第一話『ルミナ』

 

月影街南部にある古めかしい喫茶店『フトゥール』で二人の女性がテーブルに向かい合って座っていた。

店内には他に誰もおらず、不安げな表情を浮かべる女性の前で若い女主人はタロットカードをテーブルに並べ一枚一枚ゆっくりと裏返してゆく。

「それで…どうしたいの?」

女主人は客の顔も見ずにカードをめくりながら尋ねた。

「正直…彼とはこの先うまくやって行く自信はなくて…。」

客の女は物憂げに答える。

「そう…。」

「彼の気持ちがどこにあるのか分からないんです…。」

「彼には話したの?」

女主人は目線を上げる、全てを見通す様な、澄んだ、けれどどこか憂いの様な陰のある眼差しだ。

「え、なにを?」

客の女はぎょっとして訊き返す、まるで全てを見透かされているような気がした。

「お腹の子の事…。」

女主人はゆっくりと告げる、客の女は目を大きく見開いて言葉を失う。

「なんで…それを…。」

事実彼女は命を宿していた、しかし、まだ妊娠初期で見た目には分からないはずだ。

「ここに出ているのよ…。」

そう言って女主人はテーブルの上のタロットカードを指差す。

「そんな事まで…。」

占いで分かるものなのか、客の女は薄気味悪さを覚える。

「話した方がいいわ…。」

「でも…もし彼に話して…嫌な顔でもされたらと思うと…。」

そう言って俯く彼女の腕を、女主人はじっと見つめる。

そこにはさっきまでは無かった黒いあざの様なものが浮いているように見える。

「そうかしら?」

「え…?」

「あなたとの間に新しい命が芽生えたと知ったら彼も喜ぶんじゃないかしら?」

客の女の腕を見つめたまま諭すように言う。

「そうかな…それなら嬉しいんだけど…。」

そう言って客の女は頬笑みを浮かべる、するとさっきまで彼女の腕に浮かび上がっていた黒いあざが薄くなるのが見えた。

「あなたにとっても、彼にとっても、お腹の子にとってもそれがいいと思うわ…。」

女主人はタロットカードを束ねてシャッフルするとテーブルの上に裏返したまま広げる。

「さぁ…好きなのを一枚手にとって?」

促されて客の女はその中の一枚を手に取ると表に返す。

するとそこには大きな鎌を持った髑髏が描かれていた。

「死神…。」

驚愕の表情を浮かべて言葉を失う。

「安心して…上下が逆さでしょう?…死神のカードは本来、死と破滅を意味するものだけど、逆さの時はその反対…幸福と繁栄を意味するのよ?」

そう言って笑みを浮かべると客の女も安心した様子で笑顔を見せる。

「良かった…!」

「何も怖がらず、彼に話して?」

「…はい!」

活き活きと答える彼女の腕にはもう、黒いあざは見えなかった、女主人はそれを見届け安心する。

「ありがとう!評判通りですね!」

椅子を立ちコーヒー代を払いながら客の女は言った。

「評判?」

「えぇ、なんでもはっきり当てちゃうって!」

「そう…。」

女主人は複雑な表情を浮かべる、どうやら少しやり過ぎているようだ。

「それじゃ!」

手を振りながら店を後にする、女主人は空のコーヒーカップを片づけ、タロットカードを束ねる。

彼女にとって、タロットカードの意味などどうでもよかった。

死神のカードが出たのも偶然で、後付けの説明をしたに過ぎなかった。

占いはあくまで演出に過ぎない、彼女が持つ異端な力をそのまま受け入れられる人間などそうはいない、だからフィルターが必要だ。

この店の女主人・ルミナには生まれた時から人の不幸な未来が見える。

近いうちに死ぬ者や災いに合う者、そういった人間の腕や背や顔に黒いあざの様なものが浮かんで見え、そしてその人の未来を予見する残像が目に映るのだ。

幼い頃は意味が分からなかった、誰かの腕にあざが浮かぶ、けれど他の人には見えない、程なくしてその人は死ぬ。

そんな事が繰り返され、徐々に彼女は自分にはそれが見える事を知り、時にはそれを防ごうとした。

けれど、誰一人彼女の言葉を信じる者はいなかった、両親も友達も誰もが彼女が悪ふざけをしていると思って相手にしなかった。

けれど、彼女が忠告をした者は程なくして、命を落としたり、不幸にあったりする。

すると、今度は周りの誰もが彼女を気味悪がり、近づこうともしなくなった。

友達はいなくなり、両親さえ、彼女を私学の寄宿舎に預けたまま、会いに来ようとさえしなかった。

彼女の力は異端なのだ、科学では解明できず、前例もない。

この世界の常識の外にある彼女を、周りの人間は拒絶し、疎外した。

学校を出た後、彼女は家には戻らず、そのまま街に住む事にした。

自分の力を誰かの為に役立てたい、けれど自分には未来が見通せるなどと言おうものなら、精神を病んでいると思われてしまうだろう。

そんな彼女にとって格好の隠れ蓑は占いだった。

人間は予知能力を信じないくせに、占いにはやたらと振り回される。

とある占い師の元でタロットカードの扱い方を習い、それで占うふりをしながら相手の手や顔に注目した。

他愛のない悩みを持つ者はあざが現れることはない、けれど少しでも真剣な悩みを抱えるものはほぼ例外なく黒いあざが浮いて見えるのだった。

そして、悩みを持って彼女の元を訪れる者は大抵がそのあざを持っていた。

必ずしも死とは限らない、けれどそれはその人にとって決して幸せな未来ではない。

ルミナはそれを少しでも防ぐように、占いの結果と見せかけて助言をするのだ、来る人は皆占いを信じている、予知能力は信じなくとも占いにこう出ていますと言えば信じてくれるのだ。

もちろん全てを救える訳ではない、船旅に出るのでみてほしいと訪ねた男に今回は見送った方がいいと伝えたが、彼はそれを聞かず、水難事故で命を落としてしまった事もある。

もちろんルミナの責任ではない、けれど彼女にとって先が見えていながら救えない未来は心に重りとなって残っていった。

二年前にこの店を譲り受け、今は喫茶店をしながら占いに訪れる人の未来もみていた。

近所でもよく当たると評判になっているようだ、それはもちろん良い事だ、けれどいつか彼女の持つ異端の力に気付いてしまう人が現れるのではないか、それだけが気がかりだった。

事実、今日来た若い女性もルミナを気味悪そうに見ていた、無理もない、腹の大きくなっていない妊婦が命を宿していることなど医者でも分かる訳がない。

そんな事もあって、彼女はいつの間にか『魔女』と呼ばれるようになっていた。

洗い物を済ませ、夕方の仕込みに入る。ふとキッチン横の鏡に映る自分の姿が目に止まった、そこにはいつもどこか悲しそうなルミナの顔が映っている、思えば自分の体にあざが現れた事はない、他人の未来は見えるのに、自分の未来はいつも分からないのだ。

 

月影街中心を横切る国道を一台の車が走り抜けていた。

しばらく行くと、ある交差点で右折をする、南部へ続く通りに入って行った。

通りの両側にはいくかの商店、レストランなどが軒を並べている、その前の歩道を車の後部座席に乗った男はまるで獲物を狙う鷹のように見つめていた。

「いたぞ!」

歩道を指差す、通行人の中に黒い服を着た一人の若い男が歩いているのが見えた。

「間違いない…奴だ。」

後部座席の男は目をらんらんと輝かせ口元に笑みを浮かべた。

「あれが、噂の黒影か?」

横に座る男が訊く。

「あぁ、一度姿は見てるからな…やはり、この近くがやつのねぐらか!」

車はスピードを落としやや後ろから追う。

「よし、一気に殺っちまおう!」

運転席に座る若い男が血気盛んに声を上げる。

「馬鹿いえ!」

後部座席の男が強い口調で制する。

「あそこを見てみろ。」

見ると前方に二人の警官が駐車禁止の取り締まりをしているのが見える。

「たった二人だ!構わねぇ!ついでに殺っちまおう!」

運転席の男は尚も血気盛んに声を張り上げる。

呆れたように舌打ちをすると後部座席の男は運転席の背もたれを後ろから蹴る。

「だからお前は馬鹿だってんだよ!確かにこっちは四人いる、お巡り二人くらい訳なく殺れるだろうさ、だけどな、相手は黒影だぞ?四人で襲いかかっても心許ないってのに、お巡りとの撃ち合いまでメニューに組み込んだら完全に負けちまうわ!」

頭ごなしに怒られ運転席の男は不貞腐れたように返す。

「じゃあ、どうするってんだよ?このまま見逃すのか?せっかく見つけたのに…。」

「見のがしゃしねぇ、このまましばらく奴の姿を追うんだ、うまくすりゃ奴のねぐらまでたどり着けるかもしれん…そうすりゃ、好きなだけドンパチやらしてやるよ!」

一方、歩道の黒影は自分の左斜め後ろを着いて来る車の気配に気づいていた。

ショーウィンドウに写る姿を横目で見ると、黒塗りのいかにもその筋の連中が乗りそうな車種だ。

「下手な尾行だ…チンピラの類だろう。」

脇道にでも入り込んでおびき寄せるか、そう考えたが、見れば前方に駐車禁止のステッカー貼りに勤しむ制服警官の姿がある、そうなるとこの近くでの騒ぎはまずい。

そうかといってこのままやり過ごす事も出来ない、彼は通り沿いにある一軒のカフェに入ることにした。

店の名は『フトゥール』、どこかの国の言葉で「未来」を意味する。

呼び鈴のついたドアを開け中に入る、店内は少し薄暗いレトロな雰囲気で、天井にはファンが回り、奥では蓄音機がピアノのスタンダードナンバーを響かせている。

カウンターの他にテーブルが四つあるが客はいないようだ。黒影がカウンターに着くと奥から若い女が出てきた。

「いらっしゃい、初めて見る顔ね、ご注文は?」

「あぁ、コーヒーをひとつ。」

「はい。」

返事をすると手際よくコーヒーを淹れ始める、レトロな雰囲気に見合ってコーヒーもバリスタマシンを使わずサイフォンで淹れている。

「ここは一人で?」

黒影が訪ねると彼女は微笑みながら返す。

「えぇ、狭い店だしね、私一人で充分だわ。」

まだ二十代前半くらいの若い女性だ、それが店を一人で切り盛りしているという事に黒影は感心していた。

サイフォンの中で泡が立ちやがてコーヒーの香りが漂う。

「ごゆっくり。」

コーヒーの入ったカップを差し出すと、彼女は片付けを始めた。

黒影はコーヒーを飲みながら煙草に火をつける。

店の外に目をやる、先程の黒い車は見えない。

しかし、通りの向こう側で街灯に寄りかかって新聞を読んでいる男がいる、恐らくこちらを見張っているのだろう。

その先ではまだ警官が駐車禁止の取締りをやっている、彼らがいなくなったら連中はここへ攻め込んでくるだろうか、そうなる前に店を出なければならない。

黒影がコーヒーの最後の一口を飲み終える頃、外の警官達も駐禁取締りの作業を終えパトカーに乗って帰っていった。

通りの向こうで見張りをしていた男もその様子を目で追っている、店を出るなら今しかない。

「ごちそう様、いくらかな?」

黒影が代金を払おうと女主人に声をかける。

「ありがとう、四ゼルよ。」

財布から金を出し、渡す瞬間、ふと彼女の表情がこわばった様に見えた。

「どうかした?」

黒影が怪訝そうに訪ねると

「ごめんなさい…ありがとう、またどうぞ。」

と言って俯いてしまった。

黒影は首をかしげながらも店を後にした。

 

客の男が出て行くと、女主人ルミナは両腕をさすって震えていた。

あの時、客から代金を受け取ろうと、指先が触れた瞬間、彼女の脳裏に恐ろしい光景が浮かんできた。

どこまでも続く血みどろの死体…その先で返り血を浴びて立ち尽くす男の姿…。

はっと我に返り彼の腕を見ると、それは禍々しいまでに赤黒いあざが浮かんで見えていたのだった。

「あの人…一体…。」

何者だろうか、恐らくまともな世界で生きている人間ではない、かといって粗暴な人間にも見えなかった。

確かに黒い服を着て、どこか人を寄せ付けない雰囲気もあり、コーヒーを飲む間も隙がなかった。

けれど、わずかな言葉を交わす中で物腰柔らかな雰囲気もない訳ではなかった。

得体の知れない不安を振り払おうとカップの片づけを始める、テーブルを拭こうとカウンターから出たときにふと、床の上に何かが落ちているのを見つけた。

拾い上げるとそれは三日月の形をした銀色のペンダントだった、中央には蒼い色の石が埋め込まれている。

「あの人の?」

落としていったのだろうか、もう店を出ているが、歩きならそんなに遠くには行っていないだろう。

「…。」

追いかけていって届ける、それも考えた。

しかし、手を触れたときに見えた恐ろしい残像、腕に浮かぶ赤黒いあざ…。

近づいてよい相手だろうか、放っておいても大事なものならば自分で取りに来るかもしれない。

そう思う気持ちとは別に、気になってもいた。

腕に浮かぶ赤黒いあざ、このまま帰せば彼に降りかかる災難を回避できないのではないか、ここにペンダントが落ちているのもそれを示す啓示のようなものではないか…。

自分でも馬鹿げていると思いながらもルミナはいても立ってもいられず店を出た。

 

「奴はカフェを出た…あぁ、お巡りはもういねぇよ…どうする?後をつけるか?」

表で見張りをしていた男が携帯電話で仲間に状況を説明する。

「よし、後をつけろ!だが、十メートルは空けろよ?奴は勘がいいんだ、追ってるのがばれれば全て水の泡だ!それで小道にでも入ったらすぐ知らせろ。」

電話の向こうで仲間のリーダー格が指示を出す。

見張りの男は携帯電話を耳にあて雑談でもしている振りをしながら黒影の後を追うことにした。

 

どうやら追手はついて来ているらしい、気配を十メートルほど後方に感じながら黒影は何食わぬ顔で通りを歩いていた。

相手は何人いるだろう、車はセダンだった、ならば四人、仮に他にも伏兵がいたとしても全部で五、六人だろう。

どこか人気の無い小道へ誘い込もう、恐らくは相手もそれを狙っているはずだ。

しばらく歩くと通りも人が少なくなった、さらに進むと小道があったのでそこへ入ることにした。

寂れたビルとビルの間の道、薄暗く、通行人もいない、絶好の場所だった。

小道を数メートル進むと背後に二人ほどの気配がする、いよいよ来たようだ。

背後で微かな金属音が聞こえる、銃を手にしたようだ。

黒影も銃を抜いて振り返ると同時に銃弾を放つ、銃を構えた二人組みの一人が胸を撃たれて倒れた。

もう一人の男が慌てた顔で銃を構えるが、黒影はその額を撃ち抜いた。

その時、背後で敵の気配を感じた、黒影はとっさに身を伏せる。

乾いた銃声が連続で鳴り響く、サブマシンガンを撃っているようだ。

黒影は近くにあった金属製のゴミ箱の陰に身を伏せる、相手は尚も銃弾を撃ち込んで来る、それらは周りのコンクリートの壁や金属製のゴミ箱に当たって土噴煙や火花を上げている。

物陰からそっと前方をみると二人の男がサブマシンガンを構えて交互に撃ってくるのが見えた。

一人が弾を撃ち尽くしてマガジンの交換に入るともう一人が撃つ、そうやって黒影の動きを封じ込み、しびれを切らせて出てきたところを一気に討ち取ろうという狙いなのだろう。

「相手を選んでやれよ。」

黒影は口元に笑みを浮かべると、近くにあった黒いゴミ袋を投げる。

するとそれを一瞬、黒影が動いたものと思い込んだ相手が銃口をそっちへ向けて撃ってしまった。

その隙を逃さず黒影は物陰から飛び出ると相手の頭を撃ち抜いた。

 マガジンを交換していたもう一人の男も慌ててサブマシンガンを構えるが、黒影は素早く男の右肩を撃ちぬいた。

肩から血を噴出し苦悶の表情を浮かべる男、黒影はさらにその左足も撃ち抜いた。

その場に仰向けに倒れ込んだ男のもとに近づく、年恰好からこの男がリーダー格のようだ。

他に伏兵がいないか辺りを警戒しながら男に銃を突きつける。

「誰に頼まれた?」

肩と足を撃たれ、体半分を血で真っ赤に染めて男は苦しそうに息をしている、青ざめた顔にあぶら汗、今にも息絶えそうになりながらも薄目を開けて答える。

「…誰でもねぇよ、俺達が始めたんだ…。」

「何の為に?」

「名を上げるためにだよ…俺達は先月まで、とある組織に雇われていた…けど、そこのボスをお前が消しちまった…。」

「…。」

「雇い主を失って行き場のなくなった俺達は一計を案じた、あの名高い黒影を殺れば俺達も名を上げられる…そうすりゃフリーでも仕事に困る事はないってな…。」

「…馬鹿野郎が…。」

黒影は表情を曇らせる、それを見て男は忌々しそうな顔を浮かべる。

「…お前には分るまいよ…俺達のようなケチな始末屋の気持ちなんざ…お前のように才能と実力に恵まれた暗殺者にはな…。」

黒影はさらに表情を曇らせた、男は薄目を少し大きく開くと黒影の左目を見る、瞳孔が紅く染まっているのが見えた。

「…それが噂の左眼か…紅眼殺手の黒影の異名通りだな…。」

男は目を閉じる、しかしやがて目を大きく見開くと左手で何かを取り出した。

「…道連れだ!」

男の左手に握られていたのは手榴弾だった、男はピンを抜こうと口元にそれを持ってくる。

しかしそれより早く黒影が男の額を撃ち抜いた。

「…。」

複雑な表情を浮かべながら黒影はその場を立ち去ろうとした。

その時、背後に人の気配を感じた。

敵の伏兵か、それとも通りすがりの人間か、振り向いて銃を突きつける。

「…!?」

そこに立っていたのは、あのカフェの女主人ルミナだった。

 

第二話「沈黙の理由」

 

ルミナは青ざめた表情でそこに立ち尽くしていた。

黒影も拳銃を構えたまま一瞬体が硬直するのを感じた。

全く予想だにしない相手、敵の残りでもなく、たまたまそこを通りがかった通行人でもない、さっき身を隠していたカフェの女主人がなぜここにいるのか?

それよりも、この場を見られてこのまま帰して良いものだろうか、暗殺者が殺しの現場を目撃されたのなら成すべき事は唯一つ、その目撃者を亡き者にする事だった。

けれど、黒影の指は引き金を引こうとしなかった、そればかりか拳銃を持つ腕を下ろしてしまった。

「…いつかその甘さが命取りになる…。」

遠い昔に誰かに言われた言葉が頭の中に蘇る。

「…そうだろうな…。」

頭では理解できている、綺麗事が通じる世界に生きてはいない、現に今も四人の命を奪ったばかりではないか。

けれど、黒影は自分を殺める目的の無い相手を手にかける事は出来なかった。

相手が銃を下ろしたのを見てルミナは恐る恐る歩きだした、黒影の目の前まで来るとゆっくりと右手を差し出す。

「…これ…。」

「…!」

黒影は思わず目を見開いた、彼女の手にあったのは、彼がいつも身につけている三日月形のペンダントだった。

思わず自分の胸元を探る、当然のことながらそこにはペンダントはない。

「…あなたのでしょ?」

伏せていた目を上げる、緊張と怖れ、けれど何かを必死に訴えかけるような物憂げで透き通るような目がそこにはあった。

「あぁ…。」

銃を持っていないほうの手でペンダントを受け取る、どうやら彼女はこれを届ける為にわざわざ追いかけてきたようだ、けれど、この状況を見て恐ろしくはないのだろうか、普通ならば悲鳴を上げて逃げ出すことだろう。

確かに表情は少し怯えているようだ、けれど彼女は取り乱す事もなくこの場にいる。

不思議な想いでルミナの顔を覗き込む、すると彼女は目を逸らし、来た方を向いて歩きだした。

「…。」

何かを言いたかったが言葉が浮かばない、黒影はただ遠ざかるルミナの後ろ姿を見つめるだけだった。

「…早く、逃げた方がいいわ…もうじき人が来るでしょ…。」

後ろを向いたまま彼女は一言そう言った。

「…。」

返す言葉もなく、黒影はルミナとは逆の方向へと走り去った。

 

翌朝、目覚めると黒影は玄関ドアの下に挟み込まれた新聞を取り広げる。

三面の隅に月影街南部十二番街の通りで銃撃事件との記事があった。

銃で武装した四人組の男が胸や頭を撃たれ死亡しているのを通行人の男性が発見したとの事、殺されたのはいずれも以前に犯罪組織に属していた構成員で、警察はマフィア同士の抗争事件とみて調べを開始、しかし犯人の手掛かりとなる物証も目撃証言も未だ掴めていないとの事だった。

「…目撃者なし…。」

あのカフェの女店主はなにも証言していないのだろうか?

あの通りは「フトゥール」からそう離れてはいない、当然捜査員が聞き込みに訪れているはずだ。

なのに、彼女は何も見ていないと言ったのだろうか?

何のために?報復を恐れて?それならばあの場から大慌てで逃げ出したはずだ。

関わり合いになりたくないから?それが一番妥当な考えだろう。

けれど、それだけでは納得できないほど、昨日見た彼女の表情は複雑だった。

恐れ怯えていながらも、どこか哀しそうな、憂いのある眼差し、心なしか黒影を心配しているようにも見えた。

「…まさか…。」

昨日、初めて店に来てコーヒーを一杯飲んだだけの客をそこまで気遣う者などあるはずがない、黒影は彼女のあまりにも不可解な行動に少し戸惑っているだけだと自分に言い聞かせる事にした。

気分を変えようと顔を洗いコーヒーを飲みながら焼いたトーストを頬張る。

「…味気ないな…自分で淹れたコーヒーって…。」

一人きりの部屋の中、カップを口にしながらそう呟く、昨日「フトゥール」で飲んだコーヒーの香りを思い出しながら。

 

月影街南部十二番街の通りでは昨日の銃撃事件の捜査線が張られ、警官たちが聞き込みに走り回っていた。

「嫌なもんだねぇ、この辺でマフィアの抗争なんてさ…。」

喫茶店「フトゥール」のカウンターで朝食を取りながら常連の客の一人がルミナに話しかける。

「…そうね。」

ルミナは関心なさそうに答えながら注文のサンドウィッチを作り続けていた。

「ルミナも怖いだろ?ここに一人で暮らしてるのにあんな物騒な事件なんてな!」

「…えぇ、そうね。」

「まったく、月影街ってのは治安が悪いのが良くないよな!これでもこの辺はまだ安全だったのにさ!…まったく、頼むよ!お巡りさん!」

そう言いながら男は隣の席で朝食を取っている制服姿の警官に話しかける。

「勘弁してくれよ!こっちだって必死にやってるんだ!」

コールスローをフォークでかきこみながら警官は顔をしかめる。

「そうは言うけどさ!あんな白昼堂々の銃撃戦で目撃者もいないって?そんな馬鹿な事があるもんかね?」

「捜査中の件だ、何も答えられない。」

コールスローの残りをかきこみながら警官はそっぽを向いて答える。

「一人くらいいるんじゃないのか?見た奴が…。」

「サンドウィッチお待ちどうさま!」

男の話しを遮るようにルミナはサンドウィッチの皿を差し出す。

「おぉ、出来たか!うまそうだな!」

男は嬉しそうな顔を浮かべるとサンドウィッチに食いついた。

「コーヒーのお代わりもくれ。」

「はい、ただいま!」

カップを受け取りコーヒーを追加する。

朝の店内は通勤前に朝食を摂りにくる客や、夜勤明けに食事に訪れる客で賑わう。

しかし、午前九時を過ぎるころには客足もなくなる、その頃になってようやくルミナは遅めの朝食を取るのだった。

静かな店内でコーヒーを飲みながらルミナは昨日の事を思い出していた。

客の男から見えた残像と手のあざ、そして凄惨な銃撃現場…。

なぜあの時逃げ出さなかったのかは彼女にも分からなかった、気がつくと彼の前に進み出てペンダントを渡していた。

怖くなかった訳ではない、全身に戦慄と緊張が走っていたのを覚えている。

けれど、銃を構えて振り向いた彼の左目と表情に釘づけになった。

「…赤い左目…。」

店内で見たときには両目とも黒かったはずの瞳孔が、あの時は左目だけが赤かったのだ。

「…見間違い…?」

光の加減か、それともあまりの戦慄が生んだ錯覚か。

「…悲しそうだった…。」

獣の様な鋭い視線の奥に、深い悲しみがあるように見えてならなかった。

彼は一体何者だろう、裏の世界の人間なのだろうか、けれどそんな野蛮で汚れた雰囲気は感じられなかった。

ほんのわずかな時間で四人の武装した相手を撃ち殺す人間…そんな風には見えなかった。

あの後、店に戻り何時間かすると私服の刑事が二人やって来て、この先で銃撃事件があったが何か見なかったかと尋ねた、それに対しルミナは何も見ていないと答えたのだ。

何故そう答えたのかはわからなかった、けれど、あの赤い左目を持つ不思議な殺人者を逃がしてやりたい、そう感じていたのかも知れなかった。

「…もう、来ないよね…。」

空になったカップを見つめふとそう呟いた、その表情はどこか寂しそうだった。

 

 第三話「レッヅォ」

 

月影街十五番街のとあるレストランの個室で二人の男が食事を摂っていた。

「なぁ、レッヅォ、俺も何かにつけて争いごとをしたい訳じゃないんだ。」

顎鬚を生やした四十代ほどの男、モーガンは向かいに座るまだ若い男レッヅォにそう語りかける。

「知ってるだろう?抗争ひとつ起こすのにも金も人も気力も体力も浪費するのを?マフィアというのが何かと抗争してばかりいるなんてのはフィルムノワールの生んだ幻想さ。」

そう言って苦笑いを浮かべながら自分と相手のグラスにワインを注ぐ、自分よりも一回りも年若いレッヅォを相手に気の良さそうな気遣いを見せている。

「モーガンさんも丸くなったもんだね!」

注がれたワインを飲みながらレッヅォは嘲笑うように言う。

「そうでもないさ…だが、娘が生まれてからは命知らずって訳にもいかなくなったな…。」

そう言ってまた苦笑いを浮かべる。

「昔は不始末しでかした手下を銃を鈍器代わりにして殴り殺したって聞くぜ?」

「なんの昔話だよ…それは尾ひれのついた噂話だ、グリップでちょっと小突いただけだ…実際そいつは今も表で車の番をしている。」

「あぁ、あいつか!」

レッヅォは笑いながらワインを飲み干すと、煙草を取り出して火をつける。

「それで…。」

深く吸い込んだ煙を吐き出しながらレッヅォは話の核心にせまる。

「要は十五番街の北側にまで店の軒先を伸ばすなって言いたいのか?」

「そういうことだ。」

モーガンも真面目な表情に戻ると深く頷く。

「この広い十五番街は昔から俺が守ってきた縄張りだ、他所の奴に好き勝手はさせたことがない、もちろんお前は駆け出しのチンピラの頃から知ってる顔だからある程度は好きに商売させてきたわけだ…。」

「だが。」

そう言うとモーガンは鋭い目でレッヅォを見据えると一段低い声でその先を続ける。

「国道に接する北側、これだけは譲れんぞ?月影街に住む物なら分るだろう?国道を挟めばその先は月影街北部だ、この街の頂点へ続く道、それをお前のような若造には譲れんのだ。」

そこまで言い終えるとモーガンはワインの残りを飲み干した。

レッヅォはゆっくりと煙を吐き出しながらモーガンの言葉を聞き終えると煙草の火を灰皿でかき消しながら口を開く。

「それでこそモーガンさんだね、マイホームパパより一味のボスって顔の方がしっくりくる。」

笑みを浮かべモーガンを見ている、その言葉と表情の意味を読み取ろうとモーガンは尚もレッヅォを見据える。

「心配しなさんな!俺だって長年世話になってるあんたを怒らすつもりはない、それに今日は娘さんの誕生日だろ?」

レッヅォの言葉で険しかったモーガンの表情が思わず緩む。

「あ…知ってたのか?」

「あぁ、あんた毎年この日はまっすぐ家に帰ってるだろう?あんたのとこの手下が言ってたぜ?」

「そうか…口の減らない奴らだ。」

そう言いながら笑顔を浮かべる。」

「そういう訳だ、俺は大人しく帰らせてもらうぜ。」

レッヅォは席を立つとモーガンに軽く会釈をする。

「娘さんによろしく、ドン・モーガン!」

「ありがとうな。」

モーガンも席を立つと笑顔で会釈を返す。

「それじゃ!」

言いながらレッヅォは店を後にした。

 

「モーガンは何て?」

帰りの車の中でレッヅォの手下、ムルガは会談の様子を尋ねる。

「十五番街の北はやらねぇとさ。」

あくびをしながらレッヅォが返事をする。

「それで?大人しく帰ってきたのか?」

ムルガが呆れたようにレッヅォを見る。

「野暮な事を言うなよ、今日はおっさん愛娘の誕生日だぜ?それを血に染めるのはあんまりだろう?」

「随分余裕だな。」

「あぁ、モーガン一人殺るのに慌てる事はない、今日は無事に帰してやるさ…ただ…。」

そこで言葉を切るとレッヅォは鋭い目付きと表情で言葉を続ける。

「明日は死んでもらう…。」

それを見届けてムルガは笑みを浮かべて頷いた。

 

翌日の夕暮れ時、十五番街の商店通りを二台の高級車が走り抜けていた。

前方を走る一台は護衛の手下が、後ろの車にはモーガンとその幹部二人と運転手がそれぞれ乗っていた。

交差点の赤信号で停車し、青に変わり動き出そうとするその瞬間、横から猛スピードで走ってきたトラックが前方の車の真横に追突した。

「なんだ!?」

後ろの車でそれを見ていたモーガンが驚きの色を浮かべていると、トラックの荷台からサブマシンガンを持った男が五人飛び出し、追突され左側が潰れた車の周りを取り囲む。

追突された車からも右側のドアから護衛の手下達が拳銃やサブマシンガンを持って出てきた。

車を盾にして銃を構える、トラックから現れた者たちと撃ち合いが始まった。

モーガンの手下達が次々と撃たれ倒れていく、トラックから現れた連中の中にも撃たれて倒れるものがいた。

「ボス!相手の残りは二人です!我々が殺ります!」

銃を抜いてモーガンの幹部が車を降りようとしたその瞬間、後ろから激しい衝撃があった。

後ろから追突されたのだ、モーガンと幹部達は首を押さえながら後ろを向く、そこには黒塗りのワゴン車があった。

驚く間もなくワゴン車の運転席と助手席のドアが開いて人が降りてきた、それは銃を持ったレッヅォとムルガだった。

「レッヅォ!?」

モーガンが驚きと怒りで目を見開く。

「殺れぇ!あいつらを殺れぇえ!」

自分も銃を抜きながら幹部達に命じる、幹部達も車を降りると一人は後ろのトラックから現れた刺客を、もう一人はレッヅォ達を撃とうと銃を構える。

しかし、引き金を引くまもなくレッヅォに撃たれて倒れる。

モーガンも銃を握って車を飛び出すと、レッヅォに銃を突きつける。

「レッヅォ!なんの真似だこれは!?」

額に血管を浮き立たせてモーガンが叫ぶ、その首の付け根をレッヅォが撃ちぬいた。

「!?」

左手で血の吹き出す首筋を押さえながらモーガンは地面に膝をついた。

レッヅォはさも余裕そうに口笛を吹きながらモーガンに歩み寄る。

「モーガンさん、昨日は楽しかったかい?」

返事の変わりにモーガンが銃を突き出すとそれを蹴り上げる、モーガンの銃は弧を描いて車の反対側に飛んでいった。

「さすがに誕生日をパパの命日にしちゃ娘さんが可哀想だと思ってね!今日にしたんだ!」

嘲笑うかのようにウィンクをしながらレッヅォはモーガンの顔に銃口を向けるとゆっくりと激鉄を下ろした。

モーガンは左手で血の溢れる首筋を押さえ、顔にあぶら汗をかきながら目を見開いてレッヅォを睨みつける。

「レッ…ヅォ…!」

次の瞬間、モーガンは足元に隠したナイフを抜き出し、レッヅォに刺しかかろうとしたが、同時にレッヅォの銃が火を噴いてモーガンの顔面を撃ちぬいた。

「悪いけど北はもらうよ?」

口元に笑みを浮かべて銃を懐にしまった。

その場を立ち去ろうとした時、ふとモーガンの亡骸の側に一枚の紙切れが落ちているのが見えた。

しゃがみこんで拾い上げるとそれはピンク色の動物の模様の入った小さな便箋に子供の文字で次のように書いてあった。

「パパ、たんじょうびのプレゼントありがとう!」

その下には恐らく娘本人とその父親モーガンの顔と思しき絵が描かれていた。

「…。」

険しい表情でそれを見つめるレッヅォ、その一枚の紙切れに自分が今しがた殺した男が一介のマフィアのボスであると同時に五歳の少女の父親でもある事実をまざまざと突きつけているように思えた。

「レッヅォ!おいレッヅォ!」

ふと我に帰って振り向くとムルガが焦りの表情でレッヅォの肩を掴んでいた。

「なにやってんだ!早く逃げねぇとサツが来るぞ!」

「あぁ…そうだな!」

慌てて便箋をポケットにねじ込み、ムルガや生き残った手下達と共にワゴン車へ乗り込むとその場を後にした。

車中でレッヅォは複雑な表情を浮かべていた。

「モーガンの野郎、あっけなかったな!」

ムルガが上機嫌で話しかける。

「…そうだな。」

「どうした?難しい顔して?」

「…なんでもない…。」

ポケットの中でさっきの便箋を握り締めていた。

この世には銃弾よりもナイフよりも、深く突き刺さるものがあることをかみ締めながら。

 第四話「忠告」

 

それから二時間後、銃撃のあった十五番街の交差点では警官たちが道路を封鎖し捜査に当たっていた。

そこへ月影街市警本部組織犯罪課のチャン警部が部下数名を連れてやって来た。

「一昨日は十二番街で銃撃、そして今日は十五番街で…この街は戦場か?」

現場を一通り見て回り、鑑識から報告を受けながらチャン警部は呟く。

「えぇ、おまけに今日の被害者はこの辺りを縄張りにしていたモーガンですからね…やったのはどこの誰でしょうか?」

部下の巡査部長が尋ねるとチャン警部は鼻で笑いながら答える。

「この辺でモーガンを手にかける奴なんて一人しかいない、レッヅォだよ!」

「あの『十魔のレッヅォ』ですか?まだ若いのに数年で這い上がったっていう。」

「そうだ、こんな交差点で派手に撃ち合いを繰り広げるような奴だ、それに見てみろ…。」

そう言ってチャン警部はモーガンの死体が入った袋に近づくとそれを開ける。

「やっぱり、首筋に一発、死なない程度に撃ちこんである!奴の、レッヅォの殺り方だよ。こうやっていたぶってからとどめをさすんだ…正気じゃない。」

「えぇ!じゃあ、レッヅォ自らモーガンを殺ったって事ですか!?」

「あぁ、そういう事になるな…。」

「なら、目撃証言で奴を有罪に持ち込めますね!幸いここは人通りの多い場所だ、夕暮れだったとはいえ奴の顔を見た人も多いでしょう!」

しかし、チャン警部は死体袋のチャックを閉じながら首を横に振る。

「それが駄目なんだ、さっきから所轄の刑事たちがこの辺りの通行人や周りの商店などに訊き込みに行ってるが、誰も容疑者の顔を見た者はいないというんだ。」

「そんな馬鹿な!」

「君は組織犯罪課に来てまだ日が浅いから分からんだろうが…マフィアがらみの事件というのはこういうものさ…皆知ってるんだ、モーガンが死んで、この辺りの裏の支配者が誰に代わったのかを…だから誰もが口を閉ざすんだ、『銃声は聞いた、しかしすぐに店の奥に避難したので顔は見ていない』道端にいた者は『銃声を聞いてすぐに地面に伏せた、怖くて顔を覆っていたので見ていない』ってな…怖いんだろうよ、レッヅォの報復が…。」

「そんな…。」

「これが月影街だよ、巡査部長。」

 巡査部長は言葉を無くして立ち尽くしていた、それを励ますようにチャン警部は声を掛ける。

「心配するな、奴は必ず挙げる!十五番街を丸ごと自分の物にして気も緩んでいる頃だろう、若造の事だ、そのうちボロを出す!そこを一気につついてやるさ!」

 

翌日の昼過ぎ、月影街八番街のとある通り沿いにある古めかしい古書店『半月堂』へ黒影は訪れていた。

入口を入ると年代物の古書が並べられた本棚の間を通り奥にいる老人へ声を掛ける。

「よお、じいさん!いい本は手に入ったか?」

親しげに声を掛ける、『いい本は手に入ったか?』はこの店のもう一つの顔、裏社会の情報屋に用がある者が使う暗号だった。

老人は黒影を見ると笑顔を浮かべ側にあったスクラップブックを広げる。

「こんなもんかな?」

そこには三日前の十二番街での銃撃事件、黒影が狭い通りで刺客四人を迎え撃った事件の新聞記事がスクラップされていた。

「あぁ、俺だって分かったのか…。」

黒影が罰の悪そうな顔を浮かべる、それを見て老人は笑顔を浮かべて答える。

「当たり前だ、お前のやる仕事はすぐに分かる。」

黒影は気まずそうな顔を浮かべながら尋ねる。

「それで?警察や死んだ奴らの仲間はどんな動きだ?」

「死んだ連中は先月お前さんが始末した男の手下どもで、組織自体がすでに壊滅しているから報復の心配もない…一方、警察だが…これのお蔭で警察の関心も逸れたみたいだな。」

言いながら老人はスクラップブックのページをめくる、そこには昨日の十五番街の交差点で起きた銃撃事件の記事があった。

「あぁ、俺も今朝の新聞で読んだよ、十五番街を拠点にしていたモーガンが殺られたんだろ?それも結構派手な襲撃だったみたいだな!」

記事を覗き込みながら黒影が答える。

「そうだ、市警本部の組織課も乗り出しての大騒ぎ!しばらくはこれで警察は大忙しじゃろうな。」

「そうか、それは好都合だ!」

警察の目がよそに向いたので黒影もほっとした表情を浮かべる。

「そうだな、金にもならん殺しで警察に追われてはつまらんしな!」

鼻で笑いながら老人はスクラップブックを閉じると「茶、飲むじゃろ?」と行って一旦奥へ引っ込むと湯のみと茶菓子を持って戻ってきた。

二人分の茶をそそぎ菓子を分ける、老人にとって孫ほど歳の離れた黒影とこうして茶を飲みながら世間話をするのが楽しみの一つだった。

茶を飲みながら他愛のない世間話をしていると、ふと黒影が何かを思いつめたように黙る。

「なぁ、じいさん…もしもさ…。」

「どうした?」

「俺が人を撃っているところを誰かに見られたら…どうなるかな?」

老人は茶を噴き出しそうになるのを抑えながら目を丸くする。

「お前…まさか誰かに見られたのか!?」

黒影は慌てて誤魔化す。

「いや…例えばの話しだよ?」

「馬鹿もん!どうなるもなにも、そんなもん見られたらサツに密告されるのが落ちだろう!」

「やっぱ、そうかな…。」

黒影は目を伏せる。

「でも…見た人が警察に言わなかったら?…それは何故だと思う?」

「まったく!駆け出しの三流でもあるまいし、そんなヘマしおって!」

「いや!だから例え話だって!」

「いいか?黒影…。」

老人は湯呑みを置くと、真剣な表情で黒影を見る。

「その目撃者がどういうつもりで密告しなかったのかは分からん、恐らくは面倒に巻き込まれるのが嫌だった、或いは報復を恐れたか…いずれにしろ今回は黙っていてくれたから良かったものの…。」

「…。」

俯く黒影をさらに厳しい目で見据え、重い口調で続ける。

「本当なら目撃された時点でそいつも消すべきだ。」

黒影は俯いたまま呟くように答える。

「そうか…。」

「当たり前だ、お前は『殺し屋』だろう?」

「…。」

「重々承知とは思うが、裏社会は遊び半分では生き延びれんぞ?」

「…分かってる…つもりだよ…。」

老人はため息をつくと、残りの茶を飲み干しさらに続ける。

「当ててやろうか?そいつは堅気だろ?それも若い女だ、違うか?」

「…!」

黒影は思わず顔を上げ動揺を浮かべる、老人はやれやれといった表情で首を横に振ると諭すように続ける。

「黒影…お前は強い、わしはこの裏稼業をやって数十年経つが、お前ほどの腕前の殺し屋を見た事がない…誰が相手だろうと、何人が相手だろうと、お前は必ず勝って生き延びる。」

「ただ…。」

と言って老人は言いにくそうに言葉を続ける。

「お前は甘い…非情になれない…相手が裏の者、武器を持った者、自分に明確な殺意を持った者なら戦えるのに、それ以外の人間には非情になれない…。」

「…。」

またもや俯き苦悩の表情を浮かべる黒影に老人は続ける。

「その甘さが、いつかお前の命取りになるかも知れん…。」

重い沈黙が続いた、しばらくして黒影は俯いたまま苦笑いを浮かべると呟やくような声で答えた。

「その台詞…昔もある奴に言われたよ…。」

「だろうな。」

老人は苦笑いを浮かべる。

「…まぁ、殺し屋としては大甘の甘ちゃんだが、人間としてはそんなお前が嫌いではない。」

そう言いながら優しい笑顔を浮かべ黒影の湯呑みに茶を入れる。

「堅気の女の子は殺したくなぁい!なんて甘い戯れ言を通したいなら次からは誰にも見られんようにする事じゃな!」

そう言って老人は笑いながらスクラップブックで黒影の頭を小突く、黒影も思わず頭をおさえ苦笑いを浮かべる。

「そうだな…。」

そそがれた茶を飲みながら黒影は気恥ずかしそうに続ける。

「久しぶりだな、じいさんに怒られたの…。」

「まったく!お前がいつまでもひよっこでは安心してあの世に行けん!」

そう言って茶をぐいっと飲み干す。

「まぁ、失敗はとりあえず置いて、たまには仕事を忘れて楽しんだらどうだ?」

老人はさきほど少しきつく言い過ぎたのが気まずいのか、やけに明るい口調だ。

「楽しむって?」

「忘れたのか?十月ももう後半だ、そろそろ『十魔の宴』だろう?」

「あぁ…ハロウィンな…。」

「最近の若いもんはそんな呼び方をする!月影街では昔から十魔の宴とそう呼んできたものだ。」

「あぁ、らしいね。」

「この街では一番大事にされてきた祭りだ、十月最後の三日間はあちこちの広場や通りで仮装して集まり、出店やらダンスパーティー、楽団が来て演奏も見せてくれるだろう?」

「なんか派手にやってるね。」

「馬鹿もん!他人事みたいに言うんじゃない!そういうのにお前も参加するんじゃ!」

「はぁ?仮装してダンスでも踊れってのか?勘弁してくれよ!」

「別に仮装までせんでもいい!ただ、そういう場に行けば少しは気分転換になるじゃろ?」

「そうかな…?」

「あぁ!そうだ!いい女と知り合えるかもしれんぞ?」

老人はそう言ってにやける、さっきまでは厳しい顔で説教をしていたのがまるで別人のようだ。

「あるかよ、そんな出会いなんて!」

黒影は鼻で笑って首を横に振る。

「あるとも!…実を言うとわしもな、若い頃、死んだかみさんと知り合ったのは他でもない十魔の宴なんじゃ!」

「じいさんが!?」

黒影は目を丸くして驚く、老人は構わず自慢げに続ける。

「そうとも!あれはまだ二十歳そこそこの若い時分、十二番街の広場でな!わしは吸血鬼の仮装、かみさんは魔女の仮装をしとった!綺麗でなぁ…一目ぼれだった!」

老人は過ぎ去りし青春の日を思い起こしながら遠い目で天井を眺めている、黒影はその様子に思わず噴き出した。

「まじかよ!じいさん仮装してたのか!」

黒影は腹を抱えて笑い転げる、老人は少しむっとしたように顔をしかめる。

「人の美しい思い出を笑う奴があるか!…とにかく、十魔の宴はそういう人生の思わぬ転機にもなるんじゃ!お前も騙されたと思って行ってみぃ!」

何度も頷きながらそう勧める老人に、黒影は笑い涙を拭きながら答える。

「なんだよ、さっきは女相手でも容赦するな!殺し屋としての自覚を持て!みたいな説教しといて、今度は祭りで彼女を作れって?言う事ころころ変わりすぎだろ!」

笑いながら文句を垂れる黒影に老人は眉間にしわを寄せたたみかける。

「仕事は仕事!私生活は私生活!どっちも充実させてこそ一流の男じゃろうが!」

「俺はそんなに器用じゃないよ。」

「器用、不器用の問題じゃない!心がけの問題だ!いいからたまには年寄りの言う事聞いてみぃ!…そうだ、ここいらだと十二番街の祭りが賑やかで良いぞ!わしとかみさんが出会った場所だしな!」

十二番街という地名を聞いて黒影の表情が一瞬暗くなる、三日前、撃ち合った場所、そしてルミナにその姿を見られた場所だ。

「そこは…。」

「トラウマのある所なら尚の事!行って楽しんで、いい思い出に変えてこい!」

老人は首を何度も縦に振る。

「…三日前に殺しをやった場所に戻るのはまずくないか?」

「言っただろう?昨日のモーガン殺しで警察は気を取られてる、心配するな!」

「そうか…。」

黒影はまだ迷っているようだ。

「わしが大丈夫と言ったら大丈夫だ!十二番街、中央広場、確か今日の夕方から祭りは始まってるはずだ。」

「そうか、分かった!なら行ってみるよ!…ただし…。」

黒影は眉間にしわを寄せると老人をじっと見て言い放つ。

「俺は絶対仮装はしないからな!」

「ほぉ、それは残念!吸血鬼、似合いそうだがな!」

老人は茶化すように返す。

「勘弁してくれ!俺はただ出店の屋台に晩飯を食いに行くだけだ!」

首を横に振りながら情報料を払うと席を立つ。

「お茶ごちそうさん!色々ありがとう!悩んでたけど話したら気も晴れたよ!祭りも行ってみる、またな!」

そう言って手を振りながら店を後にした。

話しこんでいたため、いつの間にか夕方近くになっていた、 十月の後半、日が落ちるのも早くなってきたようだ。

黒影は老人がしきりに勧める十魔の宴に行くべきかどうか悩んでいた。

「十二番街…。」

なぜだろう、プロらしからぬミスをした場所だからか、抵抗を覚える。

その一方で、なぜかしきりにあのカフェの女店主、ルミナの顔が頭をよぎっていた。

「広い祭りで、会う訳ないよな…。」

そう思いながら、自然と足は十二番街へと向かっていた。

 第五話「十魔の宴」

夕方過ぎ、日は沈み、空はまだ少し青みがかっているが街灯の明かりだけが街を照らしてる。

十二番街の中央広場はハロウィン…月影街では古くから『十魔の宴』と呼ばれる祭りのために十月の終わりまでは夜通し開放され、沢山の夜店が立ち並び、集まった大勢の人々でごった返している。

皆、色とりどり様々な仮装に身を包んでいる、古典怪奇映画に出てくる怪物、吸血鬼や人造人間、狼男に全身を包帯で巻いたミイラ男、または悪魔や死神に魔女、少し趣向を凝らして海賊や西部劇のガンマン、娼婦のような格好をした若い女性、幼い子供はコミックやアニメのヒーローになりきって得意げだ。

大人も子供も男も女も皆それぞれの仮装に身を包み、役になりきっている、少なからずいるが、ここでは普段着の方が逆に浮いてしまうようだ。

夜店も様々な料理、酒、射的やルーレットで遊ぶ店もある。

どこもカボチャで作ったジャック・オー・ランタンの中にロウソクを仕込んで明かりにしている。

無数の夜店の明かり、そこかしこにあるジャック・オー・ランタン、百鬼夜行の怪物の群れ…禍々しく怪奇的、それでいて何ともいえない熱気に満ちた妖しい雰囲気が漂う。

月影街の人々はクリスマスよりも新年よりもこの『十魔の宴』を盛大に祝う、世界一の魔都と呼ばれるこの街ならではといえるだろう。

「月影街らしいな…。」

広場の人ごみを歩きながら黒影はほくそ笑んでいた。

この祭りこそは月影街の闇に満ちた内面を象徴しているのかもしれない。

「どこの屋台で飯にしようか…。」

食欲をそそる香りがあちこちの夜店から漂ってくる、値段もほどよく、二十ゼルもあれば食事に酒もつくだろう。

とりあえずは一番目をひかれた屋台で串物の肉料理とビールを買う、香辛料の利いた肉料理に舌鼓を打ちながらビールを飲み干す。

空はすっかり暗くなり、いよいよ祭りの明かりだけが辺りを照らし、怪物の群れも数を増やしている。

二杯目のビールを飲みながらぼんやりと道行く怪物たちを眺める、祭りの熱気も手伝って心地よい酔いが回っている、どこからか聴こえてくる楽団の奏でる妖しげな音色が耳を楽しませてくれる。

「来て良かったのかもな…。」

半月堂の老人に勧められて渋々来たものの、思いのほかこの場の雰囲気を楽しんでいる自分に気付く。

今この瞬間だけは嫌なことも忘れられるかもしれない、自分が何者で、どれほどの罪を背負ってきたか、血塗られた自分の過去全て…今ここにいるのは『紅眼殺手の黒影』と呼ばれる暗殺者ではない、いや、そんな存在さえも今は忘却の彼方にある、ここにいるのは祭りを楽しむ一人の若者なのだ。

煙草に火をつけゆっくりと煙を吸い込む、ぼんやりと辺りを眺めながら煙を吐き出していると、ふと足元で何かが彼の脚を突いている。

「トリック・オア・トリート!」

見ると悪魔の格好をした十歳くらいの少年が黒影を槍で突いている。

「ん?」

見下ろすと悪魔坊やは尚も繰り返す。

「トリック・オア・トリート!!」

「え…?」

「なんだよ、お兄ちゃんお菓子持ってないのかよ!」

「お菓子…?」

「そうだよ!ハロウィンって言ったらお菓子だろ?早くくれよ!いたずらするぞ!」

黒影はきょとんとしながら辺りを見回すと、なるほど確かに怪物の格好をした幼い子供達は『トリック・オア・トリート』と唱えながら周りの大人たちに菓子をせがんでいる。

「そうか、ハロウィンっていったらそうだよな!」

「そうそう!早くちょうだい?」

「ただ、あいにくと持ってないんだ…ごめんな…。」

黒影は弱ったという顔で断ろうとしたが、相手はさすが悪魔、食い下がる。

「だめだよ!どれだけお菓子あつめれるか、友達ときそってるんだから!」

どうやらあげるまでは勘弁してくれなさそうだ、少年は槍を黒影の胸元にまで向けている。

(参ったな、こいつは手ごわい…。)

さすがの黒影も目の前の子供にはすっかりお手上げの様子だ。

「わかった、わかった、ならこうしよう!どこか菓子を売ってる屋台はないかな?そこで買って君にプレゼントしよう!それなら魂まで取らないでくれるだろ?」

「やった!なら、あそこがいいな…この近くに魔女がやってる夜店があるよ!あそこのパンプキンパイが食べたい!」

「よしよし、わかった!ならその魔女の店とやらに行こう!」

そういうや否や、少年は黒影の手を引っぱって目的の店へと案内を始める。

(無邪気だな…子供って…。)

思わず顔がほころぶ、普段幼い子供と接する事などない黒影にとって、お菓子ひとつにこれほど夢中になっている子供の姿はとても眩しかった。

人ごみをすり抜け黒影の手をぐいぐい引っ張りながらある屋台の前まで着くと少年は立ち止まって振り返る。

「ここだよ!」

屋台の看板には『魔女とお菓子の家』と書いてあり、童話に出てくるお菓子の家と魔女が描かれている。

「魔女のおねえちゃぁん!パンプキンパイひとつちょうだい!」

屋台の奥には商品のパイを用意する魔女の格好をした売り子の後ろ姿が見える。

(魔女の…おねぇちゃん?)

魔女と言うからてっきり年老いた老婆を思い描いていたが、どうやら若い女のようだ。

「はい、ありがとうね!」

笑顔で振り返る魔女姿の売り子の顔を見て黒影は一瞬心臓が止まる思いがした。

「…!」

若い魔女も黒影の顔を見て驚きのあまり声も出ないようだった。

黒いとんがり帽子を被り、ノースリーブの黒いロングドレスを着た、若く美しい魔女…それは『フトゥール』の店主・ルミナだった。

 第六話「再会」

 

二人は一瞬時が止まったようだった。

黒影は目を見開いたままルミナを見ている、ルミナも叫び声を抑えているのか口元に手を当てて目を見開いている。

「ん?どうしたの?」

二人の只ならぬ様子に少年はきょとんとした顔で二人を見上げる。

「あ!わかった!お兄ちゃん、魔女のおねぇちゃんが美人だから見とれてるんだろう!」

少年は笑いながら黒影を茶化した。

「え…あぁ、いや…別にそういうんじゃない…。」

やっと我に返り黒影は首を横に振って誤魔化す。

「ちょ、ちょっとルイト!何言ってんの!」

ルミナは真っ赤な顔で少年・ルイトを叱りつける、しかしルイトはルミナの表情を見上げるとにやけた顔を浮かべる。

「あれぇ?おねぇちゃんもまんざらじゃない?わぁ、すげぇ!恋のめばえた瞬間だ!おれ、いいもん見ちゃった!」

「ルイト!」

ルミナが困った顔俯いている、この少年は二人がなぜこれほど狼狽しているか想像もつかないだろう。

「おい、少年!大人をからかうのもそのくらいにしな?それより早くパンプキンパイ食べなよ。」

黒影は苦笑いでルイトを促す、少年は思い出したようにルミナからパンプキンパイを受け取ると、

「ありがとうね!…お幸せに!」

とまたも茶化しながら走り去っていった。

「まったく…。」

苦笑いで見送りながらふと、ルミナと二人だけになった事に気付く。

「…あれ、弟さん?」

沈黙に耐え切れず、当たり障りのない話をしてしまう。

「え…いや、ちがうわ、近所の子供なの、よく店に来てお菓子を買っていくわ。」

視線を逸らしながらもルミナは答える、二人ともまるでこの前の事がなかったかのような素振りでやり過ごそうとしている。

「そうか…あ、さっきのいくら?」

財布を出しながらルミナにパンプキンパイの代金を払おうとする。

「え…あぁ、四ゼルよ。」

相変わらず視線を逸らしながらルミナは黒影の出した金を受け取ろうとして一瞬手が止まる。

この前『フトゥール』で金を受け取ったときに見えた残像…血みどろの恐ろしい光景…それがまた目に浮かぶのではないかと、彼の手に触れるのを一瞬ためらってしまった。

「…どうしたの?」

黒影もルミナの異変に気付いた、そういえばこの前も金を渡すときに彼女はこんな様子だった。

「…いえ、なんでもないわ…ごめんなさい…。」

消え入りそうな声で俯いたまま、ルミナは覚悟を決めて金を受け取る、相手がどんな人間か知っている、もう何が見えても驚かないようにしよう。

しかし、指先がすこし触れたにも関わらず、ルミナの目に残像が浮かぶ事はなかった。

「…。」

ルミナはそっと相手の顔を見上げる、そこには心配そうな顔でルミナの表情を覗き込む黒影がいた。

「ありがとう!」

しっかりと金を受け取ると笑顔で応える、黒影もそれを見て安心した表情に変わった。

その時、ふと黒影の背後に二つの気配が忍び寄った、続いて腰元に何かが突きつけられる。

「!?」

何事かと振り返ると元気の良い声で

「トリック・オア・トリート!」

と聞こえる。

「え…!?」

見るとそこには十歳くらいの二人の子供、一人は海賊の格好をした少年、もう一人はガンマンの格好をした女の子、二人とも手に剣や銃を持って黒影を威嚇している。

二人の向こうを見るとルイトがすまなさそうな表情で黒影を見ている。

「ごめん…!友達に話したら、自分達も買ってもらうって着いて来ちゃった!」

「お前なぁ…。」

黒影は苦笑いを浮かべる、悪魔に連れられ魔女の店へ、そして今度は海賊とガンマンの襲撃を一度に受けている、とても敵いそうにない。

「わかった、わかった、買ってやるから!」

観念してそう言うと海賊少年とガンマン少女は互いの顔を見合わせ喜んでいる。

「さっきのパンプキンパイ二つ…いや三つ追加で!俺も食べてみよう。」

ルミナの方を向いて注文していると後ろからルイトのワザとらしい声が聞こえる。

「おれ、のどかわいちゃったなぁ…。」

黒影は思わず額を抱えるも、さらに観念した様子で追加注文をする。

「…後、ジュースも三つね…俺はホットコーヒーを飲むとしよう…。」

子供達にすっかりたかられている様子を見てルミナは思わず噴出してしまった。

「…ごめんなさい、すぐに用意するわね!」

困惑している黒影を尻目にルミナは笑を必死にこらえるように準備を始める。

「あなた、やられたわね!あの子達は近所でも評判の悪がきトリオなのよ?」

「そうなのか!?」

「うん、きっと一番カモになりそうな大人にたっぷりトリック・オア・トリートしようって最初から決めてたのよ。」

溢れる笑いを堪えきれない様子でルミナは説明する。

「つまり、俺がその『いいカモ』だったと?」

「えぇ、そうなるわね。」

とうとう耐え切れなくてルミナは腹を抱えて笑ってしまった、それを見て黒影は頭を抱えて苦笑いをしている。

(不思議な人…。)

笑い涙を拭いて、ジュースやコーヒーを淹れながらルミナはふと考えていた。

この間の、あの細道での彼と、今目の前にいる彼はまるで別人のようだ。

黒影もほっとした気分だった、すっかりたかられてしまったが、この悪童達のお蔭でルミナとの間に緊張感はなくなった。

「お待ちどうさま!」

パンプキンパイと飲み物の入ったバケットを受け取り金を払う、子供達は待ちかねていたようにパンプキンパイとジュースにありつく。

黒影もコーヒーを飲みながらパンプキンパイを食べてみた、カボチャの甘みとパイ生地の香ばしさがほどよく絡み合い上品な味わいだ。

「これ美味いね!」

思わずルミナを振り返る、その様子に彼女はまたもぷっと吹き出しながら嬉しそうに微笑む。

「ありがとう!」

どこか憂いのある透き通る瞳と、柔らかい笑顔、黒影は思わず視線を逸らしてしまった。

「そういえば、なんで魔女の店なの?」

また間抜けな質問をしてしまった、すると彼女はほんの少し表情を曇らせる。

「…わたし、あだ名が『魔女』だから…。」

「魔女…?」

「店でたまに占いもしているの…それがたまたまよく当たるからって…。」

「そう…。」

まずい事を訊いてしまっただろうか、黒影は話題を変えようとしたが、適当な話が見つからない。

「またダメだったぁ…。」

パンプキンパイをたいらげ、どこかで遊びに行っていたガンマン少女が残念そうな顔で戻ってきた。

「どうしたの、レア?」

ルミナが心配そうに尋ねると、レアは泣きそうな顔で答える。

「あのね、向こうで射的があったの、わたしどうしても欲しいお人形があって…でもちっとも当たらないの…。」

「ルイトとバズは?」

「だめ、今さっきやってたけど全然当たらないの…。」

「そう…。」

「そうだ!ルミナおねぇちゃん射的は得意?」

「えぇ、だめよ、やったことないわ!それにお店あるし…。」

「そう…あ!」

黒影は一瞬いやな予感がしたが、予想通りレアの希望に満ちた目が彼を見上げている。

「お兄ちゃん!射的は得意?」

「…まぁな…。」

得意も何も彼にとって銃は商売道具だ、もっとも射的に使われるコルク銃では少し勝手が違うだろうが。

「ならお願い!お人形とって!」

両手を合わせて泣きそうな顔で頼み込むレアに黒影も断りようがなかった。

 

射的の夜店はルミナの夜店からそう離れてはいなかった。

黒影とレアが着くころ海賊の格好をしたバズが最後の一発を撃ち終わるころだった。

ぽんと乾いた音をたてながらコルクの弾は目標とは違うあさっての方向へと飛んでいってしまう。

「はい、残念!」

店の親父がにやにやと笑っている、バズは凄く残念そうにコルク銃を置くと済まなそうな顔でレアを見る。

「ごめんなレア…だめだった…。」

「大丈夫!助っ人を呼んだから!」

そう言って黒影の背中を押してくる。

「えぇ、お兄ちゃん出来んの?」

「まぁな…。」

そう言うと、黒影は金を払いコルクと銃を受け取る。

「欲しい人形ってどれ?」

「あの一番上の段の黒いウサギの人形。」

「わかった。」

黒影は銃の先にコルク弾を詰めると目標に向かって照準を定める…はずだが。

「…おい、なんか銃の先、ずれてない?」

ルイトがバズにそっと耳打ちする、確かに黒影の持つ銃の先は狙いの人形よりほんの少し斜め下を狙っている。

「…こりゃ、俺達よりへたかもな…。」

肩を落としてバズが答える。

しかし、黒影は平然と狙いを定める、目標よりほんの少し斜め下…それこそが弾が当たる場所なのだ。

実銃でもバレルの形状などによってほんの少し弾道にずれが出ることがある、精密な工業製品であっても避ける事のできないそれを『癖』と呼ぶ、そしてこのコルク銃はその『癖』が以上に大きく、まっすぐに狙っても決して弾は的に当たる事がない。

(この屋台の親父、あんまり品のいい商売してないようだな。)

子供達にわざと癖の大きい銃を渡し、的を外させ、遊び賃だけせしめようという魂胆なのだろう。

(相手が悪かったな。)

さっきのバズが撃った残り一発の弾、それが描いた弾道を見て黒影にはこの銃がどういう癖を持ったものなのかが分ってしまった。

そこに狙いを定め引き金を引く、ぽんという音がしてコルクは勢いよく飛び出していく、そして黒いウサギの人形の額に当たりそれを倒した。

「やったぁ!」

レアが大喜びで飛び跳ねる、ルイトとバズもハイタッチをして喜んでいる。

店の親父は唖然とした顔で黒影を見る。

「ルイト、バズ、欲しいものは?」

黒影が口元に笑みを浮かべて二人に尋ねる。

「おれ、あの死神の人形!」

「おれはあのトロフィー!」

それを黒影は次々に当てていく、店の親父は頭を抱えこんでいたが、やがて諦めた様子で景品を子供達に渡した。

「参ったな、あんた軍で狙撃でもやってたのか?」

「いや、ただ昔から射的が得意なだけだ。」

そう言って銃を親父の手元に返す。

「これに懲りたら子供相手にせこい商売はしないことだな。」

親父の目を睨み付けながら黒影は言い放つ、店の親父は思わず肩をすくめる。

 

ルミナの屋台まで戻ってくるとレアは嬉しそうに黒いウサギの人形を見せる。

「ほら、おねえちゃん!とってもらった!」

「良かったわね!」

ルミナも笑顔を浮かべる、ルイトとバズもそれぞれ戦利品をルミナに見せる。

「凄いんだよ、お兄ちゃん一発で当てちゃうんだもん!」

「屋台のおっちゃん驚いてたよね!」

子供達は各々の戦利品を嬉しそうに見せ合っている。

「凄いね、射的得意なの?」

ルミナは笑顔で黒影にそう問いかけて思わずはっとした。

思えばこの男は三日前に銃撃戦をしているのだ、銃の扱いには慣れているのだろう、屋台の射的など彼にとっては造作もないことなのだ。

「まぁな…。」

黒影も気まずそうに答える。

「…ごめんなさい…。」

「いや、いいんだ…。」

また二人の間に気まずい沈黙が広がる、しかし、それを破ったのはやはり子供達だった。

「ねぇねぇ!向こうで手品があるらしいよ?」

ルイトとバズが黒影の腕を引っ張る、どうやら彼らは黒影にすっかり懐いたようだ。

「手品?」

「うん!毎年色んな場所のハロウィン広場で手品やってるんだって!今年は十二番街にも来てくれたんだよ!」

「へぇ、それは凄いな。」

「行こうよ!」

レアも黒影の上着を掴んで連れて行こうとする、その様子にルミナはまたも噴出しそうになった。

「おねぇちゃんも行こうよ!」

ルイトが声をかける。

「え、でも…。」

「お菓子も飲み物も大分売れたじゃん、そろそろ大丈夫でしょ?」

言われてみれば予定の分は売り切っている、祭り客達も大半は腹ごしらえを終えて楽団の演奏やダンスの余興を観ている、ここで一度休憩をはさんでもよさそうだ。

「そうね、ちょっと休み時間にするわ。」

そう言うとルミナは屋台の明かりを消し、看板を下げる、両隣の屋台に留守を告げると黒影達と共に手品見物へ向かうことにした。

 第七話「魔術師」

広場の中央にはいくつかの余興をやっているグループがある、楽器や歌を披露するグループもあれば踊りを披露するグループもある。

その中の一つに手品を披露するものがいた。

上下白と黒のストライプ模様のスーツを着込み、頭にはこれまたストライプ模様のシルクハットを被り、白塗りの顔に目元には十文字の模様が施されている。

手品師と道化師の中間にいるような一種独特の雰囲気を醸し出した男は集まった観衆の輪を見渡すとシルクハットを取り深々と挨拶をする。

「お集まりの皆様方、ハッピーハロウィン!今宵は十魔の宴…怪奇の夜にふさわしく、世にも不思議な魔術をご覧にいれましょう!」

そう言ってまたも深々と礼をする。

「サーカスの道化師みたいだな。」

黒影が耳打ちするとルミナが可笑しそうに微笑む。

「そうね!でも、雰囲気があっていいわ!」

子供たちもわくわくした様子で見守っている。

「ではまず、こちらをご覧ください。」

魔術師はシルクハットの内側を観衆に向け、なにも仕掛けがない事を見せるとそこへ手を入れる、そして取り出した手には白い鳩が握られていた。

拍手が起こりはした、しかし、ありきたりな手品のせいか観衆は少しがっかりした様子だった。

しかし、その様子を見て魔術師は笑みを浮かべると鳩を勢いよく放つ、鳩は観衆の頭上に円を描くように飛び回っている。

「十魔の宴に平和の象徴、白い鳩はいけませんね…ではあれをこの夜にふさわしい姿に変えて御覧にいれましょう!」

そう言うとシルクハットを掲げ鳩を呼ぶ。

「戻っておいで!」

すると鳩はその声に応えるかのように勢いよくシルクハットの中へと飛び込む、観衆はこれにはどよめきを漏らした。

魔術師はそれを見てまたも笑みを浮かべると懐から一枚のハンカチを取り出すとシルクハットの上に乗せた。

「偽りの鳩よ、その真の姿を現せ。」

そう言ってハンカチを取るとシルクハットの中から数匹のコウモリが飛び出した。

「おぉおおおおおおお!」

観客は思わず驚きの声を上げる、鳩が戻ってきたのも驚きだが何匹ものコウモリがあのシルクハットのどこに隠れていたのだろう。

コウモリたちは羽音をばたばたと鳴らしながらどこかへ飛んで行ってしまった。

「あの子達には暫くの間休暇をやるとしましょう。」

魔術師が礼をすると観客から大きな拍手が起こった。

「凄いな…。」

黒影も思わず感嘆の声を漏らす。

続いて魔術師は懐からトランプを取り出すとシャッフルをする。

「皆さん、トランプの枚数をご存知ですか?…そう、一組五十二枚…しかし、どうやらここには何枚か足りないようです…。」

困ったような顔で地面に素早く並べてゆく、七並べのように上からスペード、クローバーハート、ダイヤ、数字も左から右へと一から順番にキングまで並べるが、そこに何枚かのカードがなかった。

「おや、困りましたねぇ…ハートのエース、ダイヤのクイーン、クローバーの四、スペードのジャック…おまけにジョーカーも二枚足りない…さてはどなたか止めていらっしゃいますね?」

そう言って怪しむような目で観客をぐるりと見渡す、その様子に観客から笑い声が起こる。

「よろしい!ならば私が当ててごらんにいれましょう!カードを止めていらっしゃる悪戯好きな方々を!」

そう言って笑みを浮かべながら観客をまたも見渡す。

その時、魔術師はふと黒影の方を見たようだった、そしてにやりと笑ったような気がした。

「…?」

黒影は気のせいかと思った、しかし、魔術師は自分を見てほくそ笑んだようだった。

すると魔術師の口元が微かに動いた、声を出さず口の動きだけである言葉を言ったように見えた。

「!!」

その口の動きを読んで黒影は思わず息を飲んだ。

「ク・ロ・カ・ゲ」

確かにそう読める。

(あいつ…俺を知っている!?)

黒影に戦慄が走った、なぜあの道化のような魔術師が自分を知っているのか、にやにやと笑う白塗りの男が不気味な存在に見えて仕方なかった。

(…なんなんだ一体…?)

しかし、魔術師はそれに構う事なく観客を見渡し、

「ステッキが教えてくれます、隠されたカードの持ち主を…。」

と言いながらステッキで観客をゆっくりと指しながら突然叫んだ。

「まずはそこのお嬢さん!」

ゾンビの仮装をした若いカップルの女を指した。

「ハートのエース、持ってますね?」

「え…!?」

ゾンビの女の子はきょとんとしている、すると魔術師は近づき女の子が持っているクレープを指差す。

「そんな場所に隠して、お出しなさい!」

そう言うとクレープを取り上げる。

「ちょ、ちょっと!ある訳ないでしょ!」

女の子が慌ててクレープを奪い返す。

「ならご自分でそれを割ってみなさい!」

魔術師が言うと女の子は怪訝そうな顔でクレープを割る、すると中にハートのエースのカードが入っているではないか。

「えぇえ!」

女の子は悲鳴を上げる、隣の彼氏も驚いた様子で彼女を抱きよせる。

「フフ…続いて…そこの可愛らしい坊ちゃん方!」

そう言ってルイト達三人を指差し近づいてくる、彼らも気味が悪いのか少し怯えている様子だ。

「大丈夫、悪いようにはしません…悪魔の坊ちゃんはフードの中、海賊キャプテンとカウボーイガールのお嬢ちゃんはそれぞれ帽子の中に入っていますね?」

そう言って彼らの頭を順番にちょこっとなでる、子供たちは慌ててそれぞれのフードや帽子を外すとそこにカードを見つけるのだった。

「ダイヤのクイーン、クローバーの四、スペードのジャック…これで残すは二枚のみ…ジョーカーです…。」

そう言って黒影達に一旦背を向けるが再び向き直り、

「それはそこの若いお二人がお持ちですね?」

そう叫んで黒影とルミナにステッキを突きつける。

「えぇ…!」

ルミナが困惑の表情を浮かべる、先ほどから常識外れの魔術を見せられ感激より恐怖心の方が強くなってきていた、それはもちろんこの魔術師の醸し出す不気味な雰囲気のせいでもあった。

「さぁ、お出しください…お美しい魔女のお嬢さんはとんがり帽子の中、そして…そちらの黒服のお兄さん…あなたは上着の内ポケットだ…。」

そう言ってにやにやと黒影を見る、どうやらこの男は黒影を弄んでいるようだ。

ルミナはゆっくりと帽子を取るとそこにジョーカーを見つけ息をのむような悲鳴を上げる、そして黒影もまさかと思いながら内ポケットを探ると、そこから果たしてジョーカーが一枚出てくるのであった。

(バカな…!?)

どうやって仕込んだというのか、ルイト達は頭を一瞬触っているので分からなくもなかった、しかしルミナと黒影は彼に触れられてすらいない。

仮にこのショーが始まる前に魔術師、もしくはその協力者が近くに紛れて仕込んでいたとしても、職業柄人の気配に敏感な黒影ならそれに気付くはずだった。

(俺が…こんなものを仕込まれるなんて…。)

激しい驚きと戦慄を覚える、先ほどの口の動きといい、この道化師は一体何者なのか?

「さぁ、これで全てのカードが揃いました!それでは最後の演目と行きましょう!」

そう言って上機嫌そうにステッキを振り回しながら元いた場所へと戻り、地面に広げたカードを全て拾い上げたかと思うとそれを自分の周りに大きな円を描くようにばら撒いた。

「わたくし、一度使ったカードは全て焼き払う主義にございます!今宵は皆さま方に綺麗な炎の円をご覧にいれましょう!」

言い終えるとステッキを地面に力強く突きつけ指を鳴らす、すると彼の周りに環状に散らばったカードが突然勢いよく燃えだした。

魔術師の周りを取り囲む魔法陣のように、炎は激しく燃え上がり辺りを眩ゆく照らした。

観客は激しいどよめきの声を上げる、中には悲鳴に近い叫びをあげる者もいた、皆この数々の不思議な魔術に心奪われ恐怖すら抱いていた。

ひとしきり燃えつきると炎は収まり後にはわずかな燃えかすが残っていた、それもそよ風にあおられどこへともなく消え去ってしまった。

観客は茫然とその様子を見つめる、その沈黙を破るように魔術師の声が轟く。

「皆さま方、今宵はわたくしの魔術をご覧いただき誠にありがとうございます!どうぞ十魔の宴をお楽しみください!それではごきげんよう!」

そう言ってシルクハットを取り、深々と何度も礼をする、観客も割れんばかりの大きな拍手をおしみなく彼に送り続けた。

観客は皆互いに今しがた目にした奇跡にも近い魔術の感想を口にしながら散らばってゆく、魔術師はシルクハットを被りステッキを突きながらその中を歩く。

「な、な、なんか、す、凄かったね!?」

ルイトが震えながら仲間たちに声を掛ける。

「あ、あぁ、中々…だったな…。」

バズも必死に平静を装おうとしているもののやはり声が震えている。

「凄いけど、あの人怖いよぉ!」

レアが今にも泣きそうな声で二人にしがみつく。

そこにまだ青ざめた表情のルミナも加わる。

「わたし、カードが出て来た時は心臓が止まるかと思ったわ…あなたはどうだった?」

そう言って黒影を見ると険しい表情で魔術師の方をじっと睨みつけている。

「ど、どうしたの?」

思わず黒影の顔を覗き込む、すると彼ははっと我に返ったように笑顔を見せ。

「あぁ、凄かったな!俺もたまげたよ!」

そう言っておどけたように笑う。

「喜んでいただけましたか?」

ふと声がしたので振り向くと、そこにはあの魔術師がにやにやとした表情で立っていた。

「…!あぁ、凄かったよ…。」

ほんの一瞬目を離した隙に背後を取られた、やはりこの男はただの魔術師ではない。

子供たちは魔術師が恐ろしいのかルミナの後ろに隠れてしまっている、それを背中で庇いながらルミナも青い顔をしている。

「いい腕前だな?」

黒影が含みを持たせるように言うと魔術師は目を輝かせる。

「それは、どちらの腕前ですかな?」

魔術か、それとも違う何かなのかと言わんばかりだ。

「決まってるだろ?手品だよ。」

黒影が鋭い目つきで魔術師を睨むと彼は顔をしかめこう応える。

「手品ではありません…魔術です!」

「おっと、失礼!魔術な!」

黒影が笑みを浮かべてそう言うと魔術師は何度も頷きながら応える。

「そうです、わたくしは誇りを持って魔術と呼ぶのです!そこをお忘れなく!」

そう言うと魔術師はまたもシルクハットを取り深々と頭を下げる。

「それではごきげんよう!…またどこかで!」

やがて振り返るとどこへともなく消え去って行った。

(…何者なんだ…一体…。)

黒影は遠く見えなくなるその背中を見続けていた。

「ねぇねぇ、気分直しになんか食べようよ!」

レアが黒影の上着のそでを引っ張っている。

「ん?あぁ、そうだな…って、お前ら、まだたかる気か!?」

黒影が驚いた顔をするとバズが呆れたように返す。

「え…?もうここまできたら同じじゃない?」

「はい?お前ら遂に開き直ったな!?」

黒影が呆れたように目を丸くしているのをお構いなしにルイトが先陣を切って歩きだす。

「俺ねぇ、あそこのシチューが食べたい!」

レアとバズも続く。

「おぉ、いいねぇ!ちょっと寒くなってきたし、あったかいの食べたいねぇ!」

そう言って嬉しそうに三人は歩いていく、黒影は仕方なしにその後に続く、ルミナが可笑しそうにその横を歩く。

「すっかりあの子たちの保護者ね!」

「ハハハ…なんとも参ったね…。」

「きっと、甘えやすいのよ!」

「え…?俺が…?」

「うん!なんかわかるもん!」

「そうか…。」

黒影はその言葉に戸惑いと、妙なくすぐったさを感じていた、初めて会った子供たちが自分に屈託なく甘えてくれている、それが妙に嬉しかった。

「わたしも甘えていい?」

「え…えぇ!?」

突然のルミナの言葉に思わず驚きの声を上げる。

「わたしもお腹すいちゃった!なにか奢ってくれる?」

ルミナが上目づかいでおねだりをしている、その様子に思わず笑みがこぼれる。

「もちろん!」

笑顔で返すと手を差し出す、その手をルミナは恥ずかしそうに俯きながら力強く握り返した。

第八話「報告」

 

影街十五番街の一等地に一軒の新しい屋敷があった。

一階の大広間では数名の若い男女が高価な服に身をまとい、酒を飲み音楽に身をゆだねパーティーを楽しんでいた。

その二階の中央にある書斎にこの屋敷の主レッヅォが一枚のカードを手に入ってきた。

部屋の灯りを点けると、背後に部屋の隅に気配を感じる。

「そこで何をしている?」

気配のした方を睨むとそこには白と黒のストライプ模様のシルクハットと上下のスーツを着た男が立っている。

「なんの用だ?マーゴ。」

レッヅォが手にしたカードを見せる、そこにはハートのクイーンが描かれていた。

マーゴと呼ばれた男はシルクハットを取り、深々と礼をする。

「ごきげんよう、ボス!今宵はハロウィンですね!」

不気味な笑みを浮かべてレッヅォを見る。

「実はわたくし、先ほど十二番街の広場にて魔術を披露しておりました、するとそこである方をお見かけしたのです!」

「ある方?」

もったいつけるマーゴに若干いらつきながらレッヅォは先を促す。

「えぇ、『魔女』を見つけました。」

「なに…!?」

レッヅォの顔色が変わる。

「魔女…ルミナか?ルミナがいたのか!?」

 食いつかんばかりにレッヅォはマーゴに問いただす。

「えぇ、間違いありません、ルミナさんです。」

「彼女は元気だったか?」

「えぇ、お元気そうでした。」

「そうか、相変わらず綺麗だったか?」

「えぇ、とてもお綺麗でしたよ?」

レッヅォは満足そうに頷き、夢見心地の表情だ。

「ただ…。」

マーゴがその様子に水を指すように切りだす。

「…なんだ?」

レッヅォもその言葉の先に妙な不安を覚える。

「一緒にいた男が問題ですね…。」

「男…!?」

その言葉を聞いてレッヅォの目に激しい怒りと苛立ちの色が浮かぶ。

「えぇ…黒影です。」

マーゴは笑みを浮かべながらゆっくりと告げる。

「黒影だと!?」

レッヅォの目に激昂が浮かんだ。

「あの紅眼殺手の黒影と呼ばれる殺し屋か!」

「そうです。」

レッヅォは奥歯をかみしめ、鋭い目つきで宙を睨んでいる。

「…二人は恋人なのか…?」

「分かりません、しかし良い仲でしたよ。」

「…。」

レッヅォはまたも宙を睨んだままだ。

「彼女は今何をしている?」

「今宵は屋台を出していたようです、評判のパンプキンパイは飛ぶように売れたとの事…普段は、カフェを営んでいるようです。」

「その場所は?」

「知っています。」

「よし…!」

レッヅォの口元に笑みが浮かぶ。

「この事、まだムルガや他の連中には言うなよ?」

「承知いたしました。」

マーゴは深々と礼をする、レッヅォはまだ暫く宙を見つめ何かを考え込んでいる様子だ。

その時、書斎のドアが開きムルガが入ってきた。

「レッヅォ!何してるんだ?パーティの主役がいないってロゼアがくだを巻いてるぞ?」

レッヅォはようやく普通の表情に戻り応える。

「あぁ、悪い、こいつに呼び出されてな!」

と言ってマーゴを指差す、彼もムルガに深々と礼をする。

「マーゴ…ちょうどいい!何か手品を披露しろよ!」

するとマーゴは顔をしかめる。

「ムルガさん…手品ではありません、魔術です!」

「あぁ、そうだったな…その『魔術』を皆に見せてやれ!今日はロゼアが綺麗どころを沢山連れてきてるんだ!」

「えぇ、喜んで。」

そして三人は階下の大広間へと向かう。

大広間ではパーティーが続いていた、レッヅォの手下達やドレスで着飾った若い女性達で賑わっている。

レッヅォが戻ったのを見つけると女幹部のロゼアがシャンパングラスを片手に近づいてきた。

「どこ行ってたのよ?」

「悪いな、マーゴと話してた。」

「あら?マーゴ、あんたいつ来たの?…それよりレッヅォ、一曲踊らない?」

そう言って艶かしい目付きでレッヅォを見上げる。

「ムルガと踊ってやれよ。」

「ダメよ!組織のナンバーワンである貴方と踊りたいの!」

体をくねらせ、まるで猫のように、その豊満な体をレッヅォにこすり付ける、かなり酔っているようだ、一曲踊り終えるまではゴネ続けるだろう。

「わかった、わかった!では一曲踊ってやろう。」

そう言ってロゼアの手をとり広間の中央へとエスコートする、ロゼアも顔を紅潮させ満足げに着いていく。

「では、スロウナンバーをくれ!」

レッヅォがリクエストすると楽団のピアニストがゆったりとした哀愁のあるメロディーを奏で始めた。

互いの腰に手を沿えてリズムに乗ってゆったりと踊る。

「ねぇ、せっかく私の店の女の子たち連れてきてあげたのに嬉しくないの?」

ロゼアがレッヅォの肩に頬を乗せ囁く。

「嬉しいさ、ムルガたちも嬉しそうだ。」

「彼らはね…でも、あなたは?」

「嬉しいさ。」

「そうかしら…。」

そう言ってロゼアは少し哀しげな表情を浮かべる。

「貴方は誰も見てないわ…女の子たちも…私の事もね…。」

「…。」

「ねぇ、その目には一体誰が映っているの?」

ロゼアはレッヅォの目を覗き込む、妖艶で美しい顔に憂いの色が浮かんでいる。

「少し酔いすぎたみたいだな。」

そう言ってレッヅォはロゼアをソファーに座らせる。

「むしろ、飲み足りないわ。」

そう言って空になったグラスをレッヅォに向けて催促する。

「いいだろう…おい、セラーの上段にあるシャンパンを持ってこい。」

と命じると手下の一人がそれを持ってくる、レッヅォは自ら栓を開けると自分とロゼアのグラスに注ぐ。

広間の中央に立ちグラスを上げて皆に声をかける。

「よし皆!改めて乾杯しよう!今宵は十魔の宴だ!モーガンも死に、これからは俺達がこの十五番街の支配者だ!ここから全てを手に入れやがてはこの月影街を全て手に入れよう!十魔の夜に酔いしれてくれ、乾杯!」

レッヅォが声高らかに挨拶すると、皆もグラスを上げ互いに乾杯して飲み干す、グラスを置くと拍手をしながら歓声を上げる。

手下達の気持ちが高まったのを見とどけレッヅォも満足げにグラスの中身を飲み干した。

ふと見るとロゼアがソファーに腰掛けたまま不機嫌そうにグラスを見つめている、どうやら一口も飲んでいないらしい。

「どうした?口に合わないか?」

レッヅォが尋ねるとロゼアは彼を鋭い目で睨む。

「このシャンパン…嫌いなの。」

「…美味いぞ?」

「味はどうでもいいわ…名前がね、嫌いなの。」

そう吐き捨てグラスを置くとどこかへ行ってしまった。

「…知ってたのか…。」

呟きながらレッヅォはシャンパンクーラーからボトルを取り出す。

そこには月の光を意味する『Lumina』というラベルが貼られていた。

 

 第九話「来訪」

 

十二番街広場の宴も落ち着き、ルミナは屋台を片付けていた、黒影とルイトたちもそれを手伝っている。

「ごめんね、手伝わせちゃって…。」

ルミナが申し訳なさそうに言うと黒影が笑顔で返す。

「いいんだ、どうせ帰っても暇だし。」

するとルイトが冷やかすように横やりを入れる。

「ほんとは離れたくないんでしょ?ルミナねぇちゃんと。」

「ばかっ!」

苦笑いして黒影はルイトのフードを深く被らせる、バズとレアはそれを見てくすくすと笑う。

ひとしきり片付けも終わり五人は帰りの途に就いた、途中で子供たちを家に送り、そのままルミナの店へと向かった。

店に着き、黒影とルミナは調理道具などを奥へと運び込む、ある程度片づけが済んだところで一休みする事にした。

「ありがとう!残りは明日にするわ!お礼にコーヒーでも淹れるわ、飲んでいって。」

「あぁ、ありがとう!」

黒影がカウンターの椅子に座るとルミナがコーヒーを淹れ始める、立ち上る湯気を見ながらふとカウンターの端を見るとタロットカードの束が目についた。

「これかい?占いに使うのって?」

タロットカードを手に取りながら尋ねると、ほんの少し俯いたようにルミナが答える。

「えぇ…そうよ。」

月や太陽そして死神など様々な絵が描かれている、それぞれに意味があり、それらの組み合わせなどによって未来を占うのだろう。

「…興味あるの?占い…。」

コーヒーをカップに注ぎながらルミナが訊くと黒影は首をかしげる。

「どうだろう…やった事ないな…でも、未来の事がわかったら便利なんだろうな。」

「…そうでも…ないわ…。」

ルミナは悲しそうに答える。

「…。」

しかし、気を取り直したようにコーヒーの入ったカップを差し出す。

「ごめんなさい、なんでもないわ!」

笑顔を見せてはいるがどこかぎこちない、彼女が時折見せるこのどこか哀しそうな雰囲気が黒影は気になって仕方がなかった。

彼女の心の奥に一体どんな哀しみがあるというのだろう、彼女にどんな過去が、そして何を背負って生きているのだろう。

「そういえば…。」

ふとルミナは思い出したように口を開く。

「…まだあなたの名前聞いてなかったわね?」

黒影は思わずカップを持つ手が止まった。

こんな時、なんと答えればいいのだろう…黒影という通り名は当然言えない、けれど本名などとうの昔に捨て去ったものだ。

もちろん、偽名ならばある、彼が住むアパートも偽造の免許証や身分証も全て偽名で通している、裏社会に棲む暗殺者なら誰もがそうしているように彼もまた世を欺くための仮の名を持っていた。

『レイ・フェイロン』普段なら顔色一つ変えずに言えるこの名がなぜか喉の奥にひっかかったまま出てこなかった。

なぜか、彼女の前で偽りの名を口にするのを躊躇ってしまう自分がいた。

「…それは…。」

不思議そうな目で見つめるルミナを前に答えに窮していると、店の入り口が開く音がした。

「あれ?」

ルミナは驚いたように入口の方を見る、既に営業時間ではなく閉店の札も出してある、なにより今日は十魔の宴の夜店出店の為、夕方以降営業はしていないとの張り紙も出してあるはずだ。

黒影は話が途切れてほっとしたが、入ってきた者たちの不穏な気配に気付いた。

男が三人、後から入ってきたもう一人の顔を見てルミナは思わず息を飲んだ。

他の三人とは明らかに違う高給で品の良さそうなスーツに身を包んだ男、それはレッヅォだった。

彼はカウンタのー奥にいるルミナを見つけると嬉しそうに駆け寄る

「ルミナ!久しぶりだね!」

手にした花束を差し出す、けれどもルミナは顔を横に向けて小さな声で呟く。

「レッヅォ…どうしてここが…。」

「愛する女の居場所は目をつぶっていても分かる、男とはそういうものさ!」

誇らしげに答えるレッヅォとは対照的にルミナは青白い顔で震えている。

「ここで店を開いていたんだね?一人でさぞ大変だった事だろう…君のこれまでの苦労を思うと俺は胸が潰れそうだ…でも、もう大丈夫!これからは俺が君を支え、守ろうじゃないか!」

まるでミュージカルのワンシーンのようにおおげさな口調でまくしたてるレッヅォにルミナは霞むような声で答える。

「レッヅォ…お願い…帰って…」

するとレッヅォは悲しそうな顔をする。

「どうしたんだいルミナ?…再会を喜んでくれるとは思わなかったけれど、ここまで嫌がられるとも思わなかったな…。」

「おい。」

ふと背後で声がした、低く凄むような黒影の声だ。

「なに一人で盛り上がってるんだ?彼女嫌がってるだろう。」

レッヅォの背後に立ち、その背を鋭い目つきで睨みつけている、レッヅォの手下たちが黒影を取り囲むが彼は怯む事もなく睨み続ける。

「なにか言ったか?」

レッヅォが凄む声で返した瞬間、黒影は拳銃をレッヅォの後頭部に突き付けた。

「失せろ。」

さっきよりも更に低く凄む声、その目は鋭く左目は赤く染まっている。

手下たちも慌てて黒影に拳銃を突きつける、しかし黒影はまるで気にも留めない。

「アッハハハ!」

突然レッヅォが高笑いをした。

「お前ら多分、引き金を引く前にそいつに撃たれるぞ?」

ゆっくりと後ろを振り向き黒影の顔を見る。

「ほぉ!本当に左目が赤く染まるんだな?驚いたよ、黒影!」

黒影の銃口が鼻先を捕えているにも関わらず不敵な笑みを浮かべている。

「お前ら、貴重な場面に出会ってるぞ?今目の前にいるのが紅眼殺手と呼ばれる殺し屋・黒影だ!」

その名を聞いて手下たちに明らかに動揺の色が浮かんだ。

「君も知っていたのかい?ルミナ?」

横目で彼女を見ると俯いたまま何も答えない。

「どうやら、彼女はお前の正体を知らなかったらしいな…ルミナ、君はかつて俺の手が血に染まっていると言って去っていったね?…だけど、こいつは俺以上に手を血に染めているよ?」

皮肉くるようにレッヅォは言い放つ。

黒影はその態度に怒りを覚え、銃の激鉄を降ろした、左目はいよいよ赤く染まり彼は引き金を引こうとした…その瞬間。

「やめて!」

それを止めるかのようにルミナの叫び声が店内に響く。

黒影は思わずはっと我に帰る。

「レッヅォ…お願い…帰って…。」

ルミナは涙を流している、レッヅォはそれを痛ましそうに見つめていた。

「…わかった…今日は帰ろう…。」

諦めたように呟くと黒影に向き直る。

「というわけだ、今日は大人しくおいとまするよ…物騒なもんを降ろしてくれないか?」

「お前の手下どもが銃を降ろすのが先だ。」

レッヅォが手下達に銃を仕舞うよう命じると黒影も銃を降ろした。

「…ルミナ、すまなかったね、突然やってきて…今度ゆっくり話そう。」

悲しげな顔で告げるが、ルミナは俯いたまま何も答えなかった。

「…帰るぞ。」

手下達にそう声をかけるとレッヅォは重い足取りで店を後にした。

連中が去り静かになった店内、黒影とルミナの間に重い沈黙が続いた。

「…コーヒー…冷めちゃったね、温め直すわ…。」

最初に口を開いたのはルミナだった、冷めたカップを取り容器に入れ替える。

「ごめんね…さっきの彼、昔の恋人なの…。」

「そうか…。」

「見て分ると思うけど…マフィアよ…。」

「そうみたいだな…。」

温め直したコーヒーをカップに注ぎながらルミナは哀しそうに続ける。

「彼もあなたを知っていたみたいね…。」

「…。」

レッヅォによって明かされた正体、もう黙っている必要もないだろう。

「…聞いた通り、俺は殺し屋だ…黙っていてすまない…。」

しかし、ルミナは首を横に振る。

「どうして?殺し屋だなんてわざわざ明かす人はいないでしょ?…それに…。」

黒影を見つめ言い難そうに続ける。

「…あの日のあなたを見てるから…驚かないわ…。」

「そうだな…。」

あの日の事をルミナが口にしたのは初めてだった、それまで二人ともずっと避け続けてきた話題だ。

黒影は椅子に腰掛けると注がれたコーヒーに口をつける、温かく香ばしい味わいがほんの少し心を軽くしてくれるようだった。

「ひとつ訊いてもいいか?」

「…なに?」

「どうしてあの時、逃げ出さなかったんだ?」

「…どうしてかな…自分でも分らない…ただ…。」

「ただ…?」

「…あなたに危険がせまる、そんな気がして後を追ったから…。」

「え…?」

黒影は一瞬ルミナがなにを言っているのか分らなかった、自分に危険が迫る、そんな事をどうしてルミナが知ったというのか。

けれど、黒影はひとつだけ思い当たる事があった。

「あの日、ここで金を払うときに、一瞬なにかに気付いたね?」

「…!」

ルミナの顔色が変わった、黒影の鋭い指摘に目逸らし口をつぐんでしまった。

彼女には何か人には言えない秘密があるらしい、それこそが彼女の背負う大きな何かなのだろうと黒影は確信した。

「気付いたんじゃない…見えたの…。」

「なにが?」

「それを知ったら、あなたはわたしをきっと遠ざけるわ…。」

「俺のような人間が、人にどうこう言える立場じゃない…。」

「そう…。」

ルミナはカウンターから出ると入り口のドアに鍵をかけた、そして奥からバーボンとグラスを持って黒影の隣に座った。

「飲めるでしょ?」

「あぁ。」

「よかった、長い話しになるから…。」

グラスにバーボンを注ぎルミナは語り始めた。

 

第十話「ルミナの過去」

 

あれは五歳の頃だったわ、入院していたおばあちゃんのお見舞いに行ったの、両親は幼いわたしに隠していたけど、重い病気だったの…おばあちゃんもきっと気付いてはいたんだろうけど、わたしが来たんで元気そうにふるまっていたわ…だけど、わたしには見えたの…おばあちゃんの手に黒いあざの様なものが浮かぶのを…なんだか分らなかった、怪我でもしたのかな?そんな風にしか思っていなかったけど、翌朝おばあちゃんは息を引き取ったわ…。」

一息ついてバーボンを飲み、ルミナは続けた。

「次に見えたのは六歳の時、近所に住む設計事務所を営むおじさん…明るくて優しい人で、わたしに会うといつも可愛がってくれた、でもその頃事務所の経営が上手くいかなかったみたいで塞ぎこむ事も多かった…そんなある日、道で会ったおじさんの手に黒いあざが見えたわ…その翌日、彼は首を吊って死んだの…資金繰りが上手くいかなくて、生命保険金を返済に充てようとしたみたい…。」

「それからも、近所で人が亡くなる少し前に手にあざが浮かぶのが見えた…わたしは少しずつそれが彼らの死の予兆を示すものだと理解し始めた…そして、それが自分にしか見えないこともね…だって両親に訊いてもそんなあざは見えないって言ってたんだもの…死を報せる黒いあざ…わたしは七歳になる頃にはそれをなんとか食い止めたいって思った、確かに老いや病でどうにも止められない死もあるかもしれない…でも、自殺や事故なら止められるでしょ?だけど…。」

深いため息をつきルミナは続けた。

「誰も信じてはくれなかったわ…当然よね、七歳の子供があの人には黒いあざが見えるから死なないように気をつけてって言っても、悪ふざけをしているとしか思われないわ…何度も父にも母にも怒られた…『ルミナ、悪ふざけはやめなさい、見えもしないもので人が死ぬなんていうんじゃない』ってね…。」

髪をかき上げ悲痛な面持ちでため息をつく。

「だけど、わたしがその『悪ふざけ』をしてから程なく、その人たちは死んでいった…中には死なないまでも、怪我をしたり、不幸な事に巻き込まれる人もいたわ…そういう事が重なるたびに少しずつ両親もわたしを不気味そうな目で見るようになった…両親だけじゃない、学校でも、ある日クラスの男の子達が木登りをしていたの、五人か六人で古い木に登ってて、わたしは他の子達と近くで眺めていたんだけど、突然彼らの手にうっすらとあざが浮かんだの、わたしは叫んだわ、皆気をつけてって…でも、彼らは気にも留めず木に登り続けた、すると突然木の枝が折れて彼らは五メートル近い高さから落っこちたの…幸い怪我は大したことなく済んで、皆病院で軽い手当てを受けたけど、その日からわたしの予言が当たるって噂が広まったの…そしてついたあだ名が…『魔女』…。」

「…。」

「それから皆わたしを気味悪がるようになった…『あいつに黒いあざが見えるって言われたら死ぬぞ!』って…まるでわたしが呪ったみたいに…わたしもその頃には人前であざが見えることを口にしないようにしたわ…見えるときは、人知れずそれとなく助けようって…でも、そんな事無理よね…しばらくは死に直面するとこはなかったけど、薄いあざで怪我をする人の事はわかったわ、誰も救えなかったけど…。」

「十二歳になる頃、両親はわたしに私立の寄宿学校に進学する事を勧めたわ、あなたは賢いんだからその才能を伸ばしなさいって…嘘…只たんに不気味な力を持つ厄介な娘を遠ざけたかっただけ…だけど、家にも居場所はなかったから勧められた寄宿学校へ進学したわ…もう、ここでは自分の能力は隠して生きていこう、普通に生きようって…そんなある日、寮の同じ部屋の子達が雑誌の占い記事を読んで騒いでいるのを見かけたの、楽しそうに恋愛運や相性のいい異性のタイプを星占いや血液型で探し出して一喜一憂してる姿を見てわたしは不思議に思った、なんでこの子達は未来の事を知りたがるんだろう?未来を見通せたら気味悪がるはずなのに、占いなら喜んで受け入れてる…『この雑誌の占いの先生よく当たるんだよ』って嬉しそうに…わたしは未来を言い当てて一度だって喜ばれた事はないのに…それで気付いたわ、人は予知能力なんて求めてない、そんな人知を超えた力より占いみたいにいい加減なものが好きなんだってね…。」

「それが占いを始めたきっかけか?」

「そうよ、占いという形を借りる事で、わたしの能力は隠すことが出来る、それからわたしは星座を見てあげるといって友達を占うようになった、友達も遊び半分のつもりでよく相談を持ちかけてきたわ、恋の悩み、将来の悩み、話しているときに手にあざが薄っすらと浮かぶ子もいた、そういう時は気をつけなさいと伝えて、浮かばない時は心配せずそのまま突き進みなさいって伝えた、評判は良かったわ、よく当たるって…もちろん嬉しかった、これでやっと自分の能力で誰かを救えるって…卒業した後、わたしはレストランで働きながらある占い師にタロットカードの使い方を習ったの、道具なんてどうでも良かったけど、表向きは占いじゃないといけないしね…。」

ルミナの口から明かされる衝撃の過去、彼女は異能の力を持ち、そのために周りの人々から阻害され傷ついてきたのだ。

黒影はルミナの抱えてきた辛い過去を想うと心が痛んで仕方がなかった。

「どうして…君はそうまでして人の不幸な未来を救おうとしたんだ?」

「…どうしてかな…でも…。」

「…?」

「どうして自分にこんな力があるのか分らないけど…それで人を救えるかもしれないのに、見捨てるなんて…できないじゃない…。」

「そうか…。」

例え誰からも理解されなくても人知れず誰かの不幸を救おうとするルミナの健気で崇高な意思、黒影は心に震えを感じずにいられなかった。

バーボンの残りを飲み干し、ルミナは苦笑いを浮かべた。

「こんな話…誰かに話したのは久し振り…。」

「前に話したのは、さっきのあいつか?」

「うん…。」

「そうか…。」

「彼とは…四年前、わたしが働いてたレストランで知り合ったの…仲間と何人かで来ていて、わたしが注文をとりに行った時に彼の腕に黒いあざがはっきりと見えて、わたしはメニューを渡す振りして彼の手に触れてみた、すると頭に残像が浮かんだの…彼が車に乗ろうとすると爆発が起きて吹き飛ばされて死ぬ…どうやって伝えようって思ったわ…そんな場で占いなんてできないし、本当のことも言えない、困り果ててると彼のほうがわたしの様子に気付いて声を掛けたの…『どうしたんだい?顔色が悪いぞ?』って…わたしとっさに『お客様、車でお越しですか?』って訊いたの、『そうだけど?』『なら気をつけてください…あなたの車に…』…わたしはそれ以上何を言えばいいか分らなかった…爆弾が仕掛けられてますなんて言えるわけないし…でも、彼はそんなわたしの様子で何かを察してくれたみたい…すぐに仲間の一人に車の様子を見に行くように行ってくれて、それで仕掛けられた爆弾を見つかったの、それは良かったんだけど、その後、彼はわたしに訊いたわ、なぜ知ってたって…わたしは仕方なく本当の事を話したわ…怪しまれて拷問にかけられるよりはいいと思って…でも不安だった、ふざけてると思われるか、狂ってると思われるか…でも彼はわたしの話を笑いもせず疑いもせず、こう言ってくれたわ…『どうやら君は素晴らしい才能を持っているようだね?ウェイトレスなんて辞めてもっとそれを生かす仕事をしないか?』って…わたし、嬉しかった…両親も友達も、誰も認めてくれなかったわたしの能力を彼は受け入れてくれた…わたしにとって初めての理解者…。」

「それで付き合うようになったのか?」

「そう、わたしのために色々と協力もしてくれた…けど…彼の腕に度々黒いあざが浮かぶのが耐え切れなかった…彼の血に塗れた生き方も…。」

「だから奴の元を去った?」

「うん…そして二年前にこの店で身を隠すようにして働いていて、ここのオーナーも歳だったから店を譲ってくれたわ…それからここで店をやりながら時々お客さんを『占って』いたわけ…。」

そこまで話すとルミナは長いため息をついた。二人の間にしばらく沈黙が訪れた。

「あの日…。」

と言って再びルミナは再び切り出す。

「あなたの手に触れたときに、残像が浮かんだの、沢山の血まみれの死体の中で返り血を浴びて佇むあなたが…そして腕には赤黒いあざが浮かんでたの…。」

「…そんなものが見えながら何故わざわざ追いかけてきた?自分だって巻き込まれたかもしれないだろ?」

「言ったでしょ?救えるかもしれない人を放っては置けないって…あなたの忘れ物のペンダントを拾ったときにこれは何かの啓示かもしれないって思った…。」

「そうか…。」

黒影は目を伏せる。

「すまなかった…あんな場面に合わせて…。」

「いいの…私が勝手についていったんだし…。」

黒影は顔を上げ、ずっと気になっていた事を尋ねた。

「どうして、警察には言わなかったんだ?」

「…あなたが、悲しんでいたように見えたから…。」

「え…!」

黒影は愕然とした。まるで自分の心の奥底を見透かされたかのような不思議な気持ちだった。

「あなたは、人を殺す事を喜んではいないでしょ?むしろ悲しんでいる…戦わなければならない運命を…そんな気がしたの…。」

「買いかぶりすぎだよ…。」

自嘲気味に返す黒影にルミナは微笑を浮かべ答える。

「そう?今日のあなたを見てるとそう思えるわよ?」

「え…?」

広場で出会ったルイト達に散々奢らされたのを言っているのだろう。

黒影は思わずむきになって返す。

「いや、あれは子供相手だし、どうしようもないだろう!?」

その様子にルミナは堪らず笑い出した。

「不思議ね、あなたって!殺し屋って分ってても、怖い感じがしないんだもん。」

「そうか…?」

黒影は困ったように彼女を見つめていたが、やがて照れ笑いを浮かべる。ルミナはそれを微笑ましそうに見つめた。

「ありがとう、話聞いてくれて。」

「いや、聞けてよかったよ!」

「そう?…わたしの能力…聞いても驚かないでくれて、嬉しかった…。」

「驚いたさ、でも世の中には科学では割り切れない事だって沢山ある、例えば…。」

と言って黒影は自分の目を指差す。

「俺の左目だ、感情が高ぶると瞳孔が赤く染まる、産まれたときからそうだ…なぜそうなるのかは医者ですら分らないらしい…。」

「自分では何ともないの?」

心配そうな顔でルミナが覗き込む。

「あぁ、痛みも不快感もない…視力にも何の影響もない、ただ…。」

「…?」

「子供の頃はよく言われたよ…『紅眼の化け物』ってな…。」

黒影は苦笑いを浮かべた。

「そう…。」

ルミナは目を逸らし俯く。

「俺も君も、どこか似ているのかもしれない…。」

黒影が言うとルミナは顔を上げ微笑む。

「そうね。」

「さてと…。」

時計を見ながら黒影が椅子を立ち上がる。

「すっかり長居しちゃったな、お酒ごちそうさん!」

「いいえ、ごめんね?ひきとめちゃって…。」

「いいんだ!」

入り口に向かおうとしてふいに足を止める。

「そうだ…あいつ、また来るかもしれないぞ?」

振り返って少し真剣な顔を見せる。

「レッヅォの事?」

「あぁ。」

「…そうね…。」

すると黒影はカウンターの隅にあった紙とペンを取り、何かを書いてルミナに手渡す。

「これ俺の番号だ、なにかあったらいつでも連絡くれ。」

ルミナは一瞬驚いた顔をしたが、次の瞬間照れたように俯くと笑顔で応える。

「うん、ありがとう!」

黒影も笑顔を見せると手を振って店を後にした。

第十一話「再び」

 翌日、昼過ぎに黒影は半月堂を訪れた。

「じいさん、昨日はありがとうな!」

 黒影が声をかけると老人は笑顔を浮かべる。

「祭りは行ったか?」

「あぁ、楽しかったよ。」

「そりゃ良かった!…どうだ?可愛い子はいたか?」

 老人が茶化すように言うと黒影は苦笑いを浮かべた。

「あぁ…まぁな…。」

「ほぉ!お前さんも手が早いな!」

 老人が感心したように言うと黒影はさらに苦笑いを浮かべる、相手がまさか先日の目撃者だとは口が裂けてもいえない。

「それよりさ、訊きたい事があるんだ。」

 黒影は昨夜の広場で会った魔術師の事を話す、老人はしばらく腕を抱えて考え込んでいたがしばらくすると。

「…その魔術師はストライプのハットと服だと言ったな?」

「あぁ。」

「…もしかするとそいつは、マーゴかも知れん…。」

「マーゴ?」

「うむ、『魔術師マーゴ』ピエロみたいな格好をして方々で手品を披露しとるが、正体はお前さんと同じ殺し屋だ。」

「…やっぱりか。」

 黒影の表情が険しくなった、昨夜の一件で只者ではないと感じていたが、やはり同業者だったのだ。

「なんで俺の事分ったんだろうな…。」

「雰囲気じゃないか?」

「そりゃ同じ稼業だって事は分るだろうけど、俺が黒影だって事まで奴は知ってたんだぜ?」

「それだけお前も名が売れたって事だろ?」

「…。」

「ある程度名が通るようになれば、嫌でも見つけられちまうんだよ。」

「参ったな…。」

「まぁ、心配するな!誰かが奴に『黒影を殺れ!』とでも依頼しない限り銃口を向けあうことはないだろう?」

「まぁ、そうだな…。」

 少しだけほっとした表情で黒影は次の質問を続けた。

「もう一つ、レッヅォって奴の事なんだけど…。」

「何?」

 老人は急に険しい表情を浮かべる。

「え?レッヅォだよ、知らないのかい?」

「知ってるとも、『十魔のレッヅォ』レッヅォだろ?…この間の十五番街モーガン殺しもレッヅォがやったともっぱらの噂だ。」

「ほぉ、あの事件は奴が絡んでたのか…。」

「それだけじゃない、お前さんが昨日会ったマーゴはそのレッヅォの手下だ!」

「何!?」

 黒影の中で全ての疑問符に答えが出た。

昨夜会ったマーゴ、彼は黒影とルミナが共にいたのをレッヅォに報せたのだろう、それでルミナの店にレッヅォがやって来た事も黒影を知っていたことも辻褄が合う。

「そういう事か…。」

「なにを一人で納得してる?お前、レッヅォの暗殺でも請け負ったのか?」

「…いや、そうじゃない。」

「…まぁいい、だがレッヅォと揉めるんなら十分に気をつけることだ、奴は若いがここ数年で急激に這い上がった男だ、しかも子飼いのマーゴも凄腕ときてる!」

「心配ない…。」

 黒影は注がれたお茶を飲み込むと鋭い目で続けた。

「昨日、二人とも会ってる…どんな奴らかは分ってるよ。」

 

 十二番街、「フトゥール」の前に一台の高級車が停まった。

 この辺りではあまり見かけない銀色のコンバーチブルから、若い男が降り立った。

ダークグレーのスーツにバラの花束を抱え口笛を吹きながら店のドアを開ける。

「いらっしゃ…。」

 ドアの呼び鈴に応えようとしてルミナは言葉を飲み込んだ、入り口に立っていたのはレッヅォだった。

「やぁルミナ!昨日はすまない、今日は一人で来たよ!」

 爽やかな笑顔を見せるレッヅォとは対照的にルミナは暗い表情で俯く。

「そんなに嫌な顔をしないでくれ…別に連れ去りに来た訳じゃない、ただ久し振りに話をしに来ただけだ。」

「そう…。」

 ルミナは渋々とレッヅォをカウンターに案内する、レッヅォは花束を差し出し紅茶を注文する。

「いい店だね。」

 店内を見渡しレッヅォは微笑む。

「ありがとう…。」

「今は空いてる時間だったのかな?」

「そうね…。」

「それは良かった!ゆっくりと話が出来る!」

「…でもこの後夕方の仕込があるから…。」

「あぁ、もちろんそんなに長居はしないさ!俺も仕事が忙しい。」

「そう…。」

 紅茶を淹れながらルミナはふと尋ねる。

「仕事って…今も…。」

 その後を言いよどむとレッヅォが促す。

「そう、ギャングさ!」

 皮肉っぽく言うとルミナは顔を曇らせる。

「変わらないのね…。」

「何がだい?…相変わらずやくざな生き方してるのねって?」

「…。」

「生憎とね!でも、そんなやくざ稼業のおかげであんなものも買える。」

 そう言って表のコンバーチブルを指差す。

「そう…。」

 出来上がった紅茶を差し出しルミナは洗い物を始めた。

「大変そうだね…。」

「そんな事ないわ。」

「そうか…。」

 レッヅォは紅茶を飲みながらふとカウンターの端に目が留まる、そこには一組のタロットカードがあった。

「今も…『占い』やってるんだね…。」

「…そうよ。」

 タロットカードを見つめながらレッヅォの顔が歪む。

「誰も…君の『力』を認めようとはしないのに…。」

 ルミナの手が止まった、彼女は蛇口を止めて手を拭きながら振り返る。

「それはちがうわ。」

「…。」

「誰かに認めて欲しくてやってるんじゃない、誰かの力になりたくてやっているの。」

「何でだ…。」

 レッヅォは苦虫を噛み潰したような表情でルミナを睨む。

「君は憎くないのか?自分の偉大な才能を認めようともせず、あまつさえ阻害した人間達を!…君の両親も幼馴染さえも、君を不気味な存在として拒絶した!…人間って奴は本当に愚かだ!…大した能もない連中が一握りの能ある者を潰そうとする!…そんなムシケラにも劣る人間どもを君は救いたいのか!?」

 激しくまくし立てるレッヅォをルミナは哀しそうに見つめていた。

「きっと…あなたの目には、わたしは馬鹿に映るでしょうね…でも、救いたいの、たとえ認められなくても、能力を占いと偽っても、自分が背負った力を誰かのために使いたいの…。」

 静かに力強く、まっすぐな目でそう訴えるルミナをレッヅォは哀しそうに見つめ返した。

「そうか…それが君の生き方なら仕方ないな…俺がどういう事じゃない…。」

「あなたには感謝してるわ…わたしの能力を初めて受け止めてくれた人…本当に嬉しかった。」

 ルミナが慰めるように言うとレッヅォは苦笑いを返す。

「感謝か…俺が欲しかったのは感謝じゃない…君の笑顔と温もりだよ…。」

 レッヅォは紅茶の残りを飲み干し立ち上がった。

「ご馳走様、とてもおいしかったよ。」

「…ありがとう。」

「お釣りはとっておいてくれ。」

 そう言って百ゼル札をカウンターの上に置く。

「え、でも…。」

「いいんだ!俺、小銭は嫌いだから。」

 おどけて言うと手を振りながらドアへ向かう。

「それじゃルミナ、いつかまた会えたら!」

 閉まるドア越しに投げキスをしながら店を後にした。

 レッヅォは車に乗り込みエンジンを掛けると勢い良くアクセルを踏み込む。

 重い唸りを上げ猛スピードで駆け出す車のハンドルを握りながらレッヅォはルミナの言葉を思い出していた。

「…たとえ認められなくても、能力を占いと偽っても、自分が背負った力を誰かのために使いたいの…。」

 頭の中をその言葉が何度も駆け巡る。

「…そんな君だから、愛したんだよ…ルミナ…。」

 

第十二話「残党の影」

 

 夕方近く、レッヅォは十五番街にあるレストランの二階オフィスを訪れた。

 ここはレッヅォ達一味の実質的拠点になっていて重要な会議などもここで行われていた。

 ムルガとロゼアは既に来ていてソファに座りレッヅォを出迎えた。

「遅かったな、集合は四時だぞ?」

 ムルガが眉間に皺を寄せ腕時計を指し示す。

「悪いな、時計が壊れていたんだ!今は…あぁ、もう五時前か!」

 レッヅォがとぼけた様子で応えるとムルガは苛立つように返す。

「ボスなら時間を守ってくれ!下の奴らに示しがつかないだろ?」

「悪い!気をつける!」

 大して悪びれる様子のないレッヅォに対してムルガはまだ言い足りない様子だったが気を取り直し本題に入った。

「いい話と悪い話がある、いい話としてはモーガンのシマにあった店は大体買い取りが終わった!」

「そりゃいいね!で?悪い話は?」

「モーガンの手下だったデレチとイスキードがまだ街に潜伏しているようだ。」

「ほぉ、高飛びの費用がないのか?」

「飛ぶ気なんてないだろうよ!二人は組んで人を集めてお前に復讐するつもりだ。」

 レッヅォは笑みを浮かべる。

「ほぉ!デレチの野郎、モーガンに痕が残るほど頭を殴られたのに忠誠を誓ってるのか?傑作だなぁ!どうせ俺を殺してシマを自分らのものにしたいだけだろ?」

「どの道同じ事だ、お前にとって…いや、俺達にとって目障りだ!」

「なら消しちまえばいい!簡単な事だ!」

「それがそうでもないのよ?」

 ロゼアが口を開いた。

「月影街市警の連中がこのことを掴んで私達をしっかり見張ってるの、ドンパチが始まれば一網打尽でしょ?」

 ムルガも先を続ける。

「おまけにデレチとイスキードはそれぞれ潜伏先を別にしているらしい…一度に潰されない為、こっちが攻め込む時に戦力を半分に分けざるを得ない為だな。」

 レッヅォはしばらくの間目を閉じて考え事をしていた、やがて目を開き二人に言う。

「よし、奴らについてる手下を誰か一人でもいいから連れて来てくれ!その後は…マーゴ!」

 レッヅォが声をかけるとオフィスの壁にもたれかかっていたマーゴが笑みを浮かべる。

「私に御用ですか?」

「あぁ、お前催眠術は得意だよな?」

「えぇ、魔術師ですから。」

「そりゃ結構!今回はお前の力が必要だ!ハロウィン前後に休暇をやったんだ、今度は働いてもらうぞ?」

「えぇ、喜んで!」

 シルクハットを取り恭しく礼をする。

「話しは以上だな?では解散!」

 そう言って帰ろうとするレッヅォにロゼアは声をかける。

「今日の昼はどこに行ってたの?」

「どこだろうと勝手だろ?」

「珍しくメルディックのコンバーチブル転がしてたわね?」

「三日に一度はエンジンを掛ける事にしてる、名車は女と同じだ、たまに相手してやらないと拗ねるからな。」

「私の事は相手にしてくれないくせに?」

 ロゼアが責めるような視線を送ると、レッヅォは苦笑い浮かべそのまま立ち去った。

 その背中をロゼアは憎らしげに見つめていた。

 

 その頃、「フトゥール」ではルミナが夕方の仕込みに勤しんでいた。

 ふとドアが開くと、黒影が顔を覗かせた。

「いらっしゃい!」

 ルミナが笑顔で応える。

「やぁ!…忙しい時にお邪魔したかな?」

 黒影が心配そうに尋ねるとルミナは顔を横に振り笑顔で返す。

「大丈夫よ!仕込みも大体終わったし!…そうだ!良かったら味見してくれない?」

 そう言いながら、小皿にスープを少し取り黒影に渡す。

「うん!美味いね!これならお客も大喜びじゃないか?」

 黒影が褒めるとルミナも嬉しそうな表情を見せる。

「そう?良かった!今日は少しベースを変えてみたの!」

「そうだったんだ!」

 言いながらカウンターに腰をかける。

「…今日は変わった事はなかった?」

 黒影が尋ねるとルミナは首を横に振る。

「ううん、何もなかったわ。」

「そう…。」

 黒影がカウンターの端に目をやるとバラの花が花瓶に活けてあった。

「あのバラは?」

 ルミナは一瞬表情を微かにこわばらせながらも。

「近所の花屋さんがね、分けてくれたの。」

 と答える。

「そうか…。」

 黒影はルミナの表情に何かを感じ取りながらも、それ以上は何も問いたださなかった.

 第十三話「催眠」

 

 深夜、十五番街にあるレッヅォのオフィスに一人の若い男が、銃を持った男二人に両脇から腕を掴まれながら連れ込まれた。

「そいつが残党の一人か?」

 レッヅォが尋ねると捕らえていた一人が頷く。

「さてと…。」

 レッヅォが捕らえられた男に近寄る、男は脅えながらもレッヅォを激しく睨んでいる。

「お前はデレチの子飼いか?それともイスキードの?」

 レッヅォが尋ねると男は吐き捨てるように答える。

「答える義理なんてねぇよ!」

「なるほど。」

 レッヅォは笑みを浮かべ部屋の隅を向く。

「と言うわけだ、後は頼んだぞ?マーゴ。」

 呼びかけに応える様にマーゴは男の前までやってくると不気味な笑顔を浮かべる。

「よろしい、ではこれをマリオネットに致しましょう。」

 マーゴはステッキの先を男の目の前に向け、ゆっくりと円を描きながら語りかける。男はその様子を鼻で笑いながら見ていたが、やがて少しずつ目元からさっきまでの鋭い目線が消えていく。

「さて…坊や、貴方は誰の元に仕えているのですか?」

 マーゴがゆっくりとした口調で尋ねると男は気だるそうな口調で答え始めた。

「…イスキード…。」

「よろしい…ではそのイスキードはどこにいます?」

「…港の…F…四五番…倉庫…。」

「そこには何人いるのですか?」

「イスキードさんを含め…十五人…。」

「デレチは?どこにいるのです?」

「十五番街…国道近くの…廃ホテル…ネオヤード…。」

「人数は?」

「十八人…。」

「よろしい!大変素直な坊やだ!…さて、我々からムッシュ・イスキードへ贈り物があります、貴方はそれを間違いなく彼へ届ける!よろしいですね?」

「…はい…。」

「では、これから私が三つ数えて指を鳴らすと貴方は目が覚める、そこで私が用意した贈り物はムッシュ・イスキードにとって大変喜ばしいものだ!それを貴方は受け取り届ける!」

 言い終えるとマーゴは男に向けていたステッキをゆっくりと下ろす。

「三…二…一…。」

 マーゴは指を鳴らした。

 男は突然はっとした表情で目を覚ますと周りをきょろきょろと見回す。

 全てを見届けたレッヅォは手を叩きながら男の前に進み出る。

「よう!手荒な真似して悪かったな!お前のボスにプレゼントがあるんだ!これを届けてくれるか?」

 そう言って小包大の箱を彼に手渡す。

「えぇ?これを?」

「そうだ!中を見てみろ!」

 男は怪訝な顔をしながらも箱を開けて中を見ると嬉しそうな声を上げる。

「おぉ!これならイスキードさんも大喜びだ!ドン・レッヅォ!話しの分る人で良かった!」

 その様子を見てレッヅォは口元に笑みを浮かべ男を捕らえていた手下に命じる。

「お前達、この客人を送っていって差し上げろ!くれぐれも失礼のないようにな。」

 手下達は頷くと男を連れてオフィスを後にした。

「見事だマーゴ!これで不安の種は一つ消えた。」

 レッヅォがマーゴの肩を叩くとムルガが後ろから口を挟む。

「だがデレチは?奴は俺達のすぐ近くにいるんだぜ?どう出るつもりだ?」

「心配いらんよ!今夜『花火』が上がり次第、すぐに攻め込む!手下を集めてくれ!」

 レッヅォが答えるとマーゴが尋ねる。

「私はどう致しましょう?」

「お前もデレチの始末に当たってくれ、相手は十八人、うち半数はお前に任せよう。」

 するとマーゴは不満そうな顔を浮かべる。

「たったの九人ですか?…張り合いのない…。」

 それを聞いてレッヅォは笑い声を上げる。

「いいねぇ!マーゴ!お前は生まれついての殺し屋だよ!」

 するとまたもやマーゴは不満そうな顔を浮かべる。

「ボス、私は殺し屋であると同時に魔術師である事もお忘れなきよう…。」

 レッヅォはなおも笑いながら戸棚からウィスキーの瓶を取り出すとコップに注ぎ二人に差し出す。

「前祝だ!明日の朝には全て片付く!乾杯!」

 

 明け方近く、港の四十五番倉庫にはモーガンの手下だったイスキードを含め十数人が慌しくレッヅォ襲撃の準備をしていた。

 そこへ若い子飼いの男が戻ってきた。

「おい!何してた!集合は零時だろうが!」

 イスキードが遅刻を咎めるも若い男は気にする様子もなくゆっくりよろよろと歩み寄ってくる。

「イスキードさん、遅れてすいません…実はレッヅォから預かり物が…。」

「何だとっ!?」

 イスキードが驚きの声を上げる、見れば若い男は両手に大事そうに箱を抱えている。

「お前レッヅォに会ったってのか!?…しかも預かり物って…。」

 イスキードは嫌な予感が胸をよぎるのを感じた、懐から銃を出すと若い男に突きつける。

「おい!その箱をそこへ置け!」

 しかし、若い男は気にも留めず近づいてくる。

「おい!もう一度言う!その箱をそこへ置け!!」

 イスキードはさらに声を張り上げるが男は歩みを止めない、ついに堪りかねて男の足元に向けて一発撃つも彼は近づいてくる。

「なにを怒ってるんです?これはイスキードさんが喜ぶものだ…。」

 うつろな目でそう言いながら男はついにイスキードの数歩手前まで来て箱にふたを開けた。

 その中身を見てイスキードは目を見開いた、箱の中には大量のTNT火薬とそれに繋がれた電極や回路などがあった。

「お前っ!それはっ!?」

 イスキードが叫ぶ間もなく、男は箱の中に手をいれTNT火薬に繋がれた回路のスイッチを入れてしまった。

 その瞬間激しい閃光と衝撃、炎と爆風がその場にいた全員を吹き飛ばした。

 四十五番倉庫は壁や屋根も吹き飛び、大きな火柱を上げて燃え続けた。

 

 電話が鳴り響く、レッヅオはポケットからそれを取り出し耳に当てる。

「どうだ?」

 電話の向こうでは港の様子を見に行った手下の声がする。

「うまく行きました!倉庫は吹っ飛んでます!」

「そうか!よし戻って来い!」

 そう告げると電話を切り別の番号へと掛け直す。

「俺だ、『花火』は上がった、駒を進めろ。」

 それだけ伝えると電話を切る。

「これでモーガンの亡霊も消える。」

 笑みを浮かべそう呟いた。

 

 十五番街のはずれにある五階建ての廃ビル、かつては「ネオヤード」という安ホテルがここにはあったが数年前に廃業し、以来ここは廃墟となっていた。

「おかしい…イスキードの奴、電話に出ねぇ…。」

 三階の一室で恰幅のいい男が携帯電話を片手に落ち着かない様子でうろうろしていた。

「デレチさん…まさか倉庫やられたんじゃ…。」

 近くにいた三十代半ばの男が心配そうな顔を浮かべる。

「そんなはずはねぇ…十五番街にあるここならともかく、港は連中に割れてねぇはずだ!」

 自分に言い聞かせるように言うもデレチの額には冷や汗がにじんでいる。

 その時、ビルの前で車が数台停まる音が聞こえた、慌てて窓から覗くと銃を手にした男が数人降り立つのが見えた。

「なに!?」

 デレチは大慌てで一階にいる手下に電話をかける。

「おい襲撃だ!連中ここを嗅ぎ付けやがった!」

 言い終わる間もなく電話の向こうで入り口を破り攻め込んでくる敵の足音が聞こえる。

「迎え撃て!全員ぶっ殺せ!」

 電話に向かって怒鳴り上げるが返事の代わりに聞こえてくるのは激しい銃声だった。

「畜生!」

 電話を切り、近くの手下達を呼び集める。

「ここには何人いる?」

「八人です!」

「よし!下はあいつらに任せよう!俺達は裏の非常階段から逃げるぞ!降りれば小道に続いてる、車も入れない狭い道だ、そこから散り散りに逃げて決めてあった場所で落ち合おう!」

 そう言うと銃を取り出し、手下を引き連れ部屋を出る。

 非常階段のある廊下の突き当たりに向かおうとした時、ふと床に何かが散らばっているのが見えた。

「なんだ!?」

 よく見るとそれはトランプカードだった、数枚のカードが円を描くように並べられていた。

「誰だこんなものを…!?」

 すると前方から声がした。

「ムッシュ・デレチですね?」

「誰だ!?」

 デレチが慌てて銃を突きつけると物陰からシルクハットを被った道化師のような男が現れた。

「お前は…!?」

 それが噂に聞くレッヅォの手下のマーゴだと気付きデレチは全身の血の気が引くのを感じた。

「わたくしをご存知ですか?光栄です!」

 いやらしく笑みを浮かべわざとらしく会釈をする。

「殺せ!奴は十魔一味の殺し屋マーゴだ!」

 それを聞いて手下達も一斉に銃を向ける、しかしマーゴは慌てるどころか余裕の笑みを浮かべ指を鳴らす。

 その瞬間、床に散らばっていたトランプカードが激しく燃え出した、突然の事にデレチも手下達も激しくうろたえる。

「ハハハハッ!」

 高笑いが廊下に響く、デレチが慌てて銃を撃つがそこにマーゴの姿はない。

「ここですよ?」

 突然後方から声が聞こえた、振り向くとそこにマーゴがいるではないか。

「な、なんだとっ!?」

あまりの事にデレチは声を上ずらせる、マーゴはステッキをデレチたちに向けてくるくると円を描くように回している。

「皆さん、ポケットの中身に注意です!恐ろしい毒蛇がいますよ?」

 その言葉を聞いた瞬間、全員上着のポケットに違和感を覚え始めた、そこに何かがもぞもぞと蠢いているのだ。

「うわぁあああああっ!?」

 一人が悲鳴を上げる、見ると彼の上着の内ポケットから赤と黒のまだら模様の蛇が這い出し彼の首元に巻きつくのが見えた。

 そして残りの手下達も次々にポケットからおぞましい姿の蛇が這い出し、首元や胴体に巻きつくのが見えた。

「落ち着けっ!これは奴の催眠だ!気をしっかり持てっ!」

 デレチが手下たちに激を飛ばすも彼らは蛇にまきつかれる幻覚に我を失っている。

 デレチも胸元のポケットに何かが蠢いている感覚を覚え始めた、やがてそれは一匹のまだら模様の醜い蛇となって彼の胸元から首元へと巻きつき始める。

「幻覚だ…これはただの幻覚だ…!!」

 そう自分に言い聞かせるもおぞましい感覚はあまりにはっきりとしていて今にも悲鳴を上げてしまいそうだった。

「マ、マーゴォッ!?」

 催眠の主を仕留めればこれは収まるのではないか、そう考えマーゴに銃を向けるも、またもやそこにマーゴの姿はない。

「お呼びですか?」

 再びマーゴの姿は反対の方から聞こえた、振り返ると果たして彼は元の場所に戻っていた。

「なっ…!?」

 デレチはもはや自分の正気を疑った、なぜ振り向くたびにマーゴの居場所は変わるのか、一体自分は悪夢でも見ているのだろうか、それともこれもまた催眠の一種なのだろうか…頭が混乱して彼は震えだした。

「皆さん、魔術はお楽しみいただけましたか?それでは最後の仕上げです!」

 そう言うとマーゴはステッキに紫色の布を被せる、そして指を鳴らして布を取るとそこには拳銃が現れた。

「はっ!?」

 デレチが銃を構える間もなくマーゴは蛇の幻覚に我を失っている手下たちを次々と撃ち殺していった。

 デレチも撃ち返すが幻の蛇に首元を噛みつかれた痛みで照準が定まらない。

「いけませんね、そんな撃ち方では。」

 あざ笑う様に言うとマーゴはデレチの胸元に銃弾を撃ち込んだ。

 心臓を撃ち抜かれデレチはその場に倒れこむ、消え行く意識の中で首元に巻きついた蛇が消えていくのを感じた。

 仰向けに倒れると床にトランプカードが見えた、それらには焦げ跡一つなかった。

「…。」

 恐るべき幻の正体を知りながらデレチは息絶えていった。

 

 再びレッヅォの電話が鳴った、応答すると敵の全滅を知らせる内容だった。

「…そうか、よし分かった!ご苦労!戻ってゆっくり休め!夜は好きなだけ飲ませてやる!」

 電話を切ると、ソファに座るムルガに声をかける。

「全て片付いた!これでもう十五番街で俺に牙を向くやつはいない!」

 満足げな笑みを浮かべる。

「後はサツの動きが心配だな…。」

 険しい顔でムルガが答えるとレッヅォはそれを一笑に付す。

「そんな心配はいらんさ!証拠も何もない!現に俺たちは今夜ずっとここにいた!港に爆弾を持って行ったのはイスキードの手下だ、デレチはマーゴが始末した、証拠なんか何も残らんさ!」

 そう言うとジャケットを手に取り帰り支度を始める。

「俺は一旦家に戻って寝る!夜になったら今日襲撃に行った奴らに奢ってやろう!…そうだ、ロゼアの店を予約しておいてくれよ!」

「お前が電話してやれよ。」

 ムルガが呆れたように返す。

「俺がねぇ…。」

「そうだ、お前の声を聞ければロゼアも喜ぶだろう?」

「まぁな…。」

 気まずそうに答えるのを見てムルガは畳み掛ける。

「お前、最近俺やロゼアに何か隠してるだろ?」

 一瞬、レッヅォは動きを止めたが振り返ると、

「隠し事?そんなものはないさ!」

 と笑って答える。

「そうか…。」

 ムルガはそれ以上追求はしなかった。

「じゃあな!俺は帰るぜ!お前も帰って寝ろよ!」

 そう言い残してレッヅォはオフィスを後にした。

 第十四話「取引」

まったく酷い有様だな…。」

 無残な焼け跡となった港の四十五番倉庫の前に立ちチャン警部は顔をしかめた。

 捜査員達が焼け跡から証拠物件を懸命に探すがほとんどが爆風と炎で原形をとどめていない、それは黒こげた十数人分の遺体も同じ事だった。

 わずかに焼け残った証拠物件を鑑識係が青いビニールシートに並べていく、その中には銃器や弾丸と思しき物がいくつかあった。

「なるほど…。」

 それらを見渡しチャン警部は一人頷く、しばらくすると部下の刑事がメモを手に彼の元へとやって来た。

「鑑識の話では爆発の原因はTNT火薬を使った爆弾ではないかとの事です、それとここの倉庫の借主の名前ですが…どうも偽名らしいんです…。」

「なんという名で借りられてる?」

「ハイン・グリコフです。」

「やっぱりな…。」

 チャン警部が深く頷く。

「知ってるんですか?」

「あぁ、モーガンの手下だったイスキードの偽名だよ。」

「えっ、じゃあ…。」

「あの黒こげ死体のDNA鑑定が終わるまではなんとも言えんが、恐らくイスキードとその手下達だろう…見ろ、鑑識が集めた焼け残りの証拠品も銃らしきものが多い…。」

 その時チャン警部の携帯電話が鳴った彼はそれに応え電話を切ると部下の刑事を振り返る。

「十五番街の廃ホテルで数名の銃撃死体が見つかったそうだ、被害者の一人はモーガンの手下だったデレチだ…ここは所轄に任せて我々はすぐ現場に向かおう。」

 それを聞いて部下の刑事は顔色を変える。

「えぇ!?またモーガンの手下ですか?」

「そうだ、同じ日のほぼ同じ時間に別々の場所でだ、どうやら『坊や』は昨夜相当暴れまわったらしいな。」

「坊や?」

「レッヅォだよ。」

 そう言うとチャン警部は足早に現場を後にした。

 

同じ日の夜、十五番街中央の繁華街にある高級クラブ「ローズ」では昨夜の抗争に参加したレッヅォの手下達が慰労の宴のために呼び集められていた。

 少し遅れて店の前に一台の高級車が停まる、手下の何人かが出迎え後部座席を開けるとレッヅォが降り立った。

 店の入り口に入るその時に背後から声を掛けるものがあった。

「昨日は大活躍だったみたいだな!」

 レッヅォは振り返り声の主を見ると顔をしかめる、そこに立っていたのはチャン警部だった。

「なんの話しだい?チャンさんよ!」

 その返事を鼻で笑いながらチャン警部は続ける。

「下手な芝居はよせ、港の倉庫、廃ホテル、これだけ言えば分るだろう?」

「生憎と謎かけは得意じゃない。」

「おいおい、新聞を読まんのか?一面に出てたぞ?」

「新聞なら五紙も取ってる、だが昨日は事務所でムルガと飲みすぎてね、今日は夕方まで寝てたんだ、おかげで今日は読んでない。」

 チャン警部は呆れたようにまたも鼻で笑う。

「そうかい!お前自身は事務所に居たって事だな!…まぁいい、精々短き栄華に酔いしれろ、お前の敵がお前を殺るが早いか、俺がお前を捕るが早いか…見ものだなぁ!」

 皮肉たっぷりに毒づきレッヅォを睨む、すると手下達がチャン警部を取り囲むがレッヅォがそれを制す。

「やめとけ!指一本でも触れたら警部さんは『別件逮捕』っていうカードを切りやがるぜ?」

 手下達が引き下がるとチャン警部はつまらなさそうに舌打をする。

「随分よく躾けてるじゃないか?まぁ、ケチなカードじゃお前は引っ張れないよな!」

「それより良かったらチャンさんも飲んでくかい?あんたの安月給じゃ到底入れない店だが今日は俺の驕りだ!」

 今度はレッヅォが毒づくとチャン警部は腹を抱えて笑い出す。

「大人をからかうんじゃないよ坊や!『組織犯罪課の警部、マフィアから収賄』の記事っていうつまらんカードでも切りたいのか?」

 チャン警部が笑いながら返すとレッヅォはわざとらしく驚いた表情を見せる。

「どうやらチャンさんも安いカードじゃ倒せないね!…果たして短いのは俺の栄華か、チャンさんの出世街道か、見ものだね!」

 そう言い捨てると手を振りながらレッヅォは店の中へと入って行った。

 

 同じ頃、「ローズ」の奥の事務所ではここのオーナーロゼアがレッヅォの手下を一人呼び出していた。

「なんの用です?マダム。」

 急な呼び出しに緊張気味の若い男は怪訝そうに尋ねる。

「貴方、この間のハロウィンパーティーの後、レッヅォがどこに出かけたか知ってる?」

 その質問に男の顔色が変わるのをロゼアは見逃さなかった。

「知ってるでしょう?だって貴方があの日彼の運転手を勤めたはずだもの。」

「そうでしたっけ…よく覚えてないです…。」

 目を逸らし小さな声で答える男を見てロゼアは呆れた表情を浮かべる。

「話は変わるけど、貴方うちの女の子に手をつけたでしょう?」

 ロゼアがそっと刺すように言うと男はとたんに青ざめた表情を見せる。

「つ、つけてませんよっ!」

「あら、なら何で貴方が度々ジュリナの部屋に出入りしてるのかしら?」

 男はいよいよ青ざめ、額に冷や汗まで浮かべている、その様子に笑いそうになるのを堪えながらロゼアは話の核心に迫る。

「貴方、レッヅォにどう口止めされてるのかは知らないわ、けれど私は誰に聞いたかなんて言わないわ…そして貴方とジュリナの事も知らない振りを続けてあげるわ…。」

 男は床に視線を落としたまま相変わらず冷や汗を浮かべながら微かに震え始めていた。

「さぁ、どう?…ひとつの秘密を私に預けて自分の秘密を守る?それともボスへの忠義を守って自分の罰を受ける?…うちの女の子達に手を出したらどうなるか知ってるわよね?…ましてジュリナはとても人気のある子よ?それに手を出せば…。」

「マ、マダムっ!」

 男は思わず床にひれ伏す、ロゼアは口元に笑みを浮かべゆっくりと諭すように告げる。

「なら言いなさい?…あの夜、貴方はレッヅォをどこへ届けたの?」

 少しの躊躇いの後、男は押し殺す声でゆっくりと答え始める。

「…十二番街の…カフェです…。」

「何て店?」

「『フトゥール』っていう店です…。」

「そこには誰が?」

「…若い女がいました…。」

「…なんていう名前か知ってる?」

「…ボスが口にしたのは…ルミナっていう名前です…。」

「そう…。」

 ロゼアは椅子から立ち上がると床にひれ伏したままの男に声をかける。

「ご苦労様!立ちなさい?そして今の会話は忘れなさい?…ジュリナとの事は黙っててあげるから泣かさない事ね!」

 男は立ち上がると何度も頭を下げる、そして何度も躊躇いながら重い口を開く。

「マダム…あの店には男も一人居ました…。」

「男?」

「えぇ…黒影です…。」

「黒影…聞いたことあるわね…。」

「凄腕の殺し屋です…俺も見ました…ボスに…あの十魔のレッヅォに銃を突きつけたんです…。」

「えぇ!?それでどうなったの?」

「俺達も慌てて奴に銃を向けたんですが…あの野郎顔色一つ変えずにボスを睨み付けたまま…あの目…左目が赤く染まって…。」

 男は蘇る記憶が余程恐ろしいのかまたも震えだす。

「落ち着きなさい!それでどうなったの?」

「…ルミナという女が二人を制してその場は納まりました…幸い撃ち合いにはならず、ボスは俺達を連れ立って店を後に…。」

「そう…。」

 しばらく考えた後、ロゼアはまたも口元に笑みを浮かべる。

「分ったわ、今の話も忘れて宴を楽しみなさい。」

 そう言うとロゼアは何事もなかったように事務所を出てローズのフロアへ出る、丁度レッヅォが到着した頃だった、彼女は嬉しそうな笑顔で彼を迎える。

「遅かったじゃない?またドライブでもしてたの?」

 コートをボーイに預けながらレッヅォは笑いながら応える。

「昨日は徹夜だったからな、夕方まで寝込んでたのさ!」

「あら、お疲れ様!」

 ロゼアはボーイにシャンパンを出すよう指示するとレッヅォの襟元についた糸くずを払う。

「悪いな!」

 レッヅォがおどけたように返すとロゼアは笑みを浮かべて応える。

「いいのよ、貴方に付いた埃は私が全て払ってあげるから!」

第十四話「十二月の約束」

 それから一月ほどが経った。十二番街では平和な日々が過ぎていた。
 黒影が夕方近くに『フトゥール』に通うのは日課になっていた。
 客足の少ない静かな時間、コーヒーを飲みながらカウンターにいるルミナと話をするのが楽しい時間となっていた。
 ルミナにとっても夜の仕込みに取り掛かりながら黒影と言葉を交わす時間がかけがえのないものになっていた。
 時々、近所に住むルイト、バズ、レアの悪童トリオも二人を冷やかしに現れては黒影を困らせた。
「もう十一月も終わりね!」
 ルミナが外の通りに舞う落ち葉を見ながら呟く。
「そうだな、後三日で十二月か…。」
 コーヒーをすすりながら黒影も表の紅葉した街路樹に目をやる。
「そろそろクリスマスツリーも飾らないと。」
「あぁ、そんな季節だな…ん?サンタの格好もするのか?」
 黒影が思いついたように言うとルミナが驚いた顔を見せる。
「えぇ?なんでそうなるの?」
「だって、ハロウィンの時も魔女の格好してたろ?じゃあ、クリスマスはミニのサンタだ!」
 黒影がからかうように言うとルミナは口を尖らせる。
「バカ言わないでよ!あれはハロウィンだから仕方なく着たの!そんなイベントごとに仮装なんてしてられないわよ!」
 ふてくされたように仕込みを続けるルミナを笑顔で見つめながら黒影はふと思い出したように尋ねる。
「なぁ、クリスマスはやっぱり店があるよな?」
 それを聞いて急に晴れやかな表情でルミナは返す。
「なぁに?どこか連れて行ってくれるの?」
「まぁ…そうだな。」
「へぇ!じゃあ、お店休みにしちゃおうかな!」
「大丈夫なのか?」
「まぁ、喫茶店でクリスマスを過ごす人もいないだろうし、イブくらい閉めても平気じゃないかな?」
「そうか!ならどこかで飯でも行こう!」
 すると突然背後から声がかかる。
「『飯行こう』じゃなくて、『ディナーにしよう』でしょ?」
 振り返るとそこにはレアが立っていた。
「もう…ほんとデリカシーのない…そんな事じゃルミナお姉ちゃんに振られるよ?」
 腰を手に当て呆れたような顔を浮かべている。
「あのなぁ…お前はいつからそこにいるんだ?マセガキめ!」
 黒影が苦笑いを浮かべる。
「さっきから!二人の愛の語らいを聞かせてもらったわ!」
 にやにやしながら答える。
「ばか!」
 黒影がレアの髪をくしゃくしゃとかき回すとレアははしゃいだように笑いながら店から出て行った。
「まったく…。」
 黒影が苦笑いを浮かべるのを見ながらルミナも微笑む。
「ところで…さっきの続きだけど、飯…いや、ディナーはどこにしようか?」
「そうね…ご飯の前に行きたいところがあるの。」
「どこだ?」
「教会!」
「えぇ?教会?」
「うん!別に信仰があるわけじゃないんだけど、あの厳かな雰囲気が好きなの!クリスマスの夜、教会であの雰囲気を味わってからディナーも良くない?」
「あぁ、まぁ、ルミナがそれでいいのなら俺は構わないけど…。」
 ルミナの提案に戸惑いながらも黒影は頷いた。
「じゃあ、それでお願い!」
 嬉しそうに言って鼻歌まじりに仕込みを続けた。

「あの店か?」
 表の通りに停まる車の中で一人が言う。
「あぁ、十二番街、『フトゥール』…間違いない。」
 もう一人が答える。
「店の中、カウンターに女が一人、椅子に男が一人…あの男が黒影か…。」
「そうは見えないがな。」
「いや、それだけに危ない、雰囲気を隠せる、腕のいい証拠だ。」
「そういうもんかね。」
「あぁ、これ以上偵察を続けるのも危ない、気づかれる前に引き上げよう。」
 やがて車は走り去って行った。

 夜中、『ローズ』の奥では車の中の二人組とロゼアが話し合っていた。
「どうだった?」
「えぇ…黒影を見てきましたけどね…何とも言えませんね…ぱっと見は力量なんて無いように見える、ただこれが一番怖いんですよ、噂に聞く左目が赤くなった時がどれほどのもんなのか…。」
 今ひとつ要領を得ない説明に若干苛立ちながらロゼアは核心を訪ねる。
「それで?貴方たちに彼は殺せるの?」
 ほんの少し難しい顔を浮かべて男は答える。
「無理でしょうね…相手はあの黒影だ、俺たちが敵う相手じゃない。」
 ロゼアは明らかな落胆の色を見せる。
「不思議なんですがね、マダム・ロゼアは十魔の幹部でしょう?なら魔術師・マーゴを使えばいいじゃないですか?あの人なら黒影とも互角に渡り合える。」
「それが出来ない事情があるから貴方たちに頼んでるんじゃない!」
「はぁ…こちらとしても仕事を頂けるのはありがたいんですけどね、相手が悪過ぎまさぁ…金は欲しいが命も惜しい。」
 ロゼアは思うさま呆れた顔で相手を見返す。
「あんたそれでも殺し屋の端くれ?」
「恥ずかしながらね…。」
 深いため息をつくとロゼアはソファに腰を下ろし煙草に火を着ける、しばらく煙を吐きながら何やら考え事をしていたがやがて何かを思いついたらしく口元に笑みを浮かべて話し出した。
「いいわ!ならこんなのはどう?」
 ロゼアは新しい計画を彼らに告げた。

第十五話「深夜の侵入」

 その夜『フトゥール』の裏口に二人組みの人影があった。
「おい、こんなのでほんとに五千ゼルももらえるのかよ?」
 一人が訊くともう一人が口元に指を立てて睨む。
「しっ!声を出すんじゃねぇ!マダム・ロゼアがそう言ってるんだ!黙って仕事にかかるぞ!」
 懐から工具を出し裏口のドアの鍵をこじ開ける、戸を開くと二人は忍び足で建物の中へと入り込んだ。
 カウンターを抜け、店内へ、辺りを見回し上の階へと続く階段を見つけそれを上ろうとしたその時…。
「夜中にご苦労さん!」
 と背後から声がかかった、慌てて二人が振り向くとそこに黒影の姿があった。
「!!!」
 慌てて一人が銃を取り出すが黒影はそれを蹴り上げると素早い動きで相手の腕を捻り上げ床に組み伏した。
「なっ!!!」
 もう一人も慌てて銃に手をかけようとするも、それより先に黒影の銃がこめかみを捉えた。
「…!!」
 何がどうなっているかも分らないまま、彼らは黒影によって囚われの身になってしまった。
「お前らだな?今日の午後、表でここの様子を探ってたのは?」
「何っ!!」
 気付かれていたとは知らず思わず息を飲む。
「誰に頼まれた?」
「えっ!?」
「お前らを雇った奴だよ。」
「いや、俺達はたんにここに盗みに入っただけだ!」
「へぇ!この四件左には宝石店がある、さらに五件右には質屋もある…さて、問題!宝石店、質屋、喫茶店…金があるのはどこだ?」
「…こ、ここの主人は若い女で入りやすいかと…。」
「宝石店と質屋の主人はそれぞれ七十近いじいさんだ、俺なら迷わず宝石店に失敬しに行くね!」
「…俺達…泥棒稼業はまだ慣れてないもんで…。」
「ほぉ!あんなに見事な鍵開けが出来るのに?」
「前に…。」
「鍵屋だったなんて言い訳は聞きたくないね!」
「…。」
 もはや全てを見透かされている、彼は言葉に詰まってしまった。
「泥棒に見せかけ、ルミナを殺す…そういうつもりだったんだろう?」
 黒影も今度は声に凄みを増し相手の顔を睨んだ、その左目は赤く染まりだしていた。
「もう一度だけ訊く、誰に頼まれた?」
 銃の激鉄を起こし刻み込むような口調で相手を問い詰める、相手は骨まで凍りつく気分だった。
「わ、分った…言うよ!ロゼアだ!マダム・ロゼアだよ!十五番街で高級クラブを経営してる!」
「…なるほど、嘘なら命はないぞ?」
「う、嘘じゃない!」
「分った。」
 黒影は拳銃を振り上げると相手の後頭部めがけてグリップを叩き付けた、相手の男は低い唸り声を上げて気を失った。
「…。」
 黒影は二人を縛り上げると階段を上ってルミナの部屋へ向かった。
「片付いたよ。」
 黒影が笑顔を浮かべるとルミナは心配そうに彼の元へと駆け寄る。
「大丈夫?怪我はない?」
「大丈夫だよ!相手は素人同然だった!」
「そう…なら良かった…それで、これからどうするの?」
「警察署の前に捨ててくる、どうせ指紋で何かしら出てくる連中だろうから後は警察に任せよう!」
「分った…気をつけてね?」
「うん!大丈夫だ!ルミナも戸締りしっかりな!」
 部屋を出ようとしたところで黒影はふと足を止め、ルミナに尋ねる。
「なぁ、ルミナ…。」
「なぁに?」
「ロゼアって名前に聞き覚えはあるか?」
 するとルミナの顔色がさっと変わる。
「…知ってるんだな?」
「…うん…。」
「何者だ?」
 ルミナは答えにくそうにしていたが、やがて意を決したように答えた。
「…レッヅォの仲間よ…。」
「やっぱりか…。」
「…レッヅォの仲間…もっというなら彼の昔の恋人…。」
「…。」
「私が…レッヅォと出会ったから…二人は…。」
「分った、それ以上言わなくていい。」
「うん…。」
 悲しそうに俯くルミナを黒影はそっと抱き寄せた。
「大丈夫だ、なにも心配しなくていい…俺がお前を守る、何があっても必ずだ。」
 ルミナの髪をそっと優しく撫でながら黒影は囁くように語り掛けた。
「…うん、ありがとう…。」
 ルミナも彼の胸元にそっと顔を埋めた。
「それじゃあ、行ってくる。」
「うん、気をつけてね…。」
「あぁ!」
 そっと微笑むと黒影は階段を下りていった。
 ルミナは部屋の壁にかけてある鏡に顔を映す、そこには寂しげなルミナの表情が映っている。
「…。」
 自分の未来だけは何も分らない、たとえ明日死ぬ事があるとしても彼女はそれを知ることさえ出来ないのだ。
「…。」
 せめてさっき黒影の体に黒いあざが見えなかったこと、それだけが彼女にとって唯一の救いだった。

第十六話「対峙」

「マダム、お客様がご指名です。」
 ボーイがロゼアにそっと耳打ちすると彼女は怪訝そうに返す。
「私を?常連の方?」
「いえ、一見です。」
「そう、まぁいいわ!お待ちいただいて!」
「はい。」
 しばらくしてロゼアは指名のあったテーブルへと向かう、そこには黒い服を着た若い男が座っている。
「ごきげんよう、お呼びかしら?」
 微笑みながらロゼアは席に着く、あまり金のある客とは思えないが一応の愛想はしている。
「マダム・ロゼアか?」
 男は出されていたバーボンを一息に飲むと鋭い目付きで尋ねた。
「えぇ、そうよ?」
 怪訝な顔でロゼアが頷くと男は煙草に火をつけ煙を吐き出しながら続けた。
「昨日あんたの雇った二人組みのお相手をさせてもらったよ。」
 それを聞いてロゼアは全てを察した。
「そう…という事は貴方、黒影さんね?」
 顔色を変えもせず、むしろ口元に笑みを浮かべてロゼアはそう返した。
「あぁ、お見知りおきとは光栄だね。」
「あの二人はどうなったかしら?もしかしてもうこの世には…。」
「あぁ、心配ないさ!縛り上げて警察署の前に捨ててきた!生かしといてもどうという事のない連中だ。」
「そう…。」
「心配ないさ、あんたの名前が出る事はない。」
「まぁ、そうでしょうね…それにしてもダメね、三流のチンピラは…。」
 ロゼアは苦笑いを浮かべた。
「そうだな、腕の立つ奴を使った方がいい。」
 黒影は煙草を灰皿に押し付けるとロゼアを見据え鋭い目付きで続ける。
「なぜルミナを狙った?」
 その質問にロゼアは笑い声をあげる。
「なぜかって?目障りだからよ!女の嫉妬、分る?」
「ふざけるな。」
 黒影の目付きはいよいよ鋭く、声にも凄みを増した。左目は仄かに赤く染まりだしている。
 その様子にさすがのロゼアもわずかに戦慄を覚えた。月影街の裏社会で『紅眼殺手』と恐れられる殺し屋、黒影。今目の前にいる男に自分はいつ命を奪われても不思議ではないのだ。
「彼女はレッヅォと別れて何年も経つ、そしてよりを戻すつもりもないんだ、何故殺す必要がある?」
「分らないのね、女心が…あの子にそのつもりがなくても、彼の心にはもう想いが芽生えてしまった…それが私にとっては目障りなの。」
「ならレッヅォに問いただせ。」
「それが出来たら苦労はないわ。」
 ロゼアもシガレットケースから煙草を取り出すと火をつけそっと煙を浮かべた。
「それで、私をどうするつもり?この場で殺す?」
「答え次第だ、もう二度と彼女には手を出すな。それが出来ないのならこの場でお前を殺す。」
 黒影の左目は完全に赤く染まっていた、この眼を見て生き延びたものはいない。
「…私のバックには十魔のレッヅォがいるのを知ってる上での言葉かしら?」
「当然だ。」
「…。」
「レッヅォの力が借りたいのなら今すぐにでも呼べ、誰だろうと、何人が来ようと、全て殺め尽くしてルミナを守る。」
 黒影の鋭い視線はぶれることなくロゼアを捉えている、どうにもならない状況を感じ取り彼女は視線を落とした。
「あなたも…レッヅォも…あのルミナって子は一体なんなのかしらね…暗黒街の大物達を虜にするその魅力は何?…まるで自分が何も持たない者のようで惨めだわ…。」
「…。」
「この場であなたに勝てないわね…わかったわ…彼女には手を出さない…それでいいでしょう?」
「口約束はいらない、もし次少しでも変な動きがあれば、その綺麗な顔に鉛の弾をくれてやるぞ?」
「怖いわね…まだ死にたくはないわ…それにこの件は私もレッヅォに知られたくはない…。」
「ならもう馬鹿な考えは起こさない事だ。」
「…。」
 黒影は立ち上がるとテーブルの上に百ゼル札を数枚置いた。
「これで足りるか?」
「…あら、この店の支払いが出来るほどの懐なのね。」
「俺の殺しは一回いくらだと思ってる?三万ゼルは下らない。」
 捨て台詞を吐き、黒影は『ローズ』を後にした。

第十七話「本心」

 三日後の午後、十五番街のレッヅォ達のオフィスで幹部会議があった。
「…という訳で問題なく収益も上がっている、しかし…。」
「『油断なく事を進めなければ我々は河原生活に戻ってしまう』…だろ?聞き飽きたよお前のそれは!」
 レッヅォがムルガの収支報告の締めの文句を茶化す。
「…忘れてはならない事は常に肝に銘じておくべきだ、違うか?」
「堅いねぇ!マフィア辞めて教師にでもなったらどうだ?」
「それは名案だな、どんな悪童でもお前よりはましだろう!」
 ムルガは笑いながら資料を鞄にしまいオフィスを後にする、マーゴも後に続きオフィスにはレッヅォとロゼアだけとなった。
「私もそろそろ店に戻るわね。」
 そう言って帰ろうとするロゼアをレッヅォが呼び止める。
「待て。」
「ん?どうしたの?」
「一昨日の夜、『ローズ』に珍しい客が来たそうだな。」
 その言葉にロゼアは一瞬硬直したがすぐに平静を取り繕う。
「誰だったかしら?」
「なんでも黒い服を着て、赤い目をした客だったそうだ。」
「あら、そんな客いたかし…」
「お前を指名したそうだ。」
「…おかしいわね、覚えが…。」
 レッヅォは立ち上がるとロゼアを壁際に押し付ける。
「とぼけるな。」
「…とぼけてないわ…。」
 ロゼアは柄にもなく狼狽を見せる。
「黒影が何故お前の店に訪れる?」
「さぁ、たまたまじゃない?」
「黒影を知っているんだな?」
 ロゼアはさらに狼狽する。
「あ、あたしだって裏社会の人間よ?黒影くらい…。」
「いいや、お前は殺し屋の名前はあまり知らないはずだ。」
「そんな事は…。」
「もう一度訊く、何故、黒影が、お前の店に、そしてお前を指名する?」
「…。」
 レッヅォはため息をつくと鋭い視線をロゼアに向ける。
「ルミナに何をした?」
 それを聞くとロゼアは突然レッヅォの横顔を張り上げた。
「馬鹿にしないで!」
 レッヅォは黙ったままロゼアを見据える。
「嫉妬に狂ってあの小娘に何かをしたとでも?私にだってプライドはあるわ!」
「黒影とルミナの関係を俺は何も言っていないぞ?」
「…!」
 ロゼアは顔色を変えた。
「…まぁいい…俺もルミナに再会した事を言わなかった…だけどな、彼女は俺の気持ちには…。」
「やめて!」
「?」
「聞きたくない!」
「…。」
「あなたの口からあの子の名前なんて!聞きたくない!」
「…そうか…。」
ロゼアは悲しそうに俯くと涙声でレッヅォに問いかける。
「…あなたにとって…私って…なに?」
「…かけがえのない仲間だ…。」
「私は『仲間』なんかでいたくない!あなたにとって誰よりも近いたった一人でいたいのに…。」
 ロゼアは両手で顔を覆い涙を止め処なく流す、その姿にレッヅォはいたたまれない気持ちになった。
「ロゼア…すまない…。」
 肩に手を置こうとするが彼女はそれを振り払うとオフィスから出て行ってしまった。
「…。」
 レッヅォはしばらく何か考え事をしていたが、ふと顔を上げるとドアの方に向かって声をかける。
「入って来いよ。」
 するとドアを開けてムルガが入ってきた。
「聞いてたか?」
「あぁ…。」
「…困ったね…。」
「昔と同じだな。」
「…。」
「ロゼアはいつも泣いていた。」
「…。」
「あの予知能力の女が現れてからだ。」
「お前はルミナのことを昔からよく思ってないようだな…。」
 レッヅォはムルガを睨むが彼は構うことなく続ける。
「不協和音…だからな、俺達にとって…。」
「不協和音?」
「お前とロゼアの関係が壊れた、俺はお前達を祝福していたよ?けれどそれも壊れてしまった…でもロゼアは組織を去らずに今もここにいる…どんな気持ちか?考えた事あるか?」
「それは…。」
「間に挟まれた俺は?」
「悪いと思っているさ…。」
「そうだな、お前は『悪い』と思ってさえいればそれ済む!けれど、ロゼアは?彼女の気持ちはどうなる?四年以上も苦しみ続ける彼女の気持ちはどうなる!」
 珍しく声を荒げるムルガにレッヅォは何かを感じ取った。
「お前…もしかして…。」
「…取り乱して悪かった!」
 そう言ってムルガは足早にオフィスを去った。

 

第十八話「面倒な雑用」

 

鳴り響く電話の音でトールは目を覚ました、手探りで枕もとの携帯を掴み画面を見て顔色を変える。

「も、もしもし!」

「朝早く悪いな!」

「い、いえ!と、とんでもないです!」

 電話口の相手がボスであるレッヅォでなければここまで恐縮する事もなかっただろう、ましてや直接電話がかかってきたのはこれが初めてなのだ。

「今から事務所に来れるか?」

「えぇ、問題ないです!一時間で行きます!」

「そうか、慌てなくていい、落ち着いてゆっくり来い…それと、誰にも言わずに来いよ?」

「え…あ、はい、分りました!」

 電話を切りトールは顔を青ざめさせた。

「…やっぱりあの事…。」

 ロゼアの店の人気嬢ジュリナと恋人関係にある事を知られたのだろうか、ロゼアは黙っていてくれると言ってはいたがやはり気が変わったのだろうか。

「…殺さ…れるのかな…俺…?」

 レッヅォの恐ろしさはよく知っている、手下達にいつも気前良く酒や食事を振舞っているが、敵対した組織の者がいつもどんな最期を迎えているか知っている。

「…逃げようか…。」

 無駄かもしれない、それに咎める為に呼び出すのではないのかも知れない。

 そもそも自分に直接連絡を取ってくるのは何故だろうか。

 支度を始めると隣で寝ていたジュリナも目を覚ます。

「どうしたの?こんなに早くに?」

「あ、あぁ、仕事だ。」

「朝早くから?…まさか出入り!?」

「いや、出入りは当分ないし、俺は雑用の方が多いから…。」

「そう…ならいいけど…。」

 安心したように再び目を閉じたジュリナにトールは思い切ったように切り出す。

「なぁ…ジュリナ…。」

「なに?」

「今の仕事辞めて俺とどっか遠くで暮らさないか?」

「えぇ?」

 ふいな提案に怪訝そうな顔でジュリナは訊き返す。

「いやよ!今の仕事気に入ってるし、マダム・ロゼアも凄くよくしてくれる!…あなただってドン・レッヅォの所にいたほうが何かといいでしょ?」

「そうだけど…。」

「それとも堅気に戻る?」

「いや…それは…。」

「だったら気まぐれ言わないの!」

 ジュリナは起き上がると尚も何か言いたそうなトール抱きしめる。

「二人で頑張ってお金貯めるんでしょ?それで家を買う…私たち二人とも帰れる場所なんてないんだから…。」

「そうだな…。」

 トールもジュリナの肩を抱きしめ頷いた。

 

 午前七時、この時間帯ではオフィスの周りにも誰もいない、護衛さえいない事を疑問に思いながらトールはオフィスのドアをノックした。

「入れ。」

 中から声がしたのでドアを開ける、広いオフィスに大きなテーブルとソファがいくつか、全てアンティークの高級品だ、奥の大きな机の向こうでレッヅォは椅子に座っていた。

 トールは深々と頭を下げながらオフィスの中へと進んだ。

「悪かったな朝早く。」

 笑顔を浮かべながらレッヅォは立ち上がると棚の上のコーヒーマシンからコーヒーを一杯とってトールに勧めた。

「あぁ…頂きます…。」

 緊張の面持ちで受け取るとレッヅォに促されソファに腰掛ける。

「突然の呼び出しで何事だろうと戸惑ってるだろうが、安心してくれ。」

 自分も向かいに座りながらレッヅォはトールの緊張を解こうとする。

「訊きたい事と頼みたいことがあってな!」

「な、なんですか?」

「ハロウィンの夜、俺が十二番街へ向かったとき運転したのはお前だったよな?」

「え…あ、はい…。」

「その事をロゼアに話したか?」

トールは思わず心臓が止まりそうになった、あの夜のことをロゼアに話したことが知れたらどうなるかは考えるまでもない事だ。

「え…!?」

 真っ青な顔で硬直したトールの反応に答えを見たレッヅォは深々と頷いた。

「やっぱりそうか…。」

「す、すいませんボスッ!!」

 トールは思わずソファから飛び上がるとその場にひれ伏し、何度も額を床にこすりつけた。

「頭を上げろよ。」

 レッヅォにそう促されトールは恐る恐る顔を上げる。

「別にお前を咎める為にここへ呼んだんじゃない。」

「え…!?」

「とりあえず椅子に座れ。」

 呆れながらも噴出しそうな顔のレッヅォの表情にあっけに取られながらトールはソファに腰を下ろす。

「どうせロゼアがあの手この手でお前を脅したんだろう?別にいいんだ…それよりお前に頼みがある。」

「な、なんでしょう?」

「ロゼアを見張ってくれないか?」

「えぇっ!?」

 頓狂な声を上げるトールにレッヅォは顔をしかめながら続ける。

「別に四六時中監視しなくてもいい、どうせお前には出来やしない…ただあいつにおかしな様子があったら俺に知らせて欲しいんだ。」

「え…でも、俺マダム・ロゼアに会うのなんてボスが『ローズ』に連れて行ってくれる時くらいですよ?」

「お前はな、でもジュリナは毎日顔を会わすだろう?」

「え…えぇ!?」

 またしても頓狂な声を上げるトールにレッヅォは舌打ちをする。

「いちいち悲鳴を上げるな!お前仮にもマフィアだろう?」

「す、すいません…で、でもボスはそれをなんで?」

「俺が知らないとでも?……あぁ!そうか!」

 何かに思い当たりレッヅォは額に手を当てて突然笑い出した。

「なるほど!ロゼアがお前を脅したネタはこれか!俺がお前とジュリナの仲を知って始末するとでも?ハハハ!馬鹿らしい!」

 思い切り笑い転げるレッヅォにトールは狐につままれたような顔になる。

「生憎と俺は男女の事にとやかく言う主義じゃない、お前がジュリナを弄んで捨てたってのなら分るが、只付き合ってるだけでいちいち始末してたら弾の無駄だ!」

「えぇえ!?」

「ハハハ、いらん心配で寿命を縮めたか?」

「…。」

「悪かった、笑いすぎたな!…それよりさっきの話だ。」

「…あぁ、でも…ジュリナもマダム・ロゼアには凄く懐いてます、それなのに協力してくれるかは…。」

「別に協力してもらわなくていい、それとなく聞きだせ、店はどうだった?変わった事ないか?…そんな話でいくらでも出てくるだろう?」

「まぁ…。」

「なら決まりだ!」

 そう言うとレッヅォは懐から紙幣を取り出しテーブルの上に広げる、少なくとも百ゼル札が十枚はある。

「少ないが手付けだ!」

「えぇ!」

「面倒な雑用を頼むんだ!これくらい当然だろう?働きがよければもっとやる!」

「あ、ありがとうございます!」

「あぁ、それと!」

「はい?」

「ムルガの奴が『ローズ』に現れたりしたらすぐに報せてくれ!」

「ムルガさんが一人で『ローズ』に行ったことなんてありましたっけ?」

「ないよ、だからこそだ。」

「…分りました。」

「これはロゼアには勿論、ムルガにも知られるなよ?」

「はい…。」

「よし!今日は朝早く悪かったな!帰ってゆっくり休め!」

「ありがとうございます!」

 トールは立ち上がるとレッヅォに何度も頭を深々と下げる。

「ジュリナを大事にしろよ?とてもいい娘だ。」

「はい!」

 再び頭を下げオフィスを後にした。

 

第十九話「刻印」

 

「少し停めてくれるか?」

午後四時半、十五番街の国道を行く道の途中でムルガは運転手に声を掛ける。

「ここでですか?」

「あぁ…そこに廃屋があるだろう?そこの沿いに停めてくれ。」

「…分りました…。」

 運転手は首をかしげながらも言われたとおりに停車した。

 車から降りるとムルガは四階建ての廃屋の手前まで来てそこを眺める。

 そこはかつて商業施設が入っていたテナントビルだったが、二十年以上も前に倒産し、以降買い手がつかないまま廃墟となっている。

 入り口にはさび付いた立ち入り禁止の看板と有刺鉄線が張られている。

 有刺鉄線をを乗り越えムルガは中へと入り込む。

「ムルガさん!なにやってんですか!」

 運転手の男が慌てた様子で追いかけてくる。

「悪いが少し一人にしてくれ、考え事をしたいんだ。」

「考え事?」

「あぁ。」

「分りました…でも気をつけてくださいよ?足場も悪いし、いつ崩れてくるか分ったもんじゃない…。」

「心配はいらない…勝手を知った場所だ。」

「え?」

「…いいから車へ戻っていろ。」

「…分りました…。」

 運転手は首をかしげながら車へと戻る。

 邪魔者を追い払うとムルガは廃墟の中へと足を踏み入れていった。

 埃に塗れ薄汚れた内部、壁や床にはコケも生え浸水により水溜りも出来ている。

 誰も居ない廃屋は静けさだけが漂いムルガの足音だけが響いている。

 階段を上がり二階へやってくるとそこの大広間で足を止める。

「…。」

 壁に目をやる、埃に塗れてはいるがそこには何かを刻んだ跡がある。手で埃を払うと刻まれていた文字が目に入る。

『××99年、ここから全てを手に入れよう…L・R・M』

「…。」

 目を閉じ、遠い昔を思い浮かべる。

 

 夕日の差し込む大広間、冬の始まりは廃屋に冷たい隙間風を届けていた。

 汚れた風にもたれかかり年のころ十五、六の少女が膝を抱えて震えていた。

「寒い…こんな秋もののニットじゃ凍えちゃうわ…。」

 大き目の赤いニットの上着で細い体を包み込んでいる。

 それを横目で気の毒そうに見ながら少年の頃のムルガは必死にかき集めた木材に火を点けようとしていた。

「待ってろロゼア…もうすぐ、もうすぐ火がつくから…そしたら少しは温まるだろ?」

 そう言いながらもかれこれ一時間近く悪戦苦闘したままだった。

「レッヅォの奴はどこに行ったんだよ?」

 恨めしそうに呟く。

「なんか、調達に行くとか何とか言ってたわ…。」

「調達?金なんて一フィットたりともないのにどうやって仕入れてくるって言うんだよ!」

 忌々しそうに吐き捨てながらマッチと木材で格闘を続ける。

 最後の一本のマッチをすろうとした時、階段を上ってくる靴音が聞こえた。

 ムルガとロゼアは一瞬身構える、誰も近寄らない廃屋でも時には警官が見回りに来るかも知れない、見つかれば二人とも戻りたくない場所へと戻されるかもしれない。

「よぉ!待たせたな!」

 顔を覗かせたのは大きな袋を抱えた少年だった。

「レッヅォ!どこに行ってた!」

 ムルガが睨み付けるのも気に留めずレッヅォは得意げな顔で抱えていた布袋を床に置く。

「調達だよ!」

 言いながら袋をあけ中のものを取り出す。

「ほら!」

 缶をムルガに投げよこす。

「そいつがないと火も点かないだろう?」

 ムルガが缶を見るとそれは点火用のオイルだった。

「…。」

「それと、ほら!ロゼア!」

 袋から取り出したものを広げる、それはなんと毛皮のコートだった。

「わぁあ!」

 ロゼアは目を輝かせ飛び上がって駆け寄る。

「嬉しい!どうしたのこれ?」

「ちょっとな!まぁ、フェイクファーだけどな!」

 レッヅォが苦笑いを浮かべるもロゼアは満面の笑顔でそれに袖を通す。

「ううん!ありがとう!凄く温かい!」

 ロゼアはとても嬉しそうに近くにあった割れた鏡の前でくるくると回ったりしながら自分の姿を映している。

 それを微笑ましそうに見ているレッヅォにムルガは鋭い口調で問いかける。

「おい、説明しろ!お前それをどうやって手に入れた!?」

 レッヅォは苦笑いしながら答える。

「あぁ…近くの大型商店の裏側に捨ててあったんだよ。」

「捨ててあっただと?」

「あぁ、変わった店でね!店の裏の倉庫に大事そうに鍵までかけて『捨てて』あったんだよ!」

 とぼけたように答えるレッヅォの言葉にロゼアが思わず吹き出す。

「それは『捨てて』あったんじゃなくて『仕舞って』あったんでしょ!」

 ロゼアはよほど可笑しいのか腹を抱えて笑っている。

 しかし、ムルガは堪らず声を荒げる。

「盗んだのか!?」

 鋭い目で睨み付けるもレッヅォは笑みを浮かべて涼しげに答える。

「そうだ。」

 その様子にロゼアは益々笑い声を上げる。

「うるさい!」

 ムルガは思わずロゼアに当たってしまった。突然の事にロゼアもきょとんとしている。

「俺達は泥棒をするためにここにいるのか!」

 レッヅォの胸倉をつかみ詰め寄る。そんなムルガの肩に両手を置きレッヅォはゆっくりと答える。

「泥棒をするためにここにいるんじゃない、生きるためにここにいる。」

「なら…。」

「そして…。」

 そこでレッヅォも鋭い目でムルガを見据える。

「生きるためには食わなきゃならない…盗んででもな!」

「っ…。」

「お前のいう事のが正しいだろうよムルガ…でもな、今の俺達三人を法や道徳が守ってくれるか?」

「…。」

「俺の親父は法の番人だったのに殺された、お前の両親は学者として亡命してきたのに結局、政府は守ってくれず命を落とした…お前まで見殺しにしようとしてな!ロゼアだって…。」

 そこでいったん言葉を区切り、声を潜め続ける。

「…父親に虐待されていたのに児童保護局は守らなかった…。」

「…。」

「別にいいさ、守るのが面倒なら俺達は俺達のやり方で生き延びればいい!」

「…。」

 俯いたまま何も答えないムルガの肩を優しく叩きレッヅォは袋の中からまた何かを取り出した。

「悔やんでも始まらない!とりあえずこいつを食うとしよう!」

 レッヅォの持った箱の中にはフライドチキンが大量に入っていた。

「それも『捨てて』あったの?」

 ロゼアは噴出しそうな顔で尋ねる。

「あぁ、大型チェーンのチキン屋でね!廃棄になる寸前のを『拾って』きた!」

「やっぱり!」

 ロゼアは案の定、腹を抱えて笑い出した。

「ムルガも食おうぜ!腹減ってんだろ?」

 首を横に振ろうとしたが、腹の虫がなっているのに気付く。

「…。」

 

 食事が終わるとレッヅォはナイフを取り出し壁に何やら刻み付けている。

「なんだそれは?」

 ムルガが尋ねるとレッヅォが誇らしげに答える。

「記念碑を彫ってるのさ!」

「なんの記念だ?泥棒記念日か?」

 皮肉を言うとレッヅォは笑い声を上げる。

「あながち間違っちゃいないかもな!今日は俺達三人一味結成の日だ!」

「はぁ?」

 ムルガは目を丸くする。

「一味って?」

 ロゼアは目を輝かせている。

「俺達で組織を作るんだ!」

「泥棒の次はマフィアごっこか?」

 楽しげに語るレッヅォにムルガは冷ややかな視線を送る。

「マフィア…いいねぇ!この十五番街を俺達の縄張りにしよう!そして!いつかは月影街も全て手に入れる!」

「わぁ!凄い!」

 ロゼアは無邪気にはしゃいでいる。

「馬鹿を言うな、すぐに野垂れ死ぬのが落ちだ。」

「それでもいいじゃねぇか!俺達三人どうせ帰る場所もない!」

「…。」

 悲しそうな顔で何も答えないムルガにレッヅォは語りかける。

「俺の行動力、ロゼアの色気、そしてお前の頭の良さ…その三つがあれば出来ない事なんてない、全てが手に入る…いや、手に入れよう!もうこんなかび臭い廃墟はまっぴらだ!」

「…しかないんだろうか…。」

「ん?」

「それしか…ないんだろうか…生きる道は…。」

「さぁな…探せばあるのかもな…でもどの道大した明日じゃない、これが最も危険で馬鹿げていて、そして最も大きなものを掴める道だ。」

「十年先も俺達は生きているだろか?」

「生きているとも!生きるために戦うんだ!俺達三人誰一人欠けちゃ困る!」

 レッヅォは立ち上がり壁に文字を刻み続けた、やがてロゼアにナイフを渡し何かを刻ませている。

 ロゼアが刻み終えるとムルガへとナイフを手渡す、それを握りムルガは壁の前に立つ、ほんのわずかの時間俯いていたがやがて意を決したように壁に刻み込んだ。

『盟暦99年、ここから全てを手に入れよう…L・R・M』

レッヅォ、ロゼア、ムルガ、それぞれのイニシャルを自らの手で刻み込んだ。

 

「…。」

 十年以上も昔の事ながらまるで昨日の事のように鮮明に思い起こしながらムルガは壁の文字を見つめていた。

「…壊す事は許されない…。」

 そう呟くと踵を返し廃墟を後にする、車に戻り後部座席に腰を下ろすと運転手が問いかける。

「事務所に戻られますか?それともご自宅へ?」

「…一度食事を摂りたい、その後で『ローズ』へ向かってくれ。」

「え?ボスとご予定でも?」

「いいや。」

「そうですか…お一人では珍しいですね。」

「そうだな。」

 ムルガの気難しげな表情を察して運転手はそれ以上何も訊かずに車を走らせた。

 

第二十話「ムルガの提案」

 

 夜の十二時近く『ローズ』は客も疎らになっていた。

「今日は早仕舞いにしようかしら?」

 ロゼアがそんな事を思っているとボーイが何かを告げに来た。

「あら、珍しい!」

 驚きながらも笑顔でとあるテーブルへ向かう、そこにはムルガの姿があった。

「珍しいわね!あなたが一人で来るなんて!」

「そうか?」

「大抵レッヅォと一緒でしょ?そういえば今日は来ないの?」

 その言葉にほんの少し顔を曇らせながらムルガは首を横に振る。

「いいや、来ないよ。」

「そう、残念ね…まぁ、たまには二人で飲みましょうよ!今日平日のせいかお客さん少なくてもうすぐ閉めちゃおうと思ってるの!」

 ソファに腰を下ろしながらボーイを呼び酒を持ってこさせる。

「いいのか?店仕舞いなのに俺がいても?」

「あぁ、気にしないで!ここから先は私もただの飲み!」

「そうか、それはありがたい!」

 酒が運ばれ二人分のグラスにウィスキーが注がれる、それを呑みながらしばらくは他愛のない話を交わす。

 しばらくすると客の残りが帰ったのでロゼアは店仕舞いの為の指示を出しに席を立った。

 ムルガはグラスの中の氷が解けるのを見つめながらじっと何かを考えていた。

「ごめんなさい!待たせたわね!」

 ロゼアが戻ってきた。

「お疲れさん!俺達三人の中でお前が一番働き者だよ!」

 ムルガがおどけたように言うとロゼアが嬉しそうに返す。

「ありがとう!それレッヅォにも言ってやってよ!」

「確かに…あいつは仕事してるのか遊んでるのか分らない奴だよ…昔からな…。」

「昔…。」

「覚えてるか?昔廃墟にいた頃の事を?」

 ムルガが懐かしそうに言うとロゼアが顔をしかめる。

「…やめてよ…あんな辛い頃、思い出したくもない…。」

「そうか…食うものもろくになかったもんな…。」

「それに寒かった…凄く…。」

「そうだな、お前はいつもがたがたと震えてたな。」

「ほとんど夏着で家出しちゃったからね…。」

 ロゼアの顔が曇り出す、どうやら辛い少女時代を思い出しているようだ。

「…すまない、嫌な事を思い出させて…。」

「…いいの…でも、あなたとレッヅォの二人に出会えたから良かった…二人は本当に大事にしてくれた、あなた達には感謝しているわ、二人がいなかったら私は間違いなく死んでたと思う…。」

「ロゼアにとって、俺たち三人の関係は大事なものか?」

「当然でしょう?二人と出会ってからが私の本当の人生の始まり!」

「俺もそうだ、お前達と出会ってから絶望と孤独を忘れて生きてこれた…。」

 しかしムルガは眉間に皺を寄せグラスの残りを飲み干すと吐き出すように言った。

「レッヅォはどうだろうか?」

「えぇ?」

「あいつにとってはどうなんだろうか?」

「そりゃ、私たちと同じはずでしょう?」

「…そうだろうか…。」

「どういう意味?」

「奴にとってはあの廃墟はきっと忘れ去られた過去だ…。」

「そんなわけ…。」

「なら何故奴はお前を悲しませる?」

「え…?」

「お前はいつだって俺達にとってお姫様のような存在だった、大事に守ってきた…けれど奴は『魔女』に魅入られた。」

「やめてよ…。」

「かつてお前とレッヅォが恋仲になった時も俺は祝福していた、レッヅォになら任せられる、それなのに…。」

「お願い、やめて!」

 ロゼアは悲痛の声で顔を覆う、そして肩を震わし涙を流し始めた。

「すまない…次から次へと嫌な話ばかり…。」

「今日はどうしたっていうの?いつもの冷静なムルガじゃない!」

「そうだな…ずっと冷静だった、いつも冷静に物事を見ようと勤めてきた…だけどそれも限界だ…。」

 それからムルガはしばらく黙ったまま手に持ったグラスを眺めていた。

 ロゼアも黙ったままそんな彼の様子を見つめていた。

「『魔女』には黒影が付いているのだな?」

 ようやく口を開いたムルガが尋ねるとロゼアが小さく頷いた。

「ならば…魔女と黒影、二つの不協和音に消えてもらおう。」

 重く鋭い口調でムルガは言った。

 

 玄関のドアが開く音が聞こえ、ジュリナの帰宅を知ったトールは眠い目をこすりながら迎えに出る。

「お帰り、今日は早かったな。」

「うん!店暇でさ、マダム・ロゼアも今日は早仕舞いって言うから!」

「そうなのか…。」

 コートを脱ぎ台所へ行くとジュリナは冷蔵庫を開けて水の入ったボトルを出す。

 コップを差し出しながらトールはふと思いついたように尋ねる。

「今日…店どうだった?」

「え?だから暇だったって言ったじゃない?」

「あぁ…そうだな、えと…なんか変わった事とかは?」

 レッヅォに様子を探るように頼まれたものの、いざとなると自然な感じで訊けない自分に嫌気が差していた。

「変わった事?何で?」

「いや…。」

「あ!そういえば!」

「え?なんだ?」

「珍しくね!ムルガさんが来てたよ?それも一人で!」

「なに!?」

 トールは思わず息を飲んだ、ムルガの様子も探れと命じられていたのを思い出したのだ。

「ムルガさんが一人で『ローズ』へ?ボスは来てなかったのか?」

「来てない…と思うよ?だってボスが来るなら手下の人大勢連れてくるでしょ?」

「まぁな…で、どんな様子だった?」

「私もそんなによく見てないけど、マダム・ロゼアとなんか深刻そうに話してたよ?」

「…深刻そうに…。」

 トールは思わず考え込んでしまった、やはりこれはレッヅォに言うべきなのかどうか。

 そんなトールの顔をジュリナは怪訝そうに覗き込む。

「トール!どうしたの?」

 思わずはっとしながらトールは誤魔化すように答える。

「あ、いや何でもない!…俺もそれは珍しいなと思ってさ!」

「そうだよね!」

 ジュリナは笑いながら水を飲み干すとコップをトールに渡しながらさっさとシャワールームへ向かっていった。

 トールはその隙に携帯を取り出すとベランダに出てとある番号へ掛ける。

 夜中にもかかわらず相手は電話に出てくれた。

「…もしもし、夜中にすみません…実は…。」


 第二十一話「不穏な影」

 

 十二月になり街はクリスマスの飾り付けで一色に染まっていた。

 例年にしては気温も低くクリスマス前後には雪が降るとの予報も出ている。

 十二番街の通りも各商店はツリーや夜にはイルミネーションの明かりも灯るようになっていた。

 『フトゥール』の店内もツリーとステレオから流れるクリスマスソングで雰囲気を出している。

「どっちがいいと思う?」

 ルミナが尋ねると黒影はきょとんとした様子で答える。

「七面鳥にするか、ローストビーフにするか?」

「違うわよ!」

 ルミナが呆れた顔で返す。

「ケーキに入れる果物!ラズベリーかイチゴか!」

「そんなに違うものか?」

「全然違うでしょ!もう…そういうとこはほんとに無頓着だよね?」

「あまり甘いものは食べないからな…。」

 苦笑いで答えるとルミナも仕方がないといった表情を返す。

「もうちょっとだね…クリスマス。」

 嬉しそうに微笑みながらツリーを見上げている。

 その横顔を見つめながら黒影も愛おしそうに答える。

「そうだな。」

 夕方前の店内には二人だけ、静かで穏やかな時間が流れる。

 ずっとこのままならいいと黒影は思っていた。

 何事もなく、このまま平和な時間だけが流れ、ルミナとの二人の時間が幸せなものであれば良いのに…。

 そんな事が頭によぎりながらコーヒーカップに口をつけようとしたその時、突然店のドアが開く音がした。

 黒影が振り向くとそこには…。

「ただいまぁ!」

 学校帰りの鞄を提げ例の悪童三人組が現れた。

「あぁ…やっとだよ…やっと!!」

 ルイトが感激の表情を浮かべていると深々と何度も頷きながらバズがその先を続ける。

「…長い長い学校生活も終わり!」

 最後はレアがまるで映画賞を受賞した女優のような表情としぐさで締める。

「…明日から念願の冬休み!!」

 そして三人同時に声を上げる。

「やったぁあ!!」

 そのかしましい声を聞きながら黒影は頭を抱えこんでいた。

「お前らなぁ…人のコーヒータイムをやかましく邪魔しやがって…。」

「お!黒服のあんちゃんいたの?」

 ルイトが馴れ馴れしく黒影の背中をぽんと叩きながらやって来る。

「いたの?じゃない!学校終わったならまずは家へ帰れ!」

「だって帰っても誰も居ないし!」

 レアがしれっとした顔で返す。

「そうそう!それにやっぱここでおやつにしなくちゃね!」

 バズがにやりと笑って続ける。

 それを可笑しそうに笑いながらルミナがカウンターにケーキを乗せた皿を三つ出す。

「はいはい!そろそろご登場だと思ってたわ!これクリスマスケーキの試作品だけど良かったら味見してみてね!」

「やったぁ!さすがはルミナねぇちゃん!」

 大はしゃぎで悪童三人は椅子に座るとケーキにかぶりつく。

「いつもありがとう!お代は全て黒服のあんちゃんにつけといてね!」

 ルイトがおどけると黒影は苦笑いしながら再び頭を抱えこむ。

 図らずも賑やかな時間が訪れた。

 

 悪童達が皿の上のケーキを全て平らげ満足げな顔を浮かべた頃、ルミナはふと時計を見た。

「あら!もう五時前じゃない!暗くなるしあんた達帰りなさい?」

 それを聞いてレアも慌てる。

「ほんとだ!やばい!そろそろママが帰ってくる!」

「俺もじぃちゃんが心配する!」

 ルイトも事態に気付いて慌てる。

「ねぇ、もう暗いから送っていってあげて?」

 ルミナが頼むと黒影も頷いた。

「そうだな!…よし!お前ら腹ごなしの散歩だ!」

 そう言ってルイトたちを連れ立ち黒影は店を後にした。

 ルミナは空いた皿の片づけを始めた、洗い物も終わり夕方の帰宅客達の支度にかかろうとした時に、ドアの呼び鈴の音が聞こえた。

「いらっしゃい!」

 帽子を目深にかぶった二人組の男性客が入ってきた。

 二人は店内を見渡すとカウンターから少し離れたテーブルに着いた。

「…。」

 ルミナはその男達の雰囲気に不安を覚えながらも注文を取るためにテーブルに近づく。

「…ご注文は?」

 ルミナが尋ねると男の一人がメニューを見ながら答える。

「コーヒーを一つ。」

 もう一人もメニューをめくりながら続ける。

「俺はコーンスープをもらおうか。」

 どうやら普通の客だったようだ。

 ルミナは安堵の表情を浮かべ振り返りキッチンへ向かおうとしたその時、背後で男が席を立つ音が聞こえた。

 何事かと振り返ろうとしたその時、背中に硬い金属の筒が押し付けられるのを感じた。

「!!」

 驚く間もなくもう一人が前方へ回って懐からサイレンサーの着いた拳銃を取り出すのが見えた。

「声を立てるな。」

 背後の男が低い声で威圧する。

「表へ出ろ。」

 目の前の男も同様に低い声で命令する。

「…っ!」

 ルミナは喉まで出かかった声を押し殺した。

 前後から銃を突きつけられている、今逆らえば命が危ないのは目に見えていた。

「早くしろ!」

 またもや低い声で命じられるとルミナはゆっくりと頷き、男達に促されるままに店の外へと向かう。

「…。」

 店の出口に向かって歩きながら男達に気付かれないようにルミナはそっと左手の指輪を外し床へと落とした。

 店の外へ出るとそこには一台の車が待っていた。

 男の一人が後部座席のドアを開けると顎で乗るように促す。

 これに乗れば生きて帰って来れないかもしれない、しかし乗らなければ突きつけられた銃の餌食になるかも知れない…ルミナは例えようのない恐怖を覚えながらも車に乗り込んだ。

 

 黒影がフトゥールに戻りルミナのいない異変に気付いたのはそれから三十分ほど後の事だった。

 この時間に休止中の看板も出さずにルミナが出かけるはずがない、胸騒ぎを覚えながら店の中を見渡し何か手掛かりがないか探す。

 ふと床を見るとルミナの指輪が落ちている、黒影がしばらく前に贈ったものだ。

「…誰が連れ去った…。」

 黒影が拾い上げた指輪を鋭い眼で睨む。

 その時、黒影の携帯が鳴り響いた。

「もしもし…。」

 応えると電話の向こうで男の声がする。

「黒影か?」

「あぁ、お前は誰だ?」

「そんな事はどうでもいい、『魔女』に会いたいか?」

 それを聞き黒影は眉間にしわを寄せる。

「その名でルミナを呼ぶな。」

「これは失礼、ではルミナ嬢に会いたければ一時間後に十五番街二十六番地の廃屋まで来い。」

「分かった、俺が行くまでルミナには指一本触れるなよ?楽に死にたいならな。」

「よろしい、心配はいらん。」

 それだけ言うと相手は電話を切った。

 電話を懐に仕舞い黒影は店を後にする、その左目は既に赤く染まりきっていた。

 

第二十二話「対峙」

 

 午後七時、十五番街二十六番地の廃工場の前に黒影は居た。

 表の扉にも周りにも見張りらしき者はいない、中へ入れということだろう。

 錆びた鉄の扉を開き中へと入る、建物内は明かりもなく視界は悪いが、外から入る微かな光で、もはや動かす者もいない工作機械が並んでいるのが見える。

 黒影は敵の気配や罠に気を張りながら奥へと歩みを進める。

 すると突然眩い光が黒影を照らした。

「よく来たな黒影。」

 吹き抜けになった工場の二階部分から声が聞こえる、黒影が見あげると工業用の大きなライトのすぐ近くに人影が見える。

「ルミナはどうした!」

 黒影は眩さに目を細めながらも男の顔を確認しようとするが逆光でシルエットしか見えない。

「ここにいる。」

 男が合図をすると奥から手下に連れられてルミナの姿が見えた。

「用があるのは俺だろう?彼女を解放しろ!」

「悪いがそうもいかん。」

 男が言ったその時、黒影は自分の四方から殺気立った気配を感じた。

 とっさに身を伏せると四方から銃声が何発も鳴り響き銃弾が辺りの工作機械に当たって火花を上げる。

 素早く銃を抜くと物陰に身を隠し辺りの様子を窺う。

 工場の端から物陰に隠れて撃ってきているようだ、相手の銃口の火花で位置を見極めようにも自分に当てられている眩い光が邪魔をしてそれを出来ない。

「先ずはあれからだ。」

 黒影は上方のライトを撃った、その瞬間工場は一瞬にして暗闇へと戻る。

 四方にいる敵もそれに動揺してか慌てた様子で撃ち続けてくる。

 今度ははっきりと敵の銃口から放たれる光が見えた。

「…左十一時に一人…八時に一人…右三時の方向に二人…。」

 敵の位置を見極め動き出す、相手の銃弾を工作機械の陰でかわしながら素早く相手に照準を合わせて引き金を引く、八時の方向で低いうめき声と人が倒れる音が聞こえる。

 一人倒されたのを知って残りの敵も益々勢いづいて銃弾を撃ち込んで来る。

 工作機械に当たる銃弾で散る火花の中黒影は素早く動き今度は十一時の方向の敵を撃つ、敵の倒れ込む音に手応えを感じて今度は反対方向の敵へと向かう。

 三時の方向では二人組の敵が武器を変えたようだ、二人ともサブマシンガンに持ち代え連続で銃弾を放ってくる。

 辺り一面の工作機械は激しく火花を散らし、砕けた金属片が容赦なく降り注いでくる。

 黒影は身を屈めそれをやり過ごしながら敵の弾が尽きるのを待つ。

 やがて弾が尽きて敵は空になったマガジンを替えようとする、その一瞬の隙を狙って黒影は素早く敵に銃弾を撃ち込んだ。

 はじけ飛ぶように敵が倒れる、辺りに敵の残りが居ないのを確認して黒影は立ち上がった。

 同時にまたもや眩い光が黒影を照らしだした。

「黒影、銃を捨てろ。」

 さっきの声が命じるのが聞こえた。

 見上げるとルミナを抑えている男が銃を彼女に突きつけている。

 さらにその周りにはサブマシンガンを抱えた男も数人いる、黒影に銃を捨てさせ、その後でゆっくりと蜂の巣にするつもりなのだろう。

「黒影、女の命を救いたければ銃を捨てろ!」

 声の主も銃を抜いてルミナに突きつけている、どうやら一旦相手の言う通りにするしかないようだ。

 黒影が銃を捨てようとしたその時、二階部分で銃声が鳴り響いた。

「!?」

 ルミナが撃たれたのかと思い見上げると、彼女を抑えていた男が前のめりに倒れこむのが見えた。

 さらに慌ててサブマシンガンを構える周りの男達も次々に謎の銃声に撃たれて倒れこむ。

一体何者かと目を凝らすとやがて一つの人影が現れた、その正体を見てルミナが驚きの表情に変わるのが見えた。

 そこに立っていたのはレッヅォだった、彼はライトの近くにいる先程の声の主に銃を突きつける。

「どういうつもりだ?」

 しかし、声の主は何も答えずに後ろを向くと暗闇に紛れて姿を消してしまった。

 レッゾォは銃を構えていながらもなぜかそれを撃つ事も、後を追うこともせずにそこに佇んでいた。

「レッヅォ!!」

 黒影がレッゾォに銃を突きつける。

「お前の差し金か!?」

 しかし、レッヅォは黒影を見下ろしたまま吐き捨てるように答える。

「ならなぜ俺が助けに来る必要がある?」

「さっきの男は何者だ!」

「お前は知る必要はない…俺の不始末だ、後で俺がかたをつける。」

 それだけ言うとレッヅォはルミナの手を引き寄せる、慌ててルミナが抗おうとするもその身を軽々と肩に抱えこんでしまった。

「ルミナから離れろ!!」

 黒影が銃の激鉄を下ろしてレッヅォに狙いを定める、しかし、レッヅォは不敵な笑みを浮かべる。

「悪いな黒影!今お前の相手をしている暇はない、だけど代わりに遊び相手を連れてきてやったよ!」

 それだけ言うと暗闇の中に姿を消してしまった、慌てて黒影が後を追おうとしたその時、足元に何かが散らばっているのが見える。

 目を凝らして見るとそれは数枚のトランプカードだった、黒影の周りを取り囲むようにトランプカードが落ちている。

「いつの間に!?」

 思う間もなく建物内に気味の悪い笑い声が鳴り響く。

 慌てて声のするほうに振り向いて銃を構える、するとそこには予想通りマーゴがいた。

「お久し振りですね!黒影さん!」

 シルクハットを取り恭しく会釈をする。

「マーゴ!悪いが今お前の手品を観ている暇はない!」

「手品ではありません!『魔術』ですよ!…それに残念ながら今日は魔術師として貴方に会いに来たのではありません!」

 そう言ってシルクハットを被り、杖を黒影に突きつけゆっくりと円を描く。

「今宵はわたくし、殺し屋として貴方に会いに来ました!」

 それに答えるように黒影は銃弾を撃ち放った。

 しかし、銃弾を食らったはずのマーゴの姿はまるでガラスが割れるように粉々に砕け散る。

 そこにあったのは鏡だった、黒影は鏡に映ったマーゴの姿を撃ってしまったのだ。

「どこを撃ってらっしゃるのですか?」

 背後からマーゴの嘲笑うような声が聞こえる。

 黒影は振り向いて銃を突きつけた、するとマーゴは指を鳴らした。

 突然黒影の足元にあった何枚ものトランプカードが激しい炎を上げて燃え上がる。

 黒影はその場から飛びのいた、その隙を逃さずマーゴが突進してきた。

黒影が銃を構える間もなく、懐に入りこんだマーゴは杖の柄の部分でみぞおちを殴りつける、激しい痛みに黒影は一瞬息が止まる、しかし容赦なく次は杖の先で顎を突き上げられた。

黒影は弾け飛ぶように仰向けに倒れた、衝撃で銃も飛んで行ってしまった。

「ハハハ!あっけないですねぇ!」

マーゴが尚も嘲笑うような声を上げる。

朦朧とする意識の中で黒影は目を開いて顔を上げる、向こうでマーゴがシルクハットに手を入れているのが見える、やがて引き抜くとその手には銃が握られていた。

「ショーの幕引きと致しましょうか!」

 マーゴは銃のシリンダーを弄ぶように何度か回した後、激鉄を下ろしてゆっくりと狙いを黒影に定める。

 黒影は消えかかる意識を必死に呼び起こし、腰元のポケットからナイフを取り出すとマーゴ目がけて投げつけた。

 しかしマーゴはそれを銃で撃ち落す、その隙に黒影は立ち上がり落とした銃を拾いに駆け出す。

 後ろで銃声が鳴った、耳元を銃弾がかすめる、黒影は身を屈めて床を転がった、しかしマーゴの放つ銃弾が容赦なく身の回りの床に当たり土埃が上がる。

 ようやく落とした銃に手を伸ばし素早く振り返るとマーゴへ向けて引き金を引く。

 しかし、マーゴも素早く物陰に隠れてしまった。

 その隙に黒影も物陰に隠れ様子をうかがう。

「さて!このくらいでいいでしょう!」

 そう言ってマーゴは指を鳴らす、その途端工場内のあちこちから火の手が上がった。

 黒影が物陰から見ると火の手の向こうでマーゴが嘲笑うようにこちらを見ている。

「さて、黒影さん!今宵のお遊びはこのくらいに致しましょう!もし貴方が無事生き延びて再びお会いする事が出来たならその時はお命をきっちり頂戴するとしましょう!それではごきげんよう!」

 シルクハットを取り恭しく礼をしてやがて火の手のさらに向こうへと姿を消してしまった。

 黒影はそこへ銃弾を撃ち込んだが手応えは感じられない、それ以上に益々勢いの増す炎に包まれた工場内から脱出しなければならない。

 辺りを見回すと出口は既に炎に包まれている、一階に窓はなくそこからの脱出は望めない。

 二階を見上げると天井が明り取りのためにガラス張りになっている箇所がある、どうやらそこから逃げ出すしか手は無いようだ。

 黒影は素早く二階へ上がる階段を見つけそれを駆け上がる、炎は一階部分のほとんどに広がり今や二階にも上がり始めている、もはや一刻の猶予もない。

 二階に辿り着くと壁にむき出しになっている鉄骨がある、見上げると天井まで続いていてガラス張りの部分まで繋がっている。

 工場内の温度は異常なまでに上がり白い煙も視界を奪うほどに広がっている、息も苦しくなってきた、後は時間と気力との勝負になりそうだ。

 鉄骨を大急ぎでよじ登る、天井に沿った鉄骨を掴み背中を下に向けて上り続ける。

 下から上っている熱気で背中が焼けるように熱い、体中から汗が噴出し手を滑らしそうになる。

 やがて必死の思いでガラス張りの部分へ辿り着きそこへ銃を向け撃つ、飛散防止ガラスらしく蜘蛛の巣状にひびが入る、立て続けに銃弾を撃ち込むとガラスは剥がれ落ちるように落下した。

「やった!」

 黒影は開いた部分から命からがら屋根の上へと這い上がった。

 工場の屋根の端まで来ると下を見下ろす、地面までは十メートル以上はあるだろうか、飛び降りれば動けないほどの怪我を負うか、下手をすれば命を落とす。

 振り返ると先程抜け出してきた所から黒い煙が勢いよく上がっている、この屋根も間もなく焼け落ちるだろう。

 遠くで消防車のサイレンの音がする、その後ろからはパトカーのサイレンも聞こえる、誰かが通報したのか、それともこれもマーゴの罠だろうか。

 もはや考えている暇もない、黒影は屋根の端を走り回り、下にクッションとなる物がないか探した。

 すると工場の裏手に一台のトラックが目に入った、ボロボロにさび付いた配車同然のトラックだ、この工場でかつて使っていた物だろう、見れば荷台部分には幌がかかっている。

「マーゴ…次会った時にきっちり借りを返してやるよ…。」

 憎々しげにそう呟いて意を決したように屋根を飛び降りる、エレベーターが急降下したかのような落下感に続き激しい衝撃が全身にぶつかる。

 ほんの一瞬意識が遠のいた気がした、気が付けば無事にトラックの幌の中に包まれていた。

 急いで体を起こす、全身に痛みが走る、よろけながらも工場の表側に辿り着いたサイレンの主に見つからないように黒影は走り出した。

 

 工場から五キロほど離れた国道を走る車の中でムルガは電話を手に話しこんでいた。

「…あぁ、失敗に終わった…すまない…どういう訳かレッヅォが現れた…そう、計算外だ…少しあいつを見くびっていたかも知れないな…大丈夫だ心配ない…俺が対処する…そうだな…お前はしばらく姿を隠していた方がいい…後で俺から連絡するよロゼア…。」

 そう言って電話を切る、ため息をつき窓の外を睨む、月影街のビル郡が遠くで輝いている、それを見つめながらムルガは一体どうやって情報が漏れてたのかを考え込んでいた。

 すると電話が鳴った、見ればロゼアの番号ではなく予想していた通りの相手だった。

「…俺だ…。」

 ためらいながらも応えると電話の向こうではとぼけたように明るい口調でレッヅォが声を上げた。

「よぉムルガ!さっきは妙な所で会ったな!」

「…。」

「なんだ、暗いな!俺の登場がサプライズ過ぎてショックが癒えないか?…この間の晩、ロゼアと飲み明かしたそうじゃないか!水臭いなぁ!俺も誘ってくれればいいのに!」

「…皮肉はよせ、言いたい事があるのならはっきり言え。」

「なら言おう、お前達はとんでもない過ちを犯した。」

「過ちだと?」

「そうだ、俺を裏切り、ルミナの命を狙った。」

「俺が狙ったのは黒影だ。」

「ならルミナを囮になんてせずに黒影だけを狙えば棲む話だろう?それに我々が黒影を狙う理由なんてあるか?」

「ないね、正直に言おう、確かに『魔女』を狙った。」

「『魔女』と呼ぶな!お前、頭がどうかしたのか?冷静なはずのお前がよりによってロゼアの一方的な嫉妬に付き合うなんてどうかしてる!」

「お前には分らないだろうな、ロゼアの苦しみは…。」

「そんなにロゼアを想うのならお前が側にいてやれば済む話だろう!一体どうしたんだムルガ?頭は良いはずだろう!?」

 電話の向こうで哀しそうなレッヅォの声が聞こえる、しかし、ムルガはそれ以上に哀しげな声で答えた。

「…レッヅオ…やっぱりお前は何も分ってないよ…。」

「ムルガ…会って話そう…出来ればロゼアも連れて来てくれ…別にお前達を傷つけようなんて思わない…。」

 レッヅォの提案にムルガはしばらくの間無言だったが、やがて静かに答えた。

「…分った、明日の夕方四時、あの廃墟で会おう…。」

 『廃墟』という言葉に一瞬レッヅォは息を飲んだ。

「そうか…あの場所か…分ったよ、出向こう…。」

 そう言って電話を切った。

 

 十五番街の自宅へ向かう車の中でレッヅォは哀しげな顔を浮かべて後部座席に背中を沈めていた。

 隣にはこと切れたように眠るルミナの姿がある、その髪に口付け頬を寄せながらレッヅォはそっと呟いた。

「…ルミナ…もう何も心配しなくていい…これからは俺が守る…死ぬまでな…。」

 そう言って目を閉じた。

第二十三話「一次の帰還」

 

 黒影が自分の棲家へ戻ったのは二十三時頃だった。

 服を脱ぎ傷の手当を始める、マーゴの杖で殴り倒された時の切り傷や痣、そして炎に包まれた工場から脱出するときに負った火傷がいくつかあった。

 傷跡に包帯を巻きつけながら今日起きた事、そして今後の出方を考えていた。

 ルミナを最初にさらったのは何者だったのだろうか、レッヅォの差し金ではないようだが一味のものではあるようだ、そうなれば恐らくレッヅォの一味は仲間割れを起こしていると考えられる、最後にルミナを連れ去ったのはレッヅォだった、それを考えればルミナの身に今すぐ危険が及ぶ事はないかも知れない、しかし早急にルミナを連れ戻さなければならない。

「今はどこに…?」

 考えられるのは二つ、レッヅォの屋敷か十魔一味の根城か…。

 仲間割れを起こしている事から一味の建物は考えにくい、レッヅォの屋敷が濃厚だろう。

「…。」

 包帯を巻き終わった傷跡を見ながらマーゴとの戦いを思い出す。

 奇天烈な魔術を使って相手を翻弄するマーゴの戦い方に自分のペースを崩された。

 再び同じ手にかかれば今度は命を落とすだろう。

 黒影は目を閉じてマーゴとの戦いを思い起こす、あの忌々しい魔術を封じる術は何かないか深く考え込んでいた。

 一刻も早くルミナを連れ戻しに行かなければならない、そのためにはレッヅォの懐刀であるマーゴの魔術を攻略しなければならない…。

 やがて黒影は電話を取り出しある番号へかける。

「…もしもし、じいさんか?夜中にすまない…実は明日の朝までに調べて欲しい事が二つあるんだ…。」

 

 屋敷に戻ったレッヅォは寝室にルミナを寝かしつけると書斎に戻ってグラスにウィスキーを注いだ。

「…そんな所へ隠れてないで黒影の死に様を報告しろ。」

 部屋の隅に声を掛けると物陰からマーゴが現れ恭しくシルクハットを取って礼をした。

「黒影は恐らく生きているでしょう。」

「なんだと?」

 悪びれる様子もなくそう答えるマーゴを鋭い目で睨む。

「魔術をもって翻弄し、少しいたぶった上で建物ごと焼き払いましたが、それで死ぬ玉とは思えません。」

「なぜ殺しておかない?」

「ボスはこう命じられました、『黒影を退けろ』と。」

「…言葉尻を掴むとは政治屋みたいな真似をするな?」

「政治屋ではありません、魔術師です!」

「言葉のあやだよ…。」

 呆れた表情でグラスの中身を飲み干す。

「楽しみを後にでも取っておいたつもりか?」

 そう尋ねるとマーゴは薄ら笑いを浮かべる。

「ふざけやがって…いいか、今度黒影に会ったときは確実に殺せ!」

「承知いたしました。」

 恭しく頭を下げマーゴは書斎を後にした。

 レッヅォはため息をつくと戸棚から今度はシャンパンを取り出しグラスを二つ持って寝室へ戻った。

 ベッドの上でルミナが目を覚ましたようだ。

 辺りを見回し、レッヅォを見つけ驚きの声を上げる。

「レッヅォ!!」

「お目覚めかい?今日は色々大変だったな。」

 笑顔を見せシャンパンの栓を開ける、部屋中に乾いた音が鳴り響く。

「喉が渇いたろ?久し振りの二人の再出発だ!乾杯しよう!」

 そう言いながらグラスにシャンパンを注ぐ。

「…なぜここへ?私は帰るわ!」

「まぁ、そう言うな!それに帰ればまた危険な目に合う!…やつらまた君をさらうかも知れない!」

「あれは貴方の仕業でしょ?」

「それは違う!」

「とぼけないで!あなたの仲間に私をさらわせたんでしょ?」

「確かにあれは俺の仲間だ…だが俺の命令じゃない…情けない話だが仲間に裏切られた…。」

 うなだれるレッヅォを見てルミナは言葉をなくす。

 レッヅォはそれを繕う様にグラスをルミナに手渡す。

「まぁ、そんな事は今は忘れよう!乾杯だ!」

 手に持ったグラスをぶつけようとしたその時ルミナがはっとした表情で声を上げる。

「…彼は…?彼はどこ?」

 それが黒影のことだと察しレッヅォは表情を曇らせる。

「君を救い出せなかった奴の事なんて忘れろよ…。」

「そんな事ない!助けに来てくれたわ!彼は無事なの!?」

 レッヅォはグラスを一気に飲み干すとルミナを睨む。

「いいかい?奴は死んだよ!」

 一瞬目を見開いて息を飲んだルミナだったが、やがてレッヅオを見つめ返す。

「…嘘よ…。」

「本当さ!マーゴが始末した!」

 どうだと言わんばかりにレッヅォは両手を広げる。

「忘れたの?私には先が見える…彼の腕には黒いあざはなかったわ。」

 レッヅォは舌打ちをして後ろを向いた。

「そうかい!好きに思えばいい!…仮に生きていたとして手負いだ!君を迎えにも来れないだろうさ!」

「なら自分の足で帰るわ!」

 するとレッヅォは振り向くとルミナの両肩を掴んで声を上げる。

「だめだ!そんな事は許さない!もう君を失いたくない!誰にも触れさせない!誰にも連れて行かせない!これからは俺がずっと君を愛し守り抜くんだ!」

 レッヅォの必死の表情にルミナは言葉を失う。

「すまない…取り乱した…。」

 ルミナの両肩から手を離すとレッヅォは後ろを向き寝室のドアへ向かう。

「ベッドは使ってくれ…俺は書斎のソファで寝る…用があるときは枕もとの呼び鈴を鳴らしてくれ…おやすみ…。」

 うな垂れた背中で寝室を後にした。

 

 翌朝、黒影は『半月堂』に出向いた。

「じいさん、昨日頼んでおいた事は調べてくれたかい?」

「あぁ、まずはこれだな。」

 と言って老人は地図を一枚手渡す、そこにはレッヅォの屋敷の位置が記されていた。

「他に住みかはないな?」

「あぁ、ないだろうな。日中はともかく、夜は大体そこにいるだろう。」

「見取り図なんかはあるか?」

「生憎と一晩では用意出来んかったよ、しかし、三階建てで地下階はないはずじゃ。」

「そうか…。」

「そして…。」

 と言いながら老人は新聞記事の切抜きを貼り付けた紙を手渡す。

「…これが魔術師マーゴが手がけたと思しき事件の記事じゃ。」

 それを受け取り黒影は目を通す。

「…気になる…。」

「何がじゃ?」

「事件現場には黒こげたトランプカードがあったという記事が一つも無い…。」

「わざわざ書かんだろ?」

「いや、そうじゃない…俺が見たとき、トランプカードは跡形もなく燃え尽きたんだ。」

「それなら残るはずはないだろう?」

「その通り…手品用のトランプだ、燃えやすいように薬品が塗られている可能性もある…。」

「なら、なにが疑問なんじゃ?」

「毎回そんなに上手くいくものか?」

「腕のいい魔術師ならな。」

「…警察の資料はあるか?」

「これじゃ。」

 黒影はそれを受け取ると中に目を通す、マーゴが手がけた暗殺事件の現場記録や検死記録などが記されている。

「ん?」

 ふと、ある一文に目が留まった。

『××年六月二十三日、二十二時四十九分頃、月影街十五番街四丁目三番地レストラン「クラリア」にて銃撃事件発生。殺害されたのは十四番街を拠点とするマフィア組織の幹部と側近五名。幹部と側近のうち四名は銃撃後すぐに死亡。生存した一名も病院に搬送される救急車の中で死亡。搬送される車両の中で付き添った警官に必死に手話で何かを訴えていた。同伴した救急隊員がそれを訳したところ以下のような文になった。「トランプが燃えた、そして皆の様子がおかしくなった、奴はそれを次々と撃った。」彼は聾唖のため日頃から手話で会話をしていた模様。』

「聾唖…。」

 そして黒影は何かを思いついたような表情で口元に笑みを浮かべた。

「そうか…そういう事か!これで奴を倒せる!」

 

第二十四話「廃墟」

 

 夕方、十五番街はずれの廃墟の前にレッヅォを乗せた車が停まった。

既にムルガを乗せて来たと思しき車とその周りに数人の護衛の姿が見える。

 レッヅォが降車するとムルガの護衛たちがやや緊張の面持ちで出迎える。

「お疲れ様です…ボス。」

 恭しく頭を下げているものの、ムルガ側に付いた者たちとしてはレッヅォに合わす顔がないのか気まずそうだ。

 それに追い討ちを掛けるようにレッヅォの護衛の中には睨み付ける者、さらに挑発的に懐から銃を抜く素振りをする者もあった。

 その空気を破るようにレッヅォは声を上げる。

「おいおい!同じ一味の者同士まさかここで殺り合おうってんじゃないだろうな?…そんな真似をさせるためにここへ来た訳じゃないぞ?」

 鋭い視線を向けるとレッヅオ側の護衛たちも挑発的な態度を止めた。

「ムルガは?」

 レッヅォが尋ねるとムルガ側の護衛が答える。

「中で…大広間と言えば分ると仰ってました…。」

「そうか…中にはムルガだけか?」

「マダム・ロゼアもおられます。」

「分った。」

 そう答えるとレッヅォは廃墟の入り口に向かって歩き出す、護衛の者達も付いてこようとしたがそれを制す。

「俺だけが行く、お前達はここで仲良くなぞなぞ遊びでもして待ってろ。」

 入り口まで辿り着くと振り向いてそこにいる手下達全員に告げた。

「いいか、この後何が起きてもお前達は誰一人絶対に入ってくるな?来た者があればその場で殺す…全てが終わってここから出てくるのが誰であれ、お前達はその者の指示に従え。」

 レッヅォの只ならぬ物言いに全員言葉を失い、ただ頷くのみだった。

 満足げな笑みでそれを見届けレッヅォは廃墟の入り口の闇の中へと消えていった。

 

 十数年振りに足を踏み入れた廃墟はあの頃と変わらず湿っぽく、かび臭く、そして冷たかった。

 歩くたびに静かな建物内に足音が響く、天井や壁を見る、あの頃以上に汚れただろうか、それともここを出てから数年の華やかな暮らしがそう思わせるのだろうか。

 二階へ上がる階段を一段一段上がるたびに少年時代の記憶が鮮明に蘇る、警官から身を隠し、飢えをしのぐ為に盗みに明け暮れた日々、そして大きな野望を志したあの日の事。

 階段を上がりきるとそこはかつて彼らが寝食を共にした大広間だった、心の奥底に追いやったはずの記憶が溢れ返るように蘇る。

 レッヅォはそのまま導かれるように奥の壁に近づく、そこには彼らが昔に刻み込んだ文字が残っていた。

『盟暦99年、ここから全てを手に入れよう…L・R・M』

 埃を被りながらも今もくっきりと読み取れる。

「懐かしいか?」

 ふと背後で声がした、振り返るとそこにはムルガが立っていた。

「あぁ、今も残っていたんだな…。」

 大広間の隅に目をやるとそこには埃を被った姿見の鏡があった。

「あの鏡の前でよくロゼアがお洒落しながら楽しそうにくるくる回ってたよな!」

 その言葉に応えるようにロゼァが物憂げな表情で物陰から姿を見せる。

「あれから十年以上…俺達よく生き延びたよな…。」

 レッヅォが目を細め言葉を噛みしめる。

「まったくだ、とうに死んでいても不思議はない。」

 ムルガが頷きながら応える。

「俺が一味を作ろうっていったあの日、ムルガは言ってたよな?どうせ野垂れ死にするのが落ちだって!」

「あぁ、だがお前の思い描いた通りになった、大したものだよ。」

「別に俺だけの力じゃない、お前たちもいたからさ。」

「そう思うのか?」

「当然だ、俺はそこまで自惚れ屋じゃない。」

「そうか…。」

 ムルガは目を伏せる、レッヅォは歩きまわりながら大広間を見渡す。

「正直な、ここへ来るのは気が進まなかったんだ…あの頃は色々大変だったろ?出来れば思い出したくない記憶だ…だけど不思議なもんだな、ここへ来ると全てが懐かしい…。」

 思い出を噛みしめるように目を細め部屋中を見渡す。

「覚えてるかレッヅォ?あの壁に文字を刻んだ日。」

「忘れる訳ないだろう?」

「あの日、十一月の終わりでとても寒い日だった。ロゼアは秋物の服しか持ってなかったからとても寒そうでな…俺はそれを温めてやりたくて必死に火を起こそうとしてたんだ…。」

「あったなそんな事。」

「…だが何度やっても火はつかない…無理もない、俺は野宿なんてしたこともないしな…途方に暮れてる時にお前が帰って来た、大きな袋から点火剤とフェイクファーのコートを取り出した。」

「そういやそんな事もあったな。」

「点火剤のお蔭で無事にたき火も出来た、なにより…お前の盗ってきたコートを着たロゼアが嬉しそうだった…。」

「…。」

「俺はロゼアを喜ばせたくて必死だった…でも、ロゼアを喜ばせたのは他でもないお前だった…。」

「ムルガ…。」

「俺は無力だった…。」

 それを聞いてレッヅォは舌打ちをする。

「馬鹿が!たかがたき火の事だろう?」

「それだけじゃない、お前はいつも事もなげに大きなことをやる、なんの躊躇もなく、迷わず力強く、その度に俺達の居場所も手に入る物も大きくなる、そしてロゼアも喜んでいた。」

「だから、それは…。」

「なにより…ロゼアの目はいつもお前を向いていた…。」

 そう言いきるとムルガは目を伏せた、黙ったままだったロゼアもはっとした顔でムルガを見る。

「ムルガ…やっぱりお前…。」

 レッヅォもその先を言葉に出来ず黙り込んだ。

 しばらくの沈黙の後、ムルガは再び口を開いた。

「俺がどれほどロゼアを想うおうとお前には敵わない…それは仕方がない…レッヅォ、お前は俺から見ても本当に凄い男だよ、ロゼアの事を抜きにしてもそう思う。お前がここで一味を立ち上げようと言った時も馬鹿げてると思いながらも着いていこうと思えたのはお前の力を認めていたからだ…。」

「…だがそのお蔭で俺は色々助かったさ…。」

「あぁ、お前は大胆不敵だけど細かい事には無頓着だからな、俺が支える事も多くて丁度良かったのかもな。」

「その通りだ。」

 レッヅォは深く頷く、ムルガは尚も続けた。

「そして俺はお前を支え、組織を大きくしていく事でロゼアの幸せにも繋がると思っていた、やがてお前達二人が恋仲になった時にも俺は祝福していた、これでロゼアは永遠に幸せになれるとそう思っていた…だけど…。」

 ムルガはそこで言葉を切って目を伏せた、やがて目を上げると鋭い目でレッヅオを睨み、冷たい口調で続けた。

「…そこで『魔女』が現れた…。」

「…。」

「お前は魔女に魅入られた…。」

「ムルガ…。」

「そしてロゼアを…。」

「やめろ。」

「…深く傷つけた…。」

「だからルミナを殺そうとしたって言うのか!」

 今度はレッヅォがムルガを激しく睨み付けた。

「その通りだ。」

「ふざけるな!」

「俺は真剣だ。」

「ルミナを殺したからってロゼアが幸せになるとでも?」

「少なくともロゼアの心の重みくらいは取れるだろう。」

 レッヅォは額に手を当て深いため息をついた。

「…ムルガ、お前は根本的に間違ってる、ロゼアを幸せにしたいのならお前が側にいてやればいいだろう?ルミナを殺したって何の解決にもならない!」

「だからお前は分ってないよレッヅォ…。」

 ムルガは哀しげな表情を浮かべた。

「俺では駄目なんだ…お前でなければロゼアは満たされないんだ…。」

「だからそれは…!」

「あの日から決まっているんだ…全て…ロゼアはお前を愛し、お前はロゼアを守り、そして俺はそんなお前達二人を見守り支える…。」

「本気で言ってるのか!?それでお前は本当にいいのか!?」

「あの日決めた…いや、誓った…そこから俺の全てが始まっている…。」

「…ムルガ…。」

「あの日から始まった俺達の誓いと闘いだ、今更壊す事は許されない、お前がロゼアを愛さないというのならお前を惑わす『魔女』を消し去るまでだ。」

 ムルガの言葉にしばらくの間押し黙っていたレッヅォだったがやがてムルガを見据えると鋭い口調で切り出した。

「分った、それがお前の覚悟なら俺にも覚悟はある。お前がなんと言おうと俺はルミナを守るまでだ、例え相手がお前であろうとな。」

 その言葉の含む意味を悟ったムルガはレッヅォを見据え身構える。

 レッヅォとムルガ、二人の間に重い沈黙と緊張が張り詰めた。

 今まさに二人が互いに殺し合わんとしている事を悟ったロゼアは制止しようと声を上げる。

「やめっ…!」

 直後二人は同時に銃を引き抜き、二発の銃声が一度に轟いた。

「…!」

 ロゼアは息を飲み二人を見た、微動だにせず二人の男は立っていた。

 思わず駆け寄ろうとしたその時、膝から崩れ落ちるムルガの姿が飛び込んできた。

「ムルガっ!!」

 叫びを上げロゼアはムルガの元へ駆け寄った。

 胸元を赤黒い血で染めながらムルガは青ざめた顔でゆっくりと息をしていた。

「…やはり勝てないな…あいつには…。」

 苦笑いを浮かべながらムルガは目を閉じる。

「ムルガっ!ムルガっ!しっかりして!」

 ロゼアはムルガの頬をさすりながら叫びを上げる。

「…すまない、ロゼア…結局、最期まで何も出来なくて…。」

「やめて!そんな事言わないで!あなたはいつだって力になってくれた!私とレッヅォにとってかけがえのない仲間だった!」

 ムルガはその言葉に微かな微笑を浮かべた、やがて目を見開くと顔を上げた。

「レッ…ヅォ!」

 レッヅォは銃を握ったまま立ち尽くしていた、しかしムルガに呼ばれ我に返ったように銃を下ろすとゆっくりと彼の元に近づいた。

 ムルガは口元にも血を滲ませ不安定に息をしていた。

「いいか…ロゼアには…ロゼアにだけは手を掛けるなよ…?…俺の命を代わりに引き換えたからな?…」

「分った…誓おう…。」

 レッヅォは噛み締めるようにゆっくりと返す。

 それを聞きムルガは安心したように微笑を浮かべた。

 やがて薄目を開けながらレッヅォとロゼアを交互に見つめ天井をぼんやりと見上げながら消え入りそうな声で呟いた。

「懐かしいな…ここ…あの頃は楽しかったな…三人でいつも…戻りたいな…。」

 やがてゆっくりと目を閉じ、息を引き取った。

「ムルガっ!」

 ロゼアは彼の亡骸に覆いかぶさるように泣き崩れた。

「…。」

 レッヅォは言葉を失い立ち尽くしていた。

「これで満足?」

 我に帰って見るとロゼアが涙に濡れた顔でレッヅォを睨み付けていた。

「自分の親友を殺した気分はどう?大事な『お姫様』を狙う悪者を退治できてさぞ満足でしょうね!」

 激しい憎悪を込め、呪詛を吐きながらレッヅォを睨み続けている。

「…。」

 返す言葉もなくレッヅォは立ち尽くしていた。

「彼は…ムルガはあなたと私に殺されたも同然よ!!」

 そう言うとまたもや泣き崩れた。

 ロゼアに掛ける言葉も見つからずレッヅォはその場を後にした。

 

 表に出ると手下達が心配そうな顔で駆け寄ってきた、きっと銃声を聞いたのだろう。

「ボス…お怪我は…。」

「ない。」

「そうですか…あの、ムルガさんは…。」

 それには答えず代わりに命令を下す。

「いいか、五分経ったらお前達は中へ入り、二階の大広間へ行ってムルガの亡骸を連れて来い、その場にロゼアがいても話掛けるな。」

 その言葉に事の次第を悟った手下達に動揺が走る。

 しかし、檄を飛ばすようにレッヅォは厳しく命じる。

「いいか、警察には引き渡すな!他所のシマの者にもだ!俺の息のかかった医者の下へ連れて行き『急性心不全』で診断書を書かせろ!そして最高級の弔いの手配を!」

 そう言い残すと戸惑う手下達を残し車の後部座席に乗り込む。

「…どちらへ…?」

 やはり動揺している様子の運転手にレッヅォは静かに告げる。

「…屋敷だ。」

 それ以上は何も言わぬレッヅォを乗せ車はその場を後にした。

 

 レッヅォの屋敷ではルミナが応接間のソファに深く座り部屋をぼんやりと眺め回していた。

 広い屋敷、豪華な家具、居心地の良いはずのこの場所も彼女にとっては牢獄に等しかった。

 応接間の入り口のドアに目をやる、あれを開ければここから出られる…そんな空想を描いてみるも、現実はすぐ外に二人の見張りが絶えず番をしているのだった。

「…。」

 黒影の事を想う、彼は今どうしているだろうか、傷を負っていると聞いたが無事なのだろうか、自分を迎えに来てくれるのだろうか…。

「…会いたい…。」

 思い起こすたびに胸が締め付けられる、恋しくてたまらない。

 そっと自分の腕を見る、けれど見た所でなにも分らない、彼女に見える『黒いあざ』はいつも自分以外の人間だけなのだ。

 ふと屋敷の正面玄関が開く音が聞こえた、使用人たちが迎えに出ていることからレッヅォが帰宅したのだろう。

 やがて応接間の扉が開きレッヅォが入ってきた、扉の前で番をしていた手下達に下がるように命じルミナの方を向いた。

「ただいまルミナ!退屈はしていなかったかい?」

 ルミナは何も答えずただレッヅォを睨む。

「はは…そんな顔をしないでくれよ!」

 苦笑いをしながらレッヅォは応接間のワインセラーに向かう。

「夕食の前に軽く飲まないか?今日は大仕事が一つ片付いたんで呑みたい気分なんだ!」

 明るく振舞いながらワインを選んでいるレッヅォの背中にルミナは違和感を覚えた。

「…何か、あったの?」

 一瞬レッヅォの動きが止まったように見えたが、まるでそれを打ち消すようにさらに明るく振舞う。

「いや…なんでもないさ…!」

 その時ルミナの目にふとレッヅォの上着の左肩に破れ目があるのが映った。

「レッヅォ、上着が…。」

 レッヅォに近づき破れ目を見る、微かに焦げ目のようなものが見える。

「撃ち合ったの…?」

「…。」

 その時突然振り返ったレッヅォがルミナを抱きしめた、彼女は思わず突き放そうとしたが、レッヅォが微かに震えているのに気付いてその手を止めた。

「…レッヅォ!?」

 レッヅォは何も答えない、しばらくすると彼は膝から崩れ落ちルミナの胸元に顔を埋めた。

「…どうしたの?」

 ルミナが尚も心配そうに尋ねるも、レッヅォは何も答えず、より強く肩を震わし、やがて…

「…ぅあぁああああああああああああ!」

 突然狂ったように泣き叫んだ。

「…。」

 ルミナはそれ以上何も訊かずにただそっとレッヅォの髪を撫でていた。

 

第二十五話「奪回」

 

 それから三日が過ぎた、月影街十五番街の外れにある墓地でムルガの葬儀が行われていた。

 神父が墓石の前で聖書の一節を読み上げ、死者への祈りをささげる。

 一味の者たちも多くが列席し、特にムルガに付いていた者たちは悲しみの色を露にしていた。

「…人の世にあって迷い続ける者よ、光導かれながら神の御許へ、祈りを持ってその罪は許されん事を…。」

 マフィアである彼らにとって皮肉にしか聞こえない聖書の言葉を代表者席で聞き流しながらレッヅォは遠く離れた席に座るロゼアに視線を向ける、喪服に黒いベールで顔を覆いながらも涙を流し深い悲しみにくれているのが見えた。

 やがて神父の祈りも終わり、棺を墓の下に埋め終えた頃にレッヅォはロゼアの元へ寄る。

 ロゼアは涙で濡れた顔をベールで隠すように視線を逸らす。

「…。」

 レッヅォがなんと声を掛けようか迷っていると、それを察したロゼアが先に言葉を切り出した。

「今日は一人なのね。」

 その「一人」の意味するところを悟りレッヅォは顔を曇らせる、しかし、ロゼアはそれに追い討ちを掛けるように続けた。

「さすがのあなたもこの場へあの子を連れてくることはしないわね…。」

「…。」

 レッヅォは返す言葉もなくただ複雑な表情をするだけだった、その様子に少しだけロゼアの口調も変わる。

「…こんな風にあなたをせめても何の意味もないわね…もう何も変わらないし、ムルガも帰ってこない…。」

「…。」

「わたしね、少し街を離れるわ!色々忘れたいし、気持ちも入れ替えたい!」

「そうか…旅費は俺が…。」

「いらないわ、わたしだって貯えはあるし!」

 そう言ってロゼアは微笑むとレッヅォに背を向け歩き出した。

 レッヅォもその後姿を見送り、背を向けようとしたその時…

「ねぇ、レッヅォ?」

 とロゼアが声を掛けてきた。

「なんだ?」

 レッヅォが振り返るとロゼアは背を向けたまま立ち止まり…

「あなた、わたしは殺せないのよね?」

 と冷たく尋ねた。

「…ムルガとの約束か…そんなものがなくてもお前を殺しはしないさ!」

 レッヅォが返すとロゼアはほんの数秒黙っていたが…

「…そう、なら良かった。」

 と言い残し、振り返ることもなく去っていった。

「…。」

 レッヅォはその背中を見送りながら彼女が残した言葉の意味を考えていた。

 

 同じ頃、レッヅォの屋敷では残った者達が警備に当たっていた。

「…聞いたかよ?ムルガさん、ボスに殺られたってな!」

「あぁ…一体何があったって言うんだよ?あの三人が仲間割れなんてよ!」

「この一味もそろそろやばいんじゃないのか?」

 何人かが玄関先で雑談を交わしていた時、ふと門の前に大きな箱があるのを見つけた。

「なんだあれ?」

 一人が気になって門のすぐ近くまで寄る。

 見れば大きな木の箱だ、荷物なのだろうか、しかし、近くにそれを運んできたと思しき業者の姿もない。

「一体なんだってんだ?」

 門をそっと開け、表に出て箱に近寄る、すると突然後頭部に銃口を突きつけられるのを感じた。

「!?」

「声を立てるな、振り向かずにそのまま門の中へ入れ。」

 男は命じられるままゆっくりと門の中へ入って行った。

 玄関前で仲間が男を見て声を掛ける。

「おい、箱は何だった?」

「あ、あぁ…ただの木箱だよ…。」

 言いながら男は仲間たちへ目配せで状況を伝えようとする、彼の背後には何者かが銃を着きつけ潜んでいるのだ。

「…どうした?」

 仲間も怪訝な顔で様子をうかがっている。

 すると銃を突きつけていた者が男を後ろから突き飛ばした、男は前のめりに地面を転げる。

 玄関前にいた連中は突き飛ばされた男の背後から現れた者を見て息を飲む、それは黒影だった。

「あいつはっ!」

 慌てて懐から銃を抜こうとする男達を黒影は撃ち倒すと素早く玄関の扉の前まで移動する。

 銃を構え警戒しながら扉を開ける、すると奥の方から銃声を聞きつけた者達が銃を手に掛けてくるのが見えた。

 黒影は急いで玄関の近くにあった大理石の像の陰に隠れる、途端に銃声が何発も轟き扉や壁に噴煙をあげながら穴を空けた。

 銃声が鳴り止むと黒影は物陰から飛び出し銃弾を放つ、奥で敵が次々に倒れていくのが見えた。

 さらに屋敷の奥へと進むと頭上からも銃声が鳴り響く、吹き抜けの二階から男がサブマシンガンを撃ってきている、黒影は急いで階段の下へ隠れ銃弾をやり過ごす。

 銃弾が何発も降り注ぎ階段に穴を空けその度に噴煙や砕かれた木屑が舞い上がる。

 敵は黒影を一箇所に追い詰めたと思ったのか撃ちやすい様に移動しようとした、その隙を狙って黒影は敵に銃弾を撃ち込んだ。

 低いうめき声をあげて敵は吹き抜けの二階から一階へと転げ落ちた。

 黒影はさらに奥へ進もうと階段の下から這い出た、すると奥からもう一人ショットガンを抱えた男が走ってきた。

 男は黒影の姿を見つけると大慌てでショットガンを構えようとした、しかし、それよりも先に黒影が男の右肩を撃った。

 喉の奥で踏み潰すような声を上げて男は仰向けに倒れこむ、持っていたショットガンも放り出してしまった。

 黒影は銃を構えゆっくりと男に近づく、相手は左手で右肩を押さえながら苦悶の表情を浮かべている。

 相手の落としたショットガンを足で遠くへ払い、銃を突きつけながら黒影は質問をした。

「ルミナはどこにいる?」

「し、知るか…!」

 肩から血を流し苦しそうにしながらも相手は抵抗を示した。

 すると黒影の銃が火を噴き、男の顔のすぐ横の床に着弾した。

「もう一度だけ訊いてやる、ルミナはどこだ?」

 男は目を見開いて震えていた、顔からは痛みとそして恐怖心からあぶら汗が止め処なく流れている。

「お…応接間に…!」

 どもりながら答える。

「そうか、ありがとうな。」

 そう言うと黒影は男の腹部に蹴りを食らわせる、男はうめき声を上げて気を失った。

 黒影は辺りに敵がいないのを確認しさらに奥へと進んだ。

 応接間の入り口と思しき扉の前へ来た、黒影は銃を構え警戒しながら扉を開く。

 広い部屋の中に高級なテーブルやソファ、壁際には暖炉も見える、銃を構えたまま中へ入り辺りを見回すとそこにルミナの姿があった。

「ルミナ!」

 黒影が声を掛けると泣きそうな顔になりながらルミナが駆け寄り胸元に抱きついてきた。

「来て…くれたんだね…。」

 涙をこぼしながらルミナは黒影の胸元に頬を寄せる、黒影もルミナの抱きしめ髪を撫でる。

「すまなかった…遅くなって…。」

「…いいの、怪我は大丈夫?」

「あぁ、俺は大丈夫だ、ルミナの方こそ無事だったか?」

「うん…。」

 いつまでもこうしていたかったが、屋敷の中にまだ敵が潜んでいるかもしれない。

「早くここを出よう!」

「うん!」

 黒影はルミナの手を握り、もと来た道を戻ると屋敷を後にした。

 

第二十六話「可能性」

 

 レッヅォが屋敷襲撃の一報を受け、戻ったのはそれから一時間ほど後の事だった。

 屋敷の壁や天井や床に残る銃弾の跡、まだ転がったままの手下達の遺体を鋭い目で睨みながらレッヅォは応接間へと進む、しかし、開いた扉の向こうにルミナの姿はない。

「…黒影の仕業でしょうか?」

 手下の一人が恐る恐るレッヅォへ問いかける。

「…他にいると思うか?」

 低く落ち着き払った冷たい声でレッヅォは答える。

「奴はどこへ…逃げたんですかね…?」

 もう一人の手下がやはり恐る恐る訪ねる、彼らも他の手下達もレッヅォの重い沈黙に耐え切れないようだった。

「それが分っていれば今すぐに殺しにいくさ。」

 レッヅォは相変わらず鋭い目で部屋の中を睨んだまま身も凍るような冷たい声で言葉を紡ぐ、その様子に手下達は震えながら何も言えないでいた。

「マーゴ、マーゴはどこにいる?」

 レッヅォが声を上げると応接間の入り口からマーゴが姿を現した。

「お呼びですか?」

「マーゴ、お前はこの時何をしていた?」

「ムルガさんの葬儀に出ておりました。」

「ふざけるな!お前はいなかったぞ?」

「いいえ、出ておりましたよ?…もっとも、わたくしいつも着ておりますこの服が葬儀には合いませんもので、墓地の木陰から拝見させていただいておりました。」

 レッヅォは振り向くとマーゴを睨みつけ問い詰める。

「なら答えろ!今日の神父はどんな奴だった?」

「およそ五十歳代のあごひげの生えた神父様でした…そうそう、丸いふちなし眼鏡をお召しでしたね。」

 それを聞くとレッヅォは舌打ちをして続ける。

「結構!呼んでもいないのに葬儀に出るとは見上げた礼節だ!ムルガもさぞ喜んでいる事だろうよ!俺は釘を刺しておくべきだった!『お前はここに残って番をしろ』とな!」

「それはそれは…気が利きませんで申し訳ございません…。」

 マーゴはさも残念そうに恭しく頭を下げる、そのわざとらしい振る舞いにレッヅォの苛立ちは限界に達した。

「黙れ!お前のその嫌みったらしい口調も仕草もうんざりだ!…いいかマーゴ、お前は人探しも得意なはずだな?黒影とルミナを三日以内に探し出せ!三日たっても探し出せなかったらお前のその減らず口に鉛玉を気が済むまでくれてやるからそのつもりでいろ!」

「承知いたしました。」

 マーゴは相変わらずあざといまでに恭しく頭を下げると応接間を後にした。

 

 その頃、黒影とルミナは十五番街の表通りから人ごみに紛れ中心街へと向かい、そこから地下鉄に乗り込んだ。

 夕方前のこの時間はまだそれほど利用客もなく車内は空いていた。

 黒影は辺りにレッヅォの追っ手がいないか警戒しながら車両の片隅の椅子にルミナと腰を下ろした。

「…これからどうするの?」

 ルミナが不安そうな表情で尋ねる。

「そうだな、十二番街にはしばらく戻れないな…レッヅォの追っ手をしばらくやり過ごさなければならない。」

「そう…これからも…危ない事は続くの?」

「あぁ…だけどケリはつける、ひとまずは落ち着ける場所に身を隠そう。」

「…うん…。」

 ルミナは不安げに頷きそっと黒影の腕に目をやる、幸い黒いあざは浮かんでいなかった。

 それを察した黒影がルミナの頭に手をやりそっと撫でる。

「大丈夫だ、何も心配しなくていい…ルミナの事は必ず守るし、俺も死なない。」

「うん…ありがとう…。」

 そっと頷きルミナは黒影の肩に寄りかかる、地下鉄に揺られながら二人はしばらくの間黙ったままだった。

 しばらくして口を開いたのはルミナだった。

「ねぇ、どこに隠れるの?」

 すこしだけ悪戯な笑顔で、まるでかくれんぼの場所を探す子供のようにルミナは尋ねた。

 黒影もそのそんなルミナの様子に表情をゆるめる。

「そうだな、郊外ののどかな場所へ行かないか?」

「静かなところ?いいね!…そうだ、五十番街はどう?」

「五十番街!?…ずいぶん過疎地の村だな…。」

「うん、どうせなら思いっきり静かなところがいい!それにね、いきたい場所もあるの!」

「行きたい場所?」

「うん!」

 その場所をルミナはそっと黒影に耳打ちする。

「…そうか!そこがいい!そこにしよう!」

 黒影が笑顔で答えるとルミナも嬉しそうに微笑んだ。

 

 書斎のドアをノックする音があった、椅子に腰掛けたままでじっと窓の外を眺めていたレッヅォが返事をする。

「入れ。」

 ドアを開いて恐る恐る入ってきたのはトールだった。

「お前か、そういえばお前にも色々と面倒をかけたな。」

 レッヅォの苦笑いを見てトールは首を横に振る。

「いいえ…いいんです…、でも俺…ほんとうにこれで良かったのか…俺があんな報告をしたばかりにボスとムルガさんは…。」

 そう言ってトールは俯き目を伏せる、その様子にレッヅォは苦笑する。

「お前はただ俺に命じられた仕事をしたまでだ。その後の事は俺とムルガの問題、お前はなにも気に病む事はない。」

「そうですけど…。」

「ジュリナはどうしてる?」

 唐突な質問にトールは顔を上げる。

「はい、マダム・ロゼアが姿を消してから塞ぎこんでます…あいつマダムには可愛がられてたし、店も休業でこれからが不安みたいです…。」

「そうか…あの店の子達は皆何かしら事情を抱えて家出してきた子ばかりだからな…ロゼアはほんとうに面倒を見ていた、きっと自分の生い立ちと重なるんだろうな…。」

「そうだ」とレッヅォは言いながら机の引き出しを開け、分厚い封筒を取り出した。

「お前にまだ礼を出してなかったな。」

 差し出された封筒の中身を見てトールは驚きの声を上げる、百ゼル紙幣がおよそ百枚以上の束が入っていたのだ。

「こ、こんなに!?」

「あぁ、それだけの働きをしてもらったからな。」

「で、でもボス…。」

「トール、お前手を汚した事は?」

 それが人を殺した事があるかとの意味と悟ってトールは首を横に振る。

「そうか、なら丁度いい。お前ジュリナを連れて街を出ろ。」

「えぇ?」

「お前なら前科もないし、手も汚れてない、堅気に戻るなら今だろう。」

「で、でも組織がこんな時に…。」

「こんな時だからだ。幹部もいなくなってうちはしばらく他の組織に狙われるだろう、抗争も起きる、何よりこれから黒影とも一戦交えなけりゃならない…あいつは手下に手を掛けた、もうこれは俺だけの問題じゃない。そうなればほとんどの奴は命を落とす…お前にはそうなって欲しくない。」

「なぜ…なぜ俺だけなんです?」

 トールの問いかけにレッヅォはしばらくためらいながら答える。

「…お前とジュリナは、俺のもう一つの可能性なんだ。」

「可能性?」

「そうだ、もし俺がもっと昔にルミナと出逢っていたら…違う人生だったのかも知れない…ふとそんな馬鹿な事を考える時がある、もちろん自分の選んだ道に後悔はないし、戻る気もない…だけど、俺は多くのものを傷つけ、仲間も失った…ルミナの心さえも…。」

「…。」

「大きなものを手に入れるために流す血は時々その死に顔を残酷な形で見せてくるんだ…。」

そう言ってレッヅォは胸元から一枚の紙を出す、それはピンク色の動物の模様の入った便箋だった。

「…モーガンの娘が書いた手紙だ、誕生日プレゼントをくれたパパへのお礼の手紙、彼女にはもう幸せな誕生日は来ない…俺が奪った…。」

 トールは言葉も浮かばずただじっと首領の悲しげな横顔を見つめるだけだった。

「トール、お前は俺になるな…その金を持ってジュリナと一緒に月影街を出ろ。」

「分りました…。」

 トールは渡された封筒を両手に持ち深々と頭を下げて書斎を後にした。

 レッヅォはしばらく手にしたモーガンの娘の手紙を見つめていた。

「俺の手が穢れているのは分る…だけど、同じく手の穢れた黒影をなぜ愛する…。」

 手にした便箋を握りつぶし窓の外を睨んだ。

 

 第二十七話「教会」

 

 五十番街は夕刻の闇に包まれつつあった、駅には人の姿もまばらで静かだった。

黒影とルミナは駅を出ると旧式のバスに乗り込んだ。三十年以上前の型のバスはもはや都市部では見かけないがここでは現役なのだろう。

バスの中には黒影とルミナのほかには老女が一人と旅行者と思しき若い男が一人だけだった。二人は端っこの席に並んで座った。

 窓の外は夕暮れの闇に青く染まり始め、どこまでも続く田畑と遠くには山々が見える、五十番「街」とはいうものの、ここは月影街の西の果ての郊外、通称「果ての村」と呼ばれる場所だった。

 人口もほんの数百人、学校や病院もただ一つだけ、駅前に静かな商店街とそれ以外には野山や畑が広がる。

 月影街の市民ですら時々その存在を忘れる、世界有数の大都市の郊外にひっそりと残る農村だった。

 追っ手から逃げるのには格好の場所と言えるだろう、何より黒影にとってルミナとのある約束を果たせる場所でもあった。

 バスはやがて停車場に停まった。

「旧聖堂前、降りられる方はいますか?」

 車掌が乗客に声を掛けると黒影とルミナは立ち上がる。

「あれま…あんた方、夜遅くにこんなとこで降りるのかね?」

 近くに座っていた老女が二人に声を掛けた。

 二人は苦笑いで頷くとバスを降りる。

「聖堂には近づかんことよ!呪われるけね!」

 走り去るバスの窓から老女が顔を出し二人に呼びかけていた。

 それを見送り二人は顔を合わせ再び苦笑いをした。

 街灯もまばらな田舎道を歩き続けること三十分ほど、二人は目的の場所へ辿り着いた。

「どうする?本当に入るのか?」

 黒影がからかうように言うとルミナは少しむきになりながら答える。

「だって、せっかくここまで来たんだもん!」

 二人の目の前には一軒の古い教会が建っていた。

「婆さん言ってたぜ?呪われるって!」

 またからかうように言うとルミナも負けじと返す。

「どうせ信じてないんでしょ?…それとも実は怖いの?」

「おぉ、怖いね!悪魔に呪われちゃ叶わない!」

 おどけたように答える黒影にルミナは驚きの表情を向ける。

「知ってるの?ここの伝説?」

「あぁ、もちろんだ、『堕天使の聖堂』だろここは?」

「そう、『悪魔の教会』とも言われてるけどね。」

 そう言って再び教会を見上げる。

 建てられてから数百年は経っていそうな古い佇まい、夜の闇に浮かび上がるその姿は屋根の上に十字架があるにも関わらず魔城のような雰囲気を醸し出していた。

 二人は恐る恐る入り口に近づいてみた、扉の取っ手には錆び付いた鎖が巻きつけられていて錠前で止められている。

 黒影はポケットを探り針金を一本取り出すと錠前に差込み動かす。

「開けられるの?」

 ルミナが不安そうに訊くと首をかしげながら頷く。

「多分な…。」

 しかし、錠前を引っ張ったときに錆びていた鎖がちぎれた。

「…心配なかったみたいね…。」

 ルミナが呆れた声を出すと黒影も声を出して笑った。

 ちぎれた鎖を解いて扉を開く、きしむ音を上げながらゆっくりと開いた。

 中は暗く何も見えない、黒影は持って来ていた鞄の中から懐中電灯を取り出すと中を照らした。

 古びた外観から中も廃墟のように薄汚れ埃だらけなのを想像していたが、意外にも綺麗に整っていた。

 懐中電灯で照らしながらゆっくりと中へ進む、ルミナは黒影の上着を掴みながら背中に隠れるようにして続いた。

 絨毯も敷かれ、礼拝者の座る椅子もあり、奥には祭壇もあるようだ、懐中電灯であちこち照らしながら中の様子を探る。

「お、丁度いい。」

 黒影は祭壇の近くに蝋燭台を見つけた、ライターを取り出しそれに火を灯す、仄かな明かりが辺りを照らした。

「わぁ…。」

 明るくなった教会の中を見渡してルミナは感動の声を上げる。

 広い聖堂、窓にはステンドグラスがはめられている、大理石で出来た祭壇には十字架と聖者の銅像が飾られている。

「古いのに綺麗な教会だな。」

 他の蝋燭台にも火を灯しながら黒影も感動の声を上げる。

「こんなに素敵な場所だなんて思ってなかった!」

 ルミナは目を潤ませながら感動している。

 黒影もその様子に目を細める。

「そうか…良かった、ここへ来て。」

 残りの蝋燭にも火を灯し、暖炉に薪をくべ火をつける、二人はその前に並んで腰を下ろす。

「遠くまで来ちゃったな。」

 黒影が言うとルミナも答える。

「そうだね…。」

「後悔してるか?」

「どうして?わたしは望んでここへ来たんだよ?」

「そうだな、なら良かった。」

「わたしの方こそ、こんな事になって…ごめん…。」

「俺はそんな事なんとも思っちゃいないさ!」

 そう言ってルミナの髪を撫でる。

「…ありがとう。」

 ルミナも黒影の肩にそっと頬を寄せる。

「これが終わったら…。」

 黒影は言葉を一旦切って続けた。

「…どこか遠くで二人で暮らそうか…。」

「うん…。」

 ルミナは小さく頷き黒影の肩に頬を寄せる。

「その時は…争いのない、静かな暮らしがいい…。」

「…そうだな。」

 二人は暖炉の火を見つめ続けていた。

 

 その頃、教会の外に人影があった。

 遠くから中の様子を窺うと踵を返して歩き始める。

「そう、ここでしたか。」

 呟きながら口元にいやらしい笑みを浮かべる。

 

第二十八話「雪」

 

 翌朝、レッヅォの書斎の机の上に一枚のカードが置かれていた。

「こんな真似をするからには当然見つかったんだろうな?」

 カードを手に取りレッヅォが呟くと物陰からマーゴが姿を現した。

「えぇ、見つけましたよ。」

「どこにいる?」

「五十番街、『堕天使の聖堂』です。」

「五十番街…『村』か…教会とは考えたな。」

「式でも挙げるつもりでしょうか?」

 マーゴの減らず口をレッヅォは鋭い目で睨む。

「手下を全員集めろ、これから五十番街へ向かう、黒影とケリをつけるぞ。」

 レッヅォが命じるとマーゴはシルクハットを取り恭しく礼をして書斎を後にした。

 窓の外の冬の曇り空を見つめながらレッヅオは一人呟く。

「ルミナ…これから迎えに行く…。」

 

 食料を買出しに出かけ教会へと戻る道の途中ルミナが空を見上げた。

「あ…雪。」

 黒影もつられて空を見上げると灰色の曇り空から綿のような雪が舞い降りてくるのが見えた。

「どうりで寒いわけだ、早く戻らないとな。」

「うん、でも丁度良かった!」

「なんで?」

「だって明日はクリスマスでしょ?」

「あぁ、そうだったな!帰ってツリーでも飾るか!」

「ツリーあるの?」

「確か倉庫にあったぞ?教会でクリスマス、ルミナが楽しみにしていた通りになったな!」

「うん!」

 嬉しそうな顔で頷くとルミナは黒影の袖を引っ張り、まるで急かすように早足になった。

 

 暖炉に火をつけ、食事を済ませてから二人はツリーの飾り付けに取り掛かった。

 飾りつけながら窓の外を見ると雪は勢いを増し、どんどん積もってゆく。

 教会、クリスマスツリー、雪景色…二人は自分達が追われている身である事も危険と隣り合わせに入る事も忘れられるような気がした。

 このままルミナと二人、この何もない平和な土地で暮らせたらどれだけ幸せだろうと黒影は思った。

けれどレッヅォとの決着を着けなければそれも叶わないのだろう、レッヅォは今もあらゆる手を尽くして探しているに違いない、今もこうしている間にここへやって来るかも知れないのだ。

 頭によぎる闇を退けるように目の前に星型の飾りが差し出された。

「これ、つけて!」

 ルミナが嬉しそうに微笑みながら星の飾りを手にしている。

「いいのか?俺で?ルミナが着けた方がいいんじゃないのか?」

「ううん、あなたに着けて欲しい!」

「わかった!」

 黒影は飾りを受け取るとツリーのてっぺんに取り付ける、色とりどりの飾りを着けられたツリーは暖炉の炎の明かりを受けて輝いた。

 

「ボス…この雪道では先に進めません…。」

 手下の一人が恐る恐るレッヅォの乗る車両へ報告にやってきた。

「タイヤを付け替えろ。」

 レッヅォは目線を向けることもなく冷たく答える。

「分りました、でも全車両分となるとこの辺りからかき集めて付け替えるのに時間が掛かります。」

「ならすぐに動け。」

「…分りました…。」

 手下は渋々といった様子で引き下がっていった。

「ご機嫌斜めですね。」

 マーゴが薄ら笑いを浮かべるとレッヅォは冷たい目線と口調で答える。

「黙れ、着くまで二度と口を開くな。」

 

第二十九話「予感」

 

 翌朝、黒影が目を覚ますと暖炉の炎は消え、教会の中に寒さが漂っていた。

 隣を見るとルミナはまだ眠っている、黒影は彼女を起こさないようにそっと毛布から抜け出し服を着ると暖炉に薪をくべに向かった。

 火をつけた暖炉の炭を火かき棒でかき回しているとルミナも目を覚ましたらしく後ろから声が掛かった。

「おはよう…寒いね。」

「おはよう、起こしちまったか。」

「ううん、いいの。」

 ルミナも毛布から抜け出し服を着ると黒影の横に腰掛けた。

「雪は止んだみたいだね。」

「そうだな、でもまだ曇ってる、もうひと降りするかもな。」

「そうだね。」

 ルミナは暖炉の近くで温めていたケトルから湯を注いでコーヒーを淹れると一杯を黒影に手渡した。

 二人で暖炉の前でゆっくりとコーヒーを飲んでいたその時、表に車のエンジン音らしき音が聞こえた。

 黒影は素早く立ち上がると窓からそっと外の様子を窺う、黒塗りの高級セダンが一台とワゴン車が三台、教会の敷地の前に停まるのが見えた。

「ルミナ!」

 黒影が側に駆け寄ると、ルミナは青ざめた表情をしている。

「…まさか…。」

「あぁ、やつらが来たようだ、昨日話した通り、俺が言うまで隠れているんだ。」

「う、うん…。」

 不安な表情で頷くルミナを抱きしめ黒影は力強く囁く。

「大丈夫だ、必ず切り抜ける、ここを無事に出られたら静かなところで一緒に暮らそう…愛してる。」

「うん…わたしも、愛してる。」

 消え入りそうな声で震えているルミナをもう一度強く抱きしめる。

「さぁ、早く隠れるんだ。」

「うん、気をつけてね…。」

 そう言って黒影の手を握りルミナはしばらく震えていたが、やがて意を決したように祭壇の奥へと隠れた。

 

 車のドアが開かれレッヅォは降り立った。

 雪原の向こうに黒く古めかしい教会が建ち、その前には古びた墓地もある。

「気味の悪い教会だな。」

 吐き捨てるように呟く。

 手下達が手に銃器を抱えて集ってきた。

「分ってるな?殺すのは黒影だけだ。」

 レッヅォが念を押すと手下達の返事代わりに銃を装填させる音が鳴り響いた。

「狩れ。」

 冷たい口調で放った号令を合図に手下達は一斉に駆け出して行った。

 手下達の背中を見送りながらレッヅォは後ろに声を掛ける。

「マーゴ、次は必ず奴を仕留めろ、もう遊びは終わりだ。」

 道化師のような魔術師は口元に笑みを浮かべて恭しく頭を下げる。

「承知いたしました。」

 

 ケトルの水で暖炉の火を消し、蝋燭の火も吹き消す、屋内を暗くし外からやって来る敵に少しでも不利な状況を与える為だ。

 銃と弾倉の予備を確認し礼拝者用の椅子を陰にして銃を構える。

 目を閉じ神経を集中させる、外の気配を窺う、微かに雪を踏む足音が聞こえる。

「…正面から三人…両側の窓から二人ずつ…。」

 敵の人数を予測し銃の激鉄を下ろす。

 次の瞬間、けたたましい音が鳴り響き正面の扉に大穴が開くのが見えた、続いてもう一発音が鳴り響き穴は二つになった。

 どうやらショットガンで扉を撃ち抜いたらしい、鍵を壊したのを確認すると敵は扉を蹴破り中へ乱入してきた。

 ショットガンを持った男と両隣にはサブマシンガンを抱えた男が二人いる。

 黒影は迎え撃つようにショットガンを持った男に銃弾を撃ち込んだ。

 それに驚いて一人の男がサブマシンガンを乱射する、銃弾が礼拝者席の椅子に当たり木屑や埃を撒き散らした。

 黒影は椅子の陰に隠れながら素早く移動し、隙を見てサブマシンガンを乱射している男を撃った。

 もう一人のサブマシンガンを持った男も黒影のいる方向へ銃弾を撃ち込んできた、陰にした椅子に無数の穴が空き木屑が舞い上がった。

 黒影は体勢を低くし床を這うように礼拝者席の間を移動する。三人目の男は少し銃撃戦に慣れているのか動揺することなく黒影を追い詰めるように銃弾を撃ち込んでくる。

 ある程度相手が撃ったところで黒影は上体を起こすと礼拝者席に空いた銃痕から狙いを定め引き金を引いた、銃創の向こうで敵が血しぶきを上げて倒れるのが見えた。

 息を付く暇もなく教会の両側の窓ガラスが割れる音が鳴り響いた、見るとそこからサブマシンガンを抱えた男達が黒影を両脇から挟みこむように乱入してきた。

 黒影は敵が銃を構えるのを見届ける間もなく礼拝者席の中央の通路に身を伏せる、途端に背後からけたたましい銃声が何発も轟いてきた。

 夥しい銃弾が頭上を飛び交い、辺りの礼拝者席は次々に粉々に砕け散る、木屑や埃は容赦なく黒影の頭上や周りに降り注いできた。

「教会壊して…罰があたるぞ!」

 そう呟きながら黒影は床を這って移動して祭壇の近くまで辿り着いた、敵は弾を切らさないように交代で、教会の左右両側から撃ってきている。

 黒影は銃を構えじっと待つ、敵は予想以上にしっかりとした陣形で効率よく攻めて来ている、下手に動けば相手の思うつぼだ。

 

 祭壇の陰でルミナは両肩を震わせていた。

 鳴り響く銃声、大理石で出来たこの祭壇の陰なら安全だからとここへ隠れているように言われていたが、大勢の敵と戦っている黒影の身を思うと見も心も締め付けられる思いだった。

 同時にルミナの脳裏にさっき見た光景が浮かんでいた。

 祭壇に隠れる前、黒影に抱きしめられた時に見えた黒いあざと血の流れる光景。

「…こうやって知るんだね…。」

 鳴り響く銃声に耳を塞ぎながらルミナは呟いた。

 

 隠れていても始まらない、マガジンを替え、銃を装填させると意を決したように黒影は立ち上がった。

 突然の行動に一瞬の動揺を見せながらも敵は黒影に狙いをつけ銃を構える、しかしその一瞬を黒影は逃すことなく左側の二人を撃った。

 敵が倒れるのを視界の隅で確認しながら黒影は走り出す、まさか向かってくるとも思っていない敵は慌てて銃を構え直し発砲してくるが、動く標的に弾は当たらない。

 黒影は走りながら床に身を投げ出し、滑るように動きながら残りの敵二人を撃ち倒した。

 敵の倒れる音と断末魔の呻き声、それが鳴り止むのを見届け黒影は立ち上がる、銃を構え敵の気配がなくなったのを確認する。

 教会内にいる敵は全滅したようだ、黒影はルミナの元へ行こうとしたその時、ふと足元に何かが散らばっているのを見つけた。

 スペードのエースと3、クローバー、ダイヤ、ハートの6が一枚づつ、それらが円を描くように並べられ、中央にはジョーカーが置かれている。

「来たか、魔術師が…。」

 同時に背後に気配を感じた、黒影は銃を構えて振り返った。

 

第三十話「魔術師との決着」

 

 銃口の先に果たして魔術師マーゴはいた。

 口元に不気味な笑みを浮かべながらシルクハットを取り恭しく礼をしている。

「黒影さん、お約束通り今度はお命を頂きます。」

 言いながらステッキを黒影に突きつける。

 それに応えるように黒影は銃弾を撃ち放つがマーゴはとっさに身を伏せた。

 同時にマーゴが指を鳴らす音が聞こえた、瞬間足元のトランプカードが激しく燃え出した。

 黒影は飛びのいて礼拝者席の物陰に身を隠した、銃を構えそっと覗き見るとマーゴが立ち上がりステッキを突きつけながら円を描くように回しだすのが見えた。

「始めたか…。」

 黒影は懐から何かを取り出し立ち上がった。

 マーゴはステッキをくるくると回しながら笑みを浮かべた口元で何かを囁き続けている、ほんの少しの間それを見届けてから黒影はステッキの先に狙いをつけて銃弾を放った。

 火花を上げてステッキは弾き飛ばされた、マーゴは手首を押さえ驚愕の表情を浮かべている。

「まさかの事に驚いたか?」

 今度は黒影が口元に笑みを浮かべている。

「ま、まさか貴方…。」

 初めて見るマーゴの焦りの表情、それに追い討ちを掛けるように黒影は耳元から何かを取り出し床に放り投げた。

「高密度の樹脂で作られた『耳栓』だ、超音波も防げる。」

 床に転がるそれを見てマーゴは喉の奥で噛み殺すような笑い声を立てた。

 黒影は淡々と続ける。

「お前の魔術の種は何の事はない、催眠術だ…ステッキの中に仕込まれた装置から出る高周波の催眠音波、そしてお前のステッキを回す仕草と囁き声で相手は簡単に催眠状態になるって訳だ。その結果、五感や平均感覚が支配され、見えない物が見えたり、見えるはずの物が見えなくなったりする…場合によっては恐ろしいと想うものほど見えたりする…あのハロウィンの夜もそうだな?ハットから飛び出した蝙蝠と俺の懐に入れたジョーカーはお前の催眠だった訳だ…知らなかったとはいえ一度でも引っ掛かったのは俺の落ち度だな。」

 マーゴの後方には撃ち抜かれたステッキが転がっていた、先端は砕け散ちり割れた箇所からは回路のようなものが見えている。

 黒影の説明を一通り聞きマーゴは狂ったように笑い出した、押さえていた手首を放しポケットからハンカチを取り出すと額や目頭を拭きながら尚も笑い続けている。

「ハハハハハ…お見事です!わたくしの魔術をお見破りになるとは流石です!その通り、今まで何人もの方々の五感を狂わせ、わたくしの魔術の虜にしてまいりました。人というのはですね、目に見えているもの、耳に聞こえているものを感じ取っているようでいて実際は頭の中にある物に振り回されているのですよ?特に恐怖や不安といったものは見たくないと思えば思うほど見えてしまうものなのです!わたくしは今まで数多くの相対する方々の不安をお借りしてそれを武器に葬ってまいりました…しかし、残念ですね…魔術師にとって知られてしまった種ほど詰まらないものはない…その罪、貴方の命で償って頂きましょうか。」

 嘯くマーゴに黒影は銃を付き付け嘲笑うように返す。

「ほぉ、ご自慢のステッキなしにどうするつもりだ?」

 その言葉にマーゴは歯を噛み締める。

「お忘れですか?わたくし、銃の方も得意なのですよ?」

そう言うが早いか手にしたハンカチを一振りする、そこには銃身の長い六連発の拳銃が現れた。

黒影とマーゴはほぼ同時に引き金を引いた、乾いた銃声が教会の中に響き渡る、互いの銃弾を相手の肩にかすらせながら二人は同時に身を伏せ、礼拝者席に身を隠しながら素早く駆け出し銃弾を撃ち合った。

礼拝者席の反対側の通路へ出た、互いに身を隠すものがない状態で同時に銃弾を放つ。

「…。」

「…。」

互いに深い沈黙の一瞬、黒影の左肩からは血が流れ出している、それを見てマーゴは口元にいやらしい笑みを浮かべながら仰向けに倒れこんだ。

黒影は身を起こすと銃を構えながらゆっくりとマーゴに近づく、胸元を赤黒い血に染めながらマーゴは青ざめた表情で苦しそうに息をしていた。

「黒影さん…魔術の種を…明かすなんて貴方も…野暮な人ですね…ぼ、凡人は…ま…魔術師の…掌に…踊っていれば宜しいものを…。」

 黒影はゆっくりとマーゴの額に銃口を向ける。

「来年のハロウィンは地獄で悪魔相手に手品をやれ。」

 マーゴは口から血を垂らしながらも目を見開いて忌々しそうに吐き捨てる。

「手品では…ありませんよ?…『魔術』です!」

 その額に黒影は銃弾を撃ち込んだ、血しぶきを上げ不気味な道化化粧の魔術師は息絶えた。

 マーゴの死を確認し黒影はルミナの隠れる祭壇へ向かった。

「ルミナ!無事か?」

 黒影が声を掛けると祭壇の陰で耳を塞いでいたルミナが顔を上げた。

「…終わった…の…?」

「あぁ、とりあえず教会の中の敵はもういない…だけど、外にはまだいるかも知れない、今のうちにここを抜け出すんだ。」

「うん…分った…。」

 青ざめた顔でルミナは頷き、黒影の左肩の傷に気付いた。

「どうしたの!?」

「大丈夫だ…少しかすっただけだ。」

 心配そうな顔を浮かべるルミナの手を引き教会の出口へと向かう。

 銃を構え扉をそっと開き外の様子を窺う、辺りを見回すと敵の姿らしきものは見えない、黒影はルミナの手を引いて外へ出た。

 その時、一発の銃声が鳴り響き黒影の額に激痛が走った。

「いやぁっ!」

 ルミナがとっさに黒影を抱きとめる、左手で額を押さえるとそこは赤い血に染まっている、どうやら銃弾が左のこめかみをかすったようだ。

「大丈夫っ!?」

 心配そうに傷口を押さえるルミナを黒影は抱き寄せ地面に伏せさせる。

「大丈夫だ…またかすっただけだ…。」

 痛みを堪えながらそう答え黒影は銃弾の飛んできた方向へと銃を向ける、教会の前に広がる墓地、その大きな墓石の陰からレッヅォが姿を現した。

「よく生きてそこから出てこられたな、褒めてやるよ。」

 銃を握り冷たい口調でレッヅォは言い放つ。

「やめてレッヅォ!」

 ルミナが叫ぶとレッヅォは微かに哀しそうな顔を浮かべる。

「ルミナ…そんなにそいつがいいのかい?俺の手よりもそいつの手の方が遥かに穢れているのに…。」

「お願い…やめて!彼を傷つけてもわたしの心は貴方のものにはならない…。」

 そんなルミナの言葉にレッヅォは更に悲しみの色を浮かべる。

「どうしてだ…どうしてなんだルミナ…俺は…俺は君のためなら自分の命も仲間の命も全てを投げ出せるのに…なぜ…なぜなんだ…。」

 嘆きを繰り返すレッヅォに黒影が怒号を上げる。

「レッヅォ!!」

 その声にレッヅォの目は激しい憎しみの色に変わる。

「四の五の言っていないで俺と勝負をしろ!ルミナが欲しけりゃ俺を殺してみろ!お前もルミナを想うなら彼女にはかすり傷一つつけるな!」

 血に染まる顔の中で左目を赤く染まらせ黒影は叫ぶ、レッヅォも激しい憎悪と殺意のこもった目で黒影を睨みながら頷く。

「いいだろう、元々俺とお前のルミナを巡る戦いだ、ここでケリをつけよう。」

 二人のやり取りを聞いてルミナは黒影の腕を引いた。

「馬鹿なこと言わないで!あなたそんな傷で戦えるわけないわ!」

 説得するルミナの肩に手を置き黒影は諭すように言う。

「ここでケリをつけなければ同じ事の繰り返しだ…あいつを倒して二人で遠くに行くんだ。」

「でも…でも…。」

 声を震わし、行かせまいと黒影の腕を掴むルミナの手をそっと放す。

「そこの木陰に隠れているんだ、流れ弾に当たるといけない。」

 ルミナの背を促すように押し黒影は墓地へと向かった。

 

第三十一話「死闘」

 

 教会の前の墓地は百近い墓石が立ち並んでいた、古めかしく彫られた名前も今はほとんど読めないものもある、一面雪に覆われ独特の哀しげな雰囲気を醸し出している。

「さて、決着を着けようか。」

 黒影はレッヅォに声を掛ける。

 十メートルほど離れた墓石の近くでレッヅォが答える。

「そうしよう。」

 するとレッヅォは教会の入り口の方を向いて声を掛ける。

「ルミナ、君に立会いを頼みたい。」

 すると木陰から顔を覗かせルミナが驚いた表情を見せる。

「彼女を巻き込むな!」

 黒影が鋭い目でレッヅォを睨む。

「彼女を巡る決闘だ、是非彼女に立会いを頼みたい…ルミナ、今から俺達はそれぞれ盾となる墓石に身を潜める、五分経ったらコインを一つ手近な墓石に投げてくれないか?…それを合図に俺達は勝負を始める。」

 一方的に話を進めるレッヅォに黒影は食って掛かる。

「ふざけるな!ルミナを巻き込むなと言っているだろう!」

「ふざけているのはお前だ!」

 レッヅォが鋭い目で睨みながら怒鳴り返す。

「俺達はとっくに彼女を血生臭い戦いに巻き込んでいる、今更綺麗ごとを抜かすな。」

 その言葉に黒影は口をつぐんだ、代わりにルミナが答える。

「…分ったわ…。」

 黒影がルミナを見ると彼女は大丈夫とでも言うように頷いた、黒影も心を決めて頷き返した。

 黒影とレッヅォはそれぞれ戦いやすい場所を選びそこにある墓石に身を隠した。

 墓石を背に黒影は銃のマガジンを替えて弾丸を装填させる、左肩と左のこめかみに受けた傷が痛む、出血もあるので少し意識が霞む、それを覚ますように顔の血を袖で拭い、両手で頬を叩く。

 時計を見る、三分ほど経過している、もう間もなく最後の戦いが始まる、黒影は深呼吸をして銃の激鉄を下ろした。

 

 レッヅォもまた冷たい墓石を背にして銃の弾丸を確認し、スライドを引いて装填させる。

 仲間、組織、全てを投げ打ってここまでやって来た、後は命を掛けてこの戦いに勝たなければならない、時計を見ると四分が経過している、もうすぐ全てを掛けた戦いが始まる、そっと目を閉じ銃の激鉄を下ろした。

 

 木陰でルミナはコインを手にじっと墓地を見つめていた、黒影とレッヅォ、遠くに見える二人がそれぞれ墓石を背に銃を構えている、雪に覆われ静かな旧い教会の墓地、そこには息を潜めるような二人の男の張り詰めた緊張感がそれを解き放たれる時を今か今かと待っているようだった。

 自分を愛する二人の男がこれから殺し合う…映画ならば叙情的なこの場面も今は彼女の胸を深く締め付けていた。

 時計を見る、もう間もなく五分が過ぎようとしていた、残酷な瞬間が訪れる。

 コインを握り締め、秒針が十二を指した時に意を決してコインを投げた。

 

 投げられたコインは弧を描いて落下し、やがて一つの墓石に当たり金属音を墓地に響かせる。

 その音を合図に黒影とレッヅォは同時に墓石から飛び出した。

 十メートル以上離れた互いの姿を確認し、同時に引き金を引く、乾いた銃声が二発同時に鳴り響いた、銃弾は互いの頬をかすめて飛んで行く。

 二人は同時に駆け出し、立ち並ぶ墓石を盾にしながら銃弾を次々撃ち合った。

 素早い動きと攻撃、互いの放つ銃弾は盾となる墓石に当たり砕けた石粉が舞い上がる。

 やがて十発近く撃ち合った所で互いに被弾したらしく低い呻き声を挙げて墓石の陰に隠れた。

 

 墓石を背に黒影は左腕を押さえてうずくまっていた。

 レッヅォの放った銃弾が上腕部を撃ち抜いたのだ、幸い骨には当たらなかったが激しい傷みと出血が彼を襲う。

 先程からの戦闘での傷と今受けた傷、その脈打つような痛みと夥しい出血による意識の薄れがこれ以上戦闘を長引かせる事の困難さを告げていた。

「…もう決めないとな…。」

 次の一発で勝負を着けなければいけない、黒影は痛みを噛み殺すように顔を上げ銃の激鉄を下ろした。

 

 レッヅォもまた墓石の陰でうずくまっていた。

 傷口を押さえていた手を見ると血で真っ赤に染まっている、内臓には達していないようだが腹部に被弾している。

「参ったな…。」

 今までどんな戦いでもここまで追い詰められた事はなかった、常に相手の一歩、先を行き勝利を収め続けてきた。

 それが今や一人の殺し屋にここまで追い詰められている。

 ふと目の前が霞んで見えた、意識が遠のきかけているらしい、次の一発で忌々しい恋敵を仕留めなければならない。

 レッヅォは口の中にこみ上げてきた血を雪の上に吐き捨てると銃の激鉄を下ろした。

 

 黒影とレッヅォ、互いに相手の動く気配を感じ、同時に墓石の陰から飛び出した。

 銃口を互いの胸元へ向け、そして引き金を引き締めた。

 同時に轟く二発の銃声。

 銃口から立ち上る硝煙をそのままに二人は銃を構えたまま立ち尽くしていた。

 永遠にも感じられる一瞬、ルミナは瞬きするのも忘れ二人の姿に目を奪われていた。

 

第三十二話「レッヅォの最期」

 

 ルミナが恐る恐る駆け寄ると黒影が膝から崩れ落ちた。

「黒影っ!」

 叫びながら近寄ると黒影がゆっくりと顔を上げる。

「…大丈夫だ…。」

 苦しそうな芳情を浮かべながらも頷いている。

 その時レッヅォも膝から崩れ落ち、やがて仰向けに倒れた。

 

 レッヅォの弾は脇腹をかすめたようだ、致命傷にはならないが今の状態にはそんなかすり傷さえも堪える。

 黒影がゆっくりと立ち上がるとルミナが駆け寄って肩を貸してくれた、彼女に支えられながら銃を握り黒影は仰向けに倒れているレッヅオの元へ行く。

 雪の上に倒れこんでレッヅォは目を閉じていた、胸を撃ち抜かれ服も周りの雪も真っ赤に染めながらゆっくりと息をしている。

「…俺の…負けだな…。」

 ゆっくりと目を開けながらレッヅォは呟いた、悔しそうな苦笑いを浮かべ手元に転がる銃を取ろうとはしなかった。

「…レッヅォ…。」

 ルミナは胸の前で両手を握り締めレッヅォを見つめていた。

「…ルミナ、俺の手にあざは浮かんでいるかい?」

 右手をゆっくりと上げてルミナに見せる、ルミナはそれを見つめ哀しそうに目を細める。

「…そうか…じゃあ、これが俺の最期なんだな…。」

 そう言ってレッヅォは苦笑いを浮かべた。

 ルミナは目を伏せ悲しみに肩を震わせている。

「…そんな顔をしないでくれ…。」

 俯く彼女にレッヅォは優しい声で語りかける。

「…君に看取ってもらえるなら幸せさ…。」

 徐々に血色を失う顔に微笑を浮かべレッヅォは囁いた、やがて黒影に向き直り苦笑いを浮かべる。

「…黒影…お前は強いな…。」

 黒影も苦笑いを浮かべ応える。

「お前だって充分強いよ…。」

「…勝った方が言う台詞かよ…。」

「…。」

「…正直…今でも分らない…なぜ俺ではなく、お前なのか…でも、もうそんな事はいい…きっと答えなんてないのさ…。」

「…。」

 レッヅォは再びルミナに向き直った。

「…ルミナ…。」

 もはや顔面は蒼白になり息も絶え絶えになっている、もうすぐ息絶えるその前に愛する人の姿を目に焼き付けようとしているのだろう。

 ルミナもそれに応えるように気丈に振舞ってレッヅォの顔をじっと見つめている。

「…幸せになるんだよ…ほんとうに…心から…愛してる…。」

 消え入るような声でそう言い終えると微笑を浮かべそっと目を閉じた。

 黒影は銃をしまうと胸元に手をやりそっと目を閉じて黙祷する、ルミナも同じく目を閉じた。

 やがて目を開くと、二人はそっとその場から歩き出した。

 ルミナに支えられながら黒影はおぼつかない足取りで歩く、額と肩と腕に受けた傷が脈打つように痛む、体は熱を持ち、出血のために意識も朦朧とする。

「…大丈夫?」

 心配そうにルミナが顔を覗きこむ。

「…あぁ…大丈夫だ…早くここを離れないと…。」

「…うん…。」

 雪の上を一歩一歩と思い足取りで進む、もうすぐ教会の敷地の外へ出る、ここから出たらどこへ行くべきか、この血まみれの状態では人目につく場所は避けなければいけない、しばらくの間どこかへ身を隠し傷の手当などをしなければならない。

 朦朧とする意識の中で先の事を考えゆっくりと歩みを進める、やがて敷地の入り口にまでやってきた。

その時、一発の銃声が墓地に鳴り響いた。

 

最終話「冷たい温もり」

 

 突然の銃声に黒影は銃を抜いて振り返った。

 墓地の中央、レッヅォが横たわる側に銃を持った女が一人立っていた。

「…!?」

 かすむ目を凝らし見るとそれはレッヅォの仲間のロゼアだった。

「…しまった…!」

 レッヅォとの戦いに気を取られ伏兵の存在に気付いていなかった、自分の迂闊さを悔やみながらも黒影は銃口をロゼアに向ける。

その時、ルミナがよろめいた。

「ルミナっ!」

 黒影が慌てて倒れ掛かったルミナを抱きとめる。

「大丈夫か!」

 ルミナは目を見開いて震えている、黒影は両手で彼女を抱きとめ自分の背で庇うようにしゃがみこむ。

 ルミナの背中に回した手に濡れた感触を感じた、慌ててその手を見るとそこは赤い血で染まっていた。

 ロゼアの放った銃弾はルミナの背中に当たったのだ、黒影は全身の血の気が引くのを感じた。

「ルミナっ!ルミナっ!!」

 黒影はルミナの頬をさすって叫ぶ。

 ルミナは少し青ざめた顔で目を微かに開き大丈夫とでも言うように頷いている。

「…いい気味ね…魔女。」

 後ろからロゼアの声が聞こえた。

 その瞬間、黒影の心に激しい憎悪が渦巻いた、銃を握り締め振り返るとロゼアに銃口を突きつけた。

 するとその手をルミナがそっと握り首を微かに横に振る。

「もう…やめて…いいの…。」

「なぜだっ!」

「…お願い…。」

 薄く開いた目で懇願する彼女に黒影は思わず指に掛けた引き金を放した。

 ロゼアの冷たい声がまたも聞こえる。

「黒影…愛するものを失う苦しみを味わいなさい…。」

 哀しそうな声でそう言うとロゼアはレッヅォの亡骸の側に膝まずいた、そしてゆっくりと銃を自分の胸元へ向け、撃ち抜いた。

 乾いた音が墓地に鳴り響き、ロゼアはレッヅォの亡骸に寄り添うように倒れこんだ。

 黒影は銃をしまうとルミナを両腕で抱きかかえる。

「しっかりしろ…今病院へ連れて行く!」

 しかしルミナは首を横に振る。

「…いいの…わたしには見えていたから…。」

「どういう事だ!?」

「…あの時…わたしが大理石に隠れる前に…抱きしめてくれたでしょ?…あの時…あなたの腕にあざが見えたの…。」

「…!?」

「…その時にね…同時に見えたの…あなたの腕の中で…そっと冷たくなっていくわたしの姿も…。」

「どうして!そうしてそれを言わなかったんだ!?」

 悲しそうな顔で問いただす黒影にルミナは微笑みかける。

「…だって…そんな事言ったら…あなたはわたしを守るためだけに戦うでしょ…?」

「当たり前だ!」

「…そんな事したら…きっとあなたの運命は変わってしまう…あなたが助からなくなってしまう…。」

「そんな事…そんな事どうだっていい!俺の命なんてどうだっていい!俺はルミナの…。」

「だめよ…。」

 黒影の叫びを遮るようにルミナは言い、そして青ざめた顔で微笑む。

「…わたしはね…あなたに生きて欲しいの…。」

 その言葉に黒影の胸が締め付けられる。

「…言ったでしょ…わたしは自分の力を誰かのために役立てたいって…最後に一番大切な人のために役立てる事が出来たなら…それでいいの…。」

「どうしてだ…どうして…!俺なんかのために…!俺みたいな罪人のために君が死ななきゃならないんだ!!」

 黒影は声を震わし叫ぶ。

「…あなたは罪を犯してきたかも知れない…でも…本当は心の優しい人…誰が咎めたって…わたしにとって世界で一番優しい人…そして一番大切な人…。」

 黒影の頬に手を寄せ微笑みながら微かな声でルミナは続ける、黒影は涙を流しルミナの額に頬を寄せる。

「駄目だ!…ルミナ!…ルミナ!…死ぬな!…お願いだ!」

 ルミナの体は少しずつ冷たくなっている、黒影はまるで呼び戻そうとするように彼女の腕や肩をさすり名前を叫び続ける。

「…ねぇ…お願いがあるの…。」

 消え入りそうな声でそう言うルミナに黒影は頷き返す。

「…どうか生きて欲しいの…たとえわたしがこのまま消えても…あなたは生きて…そして幸せになって欲しい…。」

「そんなの出来るわけがない!君を亡くして生きれるわけがない!」

「…だめ…お願いだから生きて…!」

 今にも消えそうな灯火を燃やすようにルミナは力強く言う、それに応えるように黒影は頷いた。

「…わかった…。」

 それを聞いてルミナは再び微かな微笑を浮かべた。

「…良かった…。」

 ルミナは震える両手で黒影の頬を包み込む、微かに開いた目で愛おしそうに彼を見つめ微笑んだ。

「…あなたと過ごした日々は…わたしの人生で…一番幸せな時間だった…あなたの前では…いつも本当の自分でいられた…ほんとうに…ありがとう…。」

 少しづつ消え行くルミナの命、黒影はその体を力強く抱きしめ顔に頬を寄せる、彼女は彼の頬にかけた手を寄せる、二人はそっと最後の口付けを交わした。

「…大好きだよ…。」

 囁く声でそう言うとルミナはそっと目を閉じた、黒影の頬を包み込んでいた手も力を失くした。

 黒影は力失くしたルミナの体を強く抱きしめ声を震わし泣き続けた。

 涙は止め処なく溢れる、滲む視界の中で愛する人の姿を目に焼き付けた。

 誰よりも美しく、誰よりも優しく、誰よりも純粋な人、ルミナ。

 そして誰よりも愛しい人、ルミナ…。

 黒影はそっと額に口付けるとその亡骸を抱きかかえ教会の敷地を出た。

 いつの間にかまた雪は降り出していたようだ、振り返るとルミナの赤い血の跡を白い雪が少しづつ隠していった。

 黒影は悲痛の顔を浮かべると踵を返して雪道を歩き出した。

 ルミナの体から伝わる微かな温もりと冷たさを感じながら降り続く雪の中へ消えていった。

 

 

 

<完>

 

 

冷たい温もり

 

Write:Isamu.y.