。

「しかし、いつみても結構な車だね!エル・マル・デ・ルーナとはルーナ社の最高級モデルじゃないか!流石は祟の旦那!お目が高いねぇ!」

なおも続ける四十男に祟は冷たく一言言い放った。

「俺はお前と車談義をしに来たつもりはないが?」

「おおと!これは済まない!…これを見てくれ、電話で話した書類だ。」

ようやく話の本題に入った四十男は懐から茶色の封筒を取り出すと中から折りたたんだ書類を出し祟に渡した。

「今朝あんたにも言ったとおりパンは“カフェ・ド・ノワール”という店からショバ代を請求していたらしいんだが、少し変だと思わないか?」

祟は受け取った書類に目を通しながら答えた。

「何がだ?」

「カフェ・ド・ノワールって店は聞いたところ昼は喫茶店、夜は生のジャズバンドが見れるライブバーになるらしいが、パンは一体なんだってそんな所からショバ代を取ろうとしたんだ?大体いくら飲み屋とはいえ今時そんな堅気の店からショバ代なんて取ろうとするか?」

「確かに、酷く時代錯誤なシノギだな。」

「だろう?第一、そんな所からショバ代なんか請求したらすぐさま警察に通報されて、俺達の仕事が余計に増えるってもんだ!」

四十男の話をそこまで聞いて運転席に居た若い男が笑いながら横槍をはさんだ。

「汚職警官が言うと滑稽だな!」

「レッジョ、お前は黙っていろ。」

祟が運転席の方へ鋭い視線を投げかけるとレッジョは首をすくめ頭を下げた。祟は汚職警官の方へ向き直ると非礼を詫びた。

「済まない、続けてくれ。」

「…お、おお…、とにかくだ!パンがショバ代を請求するのにあの店はあまりに似つかわしくない!…と、そこで俺は考えた!」

勿体をつけて持論を展開しようとする四十男の言葉を遮るように祟はその先を続けた。

「つまり、その店には何かパンに脅される秘密があったという事か。」

「そ、そう!そして恐らくは…」

「それが、あの店が黒影と関わっているという訳か?」

「…う、うん!それしか考えられないだろう?」

「月影街南部、スラムよりそう遠く離れてはいない場所にある二十坪ほどの店だぞ?そんな所が月影街及びその周辺の町と集落の裏社会で名前の通っているあの殺し屋“黒影”と関わりがあると?」

「…確かに、ちっぽけな飲み屋と稀代の殺し屋では不釣り合いではあるさ!でもな、黒影は今まで誰にもその正体を見つけられていない、それは何故か?常に隠れ家を持っていた。誰も予想し得ないような場所にね!」

誇らしげに推理を展開する中年刑事に祟は問いかけた。

「警察ではどんな見解を持っている?」

「いやぁ、駄目だ!誰も黒影なんて思っちゃいないよ!そればかりか仲間割れって線で捜査は進んでる。」

「なら何故今回の犯人に黒影の名前が浮かんだ?」

「一人だけ黒影説を言い張ってきかない人がいてね。」

「誰だ?」

「…チャン警部だよ。」

「…チャン、前に組織課にいた刑事か?」

「そう、よく覚えているね。」

「そのチャン警部が今回のパン殺しを黒影の仕業と見ているのか、お前がさっき披露した推理も大方そいつの受け売りだろう?」

「えっ!」

痛いことを言い当てられ中年刑事はうろたえた。運転席のレッジョも笑いを堪えているのか肩が小刻みに震えていた。

「お前の出世の遅さが納得できるな。…それで、チャン警部以外は黒影の線では捜査していないんだな?」

「あ、ああ!さっきも言ったとおりパン一味の仲間割れって事で捜査は進んでる。構成員がほんの数名の一味だからな、組織課も相手せず捜査本部は我々刑事課に置かれた。」

「パン一味の生き残りは何人いる?」

「一応、こっちで確認できた限りだと三人。そのうち顔と名前が分かっているのはリブって名のパンの側近だった男だ。」

男は茶色の封筒の中を探ると一枚の写真を取り出し祟へ差し出した。

「あった、この男だよ。現場に残った死体の中にはいなかったからな、警察でもこの男が殺し屋でも雇ってパン達を始末させたんじゃないかと睨んでる。…聞くところによると奴さん黒い噂があってねぇ。」

「黒い噂?」

「あぁ、なんでもパンの女に手を出していたらしい。」

「そいつは今どこにいる?」

「それが分かれば警察も苦労はないさ!野郎の家も立ち寄りそうな所にも捜査官が出向いて見つけ次第任意で引っ張ろうと躍起になってるがどこにもいやしねぇ!」

祟は男の話を聞きながら暫くの間何か考え込んでる様子だった。

「…分かった、御苦労。約束の金だ。」

そう言うと上着の内ポケットから封筒を取り出し中年刑事に渡した。男は受け取った封筒の中身を確認し満足そうな顔を浮かべた。

「こんなに?ありがたい!いつも助かるよ!…いやあ、嫁が息子を私学に入れるってきかなくてねぇ!刑事の安月給じゃ無理だってのに!でもお蔭さんで助かるよ!」

貰う物を受け取って上機嫌で車を降りようとする汚職警官に祟は話しかけた。

「ひとつだけ注意がある。」

「えっ!なんだい?」

「あのチャンという警部、奴にだけは気をつけろ。」

中年男はきょとんとした表情で聞き返した。

「え、どうしたい?」

「とにかくあの男にだけは気をつけろ、倅を私学にやらねばならんのだろう?」

静かな口調だが鋭い視線を投げかける祟に男は内心ひやっとしたものを感じながら返事をした。

「あ、あぁ!気をつけるよ!…そ、それじゃあ!」

そう言うと逃げるようにして外へ出ると自分の車へ乗り込んで立ち去った。

男が立ち去ったのをルームミラー越しに確認したレッジョは祟に訪ねた。

「どうされます?」

「さっき話に出たリブという男、下の者に連れて来るように命じろ。」

「しかし、さっきの話だと居場所は分からないと…。」

「警察の情報網などあてにならん、我々裏の者の方が奴の居所を掴めるというものだ。」

「分かりました。それで、祟さんは?」

「俺は事務所で待つ。車を出せ。」

やがて祟達を乗せた車は港を後にした。

-8・昔の仲間-

「だからよ、いい加減で機嫌直せって!」

閉店間近で客も少なくなったカフェ・ド・ノワールの店内ではロンがカウンター越しに黒影をなだめていた。

「…あのなぁ、余計な事を言ったのはお前だぞ?それをなんだい!レイファンのやつ俺を殴りやがった!」

開店前の“ローゼン・メアリー”の話でレイファンの怒りを買った黒影は元々の原因を作った張本人であるロンに愚痴をこぼしていた。

ステージ脇では今日最後の演奏を間近に控えたバンドにレイファンが話しかけていた。

「うん、うん!上出来!あんた達やれば出来るじゃない!ここまでは中々にいい演奏だったわよ!その調子で今日のラストナンバーも頼むわね!」

さすがにあれほど脅しを入れられて気が引き締まったのか今日の演奏はレイファンのお気に召した様だった。メンバーの一人が言う。

「あ、ありがとうございます!レイファンさん!頑張るんで明日も出演させてくださいよ!」

「そうね、締めの出来次第かな?…まぁ、とにかく頑張ってよ!」

そういうとレイファンは上機嫌な様子でステージ脇を後にし、黒影とロンのいるカウンターへやって来た。

「ロン!なにか飲むものちょうだい?…あっ、クロ!さっきはごめんね?」

開店前とは別人のように機嫌の良くなったレイファンを見て黒影は呆れたように言った。

「…まったく!お前は気分屋過ぎるんだよ!機嫌の好い時はいいけど、一旦機嫌が悪くなるとめんどくせぇ事この上ない!」

「ハハハ!女の機嫌と天気はどうにもならないのよ?」

はしゃぐ様に笑いながらもレイファンは自分でも開店前の事を気まずく思っているのだろう、ロンにビールを一杯注文するとそれを黒影の前に置き飲むように勧めた。

その時に店の入り口のドアが開いて二人連れの客が入ってきた。

「あれ?今しがたお客?…もうすぐ終わっちゃうのに…まぁ、いいわ!迎えてあげましょ。」

レイファンはそう言って席を立ち入り口へ向かった。

「いらっしゃ…!」

いらっしゃい、と言いかけてレイファンは言葉を失った。

そこに立っているのが九鬼とメイだったからだ。

「やぁ、レイファン。久しぶりだね!」

九鬼は平然を装って話しかけたが、メイは九鬼の後ろに隠れるようにしてレイファンと目を合わさなかった。

「…何しに来たの?」

さっきまでの上機嫌はどこへやら、レイファンは二人を睨むと冷たい口調でそう言い放った。

「い、いやあ!この近くでレイファンが店を開いてると耳にしてね!メイと久しぶりに会いに来てみたんだ!」

九鬼は必死に取り繕おうとしていたが、それがレイファンを逆に苛付かせるようだった。

「あらそう!それはご足労様ね!…それで!あんた達二人に会って私が泣いて喜ぶとでも?」

「い、いやぁ、そういうつもりじゃないんだが…ほら!結構気まずいまま分かれたろ?だから…。」

「だから何?つまりこういう事?あんた達二人の事で私が怒ってるんじゃないかと!それでのこのこ会いに来て私にこう言って欲しいわけ?“九鬼、メイ、私は怒ってなんかないわよ!久しぶりに会えて嬉しいわ!”とでも?」

二人を睨む視線を更に鋭くしながらレイファンは声を荒げた。

店中に響き渡る怒号を聞いて店の常連客たちも久しぶりに見る“サタンとミューズの落とし仔”の怒りに身を震え上がらせた。

カウンター越しにロンが黒影に話しかける。

「おい、レイファンの奴なにキレてんだ?」

「今入ってきた二人連れの客だろう?なんだ、トラブルか?…まったく!さっきまで上機嫌だったくせに、もう怒ってんのかよ!」

黒影は様子を見るために渋々席を立った。

レイファンが客ともめるのは珍しい事ではない、パンの手下がショバ代を請求しにこの店にやって来た時もこんな調子だった。

只、相手がそれに逆上し暴力に訴えてきたり、銃や刃物などの凶器を出してくると危険だ。

黒影は元々そういう時のためにこの店に居る。

「おい、レイファン一体どうしたよ?…客に聞こえてるぞ?」

入り口までやってきた黒影はレイファンをなだめる様にそう言って入って来た客二人を見た。

「!!」

黒影は思わず息を飲んだ。

九鬼の後ろに隠れたメイも黒影を見て一瞬息を飲んだ。

「クロ!あんたは黙ってて!この二人は私があんたと知り合う前に一緒に旅をしてた仲間なの…もっとも!今は仲間じゃないけどね!」

黒影は後ろを向くとそっとレイファンに声をかけた。

「分った!なら早めに処理してくれ!他の客に迷惑だからな!」

そう言って入り口を後にしカウンターの方へ戻って行った。

「なぁ、どうだった?」

カウンターの向こうでロンが心配そうに黒影に聞いた。

「あっ?…あ、あぁ!大丈夫だ!レイファンの昔の知り合いらしい、もうすぐ帰るだろう。」

「知り合い?なのに何であいつ怒ってるんだよ。…あ、さては!」

「なっ!なんだ?」

「あそこの男、あれレイファンの昔の男じゃないか?…そんで、その向こうの可愛い娘あれがその男の今の彼女だ!」

そこまで聞いた瞬間、黒影の右手がロンの胸倉を掴んだ。

「なんだと!」

ロンは黒影の突然の行動に驚きながら答えた。

「なっ、なにしてんだよ!俺はただ予想したまでだろ?…で、しかも何でお前がキレてんだよ!」

黒影は思わず掴んだロンの胸倉をゆっくり放すと蛮行を詫びた。

「済まない…いや、そういう話はあまり面白可笑しく語るもんじゃないだろう?」

「お、おお…いやしかし、意外だね!お前がこういう話苦手とは…。」

ロンはこの上なく怪訝な顔で黒影を見た。

いつもなら大概何があってもうろたえない筈の黒影が異常なほど動揺している。

昨日の晩、マフィア相手に銃撃戦を繰り広げた殺し屋とは思えないほどだった。

「しかし、可愛い娘だなぁ!」

ロンは入り口に居るメイを見て嬉しそうにそう言った。

しかし、同意を求めようと黒影の方を見た時あまりにも鋭い目で睨まれたので続きをやめた。

入り口の方ではレイファンが相変わらず二人に対し冷たい態度だった。

「とにかく、帰って!あんた達と話す事なんて何もないわ!」

「い、いやしかし…」

言いかける九鬼を背中で隠れるようにしていたメイが制した。

「…もう、いいよ、九鬼…今日はもう帰ろう?」

九鬼は何も言わずに残念そうに頷いた。

「…突然来て済まなかったな…。」

そう言って踵を返すとドアの方へ向かった。

メイはようやくレイファンの顔を見上げた。

「…ごめんね、レイファン…。」

一言だけ言葉を口にすると後ろを向いてドアの方へ向かった。

「メイ!」

レイファンがメイの背中に呼びかけた。

「えっ…。」

驚いて振り返ったメイにこう続けた。

「“探し物”…見つかった?」

そう尋ねられたメイは暫く俯いていたがやがて顔を上げると、

「うん、多分…!」

と言ってほんの少し口元に微笑を浮かべた。

「…そう…。」

レイファンはそう答えると店内側を振り返って歩き出した。

メイはその背中を見ながらほんの少しの嬉しさと悲しさを含んだ表情で後ろを向くとドアを開けて店を後にした。

店の中央まで戻ってきたレイファンに常連客の一人が声を掛けた。

「おう!レイファン!どうしたよ?」

しかし、レイファンはその声に答える事もなく代わり一睨みして客をうろたえさせた。

「あ、あのう…。」

今日最後の演奏を終え、バンドのメンバーがレイファンの元へ歩み寄ってきた。

「い、如何でした?今日は我々も結構いい感じで演奏で出来たんじゃないかと思ってるんですけど?」

そう話しかける男の胸倉をいきなり掴んだ。

「ご苦労様!…明日は夕方四時からリハよ!遅れて来たら首をへし折るからそのつもりでね!」

苛ついた口調でそう言うと掴んだ胸倉を投げ捨てるように放しカウンターの方へ向かった。

カウンターでは黒影とロンが冷や冷やした表情でレイファンを見ていた。

「ロン!クロ!今日はもう閉店よ!客を帰してバンドにギャラを払って後片付けをして!」

そういうとカウンター脇の関係者専用階段を上がっていった。

「お、おい!お前はどうすんだよ?」

ロンが慌てて階段下から声を掛ける。

「もう、寝るわ!」

二階からレイファンの返事があった。

「…なんだよ、一体!勝手な奴だな!」

ロンが呆れた声で文句を言った。

それから客席へ出向くと常連達に閉店を知らせ、金庫から金を出しバンドのメンバー達に一人当たり百ゼルづつ払った。

空になった店内で後片付けをしながらロンが黒影に話しかけた。

「…なぁ、おい。一体何だったと思う?」

「ん、何がだ?」

先程から何か考え事でもしてるかのように上の空になっている黒影にロンは顔をしかめた。

「お前までなんだ!…今日のレイファンの様子だよ!変だと思わないか?」

「あ、あぁ…そうだな…。」

「そうだな、じゃない!…あいつの気分屋は今に始まった事じゃないが、今日のは一体なんだ?客の前だぞ?いくらうちの常連があいつのシンガー時代からのファンだからって、あれはやりすぎだろう!」

「そうな…。」

「あいつもいつまでも人気歌手気取りでいるとそのうち客をなくすってんだ!」

「…うん…。」

「お前みたいに裏家業で腕の立つやつならともかく、堅気の商売してぇなら少しは考えろってんだ!」

「…あぁ…。」

時間が経つにつれ徐々に怒りがこみ上げてきた自分に対して先程から上の空の黒影にロンは痺れを切らした。

「お前!いい加減にしろよ!さっきからなんだ!あぁ、だの、そう、だのと生返事しやがって!」

「えっ!」

「また、とぼけやがって!…お前といい、レイファンといい、俺の事をバカにしてんのか!…そりゃ確かに俺はレイファンみたいに歌が唄える訳でもないし、お前みたいに銃が撃てる訳でもない!ここに来るまでは親父がやってた泥棒家業を継いでたケチな輩さ!…でもな!それに愛想が尽きてここで必死に堅気の道を歩もうとしてんだよ!…それなのにレイファンにはこき使われ、お前にも舐められ…なんだよ…この店を支えてんのはレイファンの人気か?違う!店の料理を作ってんのは俺だ!客が飲む酒を注ぐのも俺だ!レイファンがやってんのは自分のコネクションからジャズバンドを捕まえてきてここに出演させるのと常連の客達に愛想を振りまく位だ!」

日頃見せないロンのあまりの剣幕に黒影も言葉を失い、ただあっけにとられてロンの顔を見るだけだった。

「お前にしてもそう!この店でお前は何をやってる?…たまに性質の悪い客がいると二、三発殴って表にほっぽり出すだけ!それだけだ!それだけでお前は大活躍した事になる!」

「…。」

「俺はその間、酒と料理を用意して客に出してる!毎日、毎日だ!」

そこまで言うとロンは大きなため息をつき下に俯いた。

「…な、なぁ…。」

ようやく口を開いた黒影は恐るおそるロンに話しかけた。

「…俺は何もお前をバカになんてしてないぜ?…いやレイファンにしても同じだ。…俺達はむしろお前に感謝してる。」

さっきまで凄い剣幕で弁を振るっていたロンは下を俯いたまま何も答えなかった。

「…お前がパンにさらわれた時、レイファンはもの凄く動揺してたんだ。…もし、お前の身に何かあったらどうしようってな。俺が救出に向かうと言った時もあいつ自分も行くって言ってきかなかったんだ。…危険だから待ってろとは言ったんだが…それであいつと二人でお前を助けに行った。俺としても攻めの戦いは慣れてるが、救出作戦となると普段と勝手が違う、そこでレイファンの申し出を受けた。」

ロンは尚も俯いたまま、黒影は続けた。

「お前を救出に行くとき車の中でレイファンが言ってたよ。もしロンが居なくなって自分だけで店を開けたら三日と待たずに潰れるだろうってな。」

相変わらず俯いたままだったが、ロンは答えた。

「…三日どころか三時間と持たないだろうな…。」

「その通りだ。…お前はさっき俺が用心棒でいいとこを見せてると言ったがそれは違うぞ?俺がこの店で出来るのは用心棒くらいしかないんだ…でもお前は違う、店の自慢の料理と酒を作れる!…正直俺はお前が羨ましいときがある位だ。確かに俺には戦場で行きぬく技術がある…でもそんなもの日常ではなんの役にも立たないんだ…。」

そう言って黒影は苦笑いした。

ロンはようやく顔を上げ黒影を見た、そこには気まずい顔で苦笑いする男がいた。

「…そうか…済まないな、変な愚痴こぼしちまってよ…。」

今度はロンが罰の悪そうな顔をした。

「…すっかり遅くなっちまったな!片付けも大体済んだし、俺も上へ上がるとするよ!クロも早く休んだほうがいい!」

そう言ってロンは階段を上がって二階の自分の寝室へ向かった。

「ああ、そうするよ!また明日な!」

黒影もそれに答えた。

照明が消え誰も居なくなった店内は異様な静けさがある。ほんの一時間ほど前までジャズバンドの演奏が流れ、酒と料理に舌鼓を打ちながら楽しむ客の姿も今はない。

「…不思議なもんだ…。」

その様子を黒影は可笑しく思いながら店内を歩き回った。

ふと入り口のドアが目に入り、先刻レイファンに追い返された二人組みの男女を思い出した。

「…まさかと思うが…。」

男の背中に隠れるようにして立っていた眼帯の若い女を思い出した。

「…似ているだけか…?」

ほんの一瞬しか見ていない、けれども黒影はその女に見覚えがあった。

「…だとしたら何故、月影街などに来た…?」

その場で暫く考えていたが、程なくして黒影は二階の自分の寝室へ上がった。

二階の三室の真ん中の部屋ではレイファンがシャワーを浴びて出てきたところだった。

そのままバスローブを着てベッドに横になる。

「…なんで…?」

手を伸ばし、ベッドの脇にある引き出しを開けた。中から一枚の写真を取り出しそれを眺めた。

そこにはレイファンとメイ、そして九鬼の姿があった。

「…今頃になって…現れるの?」

二年前の事を思い出していた。

三人は南方の田舎町からこの月影街を目指して旅をしていた。年齢も近い事があって三人は仲が良かった。

レイファンにとってメイは掛け替えのない友達であり、九鬼は大切な恋人であった。

けれども三人の関係は九鬼がメイになびいた事で壊れた。

「…バカ…。」

枕に顔を埋めながらレイファンはつぶやいた。

レイファンにとって三人で旅をしていた頃は嫌な事を全て忘れられる時間だった。

若くして死んだ母親の事も、自分の父親の死んだ原因も、自分の抱える運命も全てを忘れられる関係だった。

「…メイ…。」

大切な友達、メイ。

初めて会った時から二人は仲が良かった。

気の強いレイファンと引っ込み思案のメイ。対照的な二人ではあったが、二人とも幼くして両親を亡くしている事や、年齢が同じ事、そして目指している場所が月影街であるということもあって意気投合していた。

レイファンはかつて母が歌手として花開いた月影街で自分も唄う事を夢見て、メイはたった一人残った肉親を探してこの街を目指した。

レイファンはメイのお淑やかで気の利いた女性らしい面に憧れ、メイはレイファンの強くて逞しい面に憧れた。

「…元気…だったんだ…。」

あれから一年以上、髪も伸びて昔よりほんの少し大人っぽくなったメイの姿を思い出して微笑んだ。

「…追い返し…ちゃったな…。」

二人を見て怒りがこみ上げたのは本当だった。しかし、その奥で再び会えた喜びと懐かしさもレイファンは感じていた。

「…なのに…。」

自分の気持ちを上手く相手に伝えられない、いつもつい気丈に刺々しく振舞ってしまう。

「…だから、九鬼も…?」

メイになびいたのだろうかと思うと心が痛かった。

九鬼がレイファンではなくメイを選んだのは彼女が持つ女性らしさからだろう、しかしそれがレイファンにとっては自分を否定されたような気がしてならなかった。

一年半前のあの日、レイファンは居た堪れずに二人に別れを告げた。

本当は離れたくなかった、けれど一緒に居るのはあまりにも惨めだった。

「…メイは探し物、見つかったのかな…?」

今日の別れ際にメイは「多分」と言った。その言葉の意味をレイファンは考えていた。

「…。」

答えの出ることのないまま、思い出の写真を握り締めレイファンは眠りに落ちていった。

 

「メイ?」

シャワールームの外で九鬼が声を掛けた。

「何?」

メイが答えると気まずそうに九鬼が続けた。

「…今日はごめんな?」

「…ううん、いいの。」

「…レイファン…やっぱ怒ってたな…。」

「…そうね、でも…多分…。」

「多分?」

「心のそこでは怒ってないと思う…。」

「…そうか?」

「あの娘は…優しい娘だから!」

「…そうか…。」

そう答えると九鬼はシャワールームの前から立ち去った。

メイはバスタブに溜めたお湯の中につかると首から提げたペンダントを掴んだ。

彼女は父の形見であるこのペンダントを入浴の時でも離さなかった。

銀色の三日月型をして、真ん中に赤い石が埋め込まれている。

「…お父さん…。」

父の形見のペンダントにメイは話しかける。

「…兄さん、見つけたよ?」

そう言って微笑むと三日月のペンダントを胸元で大事そうにそっと両手で包みこみ目を閉じた。

大切な友達であるレイファンに再会し、そして探し続けてきた人物らしき人にも会えた。メイは幸せな気持ちで微笑んだ。

 

-9・尋問-

 

月影街の中心部、この街でもっとも華やかなこの商業地区の一角に「エル・ムエルト」という一軒のグランドキャバレーがあった。

そこの三階事務所奥の執務室にここのオーナーを勤める祟がいた。

「祟さん、連れてきました。」

ドアをノックする音と共にレッジョの声がした。

「入れ。」

祟が促すと執務室のドアを開けてレッジョと後から三人の男が入ってきた。後ろの三人のうち真ん中の男は両脇の二人に腕を掴まれ、引きずられるように入ってくる。

「こいつがリブです。」

レッジョがそう告げると祟は椅子から立ち上がり両腕を掴まれ身動きの出来ないリブの目の前に立った。

「お前がリブか?」

リブは震えながら頷いた。

「俺を知っているな?」

リブは青ざめた顔で頷いた。目の前に暗黒街の大物が立っているのだ。そして、その男が自分をここへ連れてくるよう部下に命じた結果今に至る。リブは自分の身に迫る例えようのない危険に恐怖を隠しきれなかった。

「お前にいくつか訊きたいことがある。…パンが殺されたのは知ってるな?」

「も、勿論です…。」

「では率直に訊こう、パンを手に掛けたのは何者だ?」

その質問を受けリブは青ざめた顔で更に震えた。やがて祟から目をそらすと知らないと言うように頭を横に振った。

祟は右手でリブの顔を張り上げ、レッジョに命じた。

「どうやらこの男は少し強情だ。…レッジョ、今から俺がこいつに質問をした時に一度でも口ごもったら、その度に指を一本づつ落とせ。」

レッジョは後ろの二人にリブを床に伏せさせるよう命じると懐からナイフを一本取り出し、うつ伏せになったリブの右腕を掴んだ。

「いいかリブ?祟の兄貴に脅しってもんはないんだ!生かすか殺すかしかない。お前も五体満足でここから出て行きたかったら素直に答えな!」

リブはうつ伏せたまま、顔中に油のような冷や汗をかいて震えた。

「聞くところによると、お前は女と遠くへ逃げる準備をしていたようだな?」

そう言って崇はレッジョから二枚の名刺大の紙を受け取る。

「…帝国鉄道、月影街発帝都行き。二人で帝都へ逃げるつもりだったのか?」

返事のないリブの右手の指にレッジョがナイフの切っ先を当てる。慌ててリブは質問に答えた。

「は、はい!そ、そうです!」

「なるほど、何でも警察ではお前が今回のパン殺しの首謀者と見る向きが強いそうだ。…つまりお前はパン殺しの嫌疑から逃れるために帝都に行こうとしたのか?」

それを聞くとリブは顔を上げて慌てて声を張り上げた。

「じょ、冗談じゃない!…おっ、俺はやってませんよ!」

「そうか?…なんでもお前はパンの女といい仲だったそうだな?それでパンを殺し女と帝都へ…」

「ちっ!違う!たっ、確かに俺はパンさんの情婦と…いや!元々あいつは俺の女だった!それをパンさんが!」

「お前と女の関係はどうでもいい、俺が訊きたいのはお前がそこまで怯えるほどの何者がパンを殺したかという事だ。」

「そっ、それは…!」

「言っておくがお前の両手足の指を落とし終えたら最後は首を落とす…ついでだ、お前の女にも同じ目に合ってもらおうか?」

リブは目を見開いて今にも泣き出しそうな顔になりながら叫んだ。

「たっ、崇さん!それは…それはあんまりです!あいつは、あいつだけは生かしてやってくださいよっ!」

「ならば質問に答えろ!パンを殺したのは何者だ!事件後姿をくらまし、女と帝都に逃げる手はずを整えるほどお前は何かに怯えた!それはいったい何者だ!」

リブは目に涙を浮かべ、喉の奥から声を絞り出すようにその答えを吐き出した。

「く…黒影です…!」

ようやく質問に答えたリブの頭に手を置き、髪を掴みながら崇は質問を続けた。

「黒影、間違いないな?」

「はい…。」

「何故、黒影だと分る?やつは都市伝説呼ばわりされるほど正体不明のはずだが?」

「…お、俺はその昔、“馬党”にいたんです…。」

「馬党、南方山岳地帯の反政府ゲリラか?」

「はい…もっとも俺は下っ端で、上層部の連中とも顔を合わせることなどあまりなかった。しかし、その頃ある軍人崩れの男がまだ十八かそこらの少年を連れて馬党の村へやってきた。…その少年が黒影です。」

「黒影と名乗ったのか?」

「いいえ…その頃の奴にはそんな通り名などなかった…でもその当時政府軍の攻撃に手を焼いていた上層部は近くの駐留地にその少年を送り込んだ…。」

「暗殺者としてか?」

「ええ、当時の陸軍第五十八小隊、馬党の村へ急先鋒として攻撃を繰り広げたその部隊を奴はわずか二十八時間のうちに殲滅させたんです!」

部屋の中に冷たい空気が張り詰めた。噂の殺し屋「黒影」、誰も知らないというその正体をこのリブという男は知っている。そして彼が年端もいかない少年期に既に人並みならぬ戦いを繰り広げたのを知ってレッジョは背筋の凍る思いがした。

「…俺はその日、奴を村に通じる山道まで迎えに行くのが任務でした。その時…」

「その時、何だ?」

「見たんです。明け方、任務を終えて帰ってきた奴を俺は向かえ、村へ連れて帰ろうとした。その時、茂みの中から小隊の生き残りが突然出てきたんです!負傷してるのか軍服を血で真っ赤に濡らして、それでもライフルを構え俺達を狙ってきた。それを奴は腰元からナイフを取り出すとなんと敵に向かって飛び掛った!兵士は引き金に指を掛けるまもなく奴に喉笛を掻き切られたんです…。」

「…俺は突然の事で何がなんだか分らず、でも奴を見ると…敵の死を確認し振り返った顔には赤く染まる左目の瞳孔がありました…。俺は何故銃を使わなかったのかと尋ねると奴は弾がもう無かったからと答えた。俺は奴と歳頃が近かったのもあって時々上層部から伝言などを頼まれた、だから何度か会ったことはあるんです。…でも奴は基本的にあまり言葉は口にせず、人とも関わり合いたがらない様子だった。…それから何年か経って馬党は壊滅しました…俺は何人かの仲間と山を降りて無事逃げたんで政府軍には捕まらずに済んだ。そして政府の影響の薄いこの月影街に流れ着いてそこでパンさんの手下として働く事となった…。ロクなもんじゃない!ゲリラを辞めれたと思ったら次は街でマフィアの手下ですよ…。ちょうどその頃です、暗黒街で黒影という殺し屋の噂が流れ出したのは…始めは面白半分で聞いていた俺もある話を耳にして背筋が凍った。…黒影は人を殺めるときに左目の瞳孔が赤く染まる…。それで俺はあの日の事を思い出した、あの馬党の村の入り口で見た奴の赤い左目を…。」

そこまで話すとリブは一旦深いため息をつき、その先を続けた。

「…馬党が壊滅したとき、てっきり奴も死んだのかと思った。でも実際生きていて黒影という通り名の殺し屋になっていた。俺は始めこそ恐ろしかったものの次第に“しかし、会うことも無いだろう”と思い忘れていた。…だけど数週間前、近所にあったカフェ・ド・ノワールという店にたまたま飲みに出かけた時…カウンターに座る奴の姿を見たんです…。俺は肝をつぶした!まさか、人違いではないだろうか?でもあれから十年近く経って顔も大人びてはいたものの、奴は間違いなくあの村で見た少年でした…。何よりも全体からかもし出す雰囲気が…昔と違って隠してはいるものの…あの赤い目を持った少年のものでした…。」

「お前はその事をパンに告げたのか?」

「…はい、でも言うんじゃなかった…!俺はパンさんに黒影と思しき男が近くにいるので気をつけてくださいと言ったんです!なのにあの人は!事もあろうにこう言い放った!『リブ、そいつは朗報だ!このパンの縄張りに居るのならあの黒影からショバ代が取り立てられる!』俺は言った『冗談はやめてください!そんな事、猛獣の檻に入って餌をねだる様なもんです!』と、しかしパンさんはそんな俺の忠告も聞かずよりによってあの店の厨房係を拉致した!それをネタに黒影を呼び出し…。」

「そこで殺された?」

「そうです、当たり前だ!相手はあの黒影ですよ?パンさんが叶う相手じゃない!…パンさんが黒影を呼び出したあの日、俺は事務所で待機させてもらったんです…すると夜中頃一味の若い者が血相を変えてやってきてパンさんと仲間数名が死んだのを伝えてくれました。俺は、黒影の情報をパンさんに漏らした自分を黒影はきっと殺しに来るだろうと思いすぐさま身を隠した。パンさんが死んで自由の身になった彼女に帝国鉄道の切符を用意してもらい逃げる手はずを整えた…。」

そこまで話し終わりリブはまたもや深いため息をつき首をうなだれた。

「それでお前の知っている話は全部だな?」

「…そうです、もうこれ以上は何も知りません…。」

崇は掴んでいたリブの髪を放してやるとレッジョ達に縛を解くように促した。

「ご苦労だったな。女とどこへでも逃げるといい。」

そう言うと懐から封筒を出してリブに渡した。

「その中に今夜出港の船のチケットと二万ゼル分の小切手が入っている。陸はともかく海なら黒影も追ってはこまい?…そして今日限り黒影の話は忘れろ、奴の情報はこの崇が預かった。これ以上誰にも話す事は許さん。…お前は女と船で国外へ行きそこで静かに暮らせ。もう裏の世界には関わるな、お前には向かん。」

そして先程までリブを捕らえていた部下に命じた。

「お前達はこいつを連れて港へ行け。途中女を拾うのも忘れぬようにな。」

リブは肩を震わし泣いていた。恐怖から開放された安堵、そして思いがけない崇からの報酬の喜びに只々涙を流すしかなかった。

 やがて部屋から崇とレッジョを残して部下達とリブは出て行った。レッジョが崇に訊ねる。

「いいんですか?あそこまでしてやって?」

「奴は俺の要求どおり黒影の名を明かした。それに対する礼だ。」

「たかだかパンの子飼いのチンピラですよ?」

「レッジョ、お前もこの世界に長く居るつもりなら覚えておけ、恩には恩を、血には血を、裏切りには制裁を、そして忠義には褒章をだ。それなくして下のものも着いては来ない。」

「…分りました。肝に銘じておきます。」

そう言うと頭を下げ部屋を出て行った。

執務室に一人残った崇は机の上の小箱から細巻きの葉巻を取り出し火を着けると煙をゆっくりと吐き出しながら呟いた。

「…いよいよ近づいたな、黒影。」

月影街の夜はまたも更けていった。

 

-10・再会-

 

 翌日の正午近く、カフェ・ド・ノワールの一階厨房でロンはその日使う仕込みの材料をチェックしていた。

「おはよう。」

振り向くと起きたてでまだ眠気の残る表情のレイファンが立っていた。

「おう!機嫌は良くなったかい?」

ロンが昨晩のレイファンの癇癪をからかうように尋ねる。

「…昨日はごめん…。ちょっと昔の仲間に会っちゃってさ…。」

 罰が悪そうに俯き小声で囁く。

「まぁ、いいけどな。でも、お前もあんまりやんちゃが過ぎると常連客にも愛想つかされるぞ?」

「…そうだね。」

レイファンは尚も気まずそうに俯く。普段は気丈で我儘なレイファンも時々こうしてナーバスになる。

「わかったから、顔洗って来い!朝飯用意してやるから。」

珍しくしおらしいレイファンにロンも調子が崩れた。昨晩は朝一で会ったらあれこれと文句を言ってやろうと思っていたが、レイファンがこうも萎れているとそれをいう気にもならない。

「顔ならもう洗ったわ。朝ごはんちょうだい。」

そう言うとカウンターの椅子に座り頬杖をつく。まるで何かを考えているようだった。ロンはやれやれと思いながら簡単な朝食を用意しレイファンに出す。

「そういえば、クロは?」

朝食を口にしながらレイファンは尋ねる。

「ああ、なんでも用事があるとかで今朝早く出かけたよ。珍しいよな?あいつが日のあるうちに出るなんてさ。」

「ハハ!“黒影”が聞いて呆れるわね!」

レイファンも可笑しそうに笑った。

 月影街中心部の大通りより少し南に入った静かな商店街に「半月堂書店」という古書店があった。アンティーク調の店内には好事家なら喜びそうな古い書物が数多く並び、実際に研究者や作家、芸術家などが度々ここを訪れていた。

そんな半月堂書店の入り口をくぐり、黒影が店の奥に座る年老いた店主に声を掛けた。

「よう!じいさん!いい本は入ったか?」

“いい本は入ったか?”とは別の目的でこの店を訪れる人間が口にする合言葉のようなものだった。

「おう、お前さんか。」

老人は顔を上げると黒影を見て笑顔を浮かべた。

「随分きとらんで死んだかと思っとったよ。」

そう言うと老人は黒影を店の奥へと案内し、そこにあるテーブルの椅子に着かせた。

「すまんね、ご無沙汰しちまって!ここの所色々あってな。」

「色々あったらわしのとこに来とるだろ?最近は“紅眼殺手の黒影”も長いこと休業中のようだな!」

茶を出しながら老人は皮肉っぽく笑う。表向きは古書店の店主であるこの老人も裏の顔は“月影街の生き字引き”と言われるほどの情報屋であった。

「で、今日はどんな“本”をお探しかな?」

「最近変わった話は聞かないか?」

「これまた世間話か。変わった話なら最近、娼館経営のパンが威勢のいい黒服男に弾かれたぐらいかの。」

「ハハ!知ってたか。」

「当たり前だ、お前さんの“仕事”は久しぶりに耳にしたんで年甲斐もなく胸が躍ったよ!…何しろ最近おとなしいんで引退でもするのかと思っとったしな。」

「よく俺だと分ったな!」

「分るよ、一対多数、眼くらましに発炎筒、最後の一人は頭を打ち抜く…全部お前さんのやり方だ。」

「ハハ、別に決めてやってる訳じゃないがどうもクセがあるらしいな!」

黒影は気まずそうに笑う。戦い方で自分と見破られるようでは今後が危ない気がした。しかし、そんな黒影の不安を読むように老人は声を掛ける

「心配するな、そこまで見透かせる奴もそうはいない。」

「そうか…で、警察はどんな動きだ?」

「警察は“黒影は都市伝説”と決めてかかっとる節があるな。何しろ今回の件も連中はパンの手下が謀反でやったと思ってる。…ま、お前さんには都合が良かろう?」

「ただし。」とここで老人は言葉を切って真剣な顔つきになった。

「裏のもんはそうは思っていない。…黄一家のもんがお前さんを探しとるようだ。」

「黄一家?…“御大”か!」

「そう、南部のゴロツキが一人死んだくらいで黄家が動き出すとは少し妙だが、御大の懐刀の崇はどうもお前さんを危険視しとるようだな。」

「…そういや、パンが死ぬ前に言ってたな。自分を殺せば御大が黙っていないと。…奴はそんなに御大に可愛がられていたのか?」

「いいや、“赤豚のパン”なんぞ誰も好かんよ。…ただ、崇はどうもお前さんを“悪い芽”と見とるようだ。」

「俺は別に御大なんて狙ってないぜ?」

「お前さんはそうでも向こうさんはそう思っていない。…気を付けることだ黒影、あんたは確かに腕の立つ男だが崇を甘く見とると命を落とすぞ。」

老人は険しい目つきで黒影を見る。まるで彼にとてつもない危険が迫っているのを必死に諭すようだった。

「分ったよ、じいさん。その崇とかってのには気を付けとくよ!…それはそうと…今日は別に本題があるんだ!これを見てくれ!」

黒影は胸元にしまってある三日月のペンダントを取り出した。

「…これは、“誓いの三日月”か?」

「そうだ!知ってるのか?」

黒影は身を乗り出して尋ねた。

「ああ、知っとるとも。この街に伝わる伝説上の話だ。…で、そのレプリカを持って来てなんの質問かな?」

老人はまたしても皮肉っぽく笑う。まるで黒影の持つペンダントを精巧な偽者と決め付けているようだ。

「レプリカじゃない!これは本物だ!」

「お前さん、いつから殺し屋やめて骨董商になった?」

「じいさん!俺はまじめに話してるんだ!」

黒影はむきになって声を上げた。父の形見のペンダントを目の前の老人は偽者呼ばわりしている、それが許せなかった。

「…いいかい黒影。お前さんがそれをどこで手に入れたか知らんが“ラチカの詩”なんて話はこの街の御伽噺みたいなもんだ。…今までもそいつを探して何人もの人間が人生を棒に振ってるのをわしは見てる。…悪い事は言わん、お前さんみたいな実力と才能に恵まれた若いもんが一攫千金の夢なんか見るんじゃない。」

老人はまるで諭すように黒影に語りかけた。

「…分ったよ、まぁ最初からこうなる事は目に見えてた。ただ、あんたほどの情報屋ならこれに関する事でも何か知ってるかと思っただけだ。」

黒影はあきらめたようにペンダントを胸元にしまう。

「随分大事にしとるのう、まるで形見だ。」

老人がからかうように笑うと黒影は睨むように言った。

「ああ、事実形見だ。親父のな!」

老人はしまったという顔をして黒影に返す。

「…そ、そうか…!これは悪い事を言っちまったな…。親父さんの形見とは知らず、その…色々と…。」

「いいんだ、気にしないでくれ!…俺もいきなり出したんだからな。…でもじいさん、俺は別に一攫千金のためにこいつを探してるんじゃない。」

「…じゃあ、何のためだ?」

「親父が馬鹿だったのかそれとも偉大な男だったのか確かめるためだ。」

そう言うと黒影は席を立ち、懐からゼル紙幣を数枚だして老人に渡す。

「少ないが、さっきの情報料だ。…お茶ご馳走さん!また来るよ!」

そう言って店を後にする黒影の背に老人は声を掛ける。

「お前さんはこんな詩を知ってるかね?」

振り返る黒影に老人は続ける。

「 “その詩は…”。」

「 “ラチカの最期の目に映る”か?」

そう答える黒影に老人は驚きの表情を見せる。

「ガキのころ親父が毎晩のように俺と妹に聞かせた話だ。」

老人は黒影の返事を聞くと腕を組んで暫く何か考え込んだように黙り、やがて改まったように切り出した。

「お前さん明日の同じ時間にまたここへ来れるかね?」

「ああ、昼前ならカフェ・ド・ノワールも開いてないしな。」

「なら来てくれ。わしも見せたいものがある。」

「今じゃ駄目なのか?」

「随分昔に仕舞い込んだものだ、引っ張り出すのに時間が要る。」

「分った、明日の午前だな?」

「そうだ、寝坊するなよ?」

「分った!楽しみにしとくよ。」

老人が何を見せようとするのかは分らないが、少なくとも黒影にとっては意味のある情報だろう。老人に礼を言うと黒影は半月堂書店を後にした。

 月影街の中央通りまで来ると黒影はカフェ・ド・ノワールへ帰るためのタクシーを拾おうとした。

車で来れば問題はないが、そうすると仕込みの材料を買出しに行くロンの移動手段がなくなる。黒影は日中動く際はなるべくバスやタクシーを使うようにしていた。

「…?。」

通りを歩く自分の遥か後ろに尾行の気配を感じた。とはいえその尾行の仕方から察するに素人のものと感じられた。

(警察か?いや、警察は俺を狙っては無いようだし、御大の手下か?…違う、裏の奴ならもっと巧妙にやるはずだ。)

消去方で考えると思い当たる一つの結論に達した。

(…なるほど、あいつもこんな方法をとるようになったか。)

黒影はタクシーを拾うのを止め、そのまま細い路地に入った。壁に背をもたれると懐から煙草を一本取り出し火を付けた。

「…いい加減で、出て来いよ。」

黒影は路地の入り口付近に隠れる者に声を掛けた。尾行者は自分に気付かれたのを知ると驚いた素振りだったが、やがて意を決したように姿を現した。

「やっぱり、お前か。」

気まずそうに俯き何かを言おうとして口ごもるメイの姿がそこにはあった。

「何年振りだろうな…。シャオメイ。」

懐かしい呼び名をされメイは顔を上げて口を開いた。

「…やっぱり、兄さんだったんだね…。」

そこまで言うとメイは堪らず黒影に走りより抱きついた。

「…どうしてっ!どうして…何年も帰ってこなかったの…?」

堪えきれない感情が爆発したのだろう、メイは黒影の胸元を叩きながら涙声でそう叫んだ。

「…済まない…。」

涙を流し、声にならない言葉で嗚咽する妹の髪を撫でながら黒影はそう一言だけ口にした。

故郷の村を出て数年、幼き日のメイと育ての叔母を置き去りにして旅に出てしまった自分には口に出来る謝罪の言葉もない。

胸元で泣き続けるメイ、黒影にはその涙がまるで何年もメイの心に溜まり続けた悲しみのように感じられてこの上もなく心が痛かった。

「兄さん…あのね…叔母さんが…。」

「どうしたんだ?」

「…亡くなったわ、二年前に…。」

「え…!」

ようやく顔を上げたメイの口から育ての叔母の死を知らされ黒影は呆然となった。

父と母が亡くなり、残された自分達を育ててくれた母の双子の妹。故郷の村で診療所を営む医師だった彼女は気丈だった母に似てはいたが心根は優しく、二人を本当の我が子のように育ててくれた。

「…何も…俺は何も出来なかったな…あの人にも…お前にも…。」

首をうな垂れ黒影はそう呟いた。

「…そんな事ないでしょ?…お金、送ってくれてた。」

旅に出た後、年に数回黒影は故郷のメイ達の元へ金を送っていた。殺し屋の自分が稼ぎ出した汚れた金を果たして家族に送るべきなのかどうか迷い続けたがそれでも彼は何もせずには居られなかった。

「気付いてたのか…俺からだって…。」

「もちろんよ…叔母さんも最初に来た手紙で気付いてたわ。これはきっとあの子からだって…。」

「そうか…あの診療所はどうなった?」

「叔母さんが亡くなった後、村の役場の人達が村営にしてくれて今は新しいお医者さんが来て診てくれてる。…私は兄さんが家を出た後、叔母さんの手伝いで看護婦見習いをしてて、その後資格も取ったの…。本当はその診療所で看護婦を続けようかとも思ったんだけど、叔母さんが亡くなる前に私にこう言ったの、“メイ、もしあなたが望むならこんな小さな村には残らず広い世界を見てきなさい。”って。」

「それで月影街に来たのか?」

「ううん、叔母さんが亡くなる前にこうも言ってたの“もし会いたければヘイエンに会いに行きなさい、あの子はきっと月影街にいるから”って。」

「じゃあ、お前は俺に会うためにわざわざ…!」

自分に会いに来るため故郷の村から遠いこの月影街にやってきたメイ。黒影は妹の健気な気持ちが一層胸に響くのを感じた。

「…大変、だっただろ…?」

そう尋ねる兄にメイは泣き顔に微笑みを浮かべてこう返した。

「そんな事ない、旅の途中で仲間に出会えたから。」

それを聞いて黒影は昨日の晩カフェ・ド・ノワールでメイ達を前にレイファンが言っていた「この二人は私の昔の仲間。」という言葉を思い出した。

「レイファンの事か?」

「そう、昨日は驚いた!レイファンのお店に行ったら兄さんがいるんだもの!…兄さんはいつレイファンと知り合ったの?」

「あれは…一年半ほど前だったかな?」

「じゃあ、私たちがレイファンと離れてすぐかな?」

黒影はメイとレイファンの間に何があったのか訊きたかったが、今はそのタイミングではないと思い尋ねなかった。

「兄さんはあのお店で働いてるの?」

「え!…あ、ああ!」

メイからの突然の質問に黒影は言葉を濁した。自分の正体が“紅眼殺手の黒影”と呼ばれる殺し屋などと知ったら妹はどんな思いになるだろう。それでなくとも幼い頃から幸の薄い身の上の妹に自分の兄が人の道を外したならず者などと知られるわけにはいかなかった。

「あの店でな、その…苦情処理係みたいな事をやってるんだ。」

用心棒などと言えるわけもなく黒影はとっさに自分の役職を作り上げた。実際店で暴れるたちの悪い客をあしらうのだ、似たようなものだろう。

「そうなんだ!…すごい偶然だね…!私も兄さんもレイファンと知り合いなんて!」

離ればなれに暮らしていた兄妹が偶然同じ人物と知り合いになる。確かにこの広い世界でこれは奇跡的なめぐり合わせといえた。

しかし、黒影は妹が汚れのない目で無邪気に喜べば喜ぶほど心が痛むのを感じた。

「メイは今どうしてる?この街で暮らしてるのか?」

「私は…。」

 メイも少し言葉を濁した。九鬼と共にこの街に来て数か月、けれど彼女たちは未だこの街に根を生やしたわけではなかった。

「うん、私は最近この街に来たばっかりで…その、色々と準備中なの…。」

「そうか、村と違ってこの街は都会で色々戸惑うことも多いだろ?」

「う、うん…。なんて言うか…時間の流れ方が違うっていうか…。」

近況を訊き出してから妹の歯切れが悪くなるのを感じて黒影は少し心配になった。もしかして何か困ったことでもあるのだろうか?

「そういえば、昨日お前は男と一緒だったな。…あれは、恋人か?」

昨晩ロンが口にした推測を思い出し彼は妹に訪ねる。

「えっ!…う、うん。…あの人もレイファンと旅をしていたの…で、今は…。」 そこまで聞いて黒影はおおよその事を把握した。昨晩のロンの推理は大方当たっていたようだ。幼かった妹も今は立派な大人の女性なのだ。恋もするだろうし、それによって他人との間に軋轢ができることもある。それでいいのだ、大人なのだからそういうこともあるのは仕方ない。自分を振り返ってみろ、人に公然と言えることをしてきた人間ではないはずだ。それに比べれば…。黒影は自分に言い聞かせてはいたが、兄としては複雑な気持ちを禁じ得なかった。

「うまくいってるのか?」

「うん、それは大丈夫。彼、いい人だから。」

「そうか…。」

そうであってほしいと願わずにはいられなかった。自分は幾人もの命を手に掛けてきた咎人だ。やがて誰かに無残に命を奪われ魂が地獄の業火に焼かれるのも仕方がない。

けれど、この娘だけは。目の前の汚れなき妹だけはどうか幸せな存在であってほしいと願わずにはいられなかった。

「何をしてる人だ?」

「えっ!」

自分の投げかけた問いに一瞬妹の顔が青ざめるのを見て黒影は例えようのない不安に襲われた。

昨晩メイと共にいたあの男は一体何者なのだろう、昨日はメイに気を取られてよく確認はしなかったが記憶の隅にかすかに残る自分と似た匂いを思い出し黒影は背筋が凍るのを感じた。

(まさか、あれは裏の者だろうか…?)

「お前…。」

黒影がその先を知れば絶望に駆られるかも知れない質問をしようとしたその時。

「あれ?クロじゃん!」

ふいに背後から声をかける者があった。

「奇遇だな!ここで何してんのさ?」

さっきまでの不安に満ちた緊張感を破るように両手に買い物袋を提げたロンの姿があった。

「ロ、ロン!…なんだ、仕込みの買い出しか?」

「おう!そこの市場までな!今日は上物の肉が入ったから特別メニューを出すぜ!…あれ?」

話し相手の向こうにメイの姿を見つけるとロンは黒影に駆け寄り耳打ちする。

「おい!あの娘、昨日のレイファンの友達じゃん!お前ナンパでもしたのかよ!」

「い、いや…あのな…。」

このお調子者に妹をどう紹介すべきか苦慮してる間にロンはメイの元に駆け寄った。

「やあ!…ええと、俺はレイファンの店で厨房係をしているロンていうんだけど君は?」

底抜けに明るく話しかけるロンにメイも調子を崩す。

「えっ!…メ、メイ。」

「メイちゃんか!うん!そうだメイちゃん、昨日はレイファンの奴やたらつっけんどんだったけど気にしないでまたおいでな!どうせあのお嬢のこった、別の日には機嫌がいいからさ!」

嬉しそうな顔でにやにやと話しかけるロンに黒影が声をかける。

「おい!ロン!とっとと帰って仕込みの支度だろ?」

そう言われロンは慌てて懐中時計を取り出す。

「おお!そうだ!今日のメニューは煮込みに時間がかかるんだった!あ、メイちゃん!俺車で来てんだけど送ってこうか?」

「あ、いえ…タクシー使うんでいいです。」

「ええ、そう?」

「ロ・ン!」

とてつもない勢いで妹に迫るナンパ男を黒影は声を張り上げて呼び止める。

「なんだよ?うっせぇな…ああ、んじゃメイちゃんまたな!…おいクロ!仕方ねぇからお前乗せてってやるよ。」

そう言うとロンは踵を返して中央通り沿いの貨幣式駐車場へと向かう。後についていこうとする黒影にメイは声をかける。

「ねぇ…。」

「なんだ?」

「…また、会いに行ってもいいよね?」

「もちろんだ!いつでも会いに来い。」

笑顔でそう返すと黒影はロンの待つ駐車場へと歩き出した。

 

-11・脅威-

夜七時過ぎカフェ・ド・ノワールの前に一台の高級車が停まった。

「着きましたよ祟さん。」

「ここか?」

「ええ、カフェ・ド・ノワール。黒影がいるって話の店です。」

「…入るとしよう。」

レッジョが運転席から降りて後部座席のドアを開けると祟は降り立ち、カフェ・ド・ノワールの店内へと入っていった。

 店内では昨日レイファンにお褒めを預かったバンドが威勢よくスウィングのリズムを響かせ、ロンの特製メニューに舌鼓をうつ常連客で賑わっていた。

黒影はカウンターで昼の事を思い出していた。メイの恋人、それは何ものなのか。レイファンなら何か知ってるかと訊こうと思ったが、いつもにまして忙しい店内の状況をみてそれは控えていた。

「おい!クロ!」

ロンがカウンター越しに話しかける。

「何だ?」

「お前、あのメイちゃんとどういう関係だよ?」

ロンは昨晩見かけてから余程メイを気に入ったのだろう。

「どういうって…そりゃ…。」

黒影が渋々あれは自分の妹だと答えようとしたその時。

「だ・か・ら!いまは満席って言ってるでしょ!」

入口でレイファンの怒声が聞こえた。

「あの馬鹿!またか?」

昨日に引き続き今日も揉め事か。ロンは呆れたように首を振ると黒影の方を向いた。

「はい、大先生!お仕事の時間です。」

黒影は深いため息をつくと渋々席を立った。

入口まで来るとレイファンが腕を組んで目の前の男二人を睨んでいた。

「レイファン、今日はどうした?」

呆れ顔で尋ねるとレイファンが口を尖らせ答えた。

「この人たち、私が今は満席だからまたにしてって言ってるのにすぐ席を開けろとか言うのよ!」

黒影が客の方を向くとレイファンのすぐ目の前にチンピラ風の若い男が一人、その奥に三十代後半位の長身の男が一人立っていた。

二人とも明らかに堅気の人間ではないようだ。特に奥の男は暗がりで顔はあまり見えないが、発する雰囲気に大物の気配がした。

若い方の男がレイファンに詰め寄る。

「だからよ、お嬢さん。席が空いてねぇなら他の客を帰しちまいな?それで解決だろ?」

「馬鹿言ってんじゃないわよ!なんであんた達の為に先に来た人帰さなきゃいけないのよ?」

「お嬢さん、こちらの方をどなたか存じ上げねぇのかい?」

若い男が奥の長身の連れを指してレイファンに尋ねる。

「存じ上げないわよ!仮に誰だろうとこの店でそんな勝手は許さないわ!」

「お前…。」

若い男がいよいよ苛立ちを募らせ表情を険しくさせる。こうなるとこの手の輩は力に訴えてくるのが大凡だ。

「付け上がるんじゃねぇぞこのアマ!」

そういって男はレイファンの胸倉に掴みかかろうとする、しかしそれより先に黒影の手が男の右手を捻り上げ、同時に足払いを掛けたおかげでチンピラ風の男は背中から床に叩きつけられた。

「お客さん困るよ狼藉は。」

黒影は倒れた男にそう言い放つ。

「…や、野郎!」 

倒された男は背中をさすりながら起き上がると、徐に腰元に手を忍ばせ銃を取り出そうとするが、それより一瞬早く黒影の突き出した拳銃に鼻先を捉えられる。

「これ、あんたのとこの若い衆かい?躾がなってねぇな!」

黒影は銃口をチンピラの鼻先に突きつけたまま、奥の男に話しかける。

「済まんな、そいつは血の気が多くてな…レッジョ、詰まらん物は仕舞え!」

男がそう促すとチンピラ風の男は悔しそうに銃を下ろすと腰元に仕舞った。

「…悪いがあんたも納めてはくれんか?」

男にそう言われ黒影も銃を納める。奥の男は続けて黒影に問いかけた。

「中々にいい腕だ。…どこで銃の扱いを?」

「さあてね…あっちこっちだ。」

「かなり修羅場を越えているようだが?」

「ハハハ!そいつは買いかぶりだ!俺は只のこの店の用心棒だよ。」

「…そうか。」

男は奥からじっとこっちを見ているようだった。妙に落ち着いた物腰、暗がりでも分る鋭い目付き、何より彼が持っている独特の重圧的な雰囲気が暗がりから突き刺さるかのように自分を捉えるので、黒影は戦慄が走るのを感じた。

「…あんたは何者だい?」

黒影の口から思わず質問が零れ落ちた。

「…俺か、俺は…黄一家の崇だ。」

その名を耳にして黒影の背に緊張が走った。昼間、半月堂の老主人から聞いた御大の手下“崇”。自分を狙っているという男が今目の前にいるのだ。

「どうも失礼したね、お嬢さん。うちの若いのがご迷惑を掛けた。…我々はこれで失礼させてもらうとする。」

崇はレイファンの方を向くと部下の非礼を詫び、まだ苦虫を噛み潰したような顔をする舎弟に声を掛ける。

「レッジョ、帰るぞ。」

レッジョは不貞腐れた顔で頷くと崇の後に続く。

「そうだ…お嬢さん、貴方の名前は?」

ふと足を止め崇が問いかける。

「…え!…マフィアに名前なんか名乗んないわよ!」

それを聞いて崇は口元に笑みを浮かべる。

「それはいい心がけだ!…それでは失礼する。」

そう言って崇はレイファンと黒影を交互に見て再び笑みを浮かべるとそのまま店を後にした。

「…まったく!何だったのよ!」

レイファンは顔をしかめてドアの方を睨む。

「今日はお客さん大入りでいい気分だったのに!だからマフィアって嫌い!」

腕を組んでしかめ面のままカウンターへ向かうとロンから飲み物を一杯貰いそれを持って店内へ進む。

黒影はカウンターへ戻ると同じく飲み物を注文した。

「お疲れ!何だった?今日は結構ガラの悪い奴だったみたいだけど…。」

「あ、ああ…問題ない。」

「そうか…ならいいけどよ。」

平静を装ってはいるものの、いつもとは様子の違う黒影にロンは気付いていた。

(こいつどうしたんだ?いつもなら性質の悪い客を追い返した後でも何事もなったかの様にしてるのに…) 

黒影は考えていた、崇がここへ来たのは自分を探すためだったのだろうか?そして、実際会った自分を“黒影”だと悟ったのだろうかと。

「…おい!クロ!左目!」

突然ロンが驚いたように声を掛ける。黒影は慌てて手元のジッポライターに自分の目元を映すとそこには赤く染まりだした瞳孔があった。

「…!なんで今!」

戦闘態勢にでもならなければ染まるはずのない左目が赤く染まっている、まるで崇との出会いがそれだけ自分にとって危険なものである事を示すようだった。

「クロ、お前少し様子変だ!…今日はもう上へ上がれよ!後で暇見て酒と食い物もって行ってやるから!」

「…そうだな、悪い!上がらせてもらう…なんかあったら呼んでくれ。」

ロンがあまりに心配そうな顔で勧めるので黒影もそれに従う事にした。 席を立ち目をこする振りをしながら左目を隠し、黒影はカウンター脇の階段を上って行った。

その様子を遠くから見ていたレイファンもカウンターへやって来てロンに尋ねる。

「ねぇ、クロどうしたの?」

「ああ、どういう訳か左目が染まってやがった。」

「なんで?クロの目が赤くなるのって戦う時だけでしょ?」

「それが…。」

ロンもどう説明したらいいか分らなかった。

「なぁ、さっきいた連中って何者だ?」

ロンは先程の客が黒影の異変の原因ではないかと思いレイファンに尋ねた。

「さっきの?…どうもマフィアの幹部クラスとそのお付のチンピラって感じだったけど…たしか、名前言ってたわ。」

「なんて?」

「えっと…崇とか?」

「なんだと!」

ロンはその名前を耳にして思わず声を上げた。かつて泥棒家業で裏社会に身を置いていた事のあるロンにはその名前に聞き覚えがあった。

「あの、“命狩りの崇”か…!」

「有名な奴なの?」

レイファンが不安そうな顔で尋ねるとロンは腕組みをして暫く目をつぶり、やがて目を開くとこう言った。

「なんとも言えないけど、クロの奴もしかして…。」

「えっ、何!?」

「…とんでもない敵を作ったのかもな…。」

険しい顔つきでそう言うロンを見てレイファンは不安を覚えた。あの黒影を動揺させ、お調子者のロンさえいつもの口八丁が出なくなる相手であるあの崇という男を今更ながらに恐ろしく感じるのだった。

 

 メイがホテルの部屋に戻ったのは夜八時を過ぎた頃だった。

「ただいま…。」

 ドアを開け声をかけるも返事をする者がなかった。

「出かけたのかな?」

この時間に九鬼が出かける事は良くあるためメイは特に気にも留めず、買い物袋をテーブルの上に置いた。

「…?」

いつもとは違う微かな異変に気付きメイはテーブルの上を手でなぞった。すると掌にザラザラとした粉上の物が付着する。まさかと思い鼻先にそれを近づけるとツーンとする火薬独特の匂いがした。

「…まさか…!」

メイは大急ぎで寝室へ向かうとベッド横の引き出しを開け中を探る。

「やっぱり、ない!」

九鬼がいつもそこへしまっていた銃と予備の弾丸と弾倉がなかった。

「九鬼!」

メイは恐ろしい予感にかられ大急ぎで部屋を出た。九鬼の行き先は分っている。

-12・出撃-

 月影街北部の黄邸に崇を乗せた車が着いたのは夜九時少し前だった。

「御大、失礼します。」

 書斎のドアをノックし崇が中へ入る。

「おぉ、崇。どうした?チェスの相手でもしに来たか?」

「いえ、それは後日お相手いたします。…それより例の黒影の件ですが…。」

「ハハハ、お前まだ探しとったか!…それで見つかったのか?」

「ええ、間違いなく見つけ出しました。やはりあのカフェ・ド・ノアールにいました。」

「なるほど、カフェバーに伝説の殺し屋か…傑作だのう!それでお前としてはどうするつもりだ?」

「あぶり出し、必要とあれば殺します。」

「なぜ一気に始末せんのだ?」

「それは、奴がある娘と行動をともにしているからです。」

「娘?」

「…レイファンです。」

「…!!…レ、レイファンだと!」

いつも飄々とした御大の態度に明らかな動揺の色が浮かんだ。

「あの子が…レイファンが!黒影と共にいるのか?」

「ええ、理由は分りません。そして恐らくは黒影もレイファンが何者かは知らずに共にいると…。」

「あの子はまだ『目覚め』てはいないのか?」

「おそらく…そして本人にも自覚はまだないかと。」

 御大は目を閉じて暫く黙り込むとやがて意を決した様に口を開いた。

「崇、命令を出そう。黒影をあぶり出せ!しかし、分っているな?あの子は、レイファンは無傷でここへ連れてくるのだ。」

「承知いたしました。ではこれより行動を開始いたします。」

 そう言い、恭しく礼をすると崇は御大の書斎を後にした。廊下へ出るとまたもや物陰に隠れる者たちへ声をかける。

「イタチ、ヒガリ!」

「なんだい?」

「どうしたの?」

「…『狩り』を始めるぞ…。」

「やっとかよ!」

「黒影が見つかったの?」

「ああ、奴は恐らくお前達を退屈にはさせないだけの獣だ。…存分に狩りを楽しめ!」

「そいつは楽しそうだ!」

「なんだか子供の頃のハイキングを思い出すわ!」

 イタチとヒガリはそう言うと姿を現した。飛行用のゴーグル首から掛けリンゴを頬張るイタチ、レザーのスーツに身を包み右手のマニキュアを塗りなおしているヒガリ、二人ともとぼけた様な雰囲気を発しながらもその目は獲物を狙うハイエナさえも陵駕しているといっていいだろう。

 崇は二人に向かって作戦の概要を話し出す。

「先ずは『カフェ・ド・ノアール』という店に先発隊を送り込む、しかし相手は黒影だ、雑兵では仕留め切れんだろう。そこで、先発隊が黒影をあぶりだした後、お前達二人で黒影を仕留めろ。…ただし注意がある。あの店には黒影と厨房係りの男が一人、そして若い女が一人いる、その女だけは何があっても無傷で連れ出せ。」

 それを聞き、イタチが怪訝そうに尋ねる。

「なんでその女は殺しちゃまずいんだ?」

「それはな…。」

 崇はイタチ達の側により、その理由を耳打ちする。

「何だって!?」

 イタチとヒガリは同時に声を上げた。

「…ハハハ!それなら確かに殺しちゃまずいわねぇ!」

 ヒガリは可笑しさを堪えきれず腹を抱える。

「崇さん!」

 レッジョが三人のいる廊下へとやって来た。

「『兵隊』揃いました!」

 それを聞きつけ崇はニヤリと笑い自分以外の三人に声をかける。

「…では、行くとしよう!『黒影狩り』に!」

 やがて彼らは屋敷の門内に止まっている車に乗り込み、カフェ・ド・ノアールがある月影街南部へと向かった。

-13・九鬼の目的-

 夜の十時半ごろカフェ・ド・ノアールの二階の自室で黒影は椅子に深く腰を下ろし天井を向いて考え事をしていた。『半月堂』の老人が言った思わせぶりな言葉、メイとの再会、そして崇の出現…。

 一日の中であまりに多くの事があり、それらを頭の中でまとめながら彼は深いため息をついていた。

 ふと、部屋の窓際に誰かの気配を感じた。黒影は腰元の銃に手を伸ばし、今日二度目となる台詞をはいた。

「…誰だ?隠れてないで出てきたらどうだ?」

 そして目をやると窓に掛かるカーテンの隙間から見覚えのある男が出てきた。

「…お前は…昨日シャオメイと一緒にいた男だな?」

「…やはりメイを知ってるのか…。それも含め色々と聞きたいもんだな、黒影!」

 窓枠から部屋の床へと降りて九鬼が部屋の中へとやって来た。

「俺を知っているのか?」

「当たり前だ、『紅眼殺手の黒影』!」

「なるほど、で?そういうお前さんは何者だい?」

「忘れたか?…馬党の山で会ったがな!」

 そう言われて黒影は相手の顔を今一度見直してみた。

「…お前…まさか馬党の闘将の息子か!?」

 馬党、黒影が十年以上の昔に身を置いた反政府ゲリラ組織。その闘将、ジェルド・ラウの息子が今目の前にいる男の様だった。

「覚えててくれたか!あの頃は俺も十四、五のガキだったからな、あんたと会ったのも親父の執務室で二、三度だ。あの頃と違って、随分口数が多くなったじゃないか!」

 あたかも懐かしい相手に再会したかのような台詞ではあったがその口調には明らかな敵意があった。

「そうかそうか!ジェルドの息子か!それにしてもいっぱしの男の面になったじゃないか!…で、今日は何の用だい?」

 黒影の質問に九鬼は苛立ちを覚えるように声を荒げた。

「とぼけるな!分っているはずだろう?俺がわざわざあんたに会いに来た訳、父であるジェルド・ラウの仇だよ!」

 それを聞き黒影は耳を疑うかの如く聞き返した。

「なんだって!?」

「シラを切るのもいい加減にしろ!お前が俺の親父を殺したんだろうが!あの馬党が壊滅した日に!」

「…ちょっと待て!…俺がジェルドを殺したって!?お前、一体誰にそんな事を吹き込まれた!?」

 驚いた表情でそう聞き返す黒影に九鬼は益々苛立ちを募らせ怒鳴り出した。

「ふざけるな!!まだシラを切り通すつもりか!!お前が俺達を…馬党を帝国軍に売り渡し、そして親父を手にかけた事を俺が…。」

「デリルか?」

「何!?」

 九鬼の話を遮り黒影が出した名前を聞いて九鬼は目を見開いた。

「何だと!?」

「デリルだ、ハインツ・カー・デリル。俺を馬党の山へ連れて行った自称『元』軍人だ。」

「…デリル…奴が生きてるのか!?馬鹿な!あいつはあの日、死んで…」

「…お前、何も知らないのか?」

「…。」

「…どうやら、お前は俺が思った以上に誰かに踊らされてるらしいな…。デリルはな、今も生きてるよ。」

「ど、どこで…?」

「今か?…恐らく帝都だろう?今頃は帝国陸軍上層部でお望みどおりの出世街道を歩きなさってるだろうよ!あの糞野郎は!」

「…ど、どういう事だ!」

「やつが馬党の村に現れたのはな、帝国側の諜報部員として馬党壊滅作戦の急先鋒を切るためだったんだ…俺がそれを知ったのは全てが終わった時、そう、あの壊滅の日だ。」

「…。」

 九鬼は言葉を失った。目の前の仇がまるで自分の知らない真実を口にし、頭の中がこんがらがる様だった。しかし、九鬼は気を取り直し再び黒影を睨んだ。

「よく、出来た話だ!しかし、それが本当の事だとは限らないな!」

「いいね!人の話を簡単に信用しない、それは大切な事だ。この世界じゃ他人の口から出る言葉なんて八割方嘘だと思って生きた方が賢明ってもんだ!…ただ、生憎と俺の話は本当だぜ?もっともそれをお前が今すぐ信じるなんて思っちゃいないけどな!」

「当たり前だ!俺は今日までお前を探し、ここまでたどり着いた!今日こそは親父の無念を晴らさせてもらう。」

「好きにするといい!もっとも俺は人に簡単に命をやるほど慈愛に溢れちゃいないがな!」

 二人はお互いに睨み合い、次の瞬間同時に銃を突きつけ合った。

 同じ頃、閉店後のカフェ・ド・ノアールの一階ではレイファンがカウンターに腰を掛け、一人でグラスを手に持ち頬杖をついてつまらなそうにしていた。

「何よ!あいつら!」

 客は大入り、ライブは大盛況。いつもならこんな日はレイファンと黒影、ロンの三人で祝杯を挙げるのだが、黒影は二階へ行ったきり、ロンも厨房の後片付けが終わるとさっさと自室へ上がってしまった。

 その時、店の入り口の方でドアを叩く音が聞こえた。とっくに閉店の札は掛けてあり、この時間にやって来る者はいる筈がなかった。

「誰?もう閉店よ!」

 ドアの側まで来てレイファンは外の来訪者に声を掛ける。

「レイファン?私!メイ!」

 ドアの外側からメイの声がしてレイファンは一瞬言葉を飲んだ。

「メイ!…何よ!こんな時間にやって来て、昨日の事?いくらなんでも昨日の今日で…。」

「お願い!開けて!」

 ただ事ではないようなメイの雰囲気にレイファンは心配になりドアの鍵を外した。

「一体どうしたって言うの!?」

尋ねるレイファン答える事もなくメイはドアを開けるや否や店の中に入り込み、奥まで来ると辺りをキョロキョロと見回した。

「ちょっと!あんた何してんのよ!」

 またもや尋ねるレイファンにメイは質問をぶつけた。

「ねぇ、レイファン!九鬼は来てない?」

「はぁ!?来てないわよ!!…あんたそれでここへ…」

その先を遮るようにメイは続けて質問をぶつけた。

「じゃあ、兄さんはどこ?」

「に、兄さん!?…しっ、知る訳ないでしょ!あんたの兄さ…、ってメイ…あんた、まさか…」

 昨日メイが口にした「多分」の意味を理解し始めた。そしてそれがメイにとって悲しい真実を含む事も。

 一方メイは店の中を散々見渡してカウンターの近くに上へ上がる階段を発見した。

「上ね…。」

 言うや否や、一目散に階段へ向かいそれを駆け上る。

「ちょ、ちょっと!!待ちなさいよ!」

 レイファンもメイの後に付いて上がる。

 階段を上がりきると廊下に三部屋分のドアが見えた。そのどれかに自分の探す人がいる、メイは一番手前の部屋のドアを開いた。

「…!!??め、メイちゃん!?」

 そこにいたのは昼間街中で会ったロンだった。

「…違う!!」

 メイは勢いよくドアを閉め、隣のドアを開けようとした。

「そこは私の部屋!…あいつならその更に奥よ!」

 後ろからレイファンが声を掛ける。どうやらレイファンはメイが誰を探しにやって来たか察しているようだった。

「…!」

 一番奥の部屋のドアノブを握りそれを勢いよく捻り上げ向こうへ押す。

「…!!」

 メイの目の前に広がっていたのは最も恐ろしい予想の通りだった。目の前で自分の兄と自分の恋人が銃を突きつけ合っている。二人とも決してメイには見せないであろう殺意の篭った鋭い目付きで。

「シャオメイか!?」

黒影は九鬼に銃を突きつけたまま驚きの声をあげた。そして、同時にこれが妹に決して知られたくなかった殺し屋としての姿を見られた瞬間でもあった。

「…!メ、メイッ!?」

 九鬼もメイに気付き驚きの声を上げる。

「…ねぇっ!九鬼、お願い!やめて!…その人は…その人は私の兄なの!」

「…やっぱりか…。」

 九鬼が銃口を黒影に突きつけたまま無念そうに眉を潜める。

「…お前が探していた『兄さん』てのが特徴を聞けば聞くほどこの男だったんだ…。そして、メイの左目…悲しみに赤く染まる瞳孔が正にこの男,黒…」

「やめろ!」

 九鬼が自分の通り名をメイの目の前で口にしようとするのを黒影は慌てて止めた。しかし、メイはそんな兄にこう告げた。

「…知ってるよ。」

「なんだと!」

 メイの言葉を聞き黒影は驚きの声を上げた。

「…“紅眼殺手の黒影”…兄さんの事なんでしょ?」

「お、お前なんでそれを…。」

「あちこち旅をしてきたって言ったでしょ?…彼と、九鬼とも一緒に居たから裏社会の情報は入ってきてたの…それで事あるごとに耳にしたのが人を殺す時に左目が赤く染まる“黒影”の話…あぁ、これはきっと兄さんの事かも知れないなって…。」

「…シャオメイ…。」

「…信じたくはなかった…でも、同時に兄さんが生きてるって証でもあったから…。」

 メイはそれ以上何も言えずただ俯いていた。

「お、おい!ど、どういう事だよ!これは!?」

 ロンも騒ぎを聞きつけ部屋に入ってきて驚きの声を上げた。

「ちょっと、どいて!」

 レイファンが後からロンをどかして入ってきた。

「九鬼!あんた何してんの?」

 黒影と銃を突きつけあっている九鬼にレイファンが強い口調で問いかける。

「…仇を取りに来た…。」

「仇って?」

「親父の仇だ!…目の前にいるこいつがそうだ!」

 そう言い張る九鬼に黒影が答える。

「何度も言うが俺は違うぜ?ジェルドは恩人だったからな。俺は殺してない、最もこいつは信じちゃくれないようだがな!」

「どっちでもいいわ!とりあえず二人とも一旦銃を置きなさい!…九鬼、あんたメイの前で彼を殺すつもり?…クロも、まさか妹の目の前で人殺しはしないわよね?」

 レイファンは胸の前で腕を組みながら強い口調で二人の殺し屋に休戦を促す。

「なにっ!妹!メイちゃんが?クロの?」

 ロンが慌てた口調で驚きの声を上げる。

「…お願い…、二人とも…やめて…。」

 メイも今にも消え入りそうな声で二人に懇願する。

「ほら!メイも泣きそうじゃない!あんた達いい加減に…。」

 レイファンがそこまで言い及んだ時、黒影は窓の外に殺気を感じて叫んだ。

「全員床に伏せろ!」

 それを聞きつけレイファンはメイの腕を掴み自分と共に床に伏せさせた。それを見届け、黒影と九鬼も素早く床に伏せ、少し遅れてロンも慌てて伏せる。

 次の瞬間、けたたましい音と共に部屋の窓ガラスが割れ、破片が辺り一面に飛び散った。

「ちょっと!何これ!」

 レイファンが叫び声を上げる。

「狙撃だ!向かいの建物から撃ってくる!」

 弾丸が次から次に無数に打ち込まれる、向かいの建物から数人の狙撃手が連射式のライフルで狙ってきてるようだった。

黒影は考えていた、今時分この部屋を狙撃するのは何者か?

「おい!こいつはお前の伏兵か?」

 九鬼に問いかける。

「冗談じゃない!俺がそんな手を使うと思うか!」

(このお人好しじゃなさそうだな…)

 そうなると考えられる答えは一つしかなかった。

(崇か…。)

 さっき崇がこの店にやって来たのは自分を確認する為だったのだろう、しかしその場では討たず兵を揃えて攻め込んで来た。

「ちょっと!どうすんのよ!」

 レイファンが再び叫ぶ。

「…ここは俺が食い止める。お前とシャオメイは床に這ったまま部屋を出て一階へ行け!…ロン!」

「なっ、なんだ!」

「『通路』は使えるか?」

「ああ!問題ない!」

「なら悪いが、あの二人を連れて『通路』へ逃げてくれ!…俺も後から追う!」

「おいこれって!相当やばい状況か?」

「あぁ!レベル四だと思ってくれ!」

「マジかよ!…分った!クロも無事に切り抜けてくれ!」

 そう言うとロンは体勢を低くしたままレイファンとメイに自分に付いて来る様に言って部屋を出る。メイが不安な様子で黒影と九鬼を見たがレイファンに腕を引かれ部屋を出た。

「さて…連中の相手か。」

 三人が部屋から出たのを確認し黒影が呟く。

「俺はどうする?」

 九鬼が尋ねる。

「お前いたのか?…そうだな、そこへ立って連中の的にでもなっててくれるか?」

「ふざけるな。メイのいないこの期にお前を始末しても構わんのだぞ?」

「お前は、まっすぐなのか馬鹿なのか?…今俺を殺りたきゃ殺れよ!そんでその後奴等のの的にでもなりな!もういっぺんシャオメイと生きた状態で会いたかったら今は一旦俺と手を組みな!…親父の仇討ちはそれからでも遅くはないだろう?」

「お前と手を!?」

「嫌だろうな!だが、今は緊急時だ!…お前の親父ならこんな時、使える状況は全て使って戦ったぞ!」

黒影の提案に九鬼は内心物凄い抵抗を感じたが、今の状況が一人で切り抜けるには厳しいものと判断し、彼の提案を受け入れる事にした。

「何をすればいい?的は断るぞ!」

「銃撃の隙を見て相手側に反撃してくれ。」

「正気か!向かいの建物は五十メートル以上離れている上に街灯もなく視界はほぼゼロだ!拳銃でどうやって当てる?」

「当てなくてもいい!奴等の気を逸らせ!その間に俺は得物を取ってくる!奴等ここには俺しかいないと思っているだろう、だからお前が暫く相手してやれば俺が動ける!」

「その得物はすぐ用意できるのか?」

「あぁ、ほんの二十秒ほどだ。」

「分った、行け!」

そう言うと九鬼は窓枠から向かいの建物へ向けて数回発砲した。黒影はそれを見計らって体制を低くしたまま部屋の隅へ移動する。

 壁のクローゼットを開けるとそこにあるアタッシュケースを掴み大急ぎで元の場所へと戻る。

「そいつは?」

 九鬼が窓の外に発砲しながら尋ねる。

「狙撃用ライフルだ。しかも、暗視用スコープ付きでね!」

 答えながら中を開けバラバラに収納された本体を組み立てる。

「まだか!?もう弾も尽きるぞ!」

「…出来たよ!」

 そう言うと黒影は部屋の照明を落とす。暗視用スコープを使う為に明かりが邪魔なのだろう。

 ライフルを構え向かいの建物に照準を合わせると屋上に人影が見えた。

「…いた、正面十二時と左十時、それと右二時の三人か…。」

 正面の狙撃手に照準を合わせ引き金を引く、白黒の暗視用スコープの中で黒い人影が弾け飛ぶのが見えた。

 しかし、次の標的を撃つのに反対側の狙撃手が邪魔になる。

「援護を頼む!右二時だ!」

 それを聞いて九鬼もその方向に銃を撃つ。拳銃の弾では届きはしないが相手の気を逸らすことは出来る。

 その間に左方向の敵を仕留めた黒影は素早く右を向くと残りの敵に照準を合わせ一気に引き金を引く、スコープの中で敵が倒れるのを確認した。

「よし!とりあえず向かいの建物は大丈夫だ!」

「まだ敵がいるってのか?」

「分らない、だがさっきの奴らが俺の予想してる相手の手先だとすればまだ終わらないはずだ!とりあえず下に向かおう!」

黒影はその場にライフルを置き拳銃を握りなおして部屋を出る。九鬼もその後に続いた。

 その頃、レイファン達は一階店舗奥のキッチンに集合していた。ロンは床下の収納から荷物をどかしている。

この床下には抜け穴があり、それが遥か昔に作られ街中に張り巡らされた地下通路に繋がっている、敵に店の周りを囲まれた場合ここから外へ逃げる手はずになっていた。

 一方レイファンは冷蔵庫を横にずらすとその壁についている引き戸を開ける、するとそこは収納になっており、銃や弾丸などの武器が置かれていた。中からそれらをいくつか取り出すと一丁を懐に仕舞いもう一丁をロンに手渡す。

「ほら!あんたも!」

 そう言って横できょとんとしているメイにも手渡そうとするがメイは震える表情で首を横に振る。そんな彼女をレイファンは叱りつけた。

「いい加減にしなさい!彼氏も殺し屋なら兄貴も殺し屋!それを百も承知でここまでやって来た!だったら覚悟を決めなさい!…あの二人が上で戦っている間、私達は自分の身は自分で守らないとならないの!」

 そう言ってメイの手に無理やり拳銃を握らせる。

「お、おい!そんな無理やり…。」

 ロンがレイファンをなだめようとするが彼女はそれを無視して残りの弾丸を布製の袋に詰めている。

 その時、入り口のドアを外から激しく蹴破る音が聞こると三人の男が銃を手に乱入してきた。

「おい、あそこにいるのが黒影か?」

一人の男がキッチン奥のロンを指して仲間に尋ねる。

「さあな!顔も知らねぇや!」

 するとレイファンが拳銃を手に三人の前に立ちはだかる。

「な、なんなのよ!あんた達!」

「おい!ねえちゃん!黒影はどこだい?」

「なんの事よ!?」

「とぼけるな!ここに黒影がいるはずだ。」

 もう一人の男がレイファンに詰め寄る。

「お、おい!レイファン!下がってろ!」

 ロンが奥から出て来てレイファンの前に立ち三人の乱入者に拳銃を突きつける。

「おっ、お前ら!それ以上近づいてみろっ!こ、殺すぞっ!!」

 そう言って震える手で目の前の男たちに銃口を向けるが声にも表情にも恐怖と焦りが見て取れる。

 それを見て相手の一人が笑いだす。

「ハッハッハ!おい何だこいつ!銃が小刻みに震えてるぞ?…おい!慣れねぇ事してねぇで引っこんでな!」

 相手が全く怯む様子がないのでロンの焦りも頂点に達する。目をつむり思わず引き金に掛けた指に力が入る。

 乾いた破裂音と共に銃を握る拳に衝撃が来るとロンは立て続けに残りの弾を打ち尽くした。

「…!?」

 ようやく目を開くと目の前の男達は全員無傷で立っていた。

「えっ!?」

 周りの壁には銃痕らしき穴が開いていたが敵にはかすりもしなかった様だ。目の前の三人も互いに呆れたように顔を合わせると思わず噴き出す。

「アホか!お前!」

 そう言って敵の一人が銃をロンに向ける。

(!?…死んだ!!)

 ロンがそう思って目を閉じると何者かに背後から襟元をつかまれ後ろに引き倒される。何事かと開いた目に拳銃を握る手が見える。それと同時に三発の銃声が響きわたり男達は弾け飛ぶ様に倒れた

「ロン…度胸は認めるがなれない真似はするなよ…。」

 今しがた一階に下りてきた黒影が拳銃を握ったままロンに話しかける。後ろには九鬼の姿も見える。

「クロ!お前遅いんだよっ!!」

 ロンが腰をさすりながら立ち上がり、黒影を睨んだ。

「悪い、上が大変でね。」

「片づいたのか!?」

「何とかな…だけどまだ安心するな。敵はこいつ等だけじゃない。」

「どうするの!?」

レイファンが慌てたように尋ねる。

「とりあえずお前たち三人は地下通路を使って昔のアジトに逃げろ。」

「昔のアジトって…あの場所!?」

「そうだ。」

「ここからあそこまで繋がってるの!?」

「繋がってる…だよな?ロン!」

 黒影が振り向くとロンが頷いた。

「という訳だ。後で落ち合うとしよう。」

「クロはどうするの?」

「俺はここで敵を迎え撃つ。」

「一人で!?」

「いや…。」

 そういうと黒影は九鬼の方を向く。

「どうする?お前は?こいつらと一緒に先に逃げるか?」

 黒影が笑みを浮かべて尋ねると九鬼はムキになったように答える。

「舐めるな!敵を目の前に逃げるか!」

「別にお前の敵じゃないぜ?」

「同じことだ。俺の標的を狙っているんだからな!」

九鬼がそう答えると黒影は心の中で舌を出す。

(こいつは扱いやすい!)

「ならここに残って敵さんを迎え撃とうか!」

 そう言って今度はロンの方を向く。

「頼んだぞロン、あの地下通路はお前の方が詳しい、二人を頼む。」

 真剣な表情の黒影にロンも答える。

「分かった!…お前も無理すんなよ?生きて落ち合うとしようや!」

 その時、表の方で数人の足音が聞こえた、どうやら新手が来たようだ。

「…兄さん…。」

 キッチンの奥でメイが悲しそうに兄を呼ぶ。黒影も先ほど三人を撃った様子をメイに見られてしまった事に気付き目を伏せる。

「済まない…シャオメイ…。」

 しかし、そうしている間にも敵が来る。黒影はロンとレイファンの方に向き直る。。

「生きて落ち合おう!あの場所でな!」

「あぁ!そうしよう!」

 ロンがそう言ってキッチンに向かい隠し通路に入る。

「クロ!九鬼!死ぬんじゃないわよ!」

 レイファンもそう言い残してキッチンに向かうとそこで困惑の表情を浮かべるメイの腕を引いて隠し通路へ連れて行く。

 三人が無事隠し通路へ入ったのを確認すると九鬼が問いかける。

「敵は何者だ?」

「黄一家さ。」

「黄一家だと!お前、“御大”を敵に回したのか!?」

「あぁ、偶然だけどな。」

「偶然で敵に回す相手じゃないだろう!」

 その時、表で鋭い金属音がした。自動小銃を装填する音だ。

「来たな…。」

 黒影がつぶやくと同時に二人は床に伏せた。直後、表から激しい銃声が鳴り響き無数の弾丸が店の壁や窓を突き破って飛び込んで来る。店のテーブルや壁に数え切れない弾痕を残した。

「相当な人数で攻めて来やがったな!表はざっと五、六人くらいか。」

 そう言うと黒影は銃撃が止んだ隙に拳銃を握り直し店のフロア中央まで素早く移動するとそこにあるテーブルを倒し盾にする。九鬼も後に続いた。

「俺は表の連中をやる、お前は入り口から入って来る奴らを頼む!」

 黒影が口早にそう言うと九鬼は頷き入り口へ銃を向ける。

 カフェ・ド・ノワールの表側は入り口とその横に大きな窓ガラスが幾つかある。今は銃撃のため破られてしまったその窓の割れ目を黒影はテーブルの陰から覗き見る。敵の姿が表に幾つか見える。距離はおよそ十二メートル程、それに狙いをつけ引き金を引く。

 乾いた銃声が鳴り響き向こうで敵が一人倒れるのが見えた。それに反撃するように残りの敵が更なる銃撃砲火をこちらに浴びせる。

 しばらくの砲火の後、表で何やら金属製のカチカチとした音が聞こえる。おそらく弾切れのためマガジンを交換しているのだろう、その隙を黒影は見逃さなかった。

「入り口は頼んだぞ!」

 そう言うと素早くテーブルの陰から飛び出し窓際まで走りこむと窓の下に半身を隠して銃口を表に向ける。

「おい!狙ってるぞ!」

 敵の一人がそれに気付いて仲間に知らせるが、それより一瞬早く黒影の放った銃弾に一人が倒れるも先ほどの気付いた男が黒影目掛けて砲火を浴びせた。

一瞬早く身を伏せた為にかわす事が出来たが、頭の上から細かく割れたガラスの破片が降り注ぎ黒影のこめかみや頬に傷をつける。

その時、入り口から敵が二人ほど乱入して来て窓際の黒影に銃口を向けた。しかしそれをテーブルの陰に隠れていた九鬼が素早く撃ちとめる。

その隙に黒影は素早く立ち上がると窓の外にいる残り一人に銃口を向けた。相手もそれを察したのかこちらに自動小銃を向けていたが、相手が引き金を引くより早く黒影の拳銃が火を噴いたため弾ける様に倒れこんだ。

「おい!無事か?とりあえず表の敵はもういない!」

 黒影が九鬼に呼び掛ける。

「あぁ!大丈夫だ。お前の方こそ額から血が出てるぞ?」

「…これか?あぁ、大した傷じゃない。」

 額の血を手でぬぐって確かめると黒影はそう答えた。

「それより、俺たちもあの地下通路でロン達を追うとしよう!」

 そう言って奥のキッチンに向かう黒影の背後に九鬼は銃口を向ける。

「…撃ちたいのか?」

 黒影が前を向いたまま九鬼に尋ねる。

「…そのために来た!」

「なら撃てよ!親父の仇を討ちたいんだろう?それがたとえお門違いの相手でも!」

「…。」

「どうした?」

「…本当にお前じゃないのか?」

「信じる、信じないはお前次第さ!よしんば俺が本当にお前の親父の仇だったとしても同じ事を言うだろうしな!」

 九鬼は考えていた、ここでもしこの男が本当の仇でなかったとすれば、自分は恋人の兄を濡れ衣で殺す事になる。それ以上に九鬼の中で黒影が父親を殺した真犯人である事が疑問に思えてきてもいた。父親の死体にはいやに素人じみた傷跡が残っていたと聞いている。だとすれば、先ほどから常人離れした戦い方でこの窮地を脱した黒影が(例えそれが数年前だとしても)そんな傷を相手に残すだろうか。

「…今は…。」

「何?」

「今は決着を預ける!」

「そうかい!ならとっとと逃げるとしよう!さっきの銃声で警察も来るだろうしな!」

「一つ訊きたい。」

「何だ?」

「お前はナイフで敵を襲う時、どうする?」

「ナイフ?俺はもっぱら拳銃だが、短刀で白兵戦の時は敵の背後から喉元を一撃だな。」

「…そうか。」

「この非常時に戦闘のレクチャーか?首筋を狙うのは基本中の基本だろ?」

「そうだな…。」

「さぁ!無駄口叩いてないでとっとと行くぞ!」

 そう言うと黒影はキッチンの抜け穴に向かい九鬼もそれに続いた。

「おいっ!一体どうなってる!?誰か返事しろっ!!」

 カフェ・ド・ノワールから百メートルほど離れた場所に停まる車の中でレッジョは電話機を片手に怒鳴っている。

「どうした?」

 後部座席の崇が尋ねるとレッジョは困惑した様子で答える。

「そ、それがあの店に送り込んだ連中の誰からも返事がないんです!」

「全員やられたか…。」

「そんなっ!十人以上送り込んでますよ!?それを一人で…。」

「相手は黒影だ。」

「…。」

「イタチとヒガリはどうしてる?」

「あの二人はまだ突入してません…。」

「中へ入らせろ。」

 崇が命じるとレッジョはイタチの電話機に連絡を入れる。

 カフェ・ド・ノワールの店内ではイタチとヒガリがもぬけの殻となった店内を物色していた。

「あぁ、そうだ。誰もいやしねぇ!キッチンの奥に抜け穴みたいのがあった、恐らくそこから逃げたんだろう。」

 イタチが電話機を片手に店内の様子を報告する。一方、電話の向こうではレッジョがイタチの報告を崇に伝える。

「電話を貸せ。」

 暫く何事かを考えていた崇はレッジョから電話を受け取るとイタチに命じる。

「その抜け穴は恐らく街の地下通路に繋がっているはずだ。お前とイタチは今から俺が言う場所から先回りして黒影達を迎え撃て。」

 電話の向こうでイタチが応じる。

「…あぁ、うん。分った!三ブロック先な!はいよ!」

 そう答えると電話を切ってヒガリの方を向く。

「姉貴!」

「なぁに?」

 左手のマニキュアを塗りながらヒガリは退屈そうに答える。

「おい!真面目にやれよ!…兄貴が三ブロック先の地下道入り口から先回りして黒影達を迎え撃てとよ!」

「そう…ねぇ、これ見て。」

 ヒガリが足元に転がっている銃の薬莢を指して言う。

「薬莢がどうかしたか?」

「これ、誰が撃ったのかしら?」

「黒影だろ?」

「ならどうして口径の違う種類の薬莢が転がってるの?」

「…二種類の銃を使い分けたとか?」

「それならどうして口径を統一しないの?その方が効率はいいでしょ?」

「…確かに!どういう事だ?」

「ここにいたのは本当に黒影だけかしら?」

「他にも厨房係と女がいたろ。」

「そいつらは戦ってないでしょ?…黒影以外にもう一人戦える奴が居たってことになるわ。」

「…なるほど、鋭いな姉貴!」

「その辺りも考えに入れて行かないと危ないわね。…さて行きましょうか、兄さんは何て?」

「三ブロック先の地下道から…さっき言ったろ!」

「違う、その後は?」

「…『置き土産』を忘れるなとよ…。」

「あら!素敵!」

 そう言うとヒガリはここへ来るときに持ってきたバッグから時限タイマー付きのTNT爆弾を取り出す。

「どうも賛成できねぇ!」

 イタチが気に入らなそうに呟く。

「何が?」

 ヒガリが近くのテーブルに爆弾をセットしながら答える。

「こんな趣のあるライブバーも中々あるもんじゃない。それを発破しちまうなんて…。」

「あぁ、そういえばあんたジャズ好きだものね!それでつまり忍びないと?」

「こういう所で聞くジャズってのは格別なんだ!」

「仕方ないでしょ?もうすぐサツも来ちゃうしそうすると色々調べられる…都合の悪いもは全部燃やしちゃわないとまずいでしょ?」

「…。」

「不貞腐れないの!」

 そう言ってヒガリは爆弾の起動スイッチを押しイタチに言う。

「後、三分で爆発よ!」

「…ならとっとと行こう!」

 二人は足早に店を出ると表ではパトカーのサイレンが近づいていた。

「連中驚くぞ!」

 イタチがそう言うとヒガリが停めていたバイクに跨りやって来る。イタチも後部に乗ると二人はその場を後にした。

 一分後、カフェ・ド・ノワール前に到着した警官隊はパトカーを盾に銃を構え、拡声器で投降を呼び掛けるも返答がないので突撃部隊が突入を試みる。

 直後、店は轟音と共に爆発し警官数十名が犠牲となった。

-14・地下通路-

「おい!何だあの音!?」

 アジトへ向かう地下通路の途中で後方から響いてきた轟音を聴いてロンが声を上げる。

「まさか爆発!?…一体上で何が起こってるの!?」

 レイファンも驚愕の表情を浮かべる。

「…兄さん達、無事なのかな!?」

 メイも不安の表情で問いかける。

「分らない…でも、クロの事だ、何とか切り抜けてるだろう…。とにかく今はアジトに急ごう!」

 ロンがそう言うと一行は不安を抱えながらも先を急ぐ。暫く進むと前方でふと、物音が聞こえる。ロンが声を潜めレイファンに話しかける。

「…!何だ?前から誰かやってくるぞ!?」

「クロ達?でも何で前からやって来るの?」

 レイファンが怪訝な表情でそう答える。ロンは手にしていた懐中電灯を前方に向けると数メートル先に二つの人影が見えた。

「クロか?」

 ロンがそう呼びかけながら懐中電灯の明かりを更に前方の人影に向ける、するとその先に立っていたのは見た事のない男女だった。

「やっぱり!ここへ逃げ込んでたのね。」

 女の方がニヤリと笑って男の方へ話しかける。

「こんな便利な通路があったとはねぇ!でもあそこに居るのは黒影じゃなさそうだな。それに女も二人居る。兄貴が言ってたのはどっちなんだ?」

 男の方も左手でリンゴを頬張りながらそう答える。そこに立っていたのは先回りして待ち伏せたイタチとヒガリだった。

「誰だ!お前ら!?」

 ロンが目の前の二人に呼びかける。黒影の名を口にしている事からどうやら敵の待ち伏せらしい。ロンは懐中電灯を左手に持ち替え、右手を拳銃の仕舞ってある腰元へと伸ばす。

「お前に用はねえよ。それより黒影はどこに居る?」

 イタチがリンゴを頬張りながらロンを鋭い目で睨む。

「ここにはいない!」

「そうかい、ならそこで大人しくしてな。まかり間違ってもその右手の先にある物を突き出そうと考えるんじゃねえぞ?死にたくなかったらな!」

 イタチに更に鋭い目で睨まれロンも思わず怯む。イタチはロンに構うことなく前に進み出るとレイファン達の前に立ちふさがる。

「ところでそこの女二人、お前らは…」

「その二人に手を出すな!」

 ロンがそう怒鳴りながらイタチの後頭部に拳銃を突きつける。しかし、それと同時にイタチも後ろ蹴りを腹部に食らわせると背中から地べたに転がったロンに拳銃を突き出す。

「大人しくしてろと言ったろ?死にてえのか?」

「やめなさい!」

 今度はレイファンがイタチの頭に銃口を突きつける。しかし、その瞬間空を切る音がしたかと思うと手にした拳銃が弾き飛ばされる。地に転がったそれを見るとそれは真っ二つに切られていた。

「あなたこそ止めておきなさい?それは子供の玩具じゃないのよ?」

 いつの間にかレイファン達の近くにやって来たヒガリが手に鞭を持って不気味に笑う。よく見るとそれは所々に剃刀の刃のような物をつけた鞭だった。

「レイファン!」

 メイが悲鳴を上げてレイファンに駆け寄る。

「大丈夫よ…銃が切れただけだから…。」

 レイファンが右手をさすりながら答える。

「心配しないで…私の後ろに下がってて!」

 庇うようにメイの前に立つ。

「そうか…。」

 イタチがニヤニヤと不気味に笑いながらレイファンを見る。

「お前がレイファンか!」

 それを聞いてレイファンも驚きの声を上げる。

「何!私がレイファンならどうだって言うの!?」

 イタチがヒガリに声をかける。

「姉貴!こいつだ!とりあえず黒影が居ないならこいつだけでも連れて帰ろうや!」

「ダメよ!黒影を殺してその子を連れて帰る、そういう命令でしょ?」

「だが、下手すりゃサツがここまで来ないとも限らねえぞ?」

「後の二人は?」

「男の方に用はねえ!殺しちまおう!だけどもう一人の女は…。」

 イタチがより一層不気味な笑いを浮かべながらメイに近づく。

「二人ともいい女だが、この眼帯の子も好みだ!…おい姉ちゃん!俺の女にならねえか?」

 リンゴの最後の一口に噛り付き芯を投げ捨てるとイタチはニヤニヤとメイに近づいた。その瞬間、レイファン達の後方から銃声が轟いたかと思うとイタチが弾け飛ぶ様に倒れた。

「汚ない面で近づくな…。」

 レイファン達が振り向くとそこには銃を手にした黒影が立っていた。

「クロ!」

 ロンが立ち上がって呼びかける。すると、背後から襟元を捕まれた。

「…!お前が黒影か!銃を捨てな!こいつの頭に風穴を開けられてえか!」

 見るとさっき撃たれたはずのイタチがロンに銃口を突きつけている。ジャケットの胸元には確かに穴が空いているが、どうやら中に防弾チョッキを着込んでいたらしい。

 一命は取り留めたものの、胸に銃弾の衝撃を食っているだけあって苦しそうに息を吐いている。

「防弾チョッキとは用意周到だな。だが、次は眉間に撃ち込む…早くそいつを放せ!」

 黒影は少しも怯む様子もなくイタチに銃口を突きつけている。左目の瞳孔は赤く染まり、通路内の暗さも手伝ってか死神の様な不気味さをかもし出している。イタチは噂に聞く黒影の左目と雰囲気に若干の身震いを感じていた。

「うるせえ!早く銃を捨てろ!こいつを殺されてえか!」

 恐れを吹き飛ばそうとする様に怒鳴り声を上げロンのこめかみに銃口を押し付ける。しかしその瞬間、背後に気配を感じたかと思うと頭に強い衝撃を受けその場に倒れた。

 薄れる意識の中で見上げると自分の頭を殴りつけたと思われる拳銃を手にした九鬼が立っていた。

(こいつが姉貴の言ってたもう一人か!?)

 警戒をし損なった事を悔いる間もなくイタチは気を失った。

「俺の女に近づくな…。」

 九鬼の捨て台詞を聞いて黒影が横槍を入れる。

「なら、殺しちまえよ。」

「こいつには聞き出すことがある。」

「その手の奴は吐かねえぞ?」

「馬党の拷問術を忘れたか?」

「…なるほど!あれは確かに穏やかじゃねえ…」

 そこまで言いかけてふと、黒影は敵側の女が見当たらない事に気づく。

「みんな伏せろ!」

 聞くが早いか全員地に伏せると、頭上で空を切る音と共に通路内の壁にぶつかる激しい金属音が響き渡る。

 コンクリート製の壁に火花を散らすそれは恐らくヒガリの刃を付けた鞭だろう。どこに居るのか暗がりの中で振り回しているようだ。

「クロっ!ここは…。」

 ロンがある事に気付き黒影に耳打ちする。

「…何、そうか!…レイファン!」

「何!?」

「“アレ”は持って来てるか?」

「…持ってるわ!」

「俺が奴を撃ったら使え!」

 そう言うと黒影は尚も振り回される鞭の出所を探る。壁に叩きつけるられる度に散る火花が一瞬ヒガリの居場所を照らし出した、そこへ弾丸を撃ち込む。

「…ッ!?」

 声にならない叫びを上げて被弾したヒガリは倒れこむ。恐らくはイタチと同様に防弾チョッキを着込んでいることだろう。再び立ち上がる前に逃げなければならない。

「行け!」

 黒影が言うと、レイファンは懐から発煙筒を取り出しピンを抜き放り投げる、するとそれは物凄い煙を吐き散らしながら地面を転げ回る。

「今だ!」

 黒影の号令でロンが壁際へ走ると周りの壁より一段凹んだ場所に立ち皆を手招きする。

 ようやく立ち上がったヒガリが激しく上がる煙の中で見渡すと壁際に逃げようとする敵の姿が見えた。そうは行くかと再び鞭を振り上げると、そこに敵の姿は一人も見えなくなってしまった。

「…!?どこへ!?」

 暫くして発煙筒が止まり、煙が晴れるとそこには地面に倒れたイタチと鞭を手に呆然と立ち尽くすヒガリの姿だけがあった。

 数分後、そこへ合流した崇にヒガリは事の顛末を話す。

「つまり、仕留め損なったのか?」

 それを聞いて目を覚ましたばかりのイタチが頭を押さえながら不平を言う。

「そうは言うけどよ!予定外の伏兵は居るし、手品みたいなトリックは使うはでどうにもならねえよ!」

「馬鹿者が!…ヒガリが伏兵の可能性を示唆していた筈だろう?しかも発煙筒は黒影がよく使う手だ。実際パンが殺された時も使われた可能性がある。それに…。」

 そう言うと崇は通路の壁際に寄りそこをじっと見つめる。周りより一段凹んだ壁を手で押し込む。

 すると、そこは回転扉の様にぐるりと回って奥の通路へと繋がっていた。

「この地下通路は百年近くも昔に作られたもので全容がどうなっているか知る者は少ない。…しかし、どうやら連中の中にはこれに詳しい者が居るようだな。」

「そ、そんな隠し扉が!?」

 ヒガリが思わず驚きの声を上げる。先刻、敵の姿が消えたのはこういう仕掛けだったのだ。

「恐らく、連中の中に“土竜”の末裔が居るのだろう。」

「土竜って、あの窃盗一味の?」

「そうだ、この月影街の裏社会で代々窃盗を営んできた一族、それも昔の話でもう何年もその活動は耳にしないがな。謎に包まれるこの地下通路の建設もその一族の祖先に深い関わりがあると聞く。…奴等の中にあの店の厨房係りがいたな?」

「ええ…確か、ロンとか言う名前だったわ。」

「それが恐らくは土竜の末裔だろう。戦闘には優れないが地下工作は奴等の最も得意とする所だからな。」

 それを聞いてイタチも悔しそうな声を上げる。

「やっぱりあいつ殺しときゃ良かった!」

「…もう一人の伏兵は何者だ?」

 崇が尋ねるとヒガリが答える。

「名前は分らないわ…。只、途中で馬党の拷問術がどうとか言ってけど?」

「…馬党の残党か?」

「でもまだ若かったわ…馬党のあった頃でもまだ子供だったんじゃないかしら…。」

「イタチは何か覚えてないか?」

「俺も気づいたら頭を殴られていた…暗がりとはいえ、姿も見えなかったし気配に気づいた時はもう…。」

「…気配を消し、馬党と関わりが…“馬党狩りの九鬼”か…。」

 崇がその名を口にするとイタチが驚きの声を上げる。

「何だって!?あいつが何で月影街に居るんだよ?砂漠地帯で馬党の残党を専門に狙ってたんじゃないのかよ!」

「それは分らん…。だが黒影もかつては馬党に身を置いていたと聞く。何かしら繋がりがあるのだろう。」

 ヒガリが問いかける。

「それで、どうするの?この抜け道の先を追う?」

「いや、無駄だろう。この地下通路自体が迷路のような構造になっている…既に奴らはこの先で道を変えている事だろう。」

 それを聞き、イタチが苛立ちを浮かべる。

「じゃあ、どうするんだよ!このまま奴らを逃がすってのかよ!」

「逃がす訳なかろう、どこへ逃げようと必ず追い詰める…だが、今は一時退却だ。」

 そう言って崇は通路の出入り口へ向かう、ヒガリ達もそれに続く。

-15・アジト-

 月影街南部のカフェ・ド・ノワールから東へ二キロほどの距離に一軒の廃屋があった。一年前、黒影とロンとレイファンがカフェ・ド・ノワールを買い取る少し前まで根城にしていた場所だった。例の地下通路からもやはりここへ繋がっており、黒影達一行は今しがたそこへたどり着いた所だった。

「おう!随分と来てなかったけど昔のままだな!」

 ロンが床下から顔を覗かせ中の様子を見ながら言う。

「それは結構!早く上がるとしよう!」

 黒影も後ろから嬉しそうに答える。

一行は中へ上がるとリビングにある椅子やソファーに腰掛ける。ついさっきまで死闘を繰り広げていたのだ、ここへ来てようやく全員一息を付いたところだった。

「しかし、命辛々だったな!」

 誰もが急に口を閉ざし互いに目も合わさず気まずい空気が流れたので、ロンがおどけるように口を開いた。

「…全くだな…。」

 黒影もそれに気づいて答えるが、元は自分が原因で始まった戦いのため負い目を感じずには居られなかった。

「それで?どうするつもりだ?」

 九鬼が黒影を睨み尋ねる。

「どうだっていいじゃない!…今はそんな事より疲れたわ!私シャワー浴びたい!」

 レイファンが苛立つように九鬼の言葉を遮る。

「おう!シャワーか!使え!使え!」

 ロンが尚もおどける様に答える。

「えっ!お湯出るの?」

「出るとも!ここは二ブロック先に市営の施設があってな!そこに繋がる水道のパイプをちょっと拝借してここにも引いてあるんだ!なぁに、呑気な役人共はそれには少しも気づきはしないさ!電気だってそうだ、今ここの明かりはやっぱりそこのを拝借してる!」

「さっすがロン!用意いいじゃない!じゃ、心置きなくシャワータイムを楽しめるわね!…あんた達、覗いたら首をへし折るわよ!」

「そんな命知らずはここにはいねぇよ!心配しないで行水してきな!」

「なら行って来るわ!…メイ!」

 呼ばれてメイも一瞬驚きの表情を見せる。

「一緒に入らない?」

「えっ…いいの?」

「昔はよく一緒に入ったじゃない?」

「…うん。」

 俯いている間にレイファンに手を引かれシャワールームへと連れられる。

「ほお…。」

 メイが風呂場へ向かったのを見てロンがにやけた表情を浮かべる。

「ロン!」

 黒影が強い口調でロンを呼ぶ。

「な、なんだよ!?」

「言っておく事が三つある、一つ、あれは俺の妹だ、二つ、今更言うまでもないが俺は殺しのプロだ、三つ、俺の銃にはまだ弾丸が残っている。」

「な、なんだよ急に!おっかねえな!…覗くわけねぇだろう!レイファンに首を折られ、お前に蜂の巣にされ、それでもメイちゃんの生まれたままの姿を覗きたがると?」

「ついでに言っておくが、俺も殺し屋で、メイの恋人で、銃には弾丸が残ってる!」

九鬼もロンを睨み懐に手を伸ばす素振りを見せる。

「なんだよ!お前もかよ!…命が幾つあってもたりねえな!」

 ロンはおどけながら、近くの棚からウィスキーの瓶とグラスを出してテーブルに並べた。

「ま、とりあえず飲もうや。」

 グラスにウィスキーを注ぎながら黒影に尋ねる。

「さっきの連中って、夕方店に来たマフィアと関係あるのか?」

 黒影も注がれたグラスに口をつけながら答える。

「あぁ、黄一家の大幹部、通称『命狩りの崇』だ。」

「それが分らない、どういう経緯でお前は崇を敵に回した?」

 九鬼も先刻からの疑問を投げる。

「まぁ、話は二週間ほど前に遡る、カフェ・ド・ノワールの近くをシマにしてるパンていうチンピラがいてな、それが突然ショバ代をよこせと言って来たんだ。カフェ・ド・ノワールは仮にも合法の店だ。それがマフィアなんかにショバ代を払う謂れはないと突っぱねたんだが、奴の狙いは店ではなかったんだ。」

「お前か?」

「そう、どこで聞きつけたんだか俺が黒影だと知ったらしくてな、パンの旦那、豪胆にも俺からショバ代を取ろうとしたんだ!…南部のスラム一角の手下十人足らずのチンピラがだ!…自分で言うのも何だが、仮にも紅眼殺手の黒影と言われた俺からショバ代だと!…あんまりにも馬鹿ばかしいんで俺も全く相手にしてなかったんだ。ところが…」

「俺がさらわれちまってね!」

 ほろ酔い加減になってきたロンがややおどける様に付け加えた。

「そう、パンのおっさん、こいつを誘拐して俺をおびき出し、こいつを殺されたくなければショバ代を払えと言って来た…それで仕方なく…」

「パンを殺したという訳か?…実はパンというチンピラが殺された話は俺も掴んでいた。そして、それが黒影の仕業だという説も出ている事を…俺は長年あんたを探してきたからな、その線で調べていったらカフェ・ド・ノワールにたどり着いた…始めはレイファンがやっている店とは知らなかった。…皮肉な巡り合わせだ、まさかそこであの子に会うなんてな…でもそれ以上に皮肉なのは…。」

 九鬼がそこまで言って続きを言いよどむ。

「シャオメイが俺の妹だって事か?」

 黒影がその先を続けた。

「…あぁ…。」

 黒影がグラスの中を飲み干し、意を決したように九鬼に尋ねる。

「お前、あの子に近づいたのは俺をあぶりだす為か?」

「違う!俺は元々、レイファンと旅をしていてその途中であの子に出会った。俺の親父を殺したのがお前だという話をとある人物から聞いたのもその後だ!…だが、メイがあんたと何かしらの関わりがあるのではないかとは始めから思っていた。…涙を流すときに赤く染まるあの子の左目…それを見た時、馬党に居たころに一度だけ見たあんたの左目を思い出した…。始めは似たような体質を持つ人間が世の中に居るのかも知れないと思っていた。…だが、あの子が折に触れて話す、数年前に旅に出てしまった『兄さん』の思い出を聞く度ごとに、あぁこの子はもしかしたら黒影の妹かも知れないという考えが頭を巡り、その都度それを振り払った。…だが、これだけは誓って言う、俺はあの子を敵討ちの道具になんて考えた事は一度だってない!」

「…それを聞いて少しだけ安心した。…いいか、九鬼、俺は今更兄貴面であの子の人生にとやかく言うつもりはない!そんな資格もないと思っている。あの子が愛するのなら…本当は堅気の人間と幸せに暮らしてもらいたいが…たとえ裏の人間でも悪魔でも、あの子の気持ちを汲んではやりたい。俺を敵と思うなら思えばいい、殺したいなら、八つ裂きにしたいならいつでも掛かってくるがいい!だが!これだけは言っておく、もし、あの子を、シャオメイを傷つけ悲しませる事があったらその時は殺すだけでは済まんぞ?」

 そう言って黒影は九鬼を鋭い目付きで睨み付けた。左目は戦う時と同様赤く染まっていた。

「それだけは命に誓って言おう、あの子を傷つけるつもりは毛頭ない!」

 九鬼も力強い目で黒影を睨み返す。ふたりの間には先刻カフェ・ド・ノワールの二階で銃を向け合っていた時とは別の意味での緊迫した雰囲気が漂っていた。メイを片や妹として、片や恋人として愛する二人の想いが目には見えない大きな波動の様に激しくぶつかり合うようであった。

「少し、話し込みすぎたな…ロンさんとやら、ここには寝室は幾つある?」

 九鬼はグラスの中を飲み干すとロンに尋ねた。

「あ?ああ、四、五部屋あるぜ、好きなの使いな!」

「そうか、では使わせてもらう。これからの事は明日考えるとしよう。…酒ご馳走さん!俺は先に休ませて貰うよ。」

 そう言って九鬼はソファーから立ち上がり寝室の方へ向かって行った。

 それを見送ってロンは黒影に話しかける。

「なぁ、おい。あいつは結局お前の敵なのか?味方なのか?」

「なんとも言えないな!何度も言うが俺は奴の親父は殺していない、そして奴もそれは薄々気づき始めてるだろ?…根は悪い奴ではないと思う。…俺は奴の父親を知っている。信念を持った立派な人だった。俺は尊敬していたよ、ジェルド・ラウといえばお前も聞いた事はあるだろう?」

「南方山岳ゲリラ、馬党の闘将だよな?クロも馬党にいたんだっけ?」

「そうだ、帝国側は“国賊”なんてぬかしやがったが、あれは帝国軍にもいない立派な軍人だった。…その息子だ。芯は通ってるはずだろう。」

「そうでもなきゃ、妹は任せられないと?」

 ロンがからかうように言った。

「…おい、酒がない、もう一杯くれ!」

 黒影もさっき感情的になったのが気恥ずかしいのか誤魔化すように話題を変える。

 

 レイファンとメイはシャワーから上がり一旦リビングへ向かったものの、黒影とロンは酒に酔ってそれぞれソファーで寝込んでいる。

 九鬼は奥の寝室で寝ていたがメイは黒影や他の連中に気兼ねしてかレイファンと同じ寝室で寝ることにした。

 ベッドの上で毛布を被りながらメイは恐るおそるレイファンに問いかける。

「ねぇ、レイファン?」

「何?」

「怒って…ないの?」

「何を?」

「だから…その…」

「昔の事?」

「…うん。」

「怒ってるわよ?」

「えっ!」

「気にしてない…なんて白々しい事は言わないわ!でも…。」

「…。」

 レイファンはメイの方を向くと、髪をぐしゃぐしゃと撫でて笑いながら言った。

「メイに会えたのが嬉しいのも本当よ!」

 それを聞いてメイも俯きながら嬉しそうに微笑んだ。

「そのすぐ俯いちゃう癖、昔のままね!」

 からかうようにレイファンは笑う。

「…ねぇ、レイファン、これからどうなるのかな?」

 メイが少し不安そうに尋ねる。

「…分らない、なんだか大変な事になっちゃったね。一体何がどうなってるのか、明日クロに問い詰めないとね。…でも…。」

「でも?」

「きっと大丈夫、なんとかなるよ、皆いるんだし。」

「…強いね。レイファンは…。」

「そんな事ないよ。」

 そう言ってレイファンは寝返りを打つ。

「メイ。」

「?」

「お兄さんに再会できてよかったね。」

「うん。」

「あいつもきっと喜んでるよ。」

「そうかな?」

「…ずっと前、一度だけあいつが妹の話をしたことがあったの、その時の表情が凄く愛おしそうだった。」

「…。」

「…メイ、もう寝たの?」

 見るとメイは既に寝息を立てていた。その寝顔を見てレイファンは微笑む。

「…。」

 ベッドに仰向けのまま天井を見つめながらレイファンは地下通路での事を思い出していた。

『姉貴、こいつだ!』

 イタチが言った台詞が気になっていた。連中は黒影を追って来たはずである。しかし、同時にレイファンも狙っていた。

「なんで?」

 レイファンは例えようのない不安に襲われた。

「まさか…?」

 しかし、レイファンの中で一つだけその答えに近づく記憶があった。

(やはりどうしても、運命は私を追って来るのね…。)

 この先自分に何が起こるのか、漠然としながらも根底にある力強い悪い予感を感じてレイファンは沈むような気持ちだった。

(せめて、後少し、皆といれたら…)

 隣で眠るメイの手を握り締め、祈るような気持ちのまま彼女は眠りに落ちていった。

-16・崇の理由-

 夜明け近く、月影街の港十三番倉庫付近の車中で崇は昨日と同じく汚職警官から情報を受け取っていた。

「まったく、爆発事件とはあんたも派手な事をしてくれたね!お蔭でこっちはついさっきまで現場検証だよ!」

「済まんな、厄介な獣狩りをしていてね。」

「まぁ、それはいいが…これだ。現場はすっかり焼け跡だったが二階の所々で焼け残ったものがあるよ、と言ってもたいした物ではないがね。」

 崇は受け取った資料に目を通す。焼け跡の写真、ビニール袋に入っている焼け跡から見つかった所々にこげ後のある書類、しかしそれらの物には期待している黒影の居所を示す部分は見当たらない。

(やはり、奴も馬鹿ではないからな。)

 その時、ふと崇の手が止まった。

「これは何だ?」

「うん?何って…これは地図じゃないか?しかし、随分と古い!」

「地図…。」

 それは今から数十年前の月影街の地図だった。今とは多くの部分で道路や建物の位置が違う古い地図。

「なんでこんな古い地図を持ってんだかね!この街の歴史でも調べてたのかね!」

 そうおどけた様に言って汚職刑事は笑う。

「…いや、歴史を調べてたのではない。奴は探しものをしていたのだろう。」

「探し物?」

「あぁ、奴もあれを探していたとはな…。」

「あれって?」

 汚職刑事が怪訝そうに尋ねるも崇はそれには答えず懐から封筒を取り出して告げた。

「ご苦労、いつもの謝礼だ。」

「お、おう!ありがとさん!…それで、これから先はどう動けばいい?」

「警察はどんな動きだ?」

「いやあ、流石にあの爆発で組織課も重い腰を上げたよ!…警官も何人か死んでるからね、場所がパン殺しの件で名前の出た店だったし、あの一件を軽く見た事を今更ながら問題になってるよ!」

「組織課も乗り出したか…刑事課はどんな具合だ?」

「俺達も組織課と連携して捜査する事になったさ、あの店にあった死体はほとんど黒焦げちまって見分けがつかねぇが、少なくともあの店の店主や従業員ではないと見られてる、おまけに現場には銃撃戦の跡もはっきりとあったしな!そんな訳で警察じゃ今はあの店の消えた従業員を探してるって訳さ!」

「…そうか。」

 崇は目を閉じて腕を組み何かを深く考え込んでいるようだった。やがて目を開くと汚職刑事に告げる。

「とりあえず、お前は暫く大人しくしていろ、うかつに動いて我々の間者である事が発覚するのは避けたい。しかし、一つ頼みがある。」

「なんだい?」

「例の組織課崩れのチャン警部、奴は見張っておいてくれ。」

「チャンを?あんたこの間も気にしてたよな?そんなに厄介なのかい奴は?」

「あぁ、かつて我々の組織の倉庫を嗅ぎつけた男だ。最も御大の根回しで逆に左遷にまで追い込んだがな。」

「それで、刑事課に!そんならあんたらの事もさぞや恨んでるだろうな!なるほど、気をつけとくよ!」

 そう言って汚職刑事は早々と崇の車を降りると自分の車に乗り込み去っていった。それを見届け崇は運転席の方を向く。

「リッジョ、御大の屋敷へ向かうぞ。」

「分りました。」

 そう答えるとリッジョはエンジンをかけ車をスタートさせる。暫くは黙って運転していたが、やがて切り出しにくそうに後部座席の崇に問いかける。

「崇さん、一つ聞いてもいいですか?」

「…何だ?」

「崇さんは何であの黒影にそんなに拘るんですか?…いや勿論、組織にとって危険分子というのは分りますが、別に直接、御大や崇さんに刃を向けたわけじゃない、パンを殺したってのは分りますが、それだって我々と関係ある事では…」

「…知りたいか?」

「…はい!」

「それはな、奴が…」

「…?」

「…かつて俺が殺した男の息子かも知れんからだ…。」

「えっ、殺した男って、それじゃあ、奴は…。」

しかし、祟はそれ以上は何も言わず懐から細葉巻を出して火をつけた。リッジョもそれ以上は何も聞かず御大の屋敷へ向け黙って車を進めるしかなかった。

-17・レイファンの回想-

 真夜中、レイファンは大きな物音に目を覚ました。

隣を見ると母はいない、どこだろうと探すとリビングの方から声がする。

「ママ…?」

 彼女はベッドから起き上がって寝室のドアをそっと開ける、明りの着いたリビングで母親と誰かが話し合っている。

「…に見つけ出された…済まない…。」

 相手の男が頭をうな垂れ母親に何かを謝っている。

「…なんで!…私たちは無関係でしょ!?」

「それは分かっている、この件は俺がなんとしてもケリをつける。お前はレイファンを連れて早く遠くへ…。」

「いやよ!」

「リーユイ!」

「だってそうでしょ?またあの人のせいで私の人生引っ掻き回されるのはごめんだわ!」

「それは分からないではない!でも、今回ばかりはお前だけでなくレイファンの身にも危険が…。」

「貴方が気安くあの子の名前を口にしないで!」

「…。」

「あの子の父親を殺した男が貴方ではないと言い切れないでしょ…。」

「…それは、誤解だ…。」

 父親を殺した男…。レイファンの父親は彼女が生まれる前に死んでいて、母親から聞いた話では事故で死んだはずだった。

 レイファンはあまりの事に自分の耳を疑いながら同時にとても恐ろしい気持ちになっていた。彼女には自分自身も知らない身の上があるらしい、確かに昔から母に父親の事を聞けば悲しそうな顔で「あなたのパパは事故で死んだのよ…。」というだけだった。同時に母親には親戚と思しき人も見当たらなかった。

 幼い頃にはレイファンもそれを特に気には留めなかったが、最近では少しづつそれを不思議に思い始めていた。

 一体自分と母親は何故二人きりの親子なのだろう、母にはシンガーとしての仕事上での付き合いのある人しか居ない、親や兄弟はおろか幼馴染さえ見当たらない。

 自分が生まれたのは遠い街だが、数年前に月影街にやって来て以来ここに住んでいる。

 そこへ今、謎の男が現れ母親と話し込んでいる、それも何か緊迫した様子で自分達二人にどこか遠くへ逃げろと言っている。

 この男は何者か?母親との関係は?父親を殺したのは本当にこの男なのだろうか?

 色々な事が頭を駆け巡り、レイファンはこの謎の来訪者の顔を見ようと寝室のドアをもう少し開けたが、その時、

「レイファン!?まだ起きてるの?」

 と母親の声が聞こえた。

 どうやらドアが開く気配に気づいたらしい。母親はレイファンの元へやってくると優しく髪を撫でながらあやした。

「ごめんね、うるさかったでしょ?」

「ううん、大丈夫…。ママ、あの人は?」

 レイファンがそう訊くと、母親は誤魔化すように言った。

「なんでもないわ、只の友達よ…あなたは気にしないでいいから寝なさい。」

 そう言って母親は彼女を寝室のベッドの上へと連れて行く。

「寝付くまで側にいてあげるから、安心して寝なさい。」

 そっと毛布を掛けると母は子守唄を歌いながらゆっくりと娘の髪を撫でる。

 レイファンはそんな母の優しさに、尋ねたかった幾つもの質問を胸に収め眠りについていった。

-18・覚悟-

  翌朝、目覚めたレイファンの頭上にはいつもと違う天井が見えていた。

「そっか…昨日…。」

 起こった騒動を思い出す。店を襲撃され地下道を通ってここへ逃げこんできたのだった。

「あの夢…。」

 子供の頃の夢を見ていた、まだ母親が生きていた頃の夢を。

「…?」

 隣を見るとメイが居ない、恐らく先に目覚めて居間か食堂に居るのだろう。レイファンも身を起こすと洗面所へと向かった。

 顔を洗い食堂に向かうとキッチンではメイが朝食の支度をしていた。レイファンに気付き声を掛ける。

「おはよう!よく眠ってたね!もうすぐ朝ごはん出来るから!」

 そう言って朝食の支度を続ける。卵が焼かれる音が響き部屋の中は食欲をそそる香りで溢れている。

「久し振りだね!メイの料理!楽しみにしてるわ!」

 見るとキッチンにロンの姿もあった、確かに厨房係で普段からレイファンや黒影の食事もロンが作っている。しかし、今日はそれを口実にメイに接近しようというつもりなのだろう、よく見ればやけに上機嫌な顔をしている。

 リビングへ向かうと黒影がソファーに腰を下ろし銃の手入れをしていた。

「おはよう。」

「よう、やっと起きたか!」

「昨日の疲れでね、ぐっすり眠れたわ!」

「そりゃ結構だ!」

「ねぇ、キッチンであんたの妹が涎を垂らしたハイエナに狙われてるわよ!」

「知ってる、大丈夫だ。少しでも不穏な気配を感じたら直ぐに射撃練習の的にしてやると言ってある。」

「それなら安心ね!」

 そう言ってレイファンもソファーに腰を掛ける。本当なら朝食を作るメイの手伝いをしたい所だが、生憎とレイファンは料理はあまり得意ではなかった。

「そういえば九鬼は?」

「ん?そういえば見てないな、皆が寝てる間に逃げたんじゃないか?」

 小馬鹿にするように黒影が言うと廊下から声があった。

「人聞きの悪い事を言うな!」

 見ると九鬼がリビングに入って来た。

「こいつを買いに行っていた。」

 そう言うと新聞をテーブルに放り投げる。

「気が利くね!」

 そう言って黒影は新聞を広げる、やはり昨日の事件が記事になっていた。

(スラム街で爆発事件:昨夜、月影街南十二番街にあるライブバー「カフェ・ド・ノワール」で銃声が上がったとの通報を受け市警が駆けつけた所、店自体が爆発炎上するという事件があり店内へ突入した四名、及び店外で待機していた六名の警官が犠牲となった。鎮火後の調べでは使用されたのはTNT火薬と見られており店内には他にも爆発前に銃撃により死亡したと見られる死体もいくつか見つかっているが、これがこの店に住む店主及び従業員のものかは損傷が激しい為に判別不能となっている。警察では組織的な犯罪に巻き込まれた可能性があるとして捜査を進める方針だ。)

「派手にやられちまったな…!」

 そう言って黒影はレイファンにも記事を見せる。そこには見るも無残な姿となったカフェ・ド・ノワールの姿があった。

「…やっぱり、あの時の爆音…。」

 そう言って新聞をテーブルに置くと彼女は両手に顔を埋めた。

「悪かった、店守れなくて…。」

 レイファンの髪を撫でながら黒影が済まなそうに言う。

「別にクロのせいじゃないでしょ…。」

 そう言うとレイファンはソファーから立ち上がる。

「修理代はあいつ等からきっちり搾り取ってやるわ!当然よね?」

 レイファンは勿論の事、黒影やロンにとっても大事なものであるカフェ・ド・ノワール、それが爆破されたショックは例えようのないほど大きかったが、現実問題として彼らは敵に追われている身でもあり嘆き悲しんで隙を作ってもいられなかった。

 気丈にふるまうレイファンを見て黒影もいじらしくなる。

「あぁ、勿論だ!あいつらには命で償わせる…だが…。」

 黒影は崇達とは決着をつけるつもりでいたが、その前にやらなければならない事があった。

「おい!お前ら!飯だぜ!」

 キッチンからロンの呼ぶ声が聞こえた。

「…ひとまず朝飯にしよう。」

 そう言うと黒影は食堂へ向かってしまった。

「…あいつ…。」

 レイファンは黒影が何を考えているのか分かっている様だった。

「どうした?」

 九鬼が尋ねる。

「…ううん、なんでもない…。」

首を横に振るとレイファンも食堂へ向かった。

 食堂ではテーブルに豪勢な朝食が並んでいる。昨日の今日ここへ逃げ込んできたばかりにしては豊富に揃った食材だった。

「おい、ロン!昨日逃げてくるときにポケットに冷蔵庫の残りでも詰め込んできたのか?」

 黒影がおどけるようにロンに尋ねる。

「なわけねぇだろ!こいつは俺が朝早くに近くの市場でささっと買い揃えてきたのさ!」

「やるな!厨房係!」

「まかせろ!」

 ロンも誇らしげに胸をはる。実際、黒影達にとってもこれは助かる事だった。

「凄いね!ロンさんプロだけあって料理上手なんだよ!」

 メイも楽しそうに言う。それを聞いてロンは嬉しそうな表情を浮かべた。

(なるほど、朝早くの買出しもいつにも増しての豪華な朝食も、奴にとっては『お姫様』の為か!)

 そう思うと黒影もこみ上げる笑いを抑えるのに大変だったが、ここで笑ってはロンの面子に傷がつく。

「シャオメイ、また教えてもらえ!」

そう言うとメイも笑顔で頷く。それを見てロンがさらに感激の表情を浮かべる

(飯は豪華になり、シャオメイにとって為になる。こいつはいい!)

口に料理を運びながら黒影は内心しめたと思っていた。

「こんな時になんだが、話しておきたい事がある。」

朝食を食べ終わると黒影が改まった様子で言った。全員の視線が集まると彼はゆっくりと話し出した。

「知っての通り、昨日俺達は黄一家の崇の襲撃を受けた。原因は恐らくパンを殺した報復だろう。つまり連中の狙いは俺だ、今後も俺を狙って刺客を送り込んでくるに違いない。つまり昨日みたいな事はこれからも起きるという事だ。昨日は幸いにして全員無事にここまで逃げてこれたが、これからもそう上手く行くとは限らない。いやむしろ、昨日が奇跡だったというべきだ…だから…。」

「だから?」

レイファンが突き刺すように聞き返す。黒影はほんの少し間を置いてから続ける。

「…単刀直入に言う、お前ら全員今日の昼までにこの街を出ろ。」

「馬鹿じゃないの!」

レイファンが鋭い視線で睨む。

「『俺といると危険だ、お前ら逃げろ!』とでも言う気?何、格好つけてんの?…クロ、あんた勘違いしてんじゃないの?昨日の出来事、あれはあんた一人の問題じゃないわ!これはあんたとあいつらの戦いじゃないの!私達とあいつらの戦いなの!」

「…レイファン、そう言ってくれるのは嬉しい、だが、あいつらは…いや、あの崇という男は並のチンピラとはわけが違う!今回はパンの時のようには…。」

「だったら尚更じゃねぇか!」

ロンも加わる。

「命狩りの崇…俺も名前は知ってるぜ!あれはおっかねぇ!昨日の地下道であった二人組も恐らく崇の弟イタチと妹ヒガリだろ?お前でも一発で殺せないような化物だ!そんなの相手にお前一人で?いくらお前が天下の黒影でも流石にそれは危ないだろ!」

「ロン…前にパンのところで約束したよな?次は真っ先に…。」

「んなもんいちいち覚えてんじゃねぇよ!」

「ロン、お前…。」

もしかしたらロンはメイの手前粋がっているのかも知れないと思っていると。

「言っとくが格好つけて言ってるんじゃねぇぞ?これは飽くまで俺の意思だ。…なぁ、クロ…こんな事を言うのはあれだが昨日の戦いだってお前一人で切り抜けたわけじゃないだろ?確かに俺やレイファンやメイちゃんはお前や九鬼の様に戦いに長けている訳じゃない。だけど、昨日の地下道は俺の先導だぜ?レイファンだって銃持ってイタチ達に応戦してたぜ?…撃ち合いだって九鬼に手伝ってもらったろ?…朝飯食えたのは俺とメイちゃんのお蔭だろ?」

「…そうだな…。」

「お前がいくら腕の立つ殺し屋でも誰かの力を借りなけりゃ片付かない勝負もあるんじゃないのか?多分今回がそれだぜ?」

「…お前達は…。」

今度はメイと九鬼の方へ向くとメイが勢いよく答える。

「私も…私もここに残る!」

「馬鹿を言うな!」

「なんで?兄さんは十年振りに再会した妹に出て行けと言うの?」

「今はそういう問題じゃないだろ!」

「同じだよ!私は叔母さんが死んでから村を出てずっと旅してきた。兄さんに会う為だよ?レイファンとも再会したばかりだし、残るわ!」

メイも珍しくはっきりと言う。これはだめだとばかりに今度は九鬼に尋ねる。

「…お前は…。」

「残る。お前とのケリもまだ付いていないし、第一メイを残していくと思うか?」

「そりゃいい心掛けだ、だが出来ればメイを連れて…。」

 するとメイがそれに答える。

「九鬼が出て行っても私は残るよ?」

「…。」

 黒影は困ってしまった。良かれと言った事が思わぬ反感を買ってしまった。彼は椅子から立ち上がり後ろを向くと腕を組んだまま暫く黙り込む。やがて懐から一本の煙草を取り出すとそれに火をつけ煙を吐き出す。

「分った…。」

 そして、振り返ると続けた。

「お前らがいかに命知らずの馬鹿か良く分かった…。呆れた事に一人としてまともな考えを持ち合わせちゃいない…だったら、皆で地獄の旅路へと洒落込もうか?」

 それをレイファンが聞き咎める

「地獄の旅路じゃないわ、あいつらに勝って生き残るの!…そうでしょ?」

 それを聞いて黒影もやっと笑みを浮かべた。

「そうだな、勝たなきゃな!」

-19・チャン警部-

 月影街中央にある月影街市警本庁の刑事課オフィスでは昨日の爆発事件の捜査報告をまとめる捜査官達が忙しく動き回っていた。

 その中に一人発見された焼死体の写真を熱心に見つめる者があった。

「おう!チャンさん!焦げた死体写真なんか見つめてどうした?」

 同僚の中年刑事が彼に話しかける。

「…君はどう思う?」

「何がだい?」

「今回の事件だ。」

「さぁ、チンピラ同士のいざこざだろ?」

「それだけで店が一軒吹き飛ぶか?」

「この街のゴロツキ共は加減を知らないからねぇ…。」

「店で発見された死体は五つだな、いずれも銃撃の跡がある。そして今のところの調べでは全員あの店の従業員ではない様だ。…なら、あの店の奴らはどこへ?ゴロツキ共を殺し店を吹き飛ばしてどこへ消えた?」

 そこまで聞いて同僚刑事は驚いたように口をはさむ。

「ちょっと待ってくれ!じゃあ、あんたはあの店の従業員が全部やった事だとでも?」

「可能性だ、現に死体もなく、生きている姿もない。」

「いや、しかしだ。わざわざ店を吹っ飛ばす必要があるか?…第一あの店の従業員は三人、それが五人殺せるか?」

「…いや、恐らくやったのは三人のうちの一人だ。」

「えっ!?一人!」

「そうだ、そいつが俺の予想している奴ならこんな事は造作もない。」

「何者だ?」

「…言ったところでお前は笑うだろう。先日のパン殺しの時にもこの名を出したが誰も関心は持ってくれなった。」

「…黒影か?」

 チャン警部は軽く頷くと席を立った。

「どこへ?」

「捜査だ。」

「一人でか?良ければ俺も…。」

 そう言いかける同僚の言葉をチャンは冷たく返す。

「結構だ。」

 上着を持ちオフィスを出て行くチャンの姿を呆れた様に見ながら男は心の中で呟いた。

「崇に知らせるべきか…。」

-20・崇の報告-

 午前十時、崇は昨日の報告のために御大の屋敷へやって来ていた。

「御大、昨日の報告に上がりました。」

「なんだ崇か!昨日は随分と大騒ぎをしたみたいだな?」

 見ると、書斎には御大の他に組織の財政管理を担当する幹部のシャイロが皮肉な笑いを浮かべていた。

 崇はそれを無視し御大に報告を始める。

「昨晩カフェ・ド・ノワールに襲撃をかけました。」

「それで?黒影の首は獲って来たのか?」

「いいえ、逃げられました。」

「レイファンは?」

「残念ながら黒影その他と共に逃げた様です。」

 それを聞いてシャイロが堪えきれない様に笑い出した。

「こいつはいい!天下の崇ともあろうお方がたかが殺し屋一匹の始末の為に兵隊を山ほど犠牲にして店を一軒吹き飛ばす大騒ぎをしておきながら手ぶらで帰還?これは傑作だ!」

 御大も険しい表情を崇に向ける。

「崇、これは一体どういうことだ?黒影がどれほどの者か知らんがお前にしては不始末が過ぎんか?…何より、レイファン!あの子はどうした!」

「レイファンは無事です。イタチとヒガリの報告によると敵にはもう一人伏兵が居ました。…九鬼と言う名の殺し屋ですが、これがどういう訳か黒影と手を組んでいる状態です。更には若い女がもう一人居たそうです。これが何者かは分りませんが、連中とは親密な仲であることは確かです。いずれも事前に調べ上げ切れなかった私のミスです。…只、一つだけ興味深いものが見つかりました。」

 そう言うと崇は懐から一枚の封筒を御大に差し出す。受け取った御大が中を見るとそこには端が焼け焦げた古い地図が何枚も出てきた。

「これは…。」

「遠い昔にご覧になった事があるでしょう。」

「…まさか…。」

「私も一瞬目を疑いました。しかし、確かに見覚えがあります。…十五年前、あの考古学者もこれと同じような資料を調べていました。」

「…ラチカの詩…。」

「間違いありません。奴は、ラチカの詩を探しています。」

「何故だ?何故黒影がラチカを…。」

「それはあの男の息子だからです。」

「何だと!?」

「昨日、奴の顔をこの目で見ています…黒影はあの考古学者の息子です。」

「すると奴は父親の復讐の為に…。」

「それは分りません。もしそうならもっと早い時期に行動を起こしていたでしょう。恐らく当時まだ幼かった黒影は自分の父親を殺したのが何者かは分っていないのではないでしょうか?」

「では、レイファンの事も偶然か?」

「恐らく、レイファンも自分の生い立ちは良く知らないはずですし。」

 御大は暫くの間目を閉じて考えごとをしていた。かつて自分の前に現れたラチカの詩の手がかりを握る考古学者、しかし結局それを見つけることが出来なかった為に処刑した。その息子である黒影、そして共にいるレイファン…。

「崇、お前にもう一度だけチャンスをやろう。黒影は恐らく『誓いの三日月』を持っている、それを奪い奴を殺せ、忌々しい…。そして今度こそレイファンを連れてくるのだ。きっとリーユイに似て美しく成長している事だろう…わしは会いたい…。」

「承知しました。」

「次はないぞ?」

「そのつもりです。」

 御大に会釈すると崇は書斎を後にする。去り際にシャイロへ一言残しながら。

「せいぜい金集めに精をだせ。」

 シャイロはそれを聞き、憎憎しげな顔で崇の後ろ姿を睨む。

「崇め…!」

-21・ノート-

 午前十一時ごろ、黒影は昨日の老人との約束の為に半月堂書店へやって来た,

隠れ家には九鬼が居るので暫くは出ていられる。

「よう、爺さん!」

 店に入ると奥に腰掛ける店主へ声を掛ける。

「…!!黒影!お前…。」

 店主は辺りを伺うように声を潜める。

「…お前、こんな時に表をウロウロするんじゃない!」

「さすが耳が早いな!もう昨日の一件を知ってるのか?」

「当たり前だ!新聞にまで載っとる!…昨日忠告したばかりだろう?あの崇と言う男は…」

「厄介な奴だってのは昨日でよく分ったよ。大丈夫だ!今は別の隠れ家に居る。」

「お前の仲間も無事なのか?」

「あぁ!傷一つないよ!」

「ならいいがな…。」

「昨日の話が気になってるんだ。」

「あぁ、約束どおり見せてやるよ。…奥へ来い。」

 店主は黒影を店の奥のテーブルに着かせると少し待つように言って二階へと上がる。暫くすると手に何冊かの古いノートを持って戻ってきた。

「昨日お前と話した時の最後の言葉が気になってな。」

「『その詩は…』のくだりか?」

「そうだ、ラチカの詩を探す人間には何人か会った事はあったが、あのくだりを知っている奴はそう居ない。…お前、あれを親父さんから聞いたと言ったな?」

「ああ、子供の頃にな。」

「親父さんは何をやっていた人だい?」

「考古学者だ。」

「…そうか、ならやっぱりこれはお前に見せる必要があるかもな…。」

 老人は決心したようにノートを黒影に渡す。十年以上も前に使われたと思しき古いノートだ。しかし、黒影は不思議とこのノートを見た覚えがある様な気がしてならなかった。遠い子供の頃、いつも目にしていた記憶がかすかに蘇り、もしやと思い表紙をめくる。

「これは!」

 そこには間違いなく父親の懐かしい筆跡が並んでいた。子供の頃、夕食が終わり子供達を寝かしつけると父親はいつもこのノートに何かを懸命に記録していた。

「爺さん!…な、何でこれをあんたが…!?」

 黒影が溜まらず訊くと老人は茶を入れながら頷く。

「やっぱりな、あれはお前の親父さんだったか。」

「親父を知ってるのか?」

 老人はお茶を入れながらゆっくりと話しだした。

「あれはもう十年以上も昔の話になるかな…。ある時ここへまだ年の若い男が尋ねてきた。何でも自分は考古学を研究していてこの街に眠ると言われているラチカの詩を探していると言った。その時は驚いたよ、まともな学者がラチカを探すなんて思いも寄らなかったからな!…わしもそんなものはここでは扱わん、そういう話は他所で訊いてくれと言って追い返したんじゃ。しかし、その男もしつこくてな!次の日も、またその次の日もやってきやがる!…わしも痺れを切らしてな、訊いたんじゃ『そんなにラチカを探したいか?ならこの詩の続きを言ってみろ』と。」

「もしかして『その詩は…』のくだりか?」

「そうだ、どうせこんな若造じゃ知りもしないだろうと思ってな。しかし、奴は事も無げにその続きを口にした。…驚いたね、どこでどうやってそれを知ったのか、わしだって昔仕えていた主から聞いた事があっただけなのに…。そこで思った、もしかしたらこいつはラチカを見つけ出せるかも知れないとな…。それからはわしが知っている限りの事は教えてやった。」

「ん?なんだ爺さん、昨日はラチカなんてこの世に実在しないなんて言っていた割りに結構知ってるじゃないか!」

「わしもそりゃ若い頃はラチカ探しに興味を持ったもんだよ。…特に昔はまだあれがどこかにあると皆信じていたしな…やがてあの男も段々とラチカの真実に近づきつつある様だった。そんなある日だ、奴の事を聞きつけた者があった。ある組織の若い者…若いと言っても後は幹部にまで這い上がるだろうと言われていた程の男だ。そいつが件の考古学者にある話を持ちかけた。」

「…ラチカ探しの資金援助か…?」

「そうだ、わしは止めろと言った!マフィアなんぞと手を組むというのはどういう事か、堅気が手を出していい領域じゃないと!…だが奴は頑として聞かず…。」

 老人はその先を言い淀んだ。黒影にとっては悲しい過去を思い出させるのを気兼ねしているのだろう。黒影はそれを察して続きを自ら口にした。

「…結局ラチカを見付ける事が出来ず…殺された。」

 老人も悲しそうに頷く。

「親父さんは殺される日の前日にこのノートをわしに預けに来た。少しの間預かって欲しいと、そしてもし自分が取りに来なければ焼いてしまって欲しいと。」

「だけどあんたは持っていた?」

「あぁ、亡くなったのは聞いていたがどうしても焼いちまう気になれなくてね…これが無くなればあの男の大志も何も全て消えてしまう…それが何とも忍びなくてな。」

「…。」

「そこへ昨日のお前の話しだ。お前の口から身内の話しなんて聞いた事も無かったしな、まさかお前があの考古学者の息子なんて…何の因果だろうなぁ、親子二代でここへやって来るとは…。」

 老人は湯飲みの中を飲み干すと続ける。

「これはお前にやろう、元々親父さんの物だ、お前が持つに相応しい。お前がラチカを探す事を親父さんが望むかどうかは分らん、だけどそれはおまえ自身が決める事だからな。」

「ありがとう、今日まで大事に持っててくれたんだな…。きっと親父も爺さんに感謝してる!これは俺が受け継がせてもらうよ!」

 そう言ってノートを閉じると大切そうに懐に仕舞う。

「…ところでお前、これからどうするつもりだ?」

「何がだ?」

「忘れたか?今お前さんは黄一家を敵に回しているお尋ね者だ!」

「あぁ、その事か、心配いらないよ!ケリは必ずつける。奴らには借りもあるしな!」

「借り?」

「あぁ、店を吹っ飛ばされた!」

「…次はお前さん自身がそうなるかも知れんぞ?」

「そうはならない…俺はまだ死ぬわけには行かない。ラチカを探さなければいけないし…それに…。」

「ん?」

「あいつらを…仲間を守らなきゃならない。」

 老人は一瞬、黒影の左目がわずかに赤く染まるのを見た気がした。それはまるで彼の決意の固さを現すようでもあった。

「…そうか、まぁ、言って素直に聞く男でもないしな…死ぬなよ?」

「大丈夫だ。」

 その時、店のドアが開く鈴の音が聞こえた。

「客らしい、ちょっと出てくる。お前は茶の残りでも飲んでいてくれ。」

 そう言うと老人は立ちあがり店へと向かう。

-22・チャンの追跡-

 店の中では一人の背広姿の男が辺りの本棚を隅から隅まで興味深そうに眺めていた。

「何かお探しかね?」

 老人が声を掛けると背広の男が近づいてきた。

「あんたがここの店主さんかい?」

「…あぁ、そうだが?」

 老人が答えると男は一人で頷きながら思わぬ言葉を口にした。

「いい本は入ったか?」

 それは半月堂店主へ裏の情報を売ってくれという合図だが、今目の前にいる男は雰囲気こそ人を寄せ付けない隙のなさを持ってはいるがどう見ても裏の人間には見えない。

「本ならそこらの本棚に沢山並んどるだろ?好きなのを手にとって眺めて気に入ったらお買い上げくだされ。」

 老人はさっきの男の言葉をただの世間話とでも解釈したかのように答えた。

「いいや、そうじゃない!『いい本は手に入ったか?』と尋ねたんだ。ここにはもう一つの売り物があるだろう?」

 やはり背広男は情報を買いに来た様であった。

「…なぁ、あんたどこでそれを聞きつけてきたか知らんがね、その商売は堅気の人相手にはしないことにしてるんだ。…情報もね、ものによっちゃ銃や刃物よりよっぽど危ないもんだからね。」

 老人がそう諭すように言うと背広男は少し顔をしかめながら懐からなにやら取り出した。

「裏のもんじゃないが、堅気というには少しキナ臭いだろ?」

 男が老人の目の前に差し出したのは黒い皮製の手帳に金色の星が輝く警官バッヂだった。

「月影街市警刑事課のチャンだ、あんたに少し聞きたいことがある。」

「ふん、手入れかい?尋問したいなら礼状持ってきな!情報のやり取りだけで手が後ろに回るほどこの街は窮屈になったのかい?」

 相手が警官と知ると老人は急に不機嫌になった。

「い、いや!別にあんたの商売についてとやかく言いに来た訳じゃない!むしろあんたの情報を買いに来たんだ。」

「近頃のお巡りはマフィア御用達の情報屋から情報を買うようになったのかい?」

「別に珍しい事じゃないだろ?我々刑事だって情報屋を使う事はある。」

 チャン警部は弱ってしまった。噂に聞いてはいたがここの主人は相当に気難しいらしい。

「…昨日の爆発事件は知ってるかい?」

「新聞で見た。」

「そうか…それで…。」

 チャン警部がそこまで言いかけた時に店の奥から出てくる者があった。

「じいさん客かい?俺はもう帰るよ。今日はありがとう!これ貰っていくよ!」

 そう言って手に何冊かの古めかしいノートを持った若い男が老人に声をかける。

「おぉ!そうか、気をつけて帰れよ!」

 老人もそれに答える。

「…。」

 チャンは店を出て行く若い男の姿を見ていた。黒い服、気さくに喋ってはいるがどこかに鋭い雰囲気を持っている。

「…あの男は?」

「わしの友人だ、あんたには関係ない!」

 チャンはほんの数秒間を置いて聞こうとしていた本題を切り出した。

「…ご主人、あんた『黒影』という名に心当たりは?」

 すると微かに老人の表情に動揺を見える。

「あれはこの街の都市伝説だ。」

 さっきと違う少し抑え気味の声で老人が答えるのを聞いてチャンは一気に攻める。

「いいや、都市伝説なんかじゃない!それはあんたが一番良く知ってるはずだろう?」

 すると老人もむきになった様に答える。

「知らんと言ったら知らん!…大体わしはお前さんに情報を売るとは言ってない!いいか!よく聞け!わしはな、政治家や役人の類が大嫌いだ!警官なぞ相手に商売はせん!…分ったらさっさと帰ってくれ!」

 間違いない、この老人は黒影を知っている。いや、知っているばかりか黒影と何かしら繋がりがあるに違いない。チャンはここへ来ての思わぬ収穫に胸が高ぶるのを感じた。

(今出て行った男、あれは…。)

 まさかそこまで都合のいい事は無いだろうと思いながらもチャンはさっきの男の雰囲気に何かを感じずにはいられなかった。

「…分った、それではこれで失礼するよ。」

 そう言ってやけに素直に帰ろうとする刑事に老人は声をかける。

「あんた、いらん好奇心で妙な気を起こすんじゃないよ?命が惜しければな!」

 しかし、そんな忠告も聞こえないかのように背広男はいそいそと店を出て行ってしまった。

 通りへ出ると百メートルほど向こうにさっきの黒服男の姿が見えた。チャンははやる気持ちを抑え、相手に気取られないようにゆっくりと歩幅を狭めていった。幸いに通りには他にも行きかう人がいるのでこちらの尾行に気づかれる事も無いだろう。

 やがて相手との距離もほんの十メートル程となった。幸いにまだ気づかれている様子はない。

 その時、前方を歩く黒服男が脇道に入ってしまった。チャンもゆっくりとその後を追って脇道に入る、そこはビルの谷間の幅もほんの二、三メートルの小道だった。

「!?」

 前方を見ると男がいない、ほんの数秒前にここへ入った黒影と思しき男は小道に逸れるや否や姿を消してしまったのだ。チャンは思わず駆け出すと小道の奥まで入って行き、辺りを伺いながら懐の拳銃にそっと手を伸ばす。

 その時、不意に後ろから首元を掴まれたかと思うとビルの壁に叩き付ける様に押さえ込まれてしまった。

「誰だ、お前?」

 一瞬にしてチャンを押さえ込み今は後頭部に銃を突きつけている。相手の顔は背後で見えないものの、その声は紛れも無く半月堂で見かけた若い黒服男だった。

「何者だと聞いているんだ。」

 チャンの後頭部に尚も銃口を強く押し付けるその口調はさっき老人と話していたときのような気さくさはなく、どこまでも冷たく重く、まるで死神の様な雰囲気を放っていた。

「…お、お前、黒影だな!」

 チャンがやっとの思い出声を絞り出す。しかし、相手は事も無げに答えた。

「それがどうした?」

「お、俺はお前を捕まえる為に…!」

「捕まえる?殺すの間違いじゃなくてか?」

「お、俺は、警官だ!」

「お前が警官だろうと、マフィアだろうと何だろうと同じ事だ。俺を『捕まえる』なんて半端な事は考えるな。どうしても首が欲しけりゃ殺してみろ、もっとも今から死ぬのはお前だがな。」

さっきより一層冷たい口調で黒影の言葉が刺さる。

「やるならやれ!だが、その前に聞かせろ!…昨日お前を襲ったのは黄一家の崇だな?」

「それを聞いてどうする?」

「組織課は今回の事件にお前が関わる信憑性も無いとする一方で黄一家の関わりも示唆しない…これがどういう事か分るか?」

「…犬なんだろ?奴らは御大の…。」

「そうだ!だから俺がかつて黄一家を追い詰めたときにも邪魔が入った!」

「…お前はそれを俺に話して何がしたい?」

「証言しろ!崇達が何をしたか!そしてあのマフィア共を一網打尽にするんだ!そうすればお前の…。」

「お前は馬鹿か?何故俺が警察の手なんか借りなきゃならない?…俺が信用できるのは自分の力と…。」

「…何だ?」

「…。」

 その時、黒影はチャンの首付け根めがけて拳銃のグリップを叩き付けた。低いうなり声を上げてチャンはその場に倒れこむ。

「俺には関わるな、堅物警官さんよ。」

 チャンは暫くもがいていたがやがて気を失ったらしく動かなくなった。

「馬鹿馬鹿しくて殺す気にもならないよお前は…。」

 やがて黒影はその場を立ち去った。

 

 それを近くのビルの屋上から監視していた者があった。

「例の汚職警官、中々使えるじゃねぇかよ!チャンを追ってりゃ黒影に行き着くって!」

 双眼鏡を手に一連のやり取りを見ていたイタチがニヤリと笑いながら言う。

「でもなんで黒影の奴、チャンを殺してくれなかったの?折角邪魔者が一人消えると思っていたのに…。」

 直ぐ側でヒガリが手にマニキュアを塗りながら不平そうに言う。

「さぁ…追われている身だし今はあまり騒ぎを起こしたくなかったんじゃないか?それよりどうするよ?今奴は一人だし一気に殺っちまうか?」

「だめよ!アジトを割り出してレイファンちゃんも連れ出さないといけないでしょ?」

「…そうか、アジト行きゃあの眼帯の子も居るかな?」

「居るんじゃない?…ってあんたそんなに気に入ったの?」

「可愛かったぜ!俺の好みだな!」

 双眼鏡から目を外しイタチが嬉しそうに笑う。

「いやらしい顔してないでしっかり追うわよ!最低でも五百メートルは開けないとチャンみたいに気づかれちゃうだから。」

「まったく恐いやつだねぇ!…で、アジトを見つけた後は?」

「兄さんに報告の上、私達は待機!…何か作戦があるそうよ。」

「恐いねぇ、紅眼殺手の黒影と命狩りの崇の全面戦争第二章の幕開けか!」

 イタチは更にニヤニヤと笑いながら遠い黒影の姿を追い続けた。

-22・懐かしい歌‐

 夕方、レイファンとメイは九鬼と共に食料の買出しに来ていた。

崇達から逃げている身であるため本当なら身を隠しているべきだが、ずっと隠れ家に居たのでは息がつまると言うレイファンの提案により九鬼を護衛にして三人で出かけることにした。ロンも来たがったが人数が多ければそれだけ敵に見つかる可能性があると九鬼にたしなめられ渋々隠れ家の留守を預かる事にした。

 隠れ家から四ブロック離れた商店街でロンに渡されたメモにある食材を買い付け屋台で買ったシャーベットを頬張りながら、レイファンとメイはまるで自分達が大きな敵に狙われる身であることを忘れるかのように外出を楽しんでいた。

 商店街を抜けて隠れ家までの大通りを歩いていたときにメイがある物に気付きレイファンに声を掛ける。

「ねぇ見て!弾き語り!」

 見ると路上の隅でギターを手に弾き語りをしている二人組がいる。まわりに十数人ほどの聴衆の輪が出来ていて、彼らの歌う調べに耳を傾けていた。

「随分古い曲を歌ってるな!」

 九鬼が物珍しそうに言う。

「昔の曲だよね?…なんて題名だっけ?」

 メイが尋ねるとレイファンが答える。。

「確か…『海に抱かれて』よ。」

「懐かしい!ガキの頃ラジオで聴いたことがある!」

 九鬼が馬党の山に居たころを思い出し嬉しそうに微笑んだ。

「私もラジオで聴いたよ!」

 メイも嬉しそうに答える。

「この曲…。」

 レイファンも母親がよく口ずさんでいたのを思い出す。

「知っているか?これメロディーは切ないけど歌詞は次々に男を手玉に取る女の歌なんだぜ?」

 九鬼が得意げに語りだすとメイも驚いたように答える。

「え!そうなの?子供の頃は歌詞の意味なんて考えなかった!」

 しかしそんな二人のやり取りがまるで聞こえないかのようにレイファンの意識は遥か遠い子供の頃に戻っていた。

 母親がいつも口ずさんでいた曲、そしてあの日も…突然レイファンの脳裏に幼い頃のある光景が蘇っていた。

 

 幼い頃住んでいたアパートの裏手側で母の背中に隠れ怯えている。夜中だというのに目の前からは眩い光が照らしている、車のヘッドライトらしい。

 母の前に背の高い男がこちらに背を向けて二人を守るかの様に立っている。前方のヘッドライトの向こうから声がする。

「二人を置いてとっとと消えろ!」

 しかし、目の前の男はそれを突っぱねる。

「断る!」

 するとヘッドライトの向こうの声は暫く間を置いてから低く冷たい口調で続けた。

「そうか、ならまとめて消えろ。」

 それに続いて前方から激しい銃声が立て続けに鳴り響いた。

 

「レイファン!レイファン!?どうしたの!?」

 メイの呼び掛ける声でレイファンははっと我に返った。

「どうしたの急に!?うずくまって、具合でも悪いの?」

 メイが心配そうな表情でレイファンを見ていた。

「…あ、ごめん!…なんだろ…?…シャーベットを急に食べたから…かな…?」

 そう言って誤魔化そうとするが動揺の色は隠せない。メイは尚も心配そうにレイファンの額や首筋に手を当てたり手を取って脈を測り出したりしている。

「大丈夫だよ、看護婦さん!シャーベット一気に食べたら少し頭が痛くなっただけ!」

 そう言って尚も誤魔化す。

「本当?具合が悪いならちゃんと言ってね?」

 メイが尚も心配そうな顔でレイファンを見ている。

「ほんと大丈夫だって!…早く帰ろう、ロンが食材はまだかって待ってるから!」

 そう言うとレイファンはすっと立ち上がり何でもないかのように笑顔を見せ歩き始める。

 その後を追いながらメイは不安そうな表情を浮かべ九鬼に尋ねる。

「どうしたのかな?」

「シャーベットが原因ではなさそうだな、でも今は無理に問いたださない方がいい。落ち着けば自分から話してくるだろう。」

 心配するなと言うようにメイの頭をなでる。

 気丈を振舞って歩き出したもののレイファンにはまだ先刻脳裡に浮かんだ光景が焼き付いていた。

(あれは…いつ?…その先が思い出せない、凄く重要な事なのに今まですっかり忘れていたような…)

 けれど思い出そうとするとまた眩暈が襲ってくるような不安を感じて彼女はそれを頭から振り払おうと尚も気丈に歩き続けた。

-23・研究の跡-

 隠れ家では黒影が老人から譲り受けた父の研究ノートに目を通していた。

 そこには、父が黒影とメイを連れて月影街へとやって来てからの日々を簡単に綴った日記と共に徐々に明らかになっていった『ラチカの詩』の研究過程が記されていた。

 ××年六月二十四日

 息子と娘を連れ何年か振りにこの月影街へとやって来た。亡き妻と出会った思い出の地は心なしかあのころ以上に大きく発展したように思える。

 世界有数の大都市は伊達ではないようだ。

 これからの暮らしは果たしてどうなるのかまだ分らない。

××年七月三日

かつての恩師であるメラド教授に思い切って『ラチカの詩』探しの事を話してみるが一笑に付されてしまった。

予想していた事とはいえ、残念この上ない。

××年七月十二日

思わぬところで出資者が見つかった。正直キナ臭い連中ではあるが、今まで会った誰よりも『ラチカの詩』について興味を持ってくれた。

この機会にかけようと思う。

 

研究レポート・一

『ラチカの詩』とは世間一般では太古の昔に残された財宝伝説と同じように語られる事が多いがそれらのものとは明らかに一線を画している。

第一に一般的に言われるそれらの財宝に比べ隠された次期が近代である事。

実際この月影街はほんの百五十年ほど前まで只の一漁村に過ぎなかった。それが現代のような大都市へと展望を遂げたのはほんの百年ほど昔であり、『ラチカの詩』もその頃に誕生したものと思われる。

第二に、所謂太古の財宝とは一時代を築いた王朝などが戦争の混乱などから一時的に財産を守る為にどこかへと隠し、その所在を地図や暗号的に記された文献に残し、戦争などの混乱が収まった頃に自分達もしくは自分達の子孫が再び手に出来るようにしたものである。

これに類似するものとしては所謂大航海時代の海賊などが集めた財宝をどこかの島に隠すという行為も、一時的に財産を隠し、その後再び自分達の手にするといった行為であろう。

このように、所謂「隠された財宝」といったものは飽くまで自分達ないし自分達の子孫へと贈られるものである。

しかしながら、『ラチカの詩』にはこれに相当するものがない。

そもそも、『ラチカの詩』を隠したとされるのはこの月影街にほんの百年ほど前に実在した『月狼』と呼ばれる盗賊だからである。

盗賊とは言うもののそれは現代でいうマフィアのはしりのようなものであり、同時にまだ帝国政府の影響が色濃かった時代において反政府活動の急先鋒のような存在でもあった。

その月狼が隠した財宝ならば先に挙げた海賊の例と同じに思えるかもしれないが、月狼の組織は月狼自身が警察によって射殺される少し前に実質上の壊滅状態にあったこと、また月狼には子供などがなかったと確認される事から身内に向けての財産ではないように思われるのだ。

そこで私はここに一つの仮説を立てる。

それは、月狼が残した『ラチカの詩』と呼ばれる宝物とは実は金塊や宝石または金銭などといったものではなく、もっと違う形のものではないかと。

それは見る人によっては何の値打ちもないように思えるものだが、別の人間から見れば金銀財宝などよりも遥かに価値がある物ではないかと言うことだ。

『ラチカの詩』は月狼が後世の人間に伝えようとしたメッセージではないか?

果たしてそのメッセージとは我々現代の人間にとってどういう意味を持つものなのか今はまだ計り知れない。

 父のノートには更に細かい研究過程と仮説が記されていた。黒影は自分が思っていた以上に父親が『ラチカの詩』の詳細を掴んでいた事に驚きを覚えた。

読み続けていると部屋のドアをノックする者があった。

「誰だ?」

 黒影が答えるとドアが開きメイが顔を覗かせた。

「ただいま。」

「おう!お前ら買い物に出かけたらしいな!危機感のない奴らだ!」

 黒影が呆れたように言うとメイが気まずそうに答える。

「ごめんね…でもずっとここにいると息がつまるってレイファンが。」

「やっぱりあいつか!まぁいいよ!レイファンの言うのも一理ある。俺も今日は出ていたしな!…変わった事はなかったか?」

「うん…実は…。」

 メイは帰り道であった事を兄に告げる。

「なるほど…。」

「レイファン何かあったのかな?」

「…昔の歌を聴いてそうなったんだな?」

「そう。」

「一種のフラッシュバックじゃないか?」

「フラッシュバック?」

「あぁ、遠い昔にあった出来事とその歌が何かしら結びついて忘れていた記憶を呼び起こす、それが今回の場合レイファンにとって辛い記憶だったんじゃないのか?」

「トラウマって事?」

「そうだ、レイファンはあまり話したがらないけど子供の頃に辛い思いをしているらしい。お前も聞いた事はないか?」

「うん、詳しくは聞いてないけどお母さんを亡くした理由とかその頃の事とかはあまり話したがらないね…。」

「多分、今日のもそれが原因だろう。しばらくすれば落ち着くから今はそっとしておいてやれ。」

「分った…。」

 そう頷いて部屋を出て行こうとした時、机の上のノートがメイの目に止まった。

「それ…!」

「あぁ、覚えているか?」

 黒影がノートをメイに渡すと彼女は暫く驚いたようにその表紙を眺めていたがやがてページをめくり中に目を通す。

「お父さん、こんなに頑張って研究してたんだね…。」

 目を細め懐かしそうに父の筆跡を辿る、そこに今は亡き温もりを感じるようだった。

「兄さん、どこでこれを手に入れたの?」

「俺の知り合いの情報屋が偶然にも昔親父と顔見知りだったらしくて譲り受けたんだ。」

「世間て狭いね!」

 そう言って笑った後、ふとメイの表情が曇る。

「ねぇ、兄さんも『ラチカの詩』を探しているの?」

 どうやら彼女はかつて父が獲り付かれた熱病に兄も掛かっているのではないかと心配しているようだ。

「俺は別に宝探しに一生をかけようとは思わないさ、只見極めたいんだ。」

「何を?」

「俺達をかつて絶望の底に叩き落した『ラチカの詩』が果たしてどういうものなのか、そして親父は有りもしない物のために命を落としたのかどうかを。」

「そう…。」

 メイは暫く俯いてから続ける。

「私には『ラチカの詩』がどれほどの価値があるか分らないし、お父さんが何故全てを投げ打ってまでそれを探したのかも分らない…。でも例えそれがどれほどの財宝だろうと自分の身の回りにいる人間より大切なものなんてないと思う…。子供の時から大事な人が一人また一人と目の前から居なくなっていったから余計にそう思う…。」

「有るかどうかも分らないお宝よりも身近な人間のほうがよっぽど大切な宝って訳か…。」

「うん、そうは思わない?」

「分るよ、お前の言っている事は正しい。でも何度も言うが俺はこれの為に命を落としたりはしない。」

「…そうだといいけど…正直怖い…。」

「無理もないな、どうあがいてもお前にとって『ラチカ』は父親を死なせた元凶だしな。」

 黒影は苦笑いしながら妹の頭を撫でる。

「ごめんね、なんだか昔の悲しい事を思い出しちゃって…少しナーバスになってたかも。そうだ、もうすぐ夕食出来上がるからダイニングに来てね!」

 メイはそう言って部屋から出て行ってしまった。黒影は机の上に残されたノートを眺めながらさっきのメイの言葉を思い出していた。

「自分の周りにいる人間より大切なものなんてない。」

それは幼い頃から大切な人々と悲しい別れを繰り返してきたメイの偽らざる気持ちだろう。

「俺は死ぬわけにはいかないな。」

 ノートを眺めたまま呟くとふと食欲をそそる香りが鼻先をついてきた。夕食が出来上がるのだろう、黒影は部屋を後にした。

-24・レイファンの不安-

 夕食が終わりメイとロンは後片付け、九鬼はリビングで新聞に目を通している頃、レイファンはテラスに出て外の風景を眺めていた。

 レンガ造りのアパートや近所の市場の明かり、そして遠く向こうには月影街中心の摩天楼が広がりその中央には月影街のシンボルでもある巨大な時計台も見える。

「そんな所にいると撃たれるぞ?」

 声がするので振り向くと黒影が両手にビールのショットボトルを持って立っていた。

「それでもいいじゃない?家の中で窮屈な思いをし続けるよりは!」

 レイファンは笑いながらそう答える。

「警戒心のない奴だ!今日も勝手に出かけやがって!」

 黒影も呆れたように笑いながらレイファンにボトルを手渡す。

「シャオメイに聞いた、今日眩暈を起こしたらしいな?」

 蓋を開けながら黒影が尋ねるとレイファンは少し表情を曇らせて答える。

「別に…大丈夫だよ。」

「昔の事か?」

「…うん、皆には言わないで。」

「分かってる、初めて会った時にお前から聞いた話を思い出したんだ。」

「…今も時々夢に見る…。」

「俺もそうだ。親父が死んだ日の事を今でも夢に見る。」

「…クロもかぁ…。」

「俺やお前みたいに忘れがたい出来事があるとそうなるんだろうな…。」

 二人はしばらく黙ったままビールを飲み続けていたが、やがてレイファンが意を決したように切り出す。

「ねえ、クロ。」

「なんだ?」

「変な事を言うようだけど…。」

「?」

「もしも…もしも私のせいであなたや他の皆を危険な目に合わせるような事があったら、その時は…どうか私を置いて逃げてね。」

「なぜ急にそんな話をする?」

 いつものレイファンとは違い、まるで大きな何かに脅えるような様子だ。

「別に…ただ、分からないけどこの先私のせいで皆を危険に巻き込む気がする。」

「危険なら今に始まった事じゃない。俺たちはとっくに危険な事のど真ん中にいる。」

「そうだね…でも…。」

 尚も続けるレイファンの言葉を黒影は力強い言葉で遮る。

「なにがあろうとその時は俺が助け出す、お前はただ自分を見失わないようにしていればいい!」

 その言葉にレイファンは思わず口をつぐむ。

「らしくないぞレイファン!『サタンとミューズの落とし子』はどこへ行った?」

 そう言って笑いながらレイファンの髪をくしゃくしゃとなでる。

「そうだね、ごめん!今日はなんか調子が悪いみたい。」

 レイファンもようやく笑顔を取り戻すとビールの残りを一気に飲み干す。

「じゃあ、私もう寝るね!おやすみ!」

 そう言って自分の部屋へと戻って行った。

 その夜、レイファンはベッドの上で夕方耳にした歌のことを思い出していた。

「そういえば…。」

 そして、幼い頃の記憶を思い起こした。

 いつもの様に夕食も終わり、母親が『海に抱かれて』を口ずさみながら後片付けを始め、レイファンはリビングのソファの上で絵本などを読んでいる。

 突然、表の呼び鈴がけたたましく鳴り響く。何事かと母親が玄関を開けるとそこには背の高い男が立っていた。

「リーユイ!逃げろと言った筈だ!」

 すると母親も答える。

「何よ!突然やって来てまたその話し?この前も言ったけど私この街を離れる気はないわ!」

「だがもうそうも言ってはいられない!…バッジョの奴が遂にここを嗅ぎつけた!もう既に何人かここへ向かっている!今すぐレイファンを連れてここを出るんだ!」

 それを聞くと気丈な母親も顔色を変えた。

「なんで!…どうすれば…。」

「心配するな!俺がお前達を守る!とりあえず簡単に荷物をまとめろ!」

 背の高い男に急かされ母親も慌ててリビングにやって来る。

「レイファン!…急だけどこれから出かけるわよ!」

 娘に心配させまいと平静を装うとしながらもその表情にはっきりと恐怖と動揺が見て取れる。母親のただならない様子に幼いレイファンにも危険な事態であることが分った。

「ママ…恐い人たちが来るの…?」

 先の母親達の会話で何か恐ろしい者達がやってくるのを予感しレイファンは怯えた声を上げる。

「…大丈夫よ…この人が守ってくれるって!」

 そう言って背の高い男を指す。見るといつかの夜更けに母親と言い合いをしていた男だ。

 背は高く、鋭い雰囲気と暗い色の服装が幼心に裏家業のものである事を感じさせた。

「心配ない、すぐに安全な場所へ連れて行く。」

 男はそう言ってレイファンの頭を撫でる。見た目や雰囲気こそ恐ろしいものの不思議とその手は優しさを感じさせた。

 母親は手早く荷物をまとめるとレイファンの手を握り男に準備が出来た事を告げる。男はそれを確認すると玄関から外の様子を伺う、ここは集合住宅の二階で玄関の外の廊下には表口に繋がる階段と反対側には非常階段がある。

 玄関の外には危険がないことを察すると男は二人を手招きして廊下に出る。そのまま二人を連れて非常階段の扉を開くと再び外の様子を伺い、何もないことを知ると二人を連れて非常階段を足音を忍ばせ降り始めた。

 その時、建物の表口に車が停まる音が聞こえた。続いて何人かの男の声と足音、恐らくは母子を狙いに来た敵だろう、男はリーユイとレイファンに声を立てるなと合図すると速度を速め非常階段を下りる。

 下まで降りると男は二人を背に隠し建物の角から表の様子を伺う。遠くで何人かの男達が話しているのが聞こえた。

「おい!まだか!早く連れ出して来い!」

 どうやらトランシーバーを使って手下に指示しているらしい。

「何?もぬけの殻?裏に回ってみろ!」

 それを聞くと男はリーユイとレイファンを振り返る。

「お前達!そこの物陰に隠れていろ!」

 リーユイは素早くレイファンを抱きしめると非常階段下の不燃ごみ用のドラム缶の陰に身を隠す。

 その後、上の方で非常口の扉が開く音がしたかと思うと二人の男が駆け下りて来るのが聞こえる。

「ん!?おい!お前は…じゃねぇか!」

 どうやら背の高い男の名を呼んだらしい。敵と顔見知りのようだ。

「なんでお前がここにいるんだ!リーユイ達はどこへやった!?」

 敵の片割れが怒鳴りながら問い詰める。

「もうここへは居ない。帰ってバルシアにそう伝えろ!」

「何だと!?お前少しばかり腕が立つからって調子乗るんじゃねぇぞ!」

 怒鳴り声と共に懐に手を伸ばすのが分る。

「おい!もう一度聞くぞ…」

 すると背の高い男も懐へ手を伸ばしたかと思うと素早く黒い筒状のものを前方に向ける、直後激しい破裂音と共に男の持った黒い筒から激しい火花が散る。

 どうやら男は銃を撃ったらしい、恐らくはさっきの敵が取り出そうとしていたのも拳銃だろう。

 レイファンは初めて見る本物の銃撃に心臓が飛び上がる思いだった。

「おい!もう大丈夫だ!出て来い!」

 男は母子に声をかける。

「…殺したの?」

 リーユイが恐る恐る尋ねる。

「仕方なくな…。済まない、レイファンの前で…。」

 レイファンもリーユイにしっかりと抱きつき怯えている。

「ごめんな…。」

 背の高い男が心から済まなそうにしている。しかし、うかうかはしていられない、今の銃声で表側にいる連中もここへやって来るだろう。

「急ごう!向こうに車を停めてある。」

 男の指差す方向に一台の車が見える、三人はそこへ向かうと男は車のドアを開けようとした。

 その時、前方から眩い光が照らされた。まるでサーチライトか何かで照らされているみたいだがよく見れば二、三の車のハイビームを向けられているようであった。

「逃げられると思ったか?」

 前から声が聞こえる、見ると光の向こうに数人の影が見える。

「悪い事は言わん、その二人を置いていけ。」

 前方の声は余裕のある様子で語りかける。

「悪いが断る!」

 背の高い男はリーユイとレイファンを庇うように立ちふさがり前方の声に答える。

「状況は分ってるな?」

「あぁ、だがお前には渡さん。」

 そう言いながら男はポケットから鍵を取り出しそれを向こうの相手から見えないようにそっとリーユイに渡す。

「いいか、俺が合図したら車に飛び乗って一気にエンジンを掛けて逃げろ!」

 小声でリーユイに指示する。

「あんたはどうするの?」

「俺はどうにでも逃げ切れる。」

 男の背に隠れながらリーユイはそっと車の運転席のドアを開錠する。

「開いたな?俺の銃声が聞こえたら一気に車に飛び乗れ!」

 そう言うが早いか男は懐から銃を抜き出し発砲する、突然の発砲に前方の敵も怯んだ様だ。

 その隙にリーユイはレイファンを抱えて車に飛び乗ると勢いよくエンジンを掛ける。しかし、その時前方からも夥しい銃声が聞こえた。

 レイファンはベッドの上で跳ね起きた、体中が汗でびっしょりだった。

「夢…。」

 また幼い時の夢を見てしまったようだった、母と共に追い詰められた恐ろしい記憶。

「あの後一体…そして…。」

 あの背の高い男は何者だったのであろうか、母と自分を必死に助けようとしたその人物の顔をレイファンは何故か思い出せないでいた。

 喉がとても渇いていたのでベッドの側のテーブルから水の入ったボトルを掴むと喉を潤す。渇きが癒えると少し気分も落ち着いた。

 隣を見るとメイはすやすやと寝ている、自分は悪夢にうなされたのに気楽なものだと苦笑する。

 その時、部屋の中に妙な違和感を覚えた。人の気配がする、それも自分やメイではない別の人間の気配が。

 ベッドの上を見ると外から入り込む光の中に人影の様なものが見える。

 驚いて窓の方を向くとそこに人が立っていた。レイファンは始め黒影かロンが立っているのかと思ったが、外から入るわずかな明かりの中でそれが誰であるか気付いた。

「崇っ!?」

 敵である崇がそこにいる、早くもこの隠れ家が見つかったのか、レイファンはベッドの側の引き出しから拳銃を取り出し崇に向ける。

 しかし、一瞬はやく崇に拳銃を持つ手を掴まれてしまった。

「さすが気丈な所も母親そっくりだな。」

 崇が薄気味の悪い笑いを浮かべながらそう言い放つ。

「えっ!?」

 この男は母の事を知っているのだろうか、そして自分の事も知っているようだ。

「あなた一体…!?」

 そう言い掛けた瞬間、崇がもう一方の手に持った布を彼女の口元に押し付けた。薬品系の強い臭いがしてレイファンは気が遠のいていくのを感じた。

「この男…。」

 薄れ行く意識の中でレイファンは気付いた、目の前にいるこの男こそかつて幼い日に自分と母親を助けた人物である事に。

 レイファンが気を失うと崇はその体を抱きかかえ窓の方へ向かう。

「誰っ!?」

 後ろからメイの声がした、今のやり取りに目を覚ましたようだ。祟は騒がれてはまずいとメイも眠らせようと近づいたその時、部屋のドアが激しく開いて拳銃を手にした黒影と九鬼が入ってきた。

「祟!」

 黒影が拳銃を祟に突き付ける。

「レイファンをどうするつもりだ!」

 黒影が祟を怒鳴りつけたその時、天井から二体の人影が飛び降りて黒影と九鬼を蹴り飛ばした。

 廊下の壁に叩きつけられた二人が顔を上げるとイタチとヒガリが立っている。

「二人とも戻れ!」

 背後から祟が呼ぶと二人はまるで曲芸師の様に宙返りをしながら祟のいる窓際へ去っていく。

 黒影が体制を直し再び銃を構えると、祟が足元に何かを投げ付ける、見ると手榴弾型のそれは激しい白煙を吐き散らし始めた。

「黒影!お前の得意技を拝借させてもらったぞ!」

 白煙の向こうで祟が嘲笑うような声を上げる。

「くそ!」

 九鬼が白煙の向こうの人影に銃を向けるが黒影がそれを制する。

「よせ!レイファンもいる!」

 白煙の向こうからさらに祟の声が響いてくる。

「黒影!今宵はこの娘を頂いていく、お前との決着は後日だ。」

 そう言って人影は窓の向こうに消えてしまった。

「外だ!奴らを追おう!」

 そう言って黒影が九鬼を連れだって外へと向かおうとした時、表で空を切るような激しい音が響いてきた。

「まさか!?」

 黒影が祟たちの出て行った窓へ向かうと、激しい音を上げながら上空に飛び立つ一機のヘリが見えた。

「あいつら!あんな物をいつの間に!?」

 悔しさに窓の枠を激しく打ち付ける。しかし、ヘリは上空の遥か向こうへ飛び去ってしまった。

「おい!どうするつもりだ!?レイファンが…」

 九鬼が慌てて黒影の胸倉を掴んで問い詰める。

「落ち着け!…もし俺の考えが合っているのなら祟はレイファンを傷つけないだろう…いや、傷つけられるはずはない…。」

「何か理由があるのか?」

「あぁ、話すとしよう、そしてこれからの対策をじっくりと練るとしよう。」

 -25・驚愕の真実-

 翌朝、目を覚ましたレイファンの視界には見慣れない風景が広がっていた。

 十五畳ほどもあろうかという広い部屋、それも壁紙や床の絨毯、様々な家具や彼女自身が寝ているベッドまで全て上品で高級な雰囲気を醸し出している。まるでどこかの富豪の一室の様だった。

「なんでこんな場所に!?」

 一瞬自分がどこにいるのか分からなかった、しかし、徐々に昨夜の事を思い出し始めた。

 夜中、突然目が覚めると目の前に祟が、そして自分は薬品か何かで眠らされここへ。

「!?」

 他の仲間はどうしているだろう、自分がさらわれた事に気付いているのだろうか、それよりも自分が眠らされた後、皆の身に危険はなかっただろうか、隣にはメイも寝ていた。彼女は無事なのか…。

 色々と考えているうちに部屋のドアが開き中年の女中と思しき人が入ってきて恭しく頭を下げた。

「お目覚めですか、お嬢様。朝食のご用意が出来ております。お支度が整いましたら食堂へご案内いたします。」

 レイファンは一瞬、女中が誰に向かって喋っているのか分からなかった。まるで大富豪の屋敷の様な部屋で目覚めたと思ったら今度は女中がやってきて自分を『お嬢様』と呼ぶ。もしかして自分は夢でも見ているのではないかと疑いたくなるほどだった。

「えっ、お嬢様って?」

 思わず聞き返してしまう。しかし、女中は笑顔のまま部屋のクローゼットの中から高そうな服を一着取って来るとそれをレイファンに手渡す。

「貴女の事ですよ、レイファンお嬢様。大旦那様がお待ちです、お支度をどうぞ。」

 どうやらここで女中を問いただしても始まりそうにない、仕方なくレイファンは女中の渡す服に着替え案内されるまま食堂へと向かうことにした。恐らくは『大旦那』とやらに会えば話がわかるのだろう。

 長い廊下を渡り食堂へと向かう。どこを見渡しても立派な屋敷だ、壁に飾ってある調度品や絵画もすべて高級そうなものばかりだった。

 やがて大きな一階中央にある大きなドアを開け中へ入るとこれまた広い部屋に出る。ここが食堂らしい、高い天井からは豪華なシャンデリア、大きなテーブルに高級そうな料理が並べられている。

 テーブルの一方に目をやるとそこには祟が座っている。

「祟!?」

 思わずレイファンが身構えると祟が笑みを浮かべそれを制する。

「心配しなくていい、別に君に危害を加えはしない。」

 女中もレイファンをなだめて椅子に腰かける様に促すのでしぶしぶそこへ腰を下ろす。

「一体どういうつもり?ここはどこ?私を連れて来てどうしようというの?」

 祟を睨みつけながら問い詰める。

「言っただろう、君を傷つけるような事はしない。もうすぐこの屋敷の当主がやって来る、それで全てが分かるだろう。」

 彼が言う当主とはさっき女中が言っていた『大旦那』の事だろう。

 レイファンはまた昨夜の事を思い出していた。祟を見たときはっきりと思い出した昔の記憶、母と自分を助けたのは紛れもなく祟だった。彼は母を知っている、そして勿論自分の事も、それと今自分がいる状況は無関係ではない、もうすぐ恐ろしい事がはっきりとしてしまう。

 彼女がそんな事を思っているうちに食堂の扉が開き女中と執事を従えて一人の老人が入って来た。

「おはようございます。」

 祟が席を立ち恭しく頭を下げる。席に着きながら老人は微笑みかける。

「祟、実にご苦労だった!それであの娘は?」

「そちらにおられます。」

 そう言ってレイファンを指す。

「…お、おぉ…。」

 老人はレイファンを見ると目を細め声につまる。

「…生き写しだ…あの娘に…リーユイに…。」

 老人が母の名を口にしたのを聞いてレイファンは思わず息を飲む、彼は母を知っている、いや知っているばかりではないのだろう。

 その答えを促すように崇が老人を紹介する。

「この方は黄一家当主、黄・ルンジェイ氏…世間では『御大』と呼ばれている方だ。」

 『御大』の名を聞いてレイファンに戦慄が走る。勿論、崇が敬意を払っていることからもこの老人が御大である事は察しが着いていた。しかし、自分達の敵の首領がこうして目の前にいると体中に走る緊張を隠せなかった。

 そんなレイファンの気持ちとは裏腹に崇は更に決定的な真実を告げる。

「…そして、君の祖父だ。」

「…祖父…!?」

 およそ分りかけていた事ではあったが、いざ目の前に真実を突きつけられると頭に色々な気持ちが駆け巡り混乱する。

「その通り、お前はわしの孫娘だ。」

 老人は嬉しそうに目を細め微笑を浮かべレイファンを見つめている。

「か、母さんはそんな事一つも…。」

 レイファンが乾いた喉の奥から搾り出すように言葉を出すと、御大は少し悲しそうな表情を浮かべ俯く。

「無理もない…リーユイはわしを嫌っていたからな…お前には一族の事など何も話さなかったのだろう…。」

「なぜ…?」

「うん?何がだ?」

「なぜ、母さんはあなたを…。」

「それは…。」

 老人は更に悲しそうな表情を浮かべ声を詰まらせる。月影街の暗黒街の黒幕と呼ばれるほどの大物であるはずの男が今はまるで人のよさそうな老人に見える。

 その様子に崇が諭すように言う。

「レイファン、君も今は突然の事に混乱している事だろう、ここへ連れ出した手段も決して穏やかだったとは言えない。君も訊きたい事、知りたい事が数多くあるだろう、しかし、久方ぶりの再会に戸惑っているのは御大も同じだ。…知りたい事にはおいおい答えていくとしよう、今は気持ちを落ち着けて彼と朝食を共にしてはくれないか?」

 敵でありながら何故か穏やかに諭す崇の様子にレイファンも調子を崩されてしまった。

 しかし、どうしても訊いておかなければならないことがあった。

「仲間は!私の仲間は無事なの!?」

 その言葉に御大も崇も一瞬険しい顔を見せたが、すぐに穏やかな調子で答える。

「心配は要らない、彼らとは昨晩は戦っていない。全員無事だ。」

 言葉に嘘はない様子だった。彼女はそっと胸をなでおろす。御大も続ける。

「今は休戦状態だ、心配しないで朝食を食べなさい。」

 敵であり、祖父でもある目の前の老人に促されてレイファンは朝食に手を付け出す。何とも居心地の悪い気分だ。仲間は今頃どうしているだろう、自分を心配している頃だろうか、そんな事を考えると食事も喉を素直には通っていかなかった。

 

 その頃、アジトでは黒影達が昨日の事を話し合っていた。

「それでお前らまんまとレイファンをさらわれたってのかよ!」

 ロンがテーブルを叩いて怒号を上げる。

「全部が終わってから呑気に起きだしたお前が言うんじゃねぇよ!」

 黒影が呆れたように返す。

「いやまぁ、そらそうだけどな…。」

 痛いところを突かれてロンが小さくなる。

「黒影、なぜ奴らはレイファンをさらって行った?お前は何かを知っているようだな?」

 九鬼が尋ねるとメイも続ける。

「崇はレイファンを傷つけないって、どうゆう事?」

 黒影は椅子から立つと奥の部屋へ行き何かを持って帰ってきた。テーブルの上に置かれたそれは一枚のレコードだった。タイトルは『海に抱かれて』と記されている。

「これは、今から二十年近くも前にこの街で流行った曲だ。」

 メイがはっとした表情を浮かべる。

「この曲昨日、レイファンが…!」

「その通り、夕べ路上演奏を聴いてレイファンがおかしくなった曲だ。」

 すると九鬼が尋ねる。

「その曲がどうした?」

「タイトルの下、歌手名を見ろ。」

 一同の視線が歌手名に集まるとそこには『ホアン・リーユイ』と記されていた。

「…ホアン・リーユイ…レイファンの母親だ。」

 一同に驚きの表情が浮かぶ。レイファンの母親が歌手であった事は知っていたがまさかそれが『海に抱かれて』を歌っていた本人だとは思っていなかった。

 黒影が続ける。

「この曲以外にも何曲かのレコードも出ている。彼女は当時の音楽界では注目されていた。只、彼女には黒い噂もあった。」

「黒い噂?」

「彼女はとあるマフィア組織のボスの娘だって噂だ。」

「その事をレイファンは?」

 九鬼が尋ねる。

「どうやら耳にしていた、母親が死んでからずっと後にな。」

「お前はなんでその事を!?」

 ロンも尋ねる。

「初めてあった日にレイファンが話してくれた。あいつはこの街へやって来て幼い頃に死んだ母親の事を色々と調べるうちにそのことにも気付いたらしい。」

「ちょっと待てよ!俺はそんな話は一回も聞いた事がないぞ?お前には話して俺には話さないってどういう事だよ!」

「気を悪くしないでくれ、あいつ自身誰にも言いたくなかったみたいなんだ…それが証拠に九鬼とシャオメイも聞いた事ないだろ?」

 二人が頷く。

「…俺に話したのは、そう、あの日、俺とレイファンとロンが初めて会った夜、その時に俺が殺し屋だという話を聞いてレイファンが語ったのが今の話だ…ロンはその時はその場にいなかった、だけどレイファンが自分の胸に収めてほしいと願ったんでな…俺もあいつも悪気はなかったんだよ…。」

 ロンはしばらく険しい表情を浮かべていたがやがて気を取り直す。

「…まぁ、いいよ、それならしょうがない…それよりその話とレイファンがさらわれた事ってのは…。」

「恐らくそのホアン・リーユイの父親というのが俺たちの敵である黄一家の首領、御大だろう。」

 ロンが身を乗り出す。

「つまり!?」

「レイファンは御大の孫だ。」

 全員が驚愕の表情を浮かべる、メイが震える声で訊く。

「レイファンはその事を知ってたの!?」

「いや、どうだろう…恐らくずっと知らなかった、でもここ数日で薄々感づいていたんじゃないかな?…ここへ逃げてくる時、地下道で祟の手下がレイファンを知っていただろう?その事であいつも徐々に気付いてたはずだ。」

「そんな事一言も…。」

「心配を掛けたくなかったんだろう、あいつはあれで意外と気を使うやつだ。」

「つまりだ!」

 ロンが頭を抱える。

「今の話をまとめると、あの夜クロを探しにカフェ・ド・ノワールに来た崇はそこでレイファンを見つけ、御大に会わせる為に連れ去ったと?」

「そういうことだな。」

「だったら話は早いだろ!御大の屋敷に殴りこみをかけてレイファンを連れ戻すんだ!」

 ロンがテーブルを叩きながら怒鳴ると黒影がなだめるように答える。

「言っとくが今の話はあくまで俺の推測だ、崇はレイファンを人質に取ったのかも知れないしな、そうなるとうかつには動けない。」

「じゃあ、このまま手をこまねいてろってのかよ!」

「そうは言ってない、もちろんレイファンを連れ戻す、先ずはレイファンの居場所と無事の確認だ。御大の屋敷にいるとは限らないしな。」

「どうするんだよ?」

「それについてはお前達にも協力を頼みたいがいいか?」

 全員が頷く。

 

 一方、御大の屋敷では朝食を済ませたレイファンが目を覚ました部屋へと戻されていた。

 とんでもない真実を明かされて頭は混乱している、しかし先ずはここを抜け出さなければならない。

 折角取り戻した孫娘を御大が手放すはずがない、恐らく部屋の外や屋敷の敷地内には見張りが大勢いることだろう。

 どうしたものかと辺りを見回し考えあぐねているとドアをノックするものがある。

「誰っ?」

 思わず返事をすると戸を開けて崇が入ってきた。

「…!」

 レイファンが思わず身構える、敵ということもあるが、この崇という男が持つ独特の鋭い雰囲気は心の奥の防衛本能を呼び覚まさせるのに十分足りえるものだった。

「そんなに警戒しなくていい、何度も言うが俺は君を傷つけるつもりはない。」

「…御大の孫だから?」

「それもある…しかし…。」

「母さんの事?」

「そうだ。」

 レイファンは昨日の夜中にさらわれた時の事を思い出していた。崇の顔を見たときにはっきりと思い出した幼い頃の記憶。彼は母を知っている、恐らくは父の事も。

 全ての真実を知ろうとレイファンは問いかける。

「あなたは…母さんとどういう関係だったの?」

 崇は近くの椅子に腰をかけるとレイファンにも座るよう促し、やがてゆっくりと話し始めた。

「あれは俺がこの組織に入って間もない頃の事だ、兄貴分だった幹部に連れられて初めてこの屋敷へとやって来た。車で待つよう言われていたが御大との話が長引いていたのか幹部は帰ってこない。仕方なく俺は屋敷の庭を歩き始めた。その時だ、木の陰から歌声が聴こえてきた。こんなマフィアの屋敷で綺麗な歌声が聴こえたことに驚きその正体を観に聞こうと木陰を覗くとそこには歌声に違わぬ美しい少女がいた。」

「…それが母さん?」

「そうだ、当時まだ十六になったばかりのリーユイだった。その後彼女が御大の娘と知って更に驚いた。…暗黒街の帝王の娘がまるで天使のようだったからな。」

「そんなに綺麗だったんだ?」

「あぁ、気の強さを覗けば本当に天使のようだ。…その時はそれっきりだったがそれから二年後、俺も小さなシマを任されるようになる頃に再びここへやって来た。十八になった彼女は大人っぽさも備えて更に美しくなっていた。俺はその時、初めて会った時のことなど彼女は覚えていないと思っていたが、そんな事はなく彼女のほうから話しかけてくれた。俺達は歳が近いのもあって気が合った、そう俺とリーユイとそして、もう一人…。」

「もう一人?」

「そうだ、もう一人はジルスという男だ。歳は俺と同じか、組織に入ったのも同じ頃だ。生きていれば今頃は大幹部になっていてもおかしくはない程の男だ。」

 突然話しの中に現れたジルスという男の名にレイファンは胸が高鳴った。

「その人は…死んだの?」

 興奮を抑えきれないように尋ねると崇はその先をゆっくりと話しだす。

「あぁ、もう二十年以上前にな…奴とはよく気が合ったし、喧嘩もした。俺にとってはかけがえのない友だった。…この屋敷でリーユイと再会した時はジルスも居合わせたんだ。それから俺たち三人は度々会うことが多くなった。リーユイはこの屋敷での箱入りの生活はうんざりだと言って俺達にこっそり街へ連れ出すように頼んできた、だから俺達はあの手この手でリーユイを屋敷の外に連れ出したものだ。無論、御大に知れたら只事ではすまないのを承知の上でだ。そうして俺達は夜の盛り場や、港の近くまで車を飛ばしてドライブなど、あちこちへ出かけたものだ。中でもリーユイが興味を持ったのがやはりジャズバーだった。幼い頃から歌うのが好きだった彼女はいつもステージに立つ楽団のシンガーを見て自分もいつかあそこへ立って歌いたいと言っていた。」

「母さんらしい…。」

「あぁ、だが、その夢も叶う日がやって来た。というよりも、彼女自身が叶えたんだ。その頃から半年程して彼女は屋敷を出たんだ。無論、御大の許しなど得てはいない、だけどリーユイはこれ以上囚われの生活は嫌だといって自由を手に入れたんだ。…当然、御大は娘を連れ戻そうとしたが、その追っ手をことごとくかわしたのがジルスだ。」

「…!」

「その頃…いや、もっと前からジルスとリーユイは恋仲になっていた。外へ出て自由になりたいと願ったリーユイの夢を叶えたのはジルスだ。そんな事をすればとても大きな相手を敵に回すと百も承知で奴は彼女をこの屋敷から連れ出したんだ…それからまた半年後、リーユイはジルスの子を身篭った…それが、レイファン、君だ。」

「…じゃあ、やっぱり、そのジルスって人が…。」

「君の父親だ。」

 レイファンは何も答える事が出来なかった。今まで名前すら知らなかった父親、それが今、母との馴れ初めから聞かされて、ただただ心臓の鼓動が波打つのを抑えるのもおぼつかない状態だった。

「な、なぜ?…母さんは父さんの顔も名前も教えてくれなかった…ただ、私が生まれる前に事故で死んだとしか…。」

 やっとの事で搾り出したレイファンの擦れるような問いかけに崇は悲しそうに顔をゆがめる。

「…それは…ジルスを死に追いやったのは他でもない御大だからだろう。」

「えっ…。」

「リーユイを連れ出した事を御大は許さなかった、処刑の命を下し刺客を差し向けた。…自分の父親を殺したのが祖父だとは知らせたくなかっただろう。」

「やっぱり、殺されてたんだ…。」

 レイファンは首を深くうな垂れる。

「…何故、あなたはそれを私に教えてくれるの?」

「何も知らないのは気の毒だと思ったからだ。」

「そう…。」

 首を深くうな垂れたまま、両手で顔を覆う。

「…お願い、一人にして…。」

「いいだろう。夕食の時間には御大もお見えになる。それまでは心の整理をつけておくといい。」

 そう言うと崇は部屋を後にした。

 レイファンは椅子に深く腰掛け、肩を小刻みに震わせる。顔を覆う両手に涙が止め処なく流れる。

 幼い頃から知らないままだった、父親の話、母親の生い立ち、そして父の死…。あまりに多くの想いがこみ上げてきて胸が張り裂けそうだった。

 -26・御大の恫喝-

夕食の時間になりレイファンは再び食堂へやって来た。テーブルには御大と祟も着いている。

「少しはくつろげたかね?」

 御大がレイファンに尋ねる。

「…。」

 レイファンは何も答えない。

「…まぁ、いい。今日の夕食は特別に良いものを用意させた。食べなさい。」

 テーブルには豪華な食事が並んでいる。レイファンがナイフとフォークに手を伸ばすと執事がグラスにワインを注ぎ始める。

「訊いてもいい?」

 レイファンが食事をワインで飲み干しながら尋ねる。

「何だね?」

「いつまで私をここへ閉じ込めておくつもり?」

 それを聞いて御大は楽しそうに笑いだす・

「これはいい!棘のある物言い、睨む目、本当にリーユイに似ている!」

「茶化さないで!」

「はっはっは!これはすまん!別にわしはお前を閉じ込めているつもりはない。そもそもここはお前の家だ。」

「私の家は別にあるわ。」

「南部のスラム街にか?」

「ええ、そうよ、ここよりずっと落ち着くわ。」

「それはどうかな?お前はまだ良い暮らしというものを知らんのだ。」

「ここが立派な屋敷で豪華な食事も出るのはわかったわ。だけど、どこで暮らしてどう生きるかは自分で決めたいもんだわ。」

「…そんな所もリーユイに良く似ているな。」

 御大は目を細める。

「しかし、そう言ってリーユイは屋敷を出て行き、そして死んだ…。」

 レイファンは言葉を詰まらせる。

「お前にはそうなって欲しくない…ここに居なさい、ここはこの街で一番安全だ。」

「い、いやよ!」

 レイファンがやっとの思いで言葉を返す。

「私は帰るわ!」

「黒影のもとへか?」

 御大が凄んだように尋ねる。

「奴がどういう者か知らんのか?」

「知ってるわ。」

 御大の口調の変化に若干の恐れを感じながらもレイファンは気丈に返す。

「なら、何故あんな無法者のところへ帰りたがる?」

「人の事をいえる立場?自分だってマフィアの首領じゃない!」

「ああ、確かにわしも裏の人間だ。だが、黒影とは違う、わしはこの街の裏社会を全てこの手中に収め、そして今や表社会にも力が及ぶ。黒影にそれがあるか?」

「…。」

「奴はただ一介の殺し屋に過ぎん。警察に追われ、裏の人間からも命を狙われる。それを跳ね除ける術はただ自分の力しかない…近くに居るだけで危険だ。」

「危険な事なんてない、いつも守ってくれたわ…。」

「それがいつまでも続くと思うか?奴もいつかは力尽きる。」

「そ、そんなこと…。」

「ないと言えるか?」

 御大がさっき以上に凄んだ、レイファンも思わず息を飲む。飄々としてはいるが、やはり暗黒街の大物だ、いざ凄むとその威圧感は恐ろしいものがある。

「いいか、レイファン。帰りたければ好きにするがいい。しかし、お前がこの屋敷を出ると同時にわしは崇に黒影を討つ命を出す。今度はこの前の三倍の兵隊で攻めるとしようか?さすがの黒影もこれには敵うまい?」

 御大がいよいよ冷淡な表情を見せる。

「…か、彼は何にも悪くないでしょ!」

「いや、奴は既にわしの手下を数人殺している。それだけでも奴を消す理由には十分だ。しかし、お前にとって大事な人間ならば、わしも全てに目をつぶり奴を生かしておいても構わん。全てはお前しだいだ、奴を生かすも殺すもな。」

 御大は不敵な笑みを浮かべる。レイファンは返す言葉が見つからなかった。この男は本気だろう、自分がここから逃げれば黒影や仲間達に危険が及ぶ。

「…私がここにいれば彼らには手を出さないのね?」

「あぁ、約束しよう。わしだってお前を悲しませたくはない。」

「…わかったわ…。」

 少なくとも今はそう言うしかなかった。チャンスがあれば逃げ出せるかも知れない。

 その後、食事が終わると再びレイファンは自室へと戻された。

 

 それから数分後、崇は御大の書斎に呼び出されていた。

「あの娘はまだ戸惑っているみたいだな。」

 御大が椅子に深く腰を下ろしため息をつく。

「無理もありません、昨日の晩に連れ去られ、今日の朝に自分の生い立ちを知ったのですから。」

「あの娘は逃げ出すかもしれんな。」

「その可能性は大いにあります。しかし、その時は私が黒影を…」

「それでは根本的な解決にならん。」

 御大が崇の言葉を遮るように言った。

「レイファンには心からわしの孫になってもらわんとならん!」

「それには時間を要するかと。」

「そんな悠長な事は言っておれん。わしも歳だ、いつ迎えが来てもおかしくない。」

「そんな事はないかと。」

「好きに生きてきた人間だ、死ぬのは怖くない。しかし、この家を継ぐ人間が居ないではさびしいではないか…。」

「…。」

「崇、催眠使いを呼べ。」

 その言葉を聞いて崇は表情を一変させる。

「本気ですか御大!レイファンは貴方の孫ですよ!それを…。」

 しかし、その言葉をまた遮るように御大は重く冷たい口調で言い放つ。

「言っただろう?わしには時間がないと。」

 御大の目は本気だった、崇もそれ以上は言い返せなかった。

「…分りました。失礼します。」

 そう言うと書斎を後にした。廊下に出ると彼は小さく呟く。

「これで二度目だ、貴方が俺に残酷な命令を下したのは…。」 

 -27・催眠-

 その頃、レイファンは部屋で運ばれてきた紅茶を飲んでいた。

 上品な味、確かにこの屋敷で口にするものは気品があって高級だった。

 けれど、それらを口にすればするほど、ロンやメイが作ってくれた食事が恋しくなる。たとえどんなに高価な料理も彼女にとって仲間の温もりには代えがたいものだった。

 ティーカップが空になると不思議と眠気が襲ってきた、緊張の連続からだろうか、何とも言えない倦怠感と共に意識が朦朧とする、まるで麻酔から覚めたばかりの様な奇妙な感覚。

 するとドアが開き祟が一人の男を伴って入って来た。

 細身で白衣を着ている、医者だろうか、血色の悪い顔にぎょろついた眼差し、何とも薄気味悪い男だった。

 しかし、朦朧とした意識の中でレイファンは特に反応もせずに二人を見上げる。

「薬は効いたようですね。」

 男が口角を嫌らしく曲げて呟く。

「後は私一人にお任せを…。」

 男が椅子を引き寄せてレイファンの前に座ると祟が釘をさすように告げる。

「くれぐれも、妙なまねはするなよ?」

 すると男は更に嫌らしい顔で答える。

「わかってますとも、御大の愛孫さんに手を出す勇気はありません。」

 それを聞くと祟は部屋を後にした。

 レイファンはそのやりとりをまるで遠くから眺めるような気分で見ていた。

「さて…。」

 男が身を乗り出してくる。

「レイファンお嬢様、今どんな気分ですか?」

 ゆっくりとした口調で尋ねられレイファンは虚ろな口調で返す。

「うん…なんだかとっても眠い…まるで夢の中…。」

「そうですか、体を楽に、難しい事は考えずこれを見つめていてください…。」

 そう言うと男はテーブルの上に蝋燭を立てて火をつけ、部屋の明かりを消した。

 レイファンの目の前で蝋燭の炎がゆっくりと燃えている、彼女はそれをぼんやり眺めていた。

「ゆっくりと息を吸って…そして吐いてください…そう、ゆっくりと…。」

 蝋燭の炎を見つめたまま言われた通りにすると、まるで意識が体を抜け無重力の宇宙にいるような気持ちになる。

「お嬢様は今おいくつですか?」

「二十…二…。」

「よろしい、では一つづつ遡って行きましょう、一つ…二つ…三つ…今いくつですか?」

「十…九歳…。」

「よろしい…では更に遡りましょう…四つ…五つ…。」

 男はゆっくりと数を数え続け、そのたびにレイファンの意識は月日を遡る、段々と最近の記憶が薄れ、遠い昔の記憶が鮮明になる…そして。

「今いくつですか?」

「七歳…。」

 レイファンがまるで小さな子供の様な口調で答える、今や彼女の意識は遥か昔の幼少期にまで遡っていた。

「なにが見えますか?」

「ママが…歌をうたいながら…ごはんを…つくってる…。」

 幼いころの日常の光景、彼女の目には亡き母の姿が見えていた。

「誰か家にきましたか?」

「…背のたかい…男のひと…わたしとママに…にげろって言ってる…。」

 祟がやてきて二人を逃がそうとしたあの晩、その光景が彼女の目に映る。

「それで、どうしましたか?」

「三人でアパートのうらから…にげた…車にのろうとしたら…前からまぶしい明りが…たくさんの怖い人たちが…ピストルを持って、わたしとママをこっちにわたせって…でも、男の人がだめだって言って…。」

 記憶はより鮮明に蘇る。

 目の前からヘッドライトを照らし銃を向ける男たちはリーユイとレイファン母子を連れ去ろうとしている、しかし祟は断固として拒否している。

「リーユイ、一気にエンジンを掛けろ!」

 リーユイはレイファンを抱えて車に駆け込みエンジンを掛ける、祟は敵に向かって銃を撃ち続ける。

 敵の何人かが倒れ、残った者も車の陰に身を伏せると祟も車に乗り込んで来る。

「代われ!」

 リーユイ達を助手席に自分がハンドルを握り一気にアクセルを踏み込む。

 タイヤが唸りを上げて走り出す、目の前に立ち塞がろうとする敵を跳ね飛ばし猛スピードを上げてその場から逃げだす。

 そのまま国道に出ると車の流れに紛れこむ。

「…あいつらは、何者?」

 後ろから追手が来ないか何度も確認しながらリーユイが問いかける。

「…移民系の組織、バルシア一家の連中だ。」

 祟がハンドルを握ったまま答える。

「なんで私たちを?」

「黄一家と対立している奴らは御大に家出した娘がいる事を嗅ぎつけた、お前たちを囮に御大を揺さぶるつもりだろう…。」

「…結局…またあの人のせい…。」

 リーユイが沈痛な面持ちで呟く。

「あんな男の娘に生まれなければ…命を狙われる事も…ジルスを失うことだって…。」

 涙を流しながら目を塞ぐ。

「…どうして!私たちが何をしたって言うの!?レイファンと二人静かに暮らしてるだけなのに!マフィアの娘に生まれたら一生こうなの!?」

「すまない…俺がもっと早く気付いていれば…。」

「別に貴方を責めてないわ…助けてくれたし…感謝してる…。」

 涙を拭き、レイファンを抱きしめながらそう呟く。

「しばらく月影街を離れた方がいい。」

 祟が諭すように言うと彼女も頷く。

「そうね…あなたの忠告ちゃんと聞くべきだったわ…。」

 車は港方面へ向かっていた。

「港?外国へ行けとでも?」

「いや、船で南の方へ向かう、南部は奴らの縄張りがある、陸路は危険だ。」

「そう…。」

 不安げな表情で俯く、レイファンも二人のやりとりに不安な気持ちを募らせた。

 やがて港へ着くと、車を停めて船着き場へ急ぐ、祟が取っておいたチケットで今夜発の客船へ乗り込むのだ。

 船の前まで来ると乗船の為の列に並ぶ、船に乗り込むまでは祟も守るつもりだ。

「あてはあるのか?」

 祟が尋ねるとリーユイが頷く。

「一応ね…ずっと南の草原地帯にタルマって小さな町があって、そこに知り合いがいるの…。」

「そうか…。」

「しばらくお別れね…。」

「そうだな…。」

「色々とありがとう。」

 リーユイが握手を求めて手を伸ばしたその時。

「ホアン・リーユイだな?」

 冷たく響く声で一人の男が銃を背中に押し付ける。

「大人しくついてこい。」

 それを見ると祟も銃を抜いて相手の頭に突き付ける。

「誰だ貴様?」

 鋭い目つきで相手を睨む、すると後頭部に銃口を突き付けられるのを感じた。

「祟か、大人しく引き下がれ、この場で死にたくはないだろう?」

「おかしい、何故ここに敵が…?」

 祟は困惑した、港を選んだのはここが黄一家の縄張りで、バルシア一家が派手な動きが取れないと踏んだためだ、にも関わらず周りを囲まれてしまった。

 そして、もうひとつ妙な事に、この連中には移民系独特の訛りが無い事だ。

「お前たち、まさか…。」

 考えられる可能性は一つだけ、こいつらは黄一家の裏切り者だ。リーユイ達をバルシア一家に売り込み、黄一家が壊滅した暁に高い地位をもらおうと考えているに違いない。

「銃を捨てろ。」

 リーユイを捕えている男が凄むと祟は銃を地面に捨てる、そして相手がそれに目を奪われたその隙に身をかがめて背後の男の腹部にひじ打ちを食らわす、相手が腹を抱えてしゃがみ込む。

すると前の男が祟に銃を突きつけた、それを待ってたとばかりに祟はその腕を掴み上げて捻る。

「うぅ!」

 あまりの痛みに男は銃を落とす。

「リーユイ!走れ!船に乗り込め!」

 祟が叫ぶとリーユイはレイファンの手を引いて走り出す。

 祟は銃を拾い上げると捕えていた男の首元にグリップを叩きつける、もう一人の男も顎をけり上げる、二人とも気を失って倒れた。

 その時、母と船に向かって走っていたレイファンがつまづいて転ぶ、リーユイは慌ててレイファンのもとへ駆け寄った。

 その時、一発の銃声が船着き場に轟いた。

 船着き場の列はさっきの喧嘩騒ぎに加え銃声まで鳴ったのでとんでもない騒ぎになった。

 祟が驚いてリーユイを見る、すると彼女は膝から倒れ地面にうつ伏した。

 騒然となる列をかき分け慌てて彼女に駆け寄る、リーユイは腹を撃たれていた、傷口を手で押さえるも止めどなく血が流れ出る。

 祟は彼女を抱きかかえ名を叫ぶ。

「リーユイ!しっかりしろ!」

 するとリーユイは苦しそうに薄目を開けて彼を見る。

「れ、レイファンは無事?」

 見るとレイファンは口を手で押さえ目を見開いて震えている。

「あぁ、無事だ!」

「良かった…ねぇ、祟…お願いがあるの…。」

「なんだ!」

「さっき言ったタルマの知り合い…その町の教会のシスターなの…私が死んだら…レイファンを預けてもらえない?」

「諦めるな!まだ息がある!」

 祟は必死にリーユイを励ます、しかし、彼女は見る見るうちに顔が青ざめていく。

「いいの…分かってるから…ねぇ、さっきのお願いね?」

「あぁ、分かった!約束する!」

「良かった…レイファン…。」

 頬笑みを浮かべると娘を呼ぶ。

「ママ…。」

 目に涙を浮かべレイファンが駆け寄る、母の命が消えかかっている事を彼女は気付いていた。

 リーユイは娘を抱きしめ優しく髪を撫でる。

「レイファン…ごめんね…ママ、一緒にいてあげられなくなる…でも、忘れないでね?例え目に見えなくてもいつもあなたを見守ってるわ…レイファン…愛してる…。」

 優しく語りかけ、やがて息を引き取る。

 

「ママ!?ママ!!いや!ママァ!!」

 レイファンが叫び声をあげる。

 退行催眠で母の死に際を鮮明に思い出し、両手で頭を抱え泣き叫ぶ。

 それをにやにやと眺めながら催眠士は続ける。

「大丈夫ですよ、それは只の記憶です、遠い記憶、今は遠い未来です。」

「み…らい…。」

「そう、今お嬢様は二十二歳の女性です。」

 それを聞いてレイファンも落ち着きを取り戻す、炎を眺めぼんやりした表情だ。

「お母様はなぜ亡くなられたんですか?」

「私のせい…あの時転ばなければ、ママは撃たれずに済んだ…。」

「では、なぜ、お母様は撃たれなければならなかったのですか?」

「わからない…。」

「この屋敷を出たからです。」

「…。」

「あなたのおじい様、御大の側にいれば死なずに済んだ。」

「…。」

「あなたも御大の側にいれば死なずに済む…お母様もそれを望んでいらっしゃいます。」

「ママが…?」

「そうです!」

 レイファンは炎を見つめたままぼんやりとしている、催眠士は仕上げにかかる。

「お嬢様、この後指を鳴らすとあなたの意識は目覚め、今のやりとりを忘れます。けれど、この屋敷を出て仲間の元へ戻った時に…あなたの自我は全て消え、御大、ホアン・ルンジェイ氏の孫という新たな自我が芽生えるでしょう!」

 言い終えると部屋の明かりを灯し、蝋燭を消して指を鳴らす。

 レイファンがはっとした表情で辺りを見渡す。

 何をしていただろう?どうも少し居眠りをしていたらしい、顔を上げると薄気味の悪い男が立っている。

「あんた誰?」

 レイファンが鋭い目で睨む、男は鼻で笑いテーブルの上のカップを手に取る。

「湯呑みを下げに来ただけですよお嬢様!」

 会釈して部屋を後にする。

 廊下では祟が心配そうに待っていた。

「上手くいきましたよ。」

 嫌らし顔で告げる、祟は険しい顔で頷く。

「ご苦労…。」

 帰りかける男の背に問いかける。

「ちなみに解く方法はあるのか?」

「ありませんよ?」

 振り返りながらにやにやと笑う。

「あるとすればそれは死ぬ事だけです…。」

 そう言い残し帰って行った。

 祟はその場で立ち尽くしていた。

「リーユイ…済まない…俺はレイファンを…。」

 悲しそうな顔で呟くとやがてその場を去った。

 -28・レイファンの救出-

 その頃、御大の屋敷の近くの建物には黒影達がいた。

「どうするんだよ?一気に攻め込むのか?」

 ロンが不安そうに訊く。

「いや、そんな無謀はやらない。忍び込むんだ。」

 黒影が答える。

「忍び込むってどうやって?」

「半月堂の爺さんに聞いたところによると、夜の11時くらいに御大の屋敷に食料を搬入があるらしい。そのトラックに乗り込んで中へ忍び込む。」

「そのトラックにはどうやって?」

「それはな…。」

 黒影は作戦を話し出した。

 

 夜の十一時過ぎごろ、御大の屋敷へ一台のトラックがやって来た。見張りの者たちが、門を開け車を通す。

 敷地に入ったトラックは屋敷の裏側へと回り、そこから食料を搬入する。運転手が荷台の扉を開け、中から品物の入った箱を取り出しそれを荷車に載せ屋敷の勝手口から中へ運び込む。

 その隙を見計らうように、二つの人影が荷台から飛び降りると、素早く物陰に隠れる。

「くそぉ…凍え死ぬかと思ったぜ…。」

 ロンが体を寒そうにさすりながら呟く。

「冷凍車じゃなかっただけましだぜ?」

 黒影が笑いながら言う。二人とも冷蔵車の荷台に忍び込むため厚手の上着を着てはいたが、一時間近い輸送時間で体が冷えてしまっている。

「大丈夫かクロ?いざって時に手がかじかんで銃を撃てないとかやめてくれよ?」

「心配いらない、何のためにこいつをしてたと思う?」

 そう言って、手袋をはめた手を見せる。

 物陰を見つからないように移動しながら二人は屋敷の横手の窓のある場所へとやって来た。

「よし、ここからはお前が頼みだ!」

 黒影がそう言って肩を叩くとロンが答える。

「まかせろ、先祖代々の腕の見せ所だ!」

 自信の笑みを浮かべ、懐から革のケースを取り出して開く。そこには細い金属製の工具の様なものがいくつも収納されていた。

 その中からキリの様なものを取り出すと窓の端に小さな穴を開け出す。

「一気に窓をぶち破らないのか?」

 黒影が尋ねるとロンが鼻で笑う。

「そんな真似してみろ、怖いあんちゃんたちが鉄砲持って来ちまう、侵入口は見つかるのが遅いほど逃げる時間が確保できるってもんだ。」

 窓ガラスに穴を開け終わると続いて先が輪になった細い針金をそこへ通す、それを器用に操り窓の取手に輪をかけ鍵を開ける、時間にして二分もかからなかった。

「見事なもんだな、土竜の末裔!」

 黒影が感心するもロンは複雑な表情を浮かべる。

「これが表の世界で役に立つ事なら良かったけどな…。」

 二人は開いた窓から中へ入り込むと再び物陰に身を隠す。そこは屋敷の廊下で人の気配はない、ロンが尋ねる。

「さて、どうするよ?こんな広い屋敷でどうやってレイファンを探す?」

「誰かに訊くさ。」

「なんだと!?」

 ロンの驚きもよそに黒影は身を隠しながら進む、ロンが後に続く。

 しばらく廊下を進むと、曲がり角に来た。半身を隠し角の向こうを見ると見張りと思しき男が立っていた。

 黒影は声をひそめロンにそれを伝える。

「いいか、あいつを捕まえてレイファンの居場所を訊き出す。」

「おい!正気か…。」

 ロンが言い終わらぬうちに、黒影は飛び出し角の向こうの男を捕まえてねじ伏せると腕をひねり上げる。痛みに悲鳴を上げそうになる男の頬に銃を突きつける。

「声を上げるな、ホアン・レイファンはどこにいる?」

 男は痛みに顔を歪めながらも頭を必死に横に振る。

 しかし、黒影はより一層腕をひねり、なおかつ銃の激鉄を下ろし銃口を押し付ける。

「御大や祟が怖くて言えないか?…ならここで死ぬか?俺が誰かは分かるな?この左目を見てみろ!」

 そう言って顔を向ける、左目は赤く染まり出していた。

 それを見て男は手足を震わして目に涙を浮かべる、噂に聞く黒影を目に前にして恐ろしいのだろう。

 しばらくすると観念したように首を縦に振り何か言おうと声を出す。

「よし、小声で言え、大声をたてたらその場で殺す。」

 黒影が頬に突き付けた銃口をこめかみに移すと震えながら男は答えた。

「に、二階の左から…に、二番目の、へ、部屋です…。」

 どもりながら絞り出すように答えるとなお一層体を震わし目を閉じる。

「そうか、ありがとうよ。」

 にやりと笑うと銃のグリップを男の首元に叩きつけ気を失わせる、続いて懐から紐とテープと出すと男の手足を縛り、口をふさいで物陰に隠す。

「荒っぽいねぇ、お前さんは…。」

 ロンが呆れたように言うが黒影は気にも留めない。

「早く行こう。」

 廊下を進むと階段があった、それを上って二階の廊下へ出た。幸いに見張りは誰もいない。左から二番目の部屋の扉の前へ来た、取手に手をかけると鍵がかかっている。

「ロン、頼む。」

 言うが早いかロンは作業に取り掛かる、先の曲がった器具を二つ取り出し、鍵穴へ差し込む。しばらくすると微かに鍵の開く音がした。

「よし!」

 ロンが合図すると黒影は素早く扉を開き、銃を構えて中へ躍り込む。

 広い部屋だった、豪華なテーブルやソファ、そして奥にはベッドもある。その奥にレイファンがおびえた表情で立っていた。

「…!ク、クロ!!」

 黒影を見つけると走り出して胸に飛び込む。

「来てくれたの!?」

 レイファンが今にも泣きそうな顔で黒影の顔を見上げる。

「…おい、俺もいるぞ?」

 横を見ると、ロンが呆れたように立っている。

「あぁ!ロン!ありがとう!…二人で来てくれたの!?」

「そうだ、俺だけじゃあ忍び込めないからな。」

 黒影が笑いながら言う、ロンはすねた表情で答える。

「えぇ、どうせ俺は裏方だよ…。」

「そんなことない…ありがとう。」

そう言ってロンの肩にも顔をうずめる。

「さて、こうしちゃいられない、早く逃げないとな。」

黒影が言うと三人は動き出す。部屋を出て、一階に下りる階段へと向かう。来たときのトラックに再び戻らなければいけない。

しかし、その時、後ろに不穏な気配を感じた。

「伏せろ!」

黒影が二人と共に床に伏せる。

その瞬間、空を切る音がすると同時に周りの壁に鋭い傷跡を残す。

ヒガリの鞭だ、後ろを見るとやはり立っている。

「あら、黒影さん、夜這いとは隅に置けないわねぇ。」

からかうような表情でヒガリが笑みを浮かべている。

 黒影は素早くそこへ銃を撃つがヒガリは一足早く物陰に隠れてしまう。

「俺が食いとめる、ロン、レイファンを連れて行け!」

 黒影が言うとロンはレイファンを連れて階段を降りる。

その合間にもヒガリは姿を出し鞭を放つ、すんででそれをかわし銃を撃つがやはりかわされてしまう。

しかし、その時、視界の隅に廊下の飾り物の銅像が目に入った。どこかの国の神像だろうか、六本の手を広げた姿だ。

「これだ!」

黒影は立ち上がると大急ぎで神像の前に立つ、そこを目掛けヒガリも鞭を放つ。

しかし、素早く伏せた黒影の代わりに六本腕の神像に鞭がからみつく、いくつもの剃刀の様な刃を備えたヒガリの鞭は神像の複雑な形に絡みつき離れなくなってしまった。

慌てて鞭を引こうとするも重い銅像に絡みついて離れない、焦りの表情を浮かべるヒガリの胸元に黒影は銃弾を撃ち込んだ。

口から血を吐きヒガリは倒れ込む、防弾着を着ているがさすがに効いたようだ。

「薄気味悪いサディストが…。」

彼は立ち上がるとロン達の後を追う、今の騒ぎで屋敷中の者が集まるに違いない、その前に逃げなければならない、しかしその前に連絡だ、電話を取り出す。

「…メイか?九鬼に伝えろ、第二案に変更だ!」

 

一方、ロンとレイファンは一階に下りたものの、もはや今の騒ぎでトラックは使えない、こうなった場合は意を決してある作戦を決行する事になっていた。

「レイファン、正面玄関はどこだ?」

ロンが尋ねるとレイファンは驚愕の表情を受かべる。

「正気で言ってんの?あんなとこ中も表も見張りだらけよ!」

「いや、緊急時はあえてそこを突破らしい!」

「…分かった!こっち来て!」

レイファンの案内で正面玄関にやって来た。

すると案の定、三人の見張りがそこにいた、二人を見ると銃を構える。

しかし、レイファンがロンの前に庇うように立ちはだかる。

「撃つなら撃ちなさい!でもあんた達の腕で彼だけ撃てる?…もし一発でも私に当たったら朝までに海の底よ!」

それを聞いて見張りの男たちがうろたえた、レイファンが御大の孫娘なのは分かっている、彼女にかすり傷でもつけようものなら御大は黙っていないだろう。

だが、その時、正面玄関の反対側の中央階段の上の踊り場から声が響く。

「俺なら、当てれるぜ?」

慌てて、声のする方を見るとイタチが銃を構え立っていた。

「お嬢さんよぉ!はったりが通じるのはそいつらチンピラまでだぜ?」

にやにやと笑いながら、右手で銃を構え、左手でリンゴを頬張る。

激鉄を下ろし、引き金を引くと思ったその瞬間、イタチの更に後方から数発の銃声が響きわたった。

手に持った銃もリンゴも投げ出し、イタチは前のめりに倒れて階段を転げ落ちる。踊り場の向こうから黒影が姿を現す。

赤い左目を見て見張りの男たちが銃を向けるが、狙いを定める間もなく黒影に撃たれてしまう。

黒影は階段を下りて二人と合流し、外へ出るために正面玄関の扉を開く。

しかし、扉の向こうの中庭には十数名ほどの御大の手下たちがサブマシンガンを構えて待っていた。

真ん中には祟の姿もある、彼は黒影達三人を見つけると手を叩きながら嘲笑うように言い放った。

「黒影、はるばるスラム街からレイファンの出迎えご苦労。しかし、彼女は今日からこの屋敷の人間だ。貴様らには悪いが、お引き取り願おう。」

すると、レイファンが再び二人の前に立ちはだかる。

「祟!撃ちたきゃ撃てばいいわ!でも、私ごとね!」

しかし、それを聞いても祟は顔色一つ変えない。

「いらん心配だ。」

そう言って指を鳴らす。すると、手下たちの持つサブマシンガンから赤い光線が放たれる。レーザーサイトだ、十数本の赤い光の筋が黒影とロンの頭や体に集まる。

「これならば狙いを外す事もあるまい?」

祟が口元に皮肉の笑みを浮かべ続ける。

「黒影、本当ならばこの場で始末したいが、レイファンの目の前だ、今夜だけは見逃してやろう。銃を置いて仲間を連れて消え失せろ!もちろんレイファンは残してだぞ?」

しかし、黒影もなぜか口元に余裕の笑みを浮かべる。

「それはどうかな?」

その時、屋敷の正門に一台の車がとてつもない速度で突っ込んできた。大型のまるで装甲車の様な車だ。けたたましい音を上げ屋敷の正門を突き破り中庭へと進む、その暴走を止めようと銃を構え立ちはだかった手下たちを跳ね飛ばし中庭の祟達が居る場所へと突っ込んで来る。サブマシンガンを構えていた手下たちも思わず陣形を崩し逃げ惑う。

その隙をついて装甲車は正面玄関の前に横づけに止まる。後部座席の扉が開くとそこにはメイの姿があった。

「三人とも早く乗って!」

レイファン、続いてロンが乗り込む、黒影が乗ろうとしたその時、屋敷の内部から銃声が轟き装甲車の外装に火花が散る。

追手が来たようだ、黒影が後ろを向くと三人の男が銃を撃ちながら走って来るのが見えた。

素早く撃ち返すと、中庭の方から祟の怒号が聞こえる。

「早く向こう側に回れ!まだ乗り込んではいないはずだ!」

言うが早いか数人の手下がこちら側に回り込んで来る、赤いレーザーサイトが一気に体に集まる。

相手がサブマシンガンを構え、引き金に指をかけるその瞬間、黒影は数発の銃弾を一気に撃ちならして敵を仕留めた。

全て撃ち尽くし弾が無くなった、マガジンを取り替えようとしたその時、後ろから数人の足音が聞こえる、残りの者が反対側からやって来たようだ。

慌てて後ろを向こうとしたその瞬間、運転席から銃声が数発轟き、残りの者たちも全て倒れる。

運転席の開いた窓を見ると九鬼が銃を持っていた。

「早く乗れ!」

黒影にそう呼び掛ける。

「あぁ!」

笑みを浮かべ乗り込む。車は激しいエンジン音を鳴り響かせターンを描くと、入って来た正門へと向かって猛スピードで突き進む。

すると、前方に祟が銃を向けて立ってる。九鬼がアクセルを踏む、車はスピードを上げどんどん祟に迫る。

三発の銃弾がフロントグラスのど真ん中に命中した。祟が撃った弾だ。装甲車の様なこの車は窓ガラスも防弾使用になっているが同じ個所に何発も銃弾を受ければ割れてしまう。しかも祟の拳銃は大型の口径だ、これで三発以上もほぼ同じ場所に弾丸を撃ち込まれては衝撃と風圧で砕け散るだろう。

「九鬼!よけろ!」

黒影が叫ぶ間もなく、四発目の銃弾が命中する。フロントグラスにクモの巣状のひびが一気に広がる。九鬼が慌てて白くひび割れたガラスを手で叩き落す。

開け放しとなった窓の向こうで崇が銃を構えている、黒影も崇へ銃を向ける。

黒影と崇の互いの銃口と鋭い目線が睨みあう、その瞬間、黒影の脳裏に遠い昔の記憶の断片がよぎった。

「…あの男…!?」

かつて幼い頃に見たことのある男ではないか?父を訪ねて家へやって来た男、カフェ・ド・ノワールで初めて見かけたときに言いようのない戦慄を覚えたのはこのためか?

そんな想いを吹き消すように黒影は引き金を引く、崇も同時に引き金を引いた。

互いの放った銃弾はそれぞれの頬をかすめて飛び去っていく。

九鬼は一気にアクセルを踏み込み崇をひき殺そうとしたが、寸前で崇は素早く身をかわしてしまう。

車はそのまま屋敷の表門を飛び出し走り去った。

崇は、その後を追いもせずにじっと見つめていた。しばらくして後ろからレッジョが走りよってきた。

「崇さん!大丈夫ですか!?」

「あぁ、イタチとヒガリはどうしてる?」

「命に別状はありませんが、まだ気を失っています…。」

「そうか…。」

「あの…追わなくていいんですか?」

「必要ない…。」

 眉間に皺を寄せ険しい面持ちで続ける。

「あの子は帰ってくる…。」

 そう言うと屋敷の方へ向かって歩き出した。

 -28・レイファンの異変-

一方の黒影たちは、途中の人通りの少ない場所で車を乗り換え、東南の方角へ向かって走り続けていた。アジトは既に崇たちに知られてしまっている、またもや隠れ家を変えなければならない、ロンの提案で土竜一味がかつて使っていたアジトへと向かう予定だった。

帰りの車中では誰もが黙りこんでいた。レイファンは御大の屋敷で聞いた自分の生い立ち、黒影はさっき脳裏をかすめた崇の姿をそれぞれ考えていた。

メイが全員に怪我がないか見てまわり、黒影の頬についた傷を手当てする。九鬼は運転席で黙ってハンドルを握り締めていた。

沈黙を破ったのはこの雰囲気に耐えられなくなったロンで、帰りに酒でも買って祝杯を挙げようとおどける、誰も返事をしない中、気を利かせたメイがそれに賛成すると黒影とレイファンもようやく微笑を浮かべた。

やがて車は東南部の倉庫街の一角に止まる。今は使われていない倉庫も周りに多く人影もない。

「隠れるにはもってこいだろう?」

とロンがおどけると、レイファンもようやく噴出して笑う。

『古着商』と書かれた倉庫に入り二階へと上がる、そこは倉庫とは名ばかりに立派な居住スペースだった。

「いい所じゃないか!なんで今まで黙ってた?」

黒影が訪ねるとロンが肩をすくめる。

「駆け出しの頃、ここで親父に叱り飛ばされながら盗みの仕事を覚えこまされた…あんまいい思い出じゃないさ…。」

「そうか、そりゃ悪かった!」

「いや、いいさ。」

それから各々ソファーや椅子でくつろぎながら祝杯を挙げる。いつしか夜中の二時を過ぎ疲れ果ててそのまま腰掛で眠り始める・

 どれくらい眠った頃だろう、ふとメイが目を覚ますと側にいたレイファンの姿がない。おかしいと思って辺りを見回すとドアが開いているのに気付く。外で夜風にでも当たっているのだろうか、メイも表へ出てレイファンを探した。

 倉庫から出て十数メートルほどの場所にレイファンの後姿が見える。メイも近づいて話しかける。

「レイファン、どうしたの?飲みすぎて気分でも悪い?」

 しかし、レイファンは返事をせず、メイに背を向けたままだ。

「…レイファン?」

 その時、レイファンが振り返った。しかし、その目付きはいつものレイファンとは明らかに違っていた。

 冷たく、重く、刺すような目…いつものような、気は強いが快活で生きいきとした目ではなかった。

 唖然とするメイに追い討ちをかけるようにレイファンは彼女の胸元に拳銃を突きつけた。

「…動かないで…。」

「!?」

 これは一体何の冗談だろう?あまりの事にメイの頭の中は真っ白になった。

 その時、レイファンの向こうから一台の車がヘッドライトを消して忍び寄り停車し、中から数人の男が降りてきて彼女達の周りを取り囲む。

 レイファンが目で合図をすると男の一人が布をメイの口元に押し付ける。強い薬品係の臭いがして気が遠くなり始める。

 薄れ行く意識の中でメイはレイファンの顔を見た、やはりそこには冷たく重苦しい目があるだけだった。

 -29・祟からの声明-

 黒影たちが異変に気付いたのはそれから三時間ほど経った朝のことだった。

 彼らは慌てて隠れている倉庫内やその周辺を探し回ったがメイとレイファンの姿を発見する事は出来なかった。

 しかし、黒影は倉庫から少し離れた場所でメイがいつも肌身離さず持っている三日月のペンダントを拾い上げた。

 父の形見のペンダント、兄妹で一つづつ持っているものだ。黒影の三日月には青い石、メイには赤い石が埋め込まれている。

 二人はどこへ消えたのだろうか?ほんの数時間前に御大の屋敷からレイファンを救い出し、ここへと逃げてきた。追っ手はなかったはず、そしてこんなにも早くこの場所が見つかるはずは無い。

 しかし、地面に落ちていた妹の三日月ペンダントが不安な気持ちを募らせる。

 その時、黒影の電話が鳴り響いた。

「誰だ?」

 応答すると電話の向こうからは崇の声が聞こえた。

「黒影、つかの間の勝利だったな。」

「崇…お前か!?二人をさらったのは!」

「いや、生憎と俺はそこへは出向いていない。お前達が起こした騒ぎの収束で忙しかったものでな。」

 嘲笑うような調子で崇は答え、続けて驚くべき言葉を口にした。

「手下達をそこへ案内したのは、レイファンだよ。」

「!?」

 黒影は一瞬何の事か分らなかった。

「馬鹿を言え!…あいつがそんな真似するわけ無いだろ!」

「ところがこれは本当だ。レイファンが手下達を呼び寄せ、そしてお前の妹をさらって屋敷へと戻ってきた。」

 崇は尚も嘲笑う調子で説明をする。

 レイファンが裏切り…しかし、これには何か訳があるのだろう、黒影は胸に沸き起こる色々な焦燥感をおさえ、何とか冷静さを取り戻そうとした。

「黒影、今日お前に伝えたいのはその事ではない、お前をあえて生かしておいたのには訳がある。」

「…なんだ?」

「お前は、『ラチカの詩』のありかを探る手掛かりを持っているだろう?」

「なんだと!?」

 崇の口から出た意外な言葉に黒影はまたも冷静さを見失いそうになる。

「お前の父親が探していたものだ、忘れたわけではあるまい?」

「!?」

 この男は父親を知っている、やはり崇は黒影が子供の頃に会ったあの男なのだろうか?

「お前も、『ラチカの詩』を探していたようだな?父親は見つける寸前まで辿り着いていたはずだ。いや、もしかしたら見つけていたのかもしれない…だが、我々に渡そうとはしなかった。」

「…!?」

「お前は同じ轍を踏まんだろうな?」

 その言葉を聞いて黒影は確信した。この男、崇こそ自分の父親を殺した張本人なのだという事に。

「…崇…。」

 胸に激しい憎悪が沸き起こる、幼い頃の光景が脳裏に映し出される。父親が殺されたあの日の夜が。

「黒影、三日やろう。それまでに『ラチカの詩』の手掛かりを全て集めて指定する場所に持って来い、言っておくがそれまで逃げようとしたり、こちらにつまらん手向かいをしたりなど考えるなよ?…くれぐれも、自分の妹が人質だという事を忘れるな。」

 それだけ言うと崇は電話を切ろうとした。それを制すように黒影は答える。

「崇…。」

「…なんだ?」

「三日後、お前もやって来るだろうな?」

「あぁ、お前相手だ。手下だけでは心もとない。」

「その時、お前を…殺す。」

「…それは楽しみだな。」

 冷やかすように言うと崇は電話を切った。

 黒影は電話を握り締めたまま、しばらくその場に立ち続けていた。

 

 メイが目を覚ますとそこは見知らぬ部屋だった。

 十二畳ほどの広い部屋、高級感のある壁紙や絨毯、寝かされているベッドもソファや椅子も全てが高級そうなものばかりだった。

 ここはどこだろうか、昨夜逃げ込んだ倉庫ではない。

 その時、夜明け頃のレイファンの様子を思い出した。

 そうだ、自分はレイファンにさらわれここへ来たのだ。するとここは御大の屋敷に違いない、敵の本陣に自分はいるのだ。

 すると、部屋のドアが開いて若い女中が、食事と思しき銀色のトレーを持って入ってきた。その後ろには崇とレイファンが続いた。

「レイファン!」

 メイが駆け寄ると崇がそれを手で制す。

「やめたまえ、君の知っているレイファンではない。」

「どういうこと!?」

「言ったとおりの意味だ。君をここへ連れてきたのも彼女だ。」

 メイは訳が分らずレイファンを見る。やはり、昨日見たときと同じ、冷たく重い目をしている。メイが話しかけても振り向こうとも答えようともしない、まるで姿だけが同じ別人のようだ。

「諦めろ、彼女は今やこの屋敷の人間だ。そして君は大事な客人、いや、人質といった方が分りやすいだろうな。」

「私を囮にして兄さん達をおびき寄せるつもり!?」

「いや、我々は黒影とある取引をした。君の命と引き換えに『ラチカの詩』の手掛かりを持ってくるように言った。…もちろん君の身柄を押さえてる以上、彼は抵抗も反撃も出来ないだろう。」

「ラチカ…。」

 彼女にとってこの上も無く忌々しいもの、父を死に追いやり、そして今や自分達も危険に晒している。

「哀れな兄妹だ、お前達は…どこまでもラチカに呪われている。」

 そう言って崇は悲しそうな目をメイに向ける。

「取引は三日後だ、奴が指定する場所に持って来れば君は無事に解放しよう。」

「兄さん達はどうするつもり?」

「それはその時の状況しだいで決まるだろう。しかし、奴が大人しく引き下がるとは思えんがな。」

 この男は黒影たちを殺すつもりだ。またもや『ラチカの詩』のせいで大切な人間が死んでしまう。

 そう思うとメイは悲しさと恐ろしさで思わず目を覆った。涙が止めどなく溢れては頬を流れる。

 その時、ふとレイファンが胸元からハンカチを出すと無言でメイに差し出した。

「…ありがとう…。」

 受け取りながら改めてレイファンの顔を見る、やはり冷たく重い目をしている、けれど心なしかさっきより悲しそうな表情にも見える。

 その空気を破るように崇が続ける。

「取引は三日後だ、それまでは君は大事な人質だ。安心しろ、野蛮な扱いはしない、この部屋でゆっくりしてもらい食事も与える。逃げ出そうと考えてもいいが、実行は不可能だ。この部屋は外からしか鍵が掛からない上に窓ガラスも防弾だ。おまけに部屋の外も屋敷の中も大勢の人間が見張っている。…まぁ、大人しくしているのが利口だ。」

 そう言うと崇とレイファンは部屋を後にした。

 メイは床にうつぶせて泣き続けていた。

 

「レイファンが!?」

 ロンが慌てた様子で黒影に問いただす。

「あぁ…。」

「それは崇がでたらめを言ってるんじゃないのか!?」

「いや…それは無いと思う。」

「じゃあ何か!お前はレイファンが俺達を裏切ったとでも言うのかよ!」

「そうじゃない。」

「なら、どういう事だ?」

 九鬼が尋ねると黒影はゆっくりと説明を始めた。

「恐らくレイファンは一種の催眠状態にあるんじゃないか?もちろん、これはあくまで俺の仮説にすぎない…だけどレイファンが急にそんな行動に出たのならそれしか考えられない…聞いた事があるんだ、人を催眠にかけて、すぐに効果は出ないが、一定の時間をおいて、ある条件を満たすと催眠状態に入る。御大の屋敷でそれをかけられたのかも知れない…そして俺達と逃げだしてここへ着いてから催眠状態になった。」

「じゃあ、御大は自分の孫に催眠術をかけて自分の元に帰って来るようにしたってのか?」

 ロンが驚きの声を上げる。

「そうなるな…あの爺ならやりかねない…。」

 黒影が吐き捨てるように答える。

「で、どうするんだ?祟との取引に応じるのか?」

 九鬼が尋ねる。

「そうするより他にないな…今度はメイも人質に取られている、レイファンも催眠状態で操られている…うかつに手は出せない。」

「しかし、祟は大人しくメイを返すと思うか?それにレイファンも囚われたままだ。」

「もちろんただ要求に応える訳じゃない、取引の場に罠を仕掛ける、そしてメイもレイファンも取り戻す。」

 するとロンが心配そうに口を挟む。

「だけどよ、罠仕掛けるったって取引の場所は奴らが指定してくるだろう?どうやって先回りすんだよ?」

 しかし黒影はにやりと笑いながら答える。

「簡単だ、取引の場所はこちらが決めてしまえばいい!」

「どうやって!?」

「連中の目的は『ラチカの詩』だ、ならこの三日で俺がそれを見つけ出して、その在りかに奴らをおびき寄せる!」

「なんだと!?」

 あまりに突飛な発案にロンと九鬼も驚きの声をあげる。

「無茶言え!今まで誰も見つけた事のない宝をたったの三日で!?気は確かか?お前の親父さんだって長年苦労してそれでも見つけられなかったんだろ?」

「いや、それほど無茶じゃないさ、俺の親父は長年の研究の末、ラチカの在りかにほぼたどり着いてる。この前、研究ノートも手に入れた。その親父の残した研究記録を元にすれば見つけるのも難しくはないはずだ。」

 黒影はいやに自信たっぷりに言い放つ。ロンと九鬼は顔を見合わせ途方に暮れる。この非常時にあくまでこんな困難な作戦をやってのけようと言うのだろうか。

 しばらくして九鬼が重い口を開いた。

「…わかった、そんなに言うならやってみてくれ、ただし、見つからなかった場合は作戦を練りなおす必要があるぞ?」

「大丈夫だ、必ず見つけ出す。」

 そういうと黒影は奥の部屋に向かった。

  -30・次期首領-

 その頃、御大の屋敷では黄一家の幹部が緊急の会議のために集合していた。

 御大から大事な話があるとのこと、内容は知らされなかったが、全員おおよその見当はついていた。

「御大も高齢だ、きっと跡目の話に違いない。」

「誰がなるだろう?恐らくは崇だろうな。」

「きっとシャイロは面白くはないだろうな!崇と同じ頃に組織に入り、ずっと競り合ってきた仲だ。」

「止むを得まい?確かにシャイロは有能だが、御大は武闘派の崇を選ぶだろう。」

「内部抗争が起きなければよいが…。」

 大広間のテーブルを囲んで口々にそんな事を囁きあっている、シャイロは何も言わず険しい表情で腕を組み椅子に座っていた、崇はその向かい側でやはり沈黙したままだった。

 やがて、御大が執事を伴い大広間にやって来た、上座に腰掛け話し始める。

「諸君、急な呼び出しでご足労をかけたな!今日の話というのは他でもない、わしがこの組織を立ち上げてから早くも四十年以上が経つ、ここまでの大所帯にすることが出来たのも他でもない諸君の健闘のお蔭だ、心より感謝する!」

 そう言って御大は深々と頭を下げる、幹部連中も慌てて椅子から立ち上がり頭を下げた。御大が手を上げると再び椅子に腰掛ける。

「知っての通りわしはもう歳だ、そろそろ組織の跡継ぎを決めたいと思う。」

 やはりか、全員に緊張が走る。シャイロはより一層険しい顔つきになる、崇は平静を保ったままだ。

 すると御大は執事に向かい、

「連れてきなさい。」

 と告げた。

 執事は一礼すると大広間のドアを開け、表にいる者を招き入れる、すると一人の若い女性が入ってきた。

 幹部連中がざわめく、見知らぬこの若い女は一体誰か、御大はなぜこのタイミングで彼女を呼び入れたのだろうと。

 女は大広間を進むと御大の横に立った。

 黒ドレスに身を包み、顔をベールで覆ったその女性はレイファンだった。

「諸君、紹介しよう!わしの孫娘のレイファンだ。」

 それを聞いて幹部達は驚きの表情を見せる、御大の孫娘、そんな存在のあったことを知っているのは崇だけだった。

「驚くのは無理も無い、わしにはリーユイという娘があった。崇とシャイロは覚えているだろう…しかし、二十年以上も前に家を出て、そして若くして亡くなった…そのリーユイの忘れ形見こそこのレイファンなのだ。」

 シャイロは目を見開いてレイファンを見つめた。これがリーユイの娘か、なるほど母親に似ている。

「わしはこのレイファンに跡目を譲ろうと考えている。」

 幹部達に動揺が広がった。

 跡目の話が出るだろうと予想はしていたが、まさかこの女に継がせるとは思ってもいなかった。

 思わず全員シャイロと崇を見た。崇はなぜか平静を保ったままだ、一方のシャイロはいよいよ表情が険しく、歯噛みをしているのすら見受けられた。

「御大!」

 突然シャイロが立ち上がって大声を上げた。

「これは一体なんの冗談ですか!」

「冗談だと?わしは本気だ。」

「本気ですと!?いいですか御大、この組織は今や月影街の裏社会をほとんど手中に収めているほど巨大なものですよ?それをこんな若い女性で支配できるとお考えですか!」

「無論彼女一人ではむりだろう、しかし、この組織にはお前達のような立派な幹部がいる。どうか諸君で支えてやってくれたまえ!」

「な…!?」

 シャイロはなお目を見開き怒りでわなわなと震えている、もし目の前にいるのが御大でなければこの場で掴みかかるのではないかという勢いだった。

 動揺する幹部達、シャイロの勢いに息を飲んでいるが、彼らもこの話に決して賛成ではなかった。

 しかし、その時口を開いたのは崇だった。

「座れ!シャイロ!」

 低く威厳のある声でシャイロを一括する、幹部達も思わず震える。

「御大の決定だ、従うのが下の者だろう。」

「な、なんだと!?」

「それとも何か…。」

 一旦言葉を切って崇はシャイロを鋭く睨む。

「お前は御大に逆らうのか?それはこの俺や他の者を敵に回すと同じことだが覚悟はあるか?」

 そう言って右手を懐に伸ばす素振りをする。

「…。」

 シャイロは目を伏せるとこの上ない屈辱の表情で腰を下ろした。

 それを見届け御大は口元に笑みを浮かべた。

「では諸君、レイファンに跡目を継がせるのを賛成の者は拍手を願おう。」

 すると崇が拍手を送りながら周りをひと睨みする、それに怖れをなしたかのように幹部達も続けざまに拍手を送った。

 シャイロも下を俯いたまま弱々しく拍手を送っていた。

 

 その夜、月影街の中心地にあるレストランで崇とシャイロが会合していた。

 ここはシャイロの経営する店の一つ、一番奥の特別室で食事をしながら話をしていた。

「崇、お前は不服じゃないのか?」

「何がだ?」

「とぼけるな!跡目の話しだよ!…俺はな、跡目はお前になるだろうと思ってた。もちろん、面白くは無いさ!俺はお前が嫌いだからな!」

 それを聞いて崇が鼻で笑う、シャイロは続けた。

「だが、それでもお前なら仕方ないと思うのも本当だ。悔しいが首領の器に合うのはお前しかいない…。」

「それは恐縮だね。」

「だが、実際はどうだ!」

 ナイフとフォークを置きシャイロは崇を睨む。

「あの小娘が首領だと!?あのじじい!耄碌しやがったか!」

 崇もフォークを置き、口を拭いてワインに手を伸ばす。

「口が過ぎるぞシャイロ。」

「お前は何とも思わないのか!?」

「レイファン嬢は御大の血を引いている。血縁者が跡を継ぐのは珍しいことではないだろう?」

「お前…。」

 どこまでも落ち着き払った崇にシャイロは苛立ちを募らせる。

 しかし、一旦落ち着こうとしたのか懐から葉巻を一本出すとそれに火をつけ煙をくゆらせると再び口を開いた。

「あの娘、リーユイによく似てるな。」

 それを聞くと崇の表情に微かな変化が見えた。

 なるほど、ここかと思いシャイロは笑みを浮かべて話を続ける。

「お前、昔リーユイに惚れていたよな!」

 ワイングラスを置いて崇がシャイロを睨む。

 これが切り口だといわんばかりにシャイロは畳み掛ける。

「安心しろお前だけじゃないさ!俺も実を言うとリーユイには惹かれてた!…ただ、御大が怖くてな、手を出そうって気にはなれなかったのさ!」

「当たり前だ…。」

「そうか?そうじゃない奴が一人居たよな?ジルスだ!あいつは凄いねぇ!よりによって御大の娘と駆け落ちしちまうんだもんな!見上げた根性だよ!」

 そう言うと煙を吐き出しながらシャイロは高笑いを上げる。崇は尚もシャイロを睨みつけた。

「そして!」

 煙を深く吸い込みそれを吐き出しながらシャイロは重々しく口を開いた。

「そんなジルスをお前が殺した!」

 崇は目を見開きシャイロを睨み続ける、しかしシャイロは余裕の笑みを浮かべ話を続ける。

「崇、贖罪のつもりか?お前は御大の命令であの娘の父親をその手で殺した、自分の親友だった男を…そして、リーユイも守れず死なせてしまった…そして今、その娘が現れ御大は跡を継がせると言う!自分がなれるはずの首領の座だ!お前はそれを受け入れあの娘を支えて生きる事で自分の罪を償おうとでも考えている…違うか?」

 葉巻を灰皿にこすりつけながらシャイロは崇を睨む。

「おい崇!お前は大変に立派な男だが真面目すぎるのが玉に瑕だ!…考えてもみろ!お前は自分の意思でジルスを殺しちゃいない、御大の命令だろ?リーユイが死んだのだって御大の抗争に巻き込まれてだ!…一番の元凶は誰だ?御大だろ?」

 そこまで言うとシャイロはワインに手を伸ばし飲み始める。

「なぁ崇、この際だ、俺とお前で御大を消さないか?」

 それを聞いて崇は一瞬強張ったように見えたが、すぐ表情を崩し笑みを浮かべる。

「何を言うかと思えばそんな話か。」

「なに!?」

「裏切りを持ちかけられるとは俺も安く見られたもんだな。」

「おい…そうすればあの娘も自由になるぞ?」

 しかし、崇は飽くまでも首を横に振る。

「下らん。」

 それを聞くとシャイロも表情を一変させて立ち上がった。

 テーブルの上のベルを苛立たしく鳴らすと部屋に数名の男が入ってきた。

彼らは崇の周りを取り囲むと一斉に銃を突きつける。

「おい崇!よく聞け!もう一度チャンスをやる!俺と手を組んでじじぃを殺るか否か二つに一つだ!言っとくが返事しだいではこの場で死んでもらうぞ?いくらお前でもこの人数に囲まれてたら手も足も出まい?お前を殺してその後はじじぃと小娘もだ!だが俺と手を組むなら小娘は生かしといてやる!首領の座もお前にやろう!どうだ!返事は!?」

しかし、崇は笑みを浮かべている。

「これで俺を罠に掛けたつもりか?」

 そう言って指を鳴らす。

 その瞬間、空を切る音がしたかと思うと銃を持った男達の半数が首筋から血を噴き出して倒れこむ。

 続けて銃声が鳴り響き、残りの男達も頭を撃ち抜かれ倒れた。

 シャイロが驚愕の表情を浮かべていると物陰からイタチとヒガリが現れた。

「罠とは、このように仕掛けるものだ。」

 崇がワインの残りを飲み干しながら冷やかに言う。

 シャイロは額に筋を浮き立たせ怒りの表情を浮かべる。

 そして、懐から拳銃を抜き出すと崇に突きつける。

「崇ぃ!」

 しかし、その瞬間、崇が銃を抜いてシャイロの胸元を撃ち抜いた。

 仰向けに倒れ胸から大量の血を流しながらシャイロは微かな声を出す。

「た…崇ぃ…」

 崇は倒れたシャイロの側に立って見下ろす。

「お…お前…は…ずっ…と…か、籠の中の…鳥…だ…。」

 口から血を吐き出しながら目を見開き、崇を見上げて嘲笑う。

 その額を崇は撃ち抜いた。

「…お前に言われなくても分っている…。」

 その表情はどこか悲しげだった。

  -31・ラチカの在りか-

 その頃、黒影は部屋で研究ノートを読みながら深く考え込んでいた。

「何てことだ…大見栄をきったはいいが、さっぱり見当がつかない…。」

 これが見つからなければレイファンとメイを救い出せないかもしれない、それはなんとしても避けたい。

「やっぱり考古学者でもない俺では無理なのかな…。」

 絶望感が襲い始めていた。

 気分を入れ替えようと顔を上げ煙草に火をつける、煙を吐き出しながら胸元の三日月ペンダントを手にとって眺めていた。

 父の形見のペンダント、青い石が入った方を黒影が、赤い石の入った方をメイが受け継いだ。幼い頃は父親がこのペンダントを手に『ラチカの詩』について熱く語っていたのを思い出していた。

 ふと、ある晩に父親が口にした言葉を思い出した。

「いいかい、『ラチカの詩』を隠した月狼という盗賊はね、この月影街の十年先を見通していたんだ!」

「十年先…!?」

 黒影は突然何かを思いつき、立ち上がると部屋の隅の本棚から分厚い本を引っ掴んでページをめくった、この地図帳は月影街の市制開始から今までの街の変化を記した地図帳で急激な発展の様子を年単位で知る事が出来るものだった。

「あった!これだ!」

 九十二年前の様子を記したページを開いて机の上に置き胸元のペンダントを取り出す、それにスタンドの明りを当てると埋め込まれた石に反射して幾何学的模様を映し出す。

「当てはまるか…。」

 九十二年前の地図の上に反射された模様を投射する、確かに街の地形と一致してはいる、しかしそれだけでは要を得ない。

「だめか…!」

 諦めようとしたその時、メイのペンダントを今自分が持っている事を思い出しポケットからそれを取り出す、同じようにスタンドの光にかざすと今度は赤い光が反射されて青い石とは別の幾何学的模様を映し出す。

 青い石と赤い石、両方の反射光を地図の上に投射する、街の地形に合うように近づけたり遠ざけたりを繰り返す。

 すると、ある瞬間、地形と二つの模様の両方がぴたりと一致する場所が見つかった。

「…これだ!」

 黒影は思わず声を上げた。今までまったく何の事か分からなかった模様が紛れもなくある場所を指し示しているのがはっきりと分かる。

 それは他でもない、『ラチカの詩』の在りかに違いなかった。

 黒影は部屋を飛び出すとリビングに居るロンと九鬼を呼び集めた。

「おい!奴らを罠にかけるぞ!」

 二人も目を見合わせ笑みを浮かべた。

 -32・最終決戦へ-

 三日後の朝、祟から黒影に電話が入った。

「黒影、取引は今日だ。場所は…」

 そこまで言いかけると遮るように黒影が口を挟む。

「場所はこっちで決めさせてもらう。」

「寝ぼけるな、人質があるのを忘れたか?」

「分かっているさ、別にこっちだってタダでとは言わない。お前たちの狙いは『ラチカの詩』だろう?」

「そうだ。」

「その『ラチカ』の場所を俺が見つけたと言ったらどうする?」

「安いはったりだ。」

「俺には誓いの三日月と研究ノートがある。」

「それを持っていたお前の父親も見つけられなかった。」

「どうかな?見つけられなかったんじゃなくて、お前たちに渡したくなかったんじゃないか?」

「なんとでも言えるな。」

「義賊の石碑。」

「!」

 その言葉を聞いた瞬間、祟が思わず言葉を飲み込んだ。

「やっぱりな!お前も心当たりがあったんだろう?」

「…本当に見つけたんだろうな?嘘とわかればその場で妹の命はないぞ?」

「妹の命を賭けに使うほど人でなしじゃない、場所は今言った義賊の石碑前、時間は…。」

「時間はこっちが決める、夜十二時だ。」

「いいだろう。」

「下手な小細工は考えるなよ?妙な動きをすればその場で…。」

「分かってるさ!」

 そう言うと電話を切り、その場にいるロンと九鬼の方を向く。

「よし!昨日話した計画の通りに行こう!」

「分かった!」

 九鬼が頷く、ロンは隣で武者ぶるいをしている。

「大丈夫か?」

 黒影が不安げな顔を向ける。

「まぁ、そりゃあ街一番のマフィアと戦争しようっていうんだ、怖くないって言ったら嘘になる…でも、やらないとレイファンもメイちゃんも帰って来ないだろう!」

 そういうと不安を振り払うように髪をかき上げる。

「よし!それじゃあ、最終決戦と行こうか!」

 黒影がそう言うと二人も力強く頷いた。

 

 一方その頃、祟は御大の書斎で黒影との電話のやりとりを話していた。

「本当に奴は見つけたと思うか?」

「可能性は十分にあります、義賊の石碑という言葉を口にしていました。」

「何だそれは?」

「奴の父親が最後にたどりついた場所です、しかし、その後自らラチカの探索を打ち切りたいと申し出て来ました。」

「単にその場所の事を父親に聞いていただけではないか?」

「いいえ、それはありません、なぜならその晩に私があの男を殺しましたから。」

「そうか、やむを得んな。奴の言う通りの場所でいいだろう、しかし、罠を張っている可能性は?」

「間違いなく仕掛けているでしょう、しかしこちらには人質があります。それに連中はレイファンも取り戻そうと考えているはず、二人の奪還と我々との戦闘、三つの事を同時にやらねばならない分隙が出来るはずです。兵隊の人数も充分に用意します、ご心配なく。」

「いいだろう、わしも行く。」

「御大も!?」

「あぁ、長年夢に見た『ラチカの詩』を是非この目で見たい。」

「危険です!事によると黒影は御大をおびき出す狙いもあってラチカを見つけたと言っている可能性も。」

「構わん、そのためにお前もいるのだろう?」

「…はい。」

「それならば決まりだ。祟、わしがラチカを見届け次第、あの忌々しい黒影を殺せ!」

「分かりました。」

 会釈すると書斎を出て廊下で待たしていたリッジョに指示を出す。

「お前は手下を連れて先に行き辺りを調べろ、どんな罠があるか分からん。」

「分かりました。」

「イタチ、ヒガリ!」

 呼びかけると廊下の物陰から二人は姿を現す。

「今度こそ、黒影を始末しろ。これ以上の無様なまねは許さん。」

「あぁ、分かってるさ!今度はあの野郎の心臓に鉛の玉をくれてやる!」

 二度の負けを思い起こして苦虫をかみつぶす様にリンゴを頬張るイタチ、その隣で指にマニキュアを塗りたくりながらヒガリも吐き捨てるように呟く。

「あいつら全員バラバラにしても構わないわよね?」

「好きにしろ、ラチカの場所が分かり次第、もしくは奴がその場所を見つけていなかったと分かり次第、殺しにかかれ!」

 祟が鋭い口調で指示を下すと全員頷いた。

 こうして、来たる時を待ちながら月影街は夜を迎えようとしていた。

 -33・石碑の前-

 夜十一時、月影街北部の黄邸から数台の車が列をなして出て行った。向かう先は港の近くにある記念碑、通称「義賊の石碑」と呼ばれるこの像はかつてこの月影街を荒らしまわった盗賊月狼を象ったものだった。

 盗賊ではあったが、盗む相手は決まって悪どい金持ちや帝国側の軍部高官であったため、当時の月影街の庶民からは義賊と呼ばれ慕われていた。

 軍と警察に追い詰められ殺害されてから十年後、街の大規模な開発工事の中で有志の寄付などによってこの像は建てられた。

 馬を駆り長身の銃を手にし、後ろに恋人と思しき若い女性を乗せたこの像は月影街の人々にとっていわば帝国側への反権力の象徴のようなものであった。

 その像の袂に黒影が一人で立って待っていた。

 時計を見る、もう後少しで十二時だ、もうじきここへ祟達がやって来る、連中も馬鹿ではない、黒影が何か罠を仕掛けている事も見抜いて先手を打っている事だろう、自分が出し抜くか、それとも敵に出し抜かれるか、少しでも気を抜けば命はないだろう。

自分だけではない、仲間の命、人質になっているメイ、敵に洗脳されたレイファン、全てを失ってしまうだろう。

何があろうと負けるわけにはいかない戦いだった。

周りを見渡す、夜中なので人影はないが遠くの方で気配は感じる、恐らく祟が配した手下たちなのだろう、ラチカの在りかを聞きだすまで手を出しては来ない、しかし、今も自分の動きを見張っているのが分かる。

しばらくして向こうから車のライトが見えた、やがて近づくと高級車が二台、御大や祟を乗せた車だろう。その後に三台のワゴン車が続く、恐らくは武装した手下たちが乗っているに違いない。

「本気だな!」

 そう呟いて口元に笑みを浮かべる。

 石碑の前で停車しワゴン車から十五人程の男が手に銃を持って駆け降りて来た。五人ほどが黒影の周りを取り囲み銃を向ける。

 残りの十名ほどは二台の高級車の前で護衛にあたるようだ。

一台の後部座席が開かれ祟が降り立つ、そのままもう一台の方へ出向き後部座席を開く、そこからステッキをついた白髪の老人と黒いドレスに身を包み、顔にベールを覆ったレイファンが降り立った。

「レイファン…。」

 まるで抜け殻のようなレイファン、顔形こそは彼女だが、発する雰囲気はもはや本来の彼女ではなかった。

 悲しむ間もなく祟が黒影の前にやってきた。

「黒影、取引の時間だ。」

「待て、メイはどうした!」

 黒影が問い詰めると祟が手下に合図をする、するとワゴン車から手を掴まれたメイが降ろされた。

「まずはラチカの在りかだ、妹はそれから引き渡す。」

 そう言って祟の隣にステッキをついた老人が歩み出る。

「あんたが御大か?」

「そうだ、黄一家当主、ホアン・ルンジェイだ、お初にお目にかかる、お前が黒影か、随分と煮え湯を飲ませてくれたようだな。」

 そう言って、口元に嫌らしい笑みを浮かべる。隣にはレイファンが並んだ。

「お前、レイファンに何をした!」

「教育だよ!亡き娘の躾がなってなかった様なのでな!」

「ふざけるな!何が教育だ!お前、催眠洗脳を施しただろう!レイファンに母親を目の前で亡くしたトラウマがあるのを知ってて、それを使って一時的な人格破壊を施した!違うか!!」

 激しい口調で黒影は責め立てた、すると祟が怒号をあげる。

「黒影!余計な事を言って時間を浪費するな!人質があるのを忘れたか?」

 向こうでメイを捕えている手下が彼女に銃を向ける。

「わかった!メイに手を出すな!」

「ならば、早くラチカの在りかを教えろ!」

 御大も地面にステッキを突きたてながら怒号を上げる。

「…あぁ、今教えてやるよ。お前らが探し回ってる『ラチカの詩』ってのはな…ここにあるんだよ!」

 そう言うと彼は後ろを振り向いて石碑を指差した。

 するとその場にいた一同は驚きの表情を見せる、月影街の都市伝説と言われた秘宝『ラチカの詩』がよりによってこんな有名な場所にあったとは誰もが夢にも思わなかったからだ。

「ふざけるな。」

 祟が冷たい口調でそれを制した。

「お前はそれでも歴史学者の息子か?この像が出来たのは今からおよそ九十年前、ラチカを隠したとされる月狼が死んだのはその十年前だぞ?」

「そこだよ!」

 黒影が嘲笑うように祟を見る。

「誰もがそこに引っかかってたんだ!ラチカは月狼の存命中にあった場所にあるはずと思いこんでた!でもな、月狼って男は大した奴さ!常に先の未来を見据えていたんだ!」

「どういう事だ!」

 御大が興奮の面持ちで尋ねる、黒影はそれを見て笑みを浮かべ、もったいつける様に話しだした。

-34・ラチカの真実-

「月狼が最後に盗んだものを知ってるか?死の十日ほど前、彼は初代市長の執務室に忍び込み月影街の十年越しの長期開発計画書を盗み出した。その後、死の当日の朝に元に戻したらしいが、恐らくはその数日に計画書を複製していたんだろう、その時にこの港が大幅に開発され貿易の拠点となる事、そしてここに観光用の広場が出来る事も知ったんだろうな。すると月狼はある男に重要な事を託した、十年後、ここに広場が出来た際にここに記念碑を建て、その中に『ラチカの詩』を隠す事、そして誓いの三日月と呼ばれる赤と青の石を埋め込んだ二対のペンダント、そして暗号を示す言葉『その詩はラチカの最後の目に映る』を拡散することを願い出た…十年後、その男は月狼の遺言どおりにここに記念碑を建てた、匿名の寄付を装ってね、そしてその中にラチカの詩を隠したんだ。」

「一体誰がその約束を…。」

御大が目を見開いてその続きを促す。

「初代市長だよ。」

「なんだと!?なぜ初代市長が盗賊である月狼の遺言を果たすんだ?」

「そりゃ果たすさ!だって初代市長は月狼の実の兄だからな!」

「なに!?」

 祟も思わず声を上げる、黒影は心の中でしめたと思っていた。御大を始め、祟も他の手下たちも固唾をのんでこの話に食いついている、順調に自分のペースに引き込めているのを感じた。

「そもそも、初代市長も月狼も、この街がまだ月影の村と呼ばれていた小さな漁村だった頃の村長の家系に生まれていたんだ。代々村を治めてきたこの家系は海から時折やって来る海賊を追い払う為の傭兵という裏の顔も持ち合わせていたんだ。村は小さいながらもなんとか平和にやってきた。しかし、今から百二十年前に異変が起きる。」

「帝国軍による大規模な開発か?」

 祟が答える、黒影は頷き先を話す。

「その通り、知っての通りこの国は四方を海に囲まれている、それまでは航海技術も未発達だったから敵国はこの国の西側からしか攻め入る事が出来なかった、しかし、その頃になると鋼鉄製の蒸気船が海軍の主力軍艦となってきた。そうなると今までは海流が激しくて大型船では近寄れなかったこの国の東側からも攻めてこれるようになる、そこで軍部はここに大規模な海軍基地を建造することに決めた、しかし、帝国は何百年も国の東側を卑しい地域としてほったらかしだったから地形の測量から始めなきゃならない…時は第一次大陸間戦争の前夜だ、いつ敵が攻めてくるかも分からない、そこで時の村長に協力を求めた。地形の解説、そして村民の理解と協力、村長は協力する代わりに村の自治権と近代化の資金援助を求めた。焦っていた軍部はこれを承諾!おかげで村は十年ほどで一気に近代的な街になれた、何しろ軍部が基地の為に港まで作ってくれたからねぇ!貿易も盛んになってあれよあれよと発展さ!しかし、その頃村長は病に倒れて間もなく死んでしまった…後を継いだのが長男…後の初代市長さ!街の近代化に尽力した村長を支え続けて市制開始まで漕ぎつけたのは他でもない彼だからね、街の住民も大喜びで彼を初代市長に推薦した。けれど、そんな月影街の発展を危険視したのが帝国側だ。基地開発の協力と引き換えに超法規的な自治権をくれてやったのはいいが、あまりにも発展しすぎている!これではいつ独立だの革命だのと言いだすか分かったもんじゃない!そのために都市防衛の大義を盾にこの街に多くの兵力を配した、全ては市制の見張りだよ。そして、何かと理由をつけては儲かってきた貿易商などから財産を没収したり、市議会の決定を国家反逆の疑いがあるとばかりに邪魔をしたりした。」

 黒影は石碑を見上げると煙草に火をつけ、煙を吐き出しながら話しを続けた。

「そんな頃、現れたのが月狼だ。彼は市制が開始される数年前に死んだと見せかけていたが、もちろん生きていて、街を裏側から守ることにしたんだ。軍の基地や軍高官の家を襲い連中が市民から巻き上げた金を盗み出しては持ち主に返した、市制を邪魔する工作員は闇から闇へと葬った。そうやって盗賊の濡れ衣を着ながらも代々受け継いだ街の闇の守り手を引き継いだんだ。」

「けれど、軍部も月狼が市長の親族である事を嗅ぎつけた…そこで市長に迫ったんだろうな、月狼を引き渡せと、それを知った月狼は自ら軍部に殺されることで兄と街を守った。そうしなければ国家反逆罪で兄は捕まり、市制の自治権も取り消される…最後まで街を守ったんだ。」

「けれど、彼はこの先も街は帝国側に狙われ続けるだろう、それを防ぐために帝国側にとって弱みとなる何かをここへ隠すよう兄に託した…それが『ラチカの詩』だ。ラチカ…月狼が愛し、彼が死ぬ二年前に病で死んでしまった恋人の名を冠して…ここは月狼の隠れ家の一つがあったとされる場所だ。恐らく彼女はここで窓の外に見える海を眺めながら最期を迎えたんだろう…だから、月狼もここを隠し場所と決めたんだろう。」

 話し終わると煙草を踏み消した。御大も感慨深い面持ちで話を聞いていた。しばしの余韻の後、黒影に尋ねる。

「…なるほど…それで、宝はどうやって取り出すんだ?」

「まぁ、見てろ、だがその前に、どうか妹にも見せてやってもらえないか?父親が決して在りもしない物のために命を落としたんじゃないと知ってもらいたい。」

「いいだろう。」

 御大がそう言うと、祟がメイを捕えている手下に連れてくるように促す、そして自らメイの腕を掴み銃を取り出す。

「いいか黒影、妙な動きをしたらすぐに殺すぞ?」

「分かってる…メイ、よく見ておけよ?これが俺達の運命を狂わせ続けた元凶だ。」

 そう言うと黒影は石碑の土台によじ登った。

 石碑は土台の高さが二メートル近く、その上の像も同じくらいあり横幅は四メートル程だ。

 土台に登ると像の前に立ちポケットから三日月のペンダントを取り出す。

「二体の像、月狼とラチカだ。二人の胸元に誓いの三日月がある、このペンダントを象った物だ。けれどよく見てみろ、像にある誓いの三日月の部分はなぜか窪んでいる、そこにこれを…」

 そう言うと月狼の像に青い石を、ラチカの像に赤い石のペンダントをそれぞれ埋め込む。

 二つのペンダントはぴったりとはめ込まれた。

 すると、像の奥の方で何か低い音が響き始める、辺りにも地鳴りのようなものが響き地面が微かに震えているのが分かる、御大の手下たちも不安の表情を受かべ、これは黒影の仕掛けた罠ではないかと警戒しているようだ。

 そんな様子を鼻で笑って黒影は土台から飛び降りると石碑を振り返る。

「まるで、古代のピラミッドの仕掛けみたいだな!そりゃ考古学者が夢中になるはずだ!」

 石碑の土台の正面の真ん中に直線の亀裂が見え始め、まるでエレベーターの扉のように左右に開き始める。

 やがて開ききると土台の中央に五十センチ四方ほどの空洞が見えた。そこには、まるで古代の宝箱のような箱があった。

「おぉ!これか!これが、ラチカの詩か!」

 御大が興奮を抑えきれずに土台に近づく。

「御大!お待ちください!罠があるかもしれません!」

 祟が御大を制する、そこで御大もはっと我にかえり黒影を睨む。

「そうだった…黒影、お前がそれを取り出せ!」

 そう言われて黒影はまたしても鼻でせせら笑った。

「疑り深いねぇ!いいさ、取り出してやるよ。」

 そう言うと土台に近づき箱を取り出す、箱には鍵はなく簡単に開ける事が出来た。

「なんだ、こういうとこは不用心だねぇ!」

 箱の中には数枚の紙束が入っている。

「よし、ご苦労!それを地面に置いて下がれ!」

 御大が命令する、黒影がその通りにしてやると御大は辛抱できない様子で箱を引っ掴むと中の紙束を取り出して開いた。しかし、突然困惑の表情を浮かべる。

「…なんだ、これは!?」

「ラチカの詩さ。」

 黒影がこともなげにそう答えた。

「…これは…月狼が恋人ラチカに宛てた手紙じゃないか!」

「その通りさ。」

「…お前はさっき、月狼は帝国にとって都合の悪い物を隠したと…。」

「だから親父はお前たちになんか渡したくなかったんだよ!」

「なんだと!?」

「親父はな、これを読んだんだ。ラチカの詩の秘密を解き明かし、ここへたどり着いてこれを開いて読んだんだ!そして、知ったのさ、月狼のラチカへの愛情をな…そして思い出したんだろう、亡き妻…俺とメイの母親への愛情をな!それをお前らマフィアになんか渡しちゃならないってそう思ったから命と引き換えに守ったんだ!」

 黒影が激しい口調で吐き捨てると御大を睨んだ、御大も歯ぎしりをしながら黒影を睨み返す。

「下らん!実にくだらん!お前の父親は大馬鹿者だ!」

「分かりはしないだろうな、お前みたいに芯の底から腐りきったクソ爺には!」

 御大は怒りで顔を真っ赤にしながら手紙を丸めると箱に戻し黒影に投げつける。

 黒影はそれを受け止めると大事そうに両手に抱える。

「おいおい!大事に扱いなよ!大切なお宝だぜ?」

「うるさい!そんなもの貴様にくれてやる!それを持ってあの世の父親の元へ行け!祟!この忌々しい若造を殺せ!」

「おっと!その前に妹を離してもらおうか?」

 黒影がそう言うと祟はメイを解放する。

「何をしている祟!」

 御大が怒号を飛ばすが祟は落ち着き払っていた。

「取引は成立しています。約束通りラチカの詩はこちらの手に入りました。人質を離すのが筋です。」

「なんだと!?」

「それに貴方は黒影の罠にかかってしまっている。」

「!?」

 御大が困惑の表情を浮かべている隙に、メイは黒影の元に駆け寄ってしがみつく。

「兄さん!」

「悪かったな…こんな目に合わせて…。」

 すまなそうにメイの髪をなでる。

「…いいの…ただ、レイファンが…。」

「分かってる、それも今から解決する。…いいか、お前はこれから…。」

 この先の作戦を素早く耳元で囁く。

「黒影。」

 祟が黒影を睨みながら銃を向ける。

「お前、ラチカの詩の本当の価値については話さなかったな?」

 それを聞いて、黒影は口元に笑みを浮かべる。

「お前、なんでボスにならないんだ?あの爺よりよっぽど向いてるぜ?」

 それを聞いて祟も笑みを浮かべた。

「俺もそう思う。」

「祟ぃ!早くそいつを殺せぇ!!」

 御大がヒステリックな怒号を上げる。

「メイ!走れ!」

 黒影がそう囁くとメイは黒影から受け取った箱を持って、一目散に走って石碑の向こう側に隠れた。それを見届けたかのように祟が声を上げる。

「黒影を殺せ!」

 言うが早いか銃を撃ち鳴らす、周りの手下たちも銃を構えて次々と発砲し始める。

 しかし、それより早く黒影は身を伏せてそれをかわし、そして態勢を低くしたまま石碑の陰に隠れた。

「左右から回り込んで撃て!」

 祟が命じると手下たちが走り出す。

 するとそれを待っていたかのように黒影が石碑の陰から身を出し両手に持った金属製の筒を投げた。

 煙幕を吐き出す筒だろう、しかし、煙を吐き出す間もなく祟がそれを銃弾で弾き飛ばす。

「黒影!呆れたな!同じ手を三度も使うとは…。」

 つまらなそうにそう言うが、石碑の陰に隠れた黒影は嘲笑うように返す。

「さぁ、どうかな?」

 その瞬間、激しい爆音が祟達の背後から轟いた、振り向くと激しい炎が上がっている。ワゴン車が爆破されたのだ、その近くにいた手下たちも吹き飛ばされている。

「なんだとっ!?」

 祟が驚愕の表情を浮かべた。いつの間にワゴン車に仕掛けられたのか、間違いなく黒影がラチカの詩の説明をしていた時だろう、御大を始め、手下たちも思わず話しに聞き入っていた。祟は黒影が一瞬の隙をついてこないかと警戒するので気を取られていた。その隙に姿の見えなかった黒影の仲間が仕掛けたのだろう。

 しかし、この広場の周りにも手下は配していたはずである、それも始末されたのであろうか。

 しかし、そんな事を考える間もなく残りのワゴン車も爆破される、激しい炎が上がり爆風が吹きつける、ワゴン車付近にいた手下たちは恐らく全滅であろう。

 敵が爆発に気を取られている隙に、黒影は石碑の陰から飛び出し銃を構える。

 気付いた手下たちが振り向く間もなく次々に撃ち倒す、残りの敵が反撃するが身を伏せそれを撃つ。

 近くにいた敵は祟を残して全員射殺された。後方にいた敵は爆風で吹き飛んでいる。

 黒影は祟に銃を向け引き金を引いたが、祟もそれを一瞬でかわし撃ち返してきた。

 再び石碑の陰に身を隠しそっと様子を窺う。

 すると、横から声がする。

「おい、クロ!」

 ロンだった。

「おぉ、遅かったな!」

「しょうがねぇだろ!爆弾しかけに走り回って、爆発のどさくさでここへ来たんだ。」

「ありがとうな!お蔭で上手くいったよ!」

「それで、これからどうする?」

「メイを連れてここから離れてくれ、終わったら決めた場所で落ち合おう!メイ、お前はロンと一緒に行け!」

 ずっと身をひそめていたメイにそう言うと彼女も頷きロンと共に走り出した。

 二人の姿が遠ざかるのを見届け、石碑の陰から飛び出して祟の姿を探す。

 しかし、見当たらない。レイファンの姿も御大の姿も見つからなかった。

「しまった!レイファンを連れて逃げたか!」

 行方を探そうとすると、突然空を切る音が聞こえた。

 とっさに身を伏せると案の定、ヒガリの鞭が石碑に鋭い傷跡を残した。

「今度こそ…五体バラバラにしてあげる。」

 薄気味の悪いヒガリの声が聞こえる。黒影は急いで銃を撃つが、ヒガリは素早い動きでそれをかわす。

 尚も執拗にヒガリの鞭は飛んでくる、黒影もかろうじてかわすが、これでは動きが取れない。

 意を決して走り出す、近くに廃屋が見える、そこへ誘いこめば自分にも歩があるだろう。以前の戦いからヒガリの鞭は狭い場所に弱い事は分かっている。

-35・ヒガリとの決着-

 後ろから追って来るヒガリの鞭をかわしながら何とか廃屋の中へ逃げ込み、素早く物陰に隠れる。

 ここは元々倉庫だったのだろう、木製の箱などがいくつも積み上げられている。その中の一つを盾に身を隠しながら辺りの様子をうかがう。

 相手はどうやら気配を消しているようだ、だがこの廃屋の中にいる事は間違いない。恐らくはしびれを切らして出て来たところを一気に討ち取るつもりなのだろう。

「ここで持久戦をしている暇はない…。」

 御大と祟はレイファンを連れてどこかへ消えた、黒影を始末せずに祟が逃げる事はないだろう、しかし御大はレイファンを連れて屋敷へ逃げ帰っているかもしれない。

 一刻も早く追わなくてはならない、その為には早くヒガリを始末する必要がある。

「なにかいい方法は…。」

 辺りを見回す、するとある物が黒影の目にとまった。

「これしかないな…。」

 意を決して物陰から身を出す。

 その瞬間、空を切る音と共にヒガリの鞭が飛んでくる。

 素早く身をかわす、近くで木製の箱が切り裂かれてバラバラと崩れる。

 ヒガリがいる方向に銃を撃ちながら素早く移動する、それを追うように物陰から物陰へと身を隠しながらヒガリも追ってくる。

 建物の隅にやって来ると、黒影は振り向いて銃を構える。

 前方にはヒガリがニヤニヤと気味の悪い笑みを浮かべながら鞭を構えている。

 それを目掛けて銃弾を放つ、ひらりとかわしヒガリが鞭を放つ、黒影も素早く身を伏せる。

 すると壁側にあった鉄柵に鞭が絡みつく、御大の屋敷で戦った時と同様、鞭を無効化する事が出来た。

 しかし、ヒガリは動揺するどころか更に嫌らしい笑みを浮かべてもう一方の手を腰もとに伸ばすとそこからもう一本の鞭を取り出した。

「舐めないで頂ける?」

 気味の悪い笑みを浮かべもう一つの鞭を黒影目掛けて打ち放つ。

「それはどうかな?」

 なぜか黒影も笑みを浮かべて身を伏せる、すると鞭は黒影の背後にあった細い柱に巻きついた。

 その柱には装置の様なものとレバーが付いている、それを黒影は一気に押し上げた。

 その瞬間、物凄い火花がヒガリの鞭から上がる。

「あぁあああああああああああああああああ!!」

 ヒガリが狂ったような叫び声をあげる、その体は眩い火花に包まれ煙をあげる。

 鞭が絡みついたのは柱ではなく倉庫内照明用の電源ケーブルだった。

 廃屋だがまだ電気は供給されていたのを黒影が見つけ、そこへ鞭をからませるように誘導したのだった。

 しばらくしてヒガリは変わり果てた姿となってそこへ倒れ込む、黒影は近寄って様子をうかがったが確実に絶命した様だった。

「出来ればこんな最期にしたくはなかったけどな…。」

 しばらく痛ましそうに亡骸を見ていたが、その場を後にした。

 -36・イタチとの決着-

その頃、メイを連れてロンは停めてあった車の元へ来ていた。

 ドアを開けようとしたその時、突然背後でメイの叫びが聞こえた。

 驚いて振り返るとイタチがメイを抱きかかえていた。

「お前!」

 銃を出そうとしたが弾き飛ばされた上、みぞおちに蹴りも食らいその場にうずくまってしまった。

「黒影に伝えろ!この娘をもらっていくってな!」

 そう吐き捨てて走り去ってしまった。

 後を追おうと走り出すが、みぞおちの痛みで早く動けない。

 しばらく追っていくと後ろから声がした。

「おい、メイはどうした!?」

 九鬼だった。

「すまない…イタチの奴にさらわれた…!」

 ロンが心底悔しそうな表情で答える。

「なんだと!…わかった!俺が追う!お前はレイファンを探してくれ!…黒影はどうした?」

「祟達を追ってるはずだけど…。」

「そうか…だが、ヒガリの姿が見えない、もしかしたら黒影を足止めしてる可能性もある。」

「わかった…俺が探すよ!」

「頼んだぞ!」

 そう言うと九鬼は走り出した。

 しばらく進むといくつかの倉庫が並んでいる、その中の一つの扉が開いていた。まるで誘いこんでいるかのようだ。

「招かれてやるよ…。」

 銃を構え九鬼は倉庫へと足を踏み入れた。

 倉庫の中は暗く、物音もしない、イタチは気配を消しているのだろう、息を殺し先を進む。

 すると突然銃声が倉庫内に轟く、銃弾が九鬼の頬をかすめた。

 素早く物陰に身を隠すと銃声のした方向を睨む、そこには高く積み上げられた荷物の上にメイを抱きかかえ銃を構えるイタチの姿があった。

「なんだ、黒影じゃねぇのかよ!まぁいい、お前にも貸しはあるしな!」

「おい、汚い手でその娘に触れるな!」

 九鬼が睨むとイタチはニヤニヤと薄ら笑いを浮かべながらメイの髪に頬を撫でつける。

「ハハハ!お前こいつの彼氏気取りか!悪いがこの娘は俺がもらうぜ?一目見たときから気に入ってんだ!」

 そう言いながら九鬼のいる方へ銃弾を放つ、辺りの木箱が砕けて舞い散る。

「撃ち返したいが、メイもいる…なるべく一撃で奴を仕留めなければならない…。」

 九鬼は辺りを見回す、すると近くに階段状に積み上げられた木箱がある。イタチに気取られないようにそれを駆け上がる。

 最上段に立つとそこは倉庫内でも一番陰になって暗い位置にあった、これならイタチから姿が見えない。

 気配を察してイタチもそこへ銃弾を放つ、しかし暗くて姿が見えないため当てる事が出来ない。

 焦るイタチに照準を合わせるが、頭を撃ち抜いて返り血をメイに浴びせる訳にはゆかない、右脚に狙いを定めて引き金を引く。

 脚を撃ち抜かれ、低いうめき声をあげてイタチがよろめく。

「走れメイ!」

 九鬼が叫ぶとメイは一目散に走り出す、イタチはそれを捕まえようとするが撃たれた脚では追う事も出来ない。

「畜生!!」

 逆上した顔で九鬼の方を睨み銃を乱射する、しかし姿が見えないのと撃たれた痛みとで当てる事は出来ない。

 九鬼はそんなイタチの頭部に狙いを定めて引き金を引く、弾はイタチの眉間を貫いた。

 その場に倒れ込み息絶えるイタチ、九鬼はメイの側に駆け寄った。

「大丈夫か?」

 メイは身を震わせている、九鬼はそれを抱きしめ髪をなでる。

「怖かったよな…無事でよかった…。」

「…九鬼、レイファンが…。」

「あぁ、追いかけよう!今ロンが追ってるはずだ、黒影も向かっている頃だろう。」

 二人は倉庫を後にした。

 -37・祟の反発-

 その頃、御大と祟はレイファンを連れて港から離れようとしていた。車は爆破された為、迎えをよこすように手下に命じたところだった。

「祟、どういう事だ?ラチカの本当の価値とはなんだ?」

 御大が祟を問い詰める。

「あれが本当に月狼がラチカにあてた恋文だと思いますか?あの文章は恐らく暗号になっています、それを解読すれば帝国を脅かすほどの秘密文書になるのでしょう。」

「それを分かっていたのなら、なぜあの時に言わんのだ!」

「言う間もなく貴方はそれを黒影に投げてよこした。」

 冷たく言い放つと御大は真っ赤な顔で祟を睨む。

「御大、長年夢に見た『ラチカの詩』の実在を確かめた事ですし、もう忘れてはいかがですか?」

「な、なんだと?」

「あれは我々の手に負える代物ではありません、一国を揺るがすものです、一介のマフィアでは手に余る。」

「馬鹿者!一国を揺るがすほどの重要機密を手に入れれば月影街どころか帝国そのものを手中に出来るだろう!お前にはそれが分からんのか!」

「だから…」

 祟は憐れむような顔で先を続ける。

「月狼は恋文に見せかけて文書を隠したのです、良からぬ事に使う者がないよう、あれを読んで下らないと思う者を選別した…恐らく黒影の父親もそれが分かったから我々に渡す事を拒否した。」

「ならなにか…」

 御大が顔を赤くしながら歯ぎしりをして祟を睨む。

「お前はわしがラチカを手にするに値しない人間だと言うのか!」

「そうです。」

 祟は冷たくそう答え、御大は目を見開き祟を睨む。

「貴様!誰に向かって口を聞いとる!さっさと黒影を殺してラチカを取り返して来んかぁ!」

 ステッキを突きつけながら激しく怒鳴り散らす。

「ならば、ひとつお願いがあります、レイファンの洗脳を解いて自由にしてやってください。」

「なんだと!?」

「貴方は本当にこれでレイファンが幸せだと思いますか?今の彼女は生きる屍です。」

「貴様!指図する気か!」

「指図ではありません、お願いです。私はもう、こんなレイファンを見ていられない…。」

 祟は悲しみのこもった目でそう訴える、救えなかったリーユイの命、せめてその娘のレイファンには幸せでいてほしい。

 あまりの気迫に御大も思わずたじろいでしまう。

「…いいだろう、ならば黒影を殺してラチカを取り返してこい。」

「分かりました。」

 一礼してその場を後にする。

 その姿を見送り御大は嫌らしい笑みを浮かべる。

「馬鹿めが、このわしが貴様の指図など受けるか。」

 そしてレイファンの耳元に口を寄せる。

「いいかレイファン、祟がラチカを持って戻ってきたら奴を撃て、奴にお前は撃てないだろうからな!」

 ニヤニヤと笑いながらそう命じる。

「…はい、おじい様…。」

 レイファンも虚ろな目でそう答える。御大は満足そうな顔で彼女の髪をなでる。

「いい子だ、感情など持たんでいい、わし以外はな!」

 そう言って高笑いをする。

  -38・祟との決戦-

 その頃、黒影は御大や祟を追って、港を走り続けていた。

 すると突然、銃声が鳴り響き足元のアスファルトが飛び散る。

 立ち止まって銃を構えると、その向こうに祟の姿があった。

「黒影、最期の勝負をつけるとしよう。」

 そう言いながら銃弾を放ってくる、黒影は素早く身をかわしながら近くの倉庫の陰に身を隠した。

 そっと顔を出し様子をうかがう、祟の姿は見えない、気配も感じられない。

 物陰から飛び出し走り出す、すると銃声が鳴り響き近くの倉庫の壁に着弾する、音の鳴る方へ撃ち返す。

 しかし、そこに祟の姿はなく、またもや気配すら感じられなくなってしまった。

「弄んでやがるのか…。」

 気配を消し、相手をじらせて動いたところを討ち取るつもりなのだろう。

 それならばと、黒影は敢えて身を隠さず、道の上で銃を構えたまま目を閉じた。

 祟が銃を撃つ一瞬の隙、それを狙って反撃をする、もちろん自分の身を危険にさらす事にもなる。

 しばらくの静寂、真夜中の闇は暗く、海から来る潮の香りと、遠くから船の汽笛の音…まるでこの場所には自分の他に誰もいないかのようだった。

 その時、静寂の中に一筋の気配を感じた。鋭く、力強い、迷いなき明確な殺意。

 本能と直感でそれを読み取った黒影は反射的に身を伏せる、次の瞬間、銃声と共に一発の銃弾が彼のこめかみをかすめた。

 それと同時に黒影もその気配の先に一瞬で狙いを定め銃弾を撃ち放つ。

 そこには祟の姿があった、彼は黒影の放った銃弾に胸を撃ち抜かれその場に倒れ込んだ。

 銃を構えたまま、ゆっくりと近づく、祟は仰向けに倒れていた。

 胸元からあふれ出る血を手で押さえながら苦しそうな表情で黒影を見上げる。

「…お前の勝ちだな…。」

 口元に笑みを浮かべている。

「あぁ、だが俺が死んでも不思議はなかった…。」

 黒影は険しい表情で答える。

「いや、これでいい…お前は運命と戦い、俺は常に運命に流され続けた…。」

「…。」

「リーユイを…レイファンの母親を連れ出す事も、助ける事も出来なかった…お前の父親も救ってやれなかった…俺はいつだって組織に飼われた猟犬でしかなかった…。」

 祟は悲しそうに苦笑いを浮かべる。

「お前の噂を耳にした時に、あの考古学者の息子だろうと悟った…昔一度だけ見たお前の赤い左目を覚えていたからな…そして、いつか俺に復讐に来るだろう、あいまみえる日が来るだろうと信じた…その時、俺の生き方が間違っていたのかどうか分かるだろうと…。」

 祟は口からも血を流し苦しそうに息をしている、後数分の命だろう。

「それで、答えは出たのかよ…?」

 黒影が尋ねると目を閉じて悲しそうに答える。

「あぁ、もっと自由に生きれただろうさ…でも、臆病者の俺には無理だっただろう…。」

「…。」

「黒影…レイファンを救ってくれ…俺はリーユイを救えなかった…だが、お前ならレイファンを救える…運命と戦えるお前なら…。」

「洗脳を解く方法があるのか?」

「ひとつだけある…。」

 その方法を黒影に告げる。

「随分危険な方法だな!?」

「あぁ…だがお前なら出来るだろう…レイファンがこの世で一番信頼を置く人間だ…。」

 尚も苦しそうに息を吐く、顔は既に真っ青だ。

「黒…影…これを…レイファンに…。」

 そう言って震える手でポケットから何かを取り出して黒影に渡す。

「分かった、渡しておく。」

「頼んだぞ…。」

 そう言って目を閉じると、やがて静かに息を引き取った。

 暫く祟の亡きがらを見つめていたが、レイファンを助けなければならない、その場を後にした。

-39・御大の最期-

 しばらく進むとロンから電話が入った。

「クロ!御大とレイファンを見つけたぞ!」

「ほんとか!どこにいる?」

「それがさっきの石碑の前に戻ってやがるんだ!」

「何だと!?」

「どうも、迎えにヘリを呼んでいるらしい、その着陸場所にそこを選んだみたいなんだ。」

「そうか…分かったすぐにそこへ行く!」

「あぁ、頼む!」

「あ!ロン!お前もその近くにいるな?一つ頼まれてくれないか?」

「ん?何だ?」

 黒影が概要を話す。

 

 その頃、石碑の前で待つ御大とレイファンの元に迎えのヘリが到着しようとしていた。

 石碑前の広場に着陸し、そこから数人の男が二人を出迎る。

その時、銃声と共に御大の横にいた男が倒れた。

 御大と手下たちが振り向くとそこには黒影の姿があった。

「祟め、しくじったか…あの男を殺せ!」

 そう命じると手下たちが一斉に銃を撃ち始める。

 身を伏せ黒影も撃ち返す、御大の手下たちは次々に倒れていった。

 その時、レイファンの元へロンが姿を現した。

「レイファン!今のうちに逃げよう!」

 そう言ってレイファンの手を引こうとするが、レイファンはそれを振りほどいてしまう。

「何をしておる!」

 御大がステッキでロンを殴りつける、たまらず彼は走り去る。

「レイファン、黒影を殺せ!」

 御大がそう命じるとレイファンは銃を取り出して黒影に突き付ける。

「レイファン…。」

 黒影が悲しそうな顔で彼女を見つめる。

「俺が分からないのか?」

 けれど、レイファンは何も答えず虚ろな目で銃を握っている。

「レイファン!あの男はお前の敵だ!殺せ!」

 御大がそう叫ぶとレイファンは激鉄を降ろす。

 黒影を狙い撃とうとする、しかし、なぜか彼女は引き金を引かない。

「どうしたレイファン!」

 御大が怪訝な表情をする。

 尚もレイファンは撃とうとするが引き金を引けない。見ると銃口も微かに震え始めている。

 すると、レイファンの頬に一筋の涙がこぼれるのが見えた。

「…彼を見ていると…心が…痛い…。」

 押し殺すような声でそう囁く。

「レイファン…。」

 黒影も締め付けられる想いでその様子を見ていた。自我を失い、目の前にいるのが誰かも分からなくなっても、心の奥に大切な人への想いが残っているのだろう。

 彼女は尚も銃を握って立ちつくしていた。

「レイファン…後少しなのに、思い出せないのか?」

 黒影が悲しそうに彼女を見つめる。何も答えず立ちつくすレイファン。

「…なら、仕方ない…残る方法は一つだ。」

 そう言うと黒影は銃口をレイファンに突き付ける。

「レイファン…あの時、約束したよな?必ずお前を助け出すって…。」

 激鉄を降ろしレイファンの胸元に照準を合わせる。

「だから、果たすよ…その約束を…。」

 そして一気に引き金を引く。

 黒影の拳銃から解き放たれた銃弾は真っ直ぐ飛んでレイファンの胸元へ命中する。

 目を見開き唖然とするレイファン、ゆっくりと仰向けに倒れてゆく。

 そのまま、地面に倒れ込み動かなくなった。

「な…なに!?」

 御大は唖然とした表情をしている、レイファンが撃たれた、黒影は彼女を撃たないと踏んだからこそ彼女に銃を持たせた、にも関わらず黒影はレイファンの胸を撃ち抜いた。

「く、黒影、貴様ぁあああ!」

 目を見開き、この上もない怒りの表情で御大は黒影を睨む。

「レイファンを殺したなぁあ!」

 銃を抜いて彼に向ける。

「黙れ、おいぼれが!」

 鋭い眼光で御大を睨みつける、その左目は赤く染まりきっていた。

「レイファンをあんな目に…お前を、許さない…。」

 鋭く冷たい雰囲気、彼のあまりの気迫に御大も身震いを感じた。

「うるさい!若造がぁ!」

 恐れを振り払うようにどなり声を上げながら銃を乱射する。

「消え失せろ…。」

 冷たく言い放つと、黒影は御大の額に狙いをつけ銃弾を撃ち込んだ。

 御大は頭から血を噴き出し仰向けに倒れ込んだ。

 息絶えたのを見届けると黒影は急いでレイファンの元へ駆け寄った。

彼女を抱きかかえて叫ぶ。

「レイファン!レイファン!しっかりしろ!」

 するとレイファンが小さく息をして微かに動く、黒影は彼女の頬をさすりながら尚も呼びかける。

やがて小さな唸り声をひとつあげた、ゆっくりと目を開け、口を開く。

「痛っい…ねぇ、クロ…他に方法は選べなかったの?」

 文句を言いながら黒影を睨む、そこには気丈で快活ないつものレイファンがいた。

 その顔を見て黒影は喜びを隠しきれない様子で彼女の髪をなでる。

「ごめんな…限りなく死に近い状態しか方法はないって聞いたんだ…。」

「なにそれ…?」

 レイファンも呆れたように返す。

「それにしても…」

 胸元からペンダントを取り出す、誓いの三日月だ、石の部分に銃弾が当たっているのが見える。

「よく服の上から狙えたね!」

「まぁな…さっきロンに仕掛けてもらったのさ!」

「そっか…ごめんね色々…なんか私、迷惑かけちゃったね…。」

 レイファンは済まなそうに俯く。

「馬鹿言うな、迷惑な訳ないだろ!」

 黒影が叱るとレイファンは小さく頷く。

「クロ…ほんとに…ありがとう…。」

 目に涙を浮かべ、黒影の胸元に顔を埋める

「レイファン…戻ってきて本当に良かった…。」

 黒影はそう言うとレイファンを力強く抱きしめた。

「レイファン!」

 声がして振り向くと、遠くから九鬼とメイが走ってくるのが見える。

「おぉ、やっとドンパチは終わりか!?」

 ロンも戻ってきた。

 黒影に助け起こされてレイファンも立ち上がる。

「皆…ごめんね…私のせいで…。」

 レイファンが済まなそうな表情を浮かべる。

「なんだよ、お前らしくもねぇ!」

 ロンが笑い飛ばすように言う。

「レイファン…戻ってきたんだね!」

 メイが泣きながらレイファンに抱きつく。

 九鬼も後ろでほっとした様子だ。

 遠くからサイレンの音が近づいてきた、銃撃戦と爆発の騒ぎで警察が動き出したのだろう。

「まずいな、逃げるとしよう。」

 黒影が促すと一同その場から退散し、停めてあった車で港を後にする。

 こうして、黄一家との戦いは終わりを迎えた。

 -40・エピローグ-

 数日後、月影街南部のとあるライブバーで黒影はテーブルに着いて新聞を広げていた。

 港で大規模な銃撃戦と爆発があった事、それによって黄一家の首領、御大と大幹部の崇、他にも数人の手下が死んだ事、御大と崇を欠いた組織は壊滅状態にあり、残った幹部達も次々に警察に逮捕、もしくは敵対していた組織に暗殺されているなどの報道が書かれていた。

 また、警察内部でも御大と癒着のあった警察官が多数摘発され、中には組織犯罪対策課の課長などもいたこと、それらの懲戒などにより、以前に組織課々長だったチャン警部が復帰したことも書いてあった。

「ほぉ、あの堅物刑事がね!」

 思わず苦笑いを浮かべる。

 しかし、記事には黄一家が何者によって壊滅させられたかは謎のままであるとも記されていた。

 警察側は複数の敵対組織の共謀、もしくは内部抗争によるものとの見方もあるという見解を示していた。

「まさか、数人でやったとは思わないか。」

 またも苦笑いを浮かべる。

 そして、記事には『ラチカの詩』についても一切触れられていなかった。

 当然だろう、敵でラチカを見たものは全員死んだ、今やその実在を知るのは黒影達五人だけだった。

 結局、秘密文書の箱は元に戻された。黒影とメイは父親が長年追い続けたものが無駄でなかったと分っただけで純分だった。

 また、五人のうちの誰にも、国を揺るがす程の機密で陰謀を働くつもりはなかった。

 こうして『ラチカの詩』はまたも長い眠りに入るだろう。

 ともすれば永遠に日の目を見る事はないかもしれない、けれどそれで良いのだ、あれは時代が本当に必要とした時に、誰かが月狼の意思どおりに使えばいいのだろう。

 黒影はそう思って心の中に仕舞うことにした。

 新聞を置いて煙草に火をつける、開店したばかりにも関わらず、いつの間にか店内は大勢の客で埋め尽くされていた。

 彼らの関心は今夜久し振りの舞台を踏むあるシンガーだった。

 黒影は席を立ってステージ横の楽屋へと向かった。

 そこには化粧台の前で緊張の面持ちのレイファンが座っていた。

「どうした、緊張した顔で?」

「あぁ、クロ…。」

 振り向くと彼女はこの上ない不安の表情だ。

「考えてみるとさ、私ステージ立つの二年振りなんだよね…今まで、こんなに長く人前で歌わなかった事なかったし…もう、不安で…。」

 今にも泣きそうな顔をしている、黒影はその様子に思わず噴出しながら答えた。

「どうしたレイファン!いつものお前らしくないぞ?難しいことなんて考えなくていい!お前らしくのびのびと歌えばいいじゃないか!皆お前の歌を聴きに来てるんだ!いつものお前らしく自由にやれば皆満足するさ!サタンとミューズの落とし子をたっぷりと見せつけてやれ!」

 そう言って彼女の髪をくしゃくしゃと撫でると、ようやくレイファンも余裕を取り戻したようだ。

「そうだね…気取る必要なんて無い!久し振りのステージを楽しむ事にする!」

 明るい笑顔で反した。

「そうだ…」

 黒影は思い出したように懐に手を伸ばすと一枚の写真を取り出しレイファンに手渡した。

「いつ渡そうか迷ってたけど、今にするよ…これは崇が息絶える前に俺によこしたものだ。お前に渡してくれと言って。」

「え…!」

 レイファンは写真を受け取ると、驚きの表情でそれを見つめた。

 そこには二人の男女が写っていた、今のレイファンに生き写しの、若い頃の母親リーユイ、その横には彼女を抱き寄せる一人の男性の姿があった。

「恐らく…お前の父親だろう。」

 レイファンは言葉を失った、はじめて見る父の姿、精悍な顔で力強さと気高さに溢れている。

 なにより抱き寄せた母への愛が温かく伝わってくる、母もまた彼への愛で溢れているのが分る。

「お父さん…。」

 レイファンの目に涙が溢れた、はじめて見るのに何ともいえない懐かしさがあった。

 写真には切り取ったような跡がある、もしかしたらそこには崇の姿があったのかも知れない。

「崇は最期までお前を救ってくれと俺に頼んでいた…お前の洗脳を解く方法を教えてくれたのも奴だ。」

 レイファンが驚きの表情で見上げる。

「お前のお母さんを救えなかった事、御大の命令で親友だったお父さんを手にかけなければならなかった事、全てを悔やんでいた…。」

 黒影は崇が自分の父を殺した事も悔やんでいた事も思い出した。

「俺にとっても、お前にとっても、奴は父を殺した敵だった…だけど、あいつもまた、御大の手下である事から逃れられなかったんだ。」

 黒影は目を伏せる、父の仇を討てはしたが、最期の崇の姿に複雑な思いがあるのも事実だった。

「すまない…大事なステージ前に余計な話を…。」

 黒影が気まずそうに言うとレイファンが笑顔で答える。

「そんな事無い!ありがとう!」

 化粧台に向き直り髪を整える。

「ところで、これからどうしようねぇ…結局店はなくなっちゃったし…出来れば自分の店で歌いたかったな…。」

 レイファンが残念そうな顔を浮かべていると後ろで声がした。

「心配ないさ!」

 振り向くとロンが楽屋に入ってきたところだった。

「おぉ、ロン!ここ二、三日どこ行ってた?」

 黒影が訪ねると、ロンはにんまり笑って懐から布の袋を取り出した。

「俺がここ数日なにしてたと思う?御大の屋敷に忍び込んでお宝を頂いてきたのさ!」

 そう言って楽屋のテーブルの上に袋の中身を空ける、その中には大粒の宝石が幾つも入っていた。

「えぇええ!?」

 黒影とレイファンが同時に驚きの声を上げる。

「だ、だって、御大の屋敷は今、警察の手入れが入ってるだろ?」

 黒影が目を丸くしているとロンが誇らしげに答える。

「ハハハ!そこがポイントだよ!御大の屋敷は今、警察が隅々調べてる、連中の目当ては黄一家の今までの犯罪の証拠、まとめて他の組織も一気に挙げちまおうと躍起になってる、するとどうだ、連中屋敷の中の宝石や美術品という金目のものには目もくれない!呆れたもんだね…そこに俺が警察官に変装して入り込み、隙を見て失敬すると!こういう時は現金なんてかさ張るものじゃなく、こういう宝石の方が持ち出しやすいんだ!」

 胸を張って得意満面の笑みだ。

「こんだけあればカフェ・ド・ノワール復活できるだろう?」

「凄いよロン!」

 レイファンも感心した様子だった。

「最後にいい所持って行きやがったな!」

 黒影も笑顔を見せる。

「まぁ、心配せずに歌ってきな!」

 ロンが宝石を袋に戻しながら言うとレイファンは立ち上がる。

「うん!頑張るよ!二人ともゆっくり聴いてね!」

 満面の笑みでステージへ向かう、黒影とロンも客席に戻るとそこには九鬼とメイの姿もあった。

 同じテーブルに着いて開演を待つ、店内の照明が落ち、ステージにライトが当たった。

 そこへバックバンドを従えてレイファンが堂々とした様子で現れる、客席からは久方振りの歌姫レイファンの登場に割れるような拍手が起こる。

 やがて、演奏が始まりイントロを過ぎるとレイファンが歌い始めた、二年のブランクがあるとはとても思えない伸びやかで美しい歌声だった。

 曲目が進むに連れてレイファンの歌声は輝きを増していく、その姿はまるで翼を広げた天使のようだった。

 客席はその姿と歌声にいつまでも魅了され続けていた。

 

-fin-

 

home.

 

ラチカの詩

 

Write:Isamu.y.